第372話:それは異常か正常か その1
“今”となっては懐かしき、ビルの群れ。
アスファルトで固められた地面の上を歩く、人の群れ。
遠く、眼下に見えるのは、アスファルトに倒れ伏したかつての自分。
空から俯瞰するように眺めながら、体を包むのは浮遊感。
ぐんぐん、ぐんぐんと意識が地上から遠ざかり――そこで真っ暗なナニカに飲み込まれた。
それは懐かしくて、寒くて、悍ましくて。
そんな感情を覚えること自体久しぶりで。
砕けて、砕けて、砕けて。
混ざって、混ざって、混ざって。
ぐるぐる、ぐるぐる、と渦を巻いて。
まるでハンバーグのように捏ね合わされて。
ふとした拍子に見えたのは、“どこかの人里”で。
それは何の必然性もない、ただの偶然で――バタン、と蓋が閉まるような音を聞いた気がした。
――目が覚めた。
「…………んん?」
己の意識が覚醒したことに気付いたレウルスが最初に感じたのは、何故自分が横になっているのかという疑問である。
建設中の町の中、レウルス達に割り振られた一軒家。つい最近できたばかりの天井を見上げながら、レウルスは回転が遅い思考のギアを少しずつ上げていく。
(俺……寝てた? なんで寝て……仕事……夜の見張り……魔物の襲撃は……)
木と土の香りが漂う家の中で天井を見つめ、レウルスは意識して何度も瞬きを行う。そうすることで靄がかかったような頭の眠気を少しずつ払い除け、意識を本格的に覚醒させていく。
(……何か、変な夢を見ていた……ような……)
よく覚えてはいないが、何か夢を見ていた気がする。そんなことを考えたレウルスだが、おそらくは悪夢の類ではなかったのだろう。
やけにぐっすりと眠れた感覚があり、同時に、言い様のない充足感が体を包んでいるからだ。
「……んん……れう、るす……」
誰かに名前を呼ばれ、レウルスは顔を横に倒した。
床に敷く木材がないため硬く突き固めた地面に藁を敷き、その上に野営の際に用いる厚手の布を敷いて布団代わりにしていたレウルスだったが、同じようにして眠る少女の姿があった。
レウルスの服を握ったままで眠っているが、何があったのか心配そうに眉間に皺が寄っている。
顔立ちから察するに、年の頃は十五歳といったところか。桃色がかった金髪を腰まで伸ばし、顔立ちはあどけなさが滲んでいるものの可愛らしく、もう少し成長すれば美人になるであろうことが伺えた。
身長は百四十センチの半ばに届くかどうかといったところで、体には緩やかな起伏が見て取れる。
(……なんだこの可愛い子)
はて、とレウルスは首を傾げた。
隣に眠る少女の顔をまじまじと見つめ、その造形の良さを確認し、何故隣で眠っているのかと疑問に思い――。
(いやいや、エリザだよエリザ……寝惚けてんのか俺……)
体を起こしたレウルスは右手で拳を作り、自分の頭をガンガンと殴る。思ったよりも激しい衝撃が頭部を揺らしたが、痛いと思うこともなかった。
(しかし……あれ? エリザってこんな顔だったっけ? 身長ももう少し低かったような……あれ?)
脳内で疑問符が乱舞するレウルス。
冒険者という職に就いており、町造りを行っている現状では毎日のように駆け回って魔物と戦っているせいか、エリザの髪も少しばかり傷んでいるように見えた。それでもきちんと手入れをしているのか、傷み具合は最低限度に収まっているように思える。
初めて会った時から既に二年弱が経過していることを思えば、エリザの背が伸びていてもおかしくはない。問題があるとすれば、“それ”に気付かなかったことで――。
「……んぅ? れう、るす?」
レウルスの動きを感じ取ったのか、エリザの目がゆっくりと開く。そして身を起こした状態で見下ろしているレウルスに気付くと、その目が大きく見開かれた。
「お、起きたのね!? 体は!? 体は大丈夫なの!?」
余程慌てていたのか、“素”の口調で話すエリザ。その話し方だけを聞けばサラと勘違いしそうだが、その顔立ちは間違いなくエリザのものである。
「お、おう……大丈夫だけど……」
エリザの剣幕にレウルスはたじろぐが、エリザはその言葉にほっと息を吐く。
「良かった……いきなり眠り始めたから、何があったのかと心配したんだからね?」
「いきなり眠り始めた……」
心底安堵したのか、エリザの声は僅かに震えていた。それを申し訳なく思いつつも、レウルスは何故自分が眠っていたのかと記憶を探る。
「えーっと……昨晩……昨晩だよな? 晩飯を食ってたら急に眠くなって……」
起きていられないほどの眠気を覚え、そのまま眠ってしまったのだ。視線を移してみると、部屋の隅には『龍斬』等の武器や防具がまとめて置かれている。
「ごほんっ……本当に驚いたわい。いきなりどうしたというんじゃ?」
「いや……どうしたんだろうな?」
不思議そうに尋ねるエリザに対し、レウルスも不思議そうに答える。どうしたと言われても、レウルスの方が尋ねたいぐらいだった。
(サラが焼いた肉を食べてて……体に違和感があったんだよな。でも今は別に……んん?)
何があったかを思い返すレウルスだったが、自身の体調を確認して首を傾げる。
ぐっすりと眠ったおかげか頭も体も軽く、全身に活力が満ちているようだ。寝起きということで回転が鈍かった頭も普段通りに戻りつつある。
他に何か気になることがあるとすれば――。
(腹はいつも通り減って……………………ない?)
レウルスは思わず自分の腹部を見下ろす。そして服越しに触ってみるが、筋肉の弾力が感じられるだけで“普段通り”餓えた感覚が返ってくることはなかった。
空腹は感じているが、夜に寝て朝に起きた時に感じる“当たり前”の空腹感があるだけである。
「ってそれが一番おかしくないか!?」
自身に起こっている変調に気付いたレウルスは、慌てたように服をまくった。そして自身の腹部を見るが、ここ二年程の冒険者稼業で鍛えられた影響か、無駄な脂肪が一切存在しない割れた腹筋が視界に映るだけである。
「きゃっ!? な、何!? いきなり何じゃ!?」
そして、そんなレウルスの奇行を傍で見ていたエリザは、慌てた様子で視界を両手で塞ぐ。しかし指の隙間が若干開いており、そこからチラチラと覗くような視線が飛んでいた。
「……俺の胃袋、どこにいった?」
「え? いきなりそんなこと言われても困るんじゃが」
餓えていない方がおかしい、と言わんばかりに呟くレウルスと、思わず真顔で答えるエリザ。相変わらず指の隙間が開いているが、レウルスがそれを指摘することはなかった。
(腹が減ってない……いや、減ってるんだけど減ってない……自分でも何を言ってるのかよくわからねえけど、なんだこの感覚……)
腹は減っているが、満ち足りている。矛盾しているような表現だが、それが近いとレウルスは感じた。
(おかしなことといえば……)
そこまで考えたレウルスは、服を戻しながら視線をエリザへと向ける。そして相変わらず両目を隠しているエリザの両腕を掴むと、左右に退けてエリザの顔を至近距離で見つめた。
「え、ちょっ、な、なんじゃ?」
「動かないでくれ。じっとして、エリザの顔をよく見せてほしいんだ」
息がかかりそうな距離でじっと見つめると、エリザは焦ったように視線を逸らす。しかしレウルスはそんなエリザの反応に構わず、その顔をじっと見つめ続けた。
「ちょ、と、ちょっと、待って……お、お願い……寝起きだし、そんなにじっと見るのは……は、恥ずかしい、から……」
すると、エリザの態度が一変する。十秒とかけずに頬を朱色に染めたかと思うと、レウルスの視線から逃げるように身を捩った。
その際にエリザの髪がさらりと揺れ、肩口から滑り落ちる。寝起きだからか僅かに襟が着崩れて鎖骨が覗いているのが、妙に艶めかしかった。
「……おかしいな」
「な、なにが?」
首筋から頬を、頬から顔全体を、そして耳まで朱色に染めながら、エリザは蚊の鳴くような声を返す。そんなエリザの反応もまた、レウルスが抱く違和感を増幅させた。
「エリザが妙に可愛く見える。いや、前から可愛いとは思っていたんだが、美人になったというか、女性らしさが増したように見えるというか……綺麗になったな」
「――え?」
何を言われたのかわからない、と言わんばかりに目を見開くエリザ。目だけでなく口もぽかんと丸くしたが、レウルスの言葉自体はきちんと伝わっていたのか、朱色だった首筋がより色濃く染まり始め、顔まで真っ赤に変えていく。
「な、なんっ、な、ななな、なにっ!? な、なんなの!? ど、どうしたの!?」
口説き文句のようなレウルスの言葉を聞き、エリザの顔はどんどん赤みを増していく。熟れたトマトのように真っ赤なその顔色は、放っておけば湯気まで立ち昇りそうだ。
「んー……どうしたのか、俺にもよくわからん。なんだこの感覚……」
首を傾げるレウルスだったが、エリザは羞恥心が強かったのか膝の動きだけでレウルスから距離を取ろうとする。しかしレウルスが両手を握っているため離れるに離れられず、真っ赤な顔を隠すように目を伏せた。
(何か魔法でもくらったのか? まさか寝ている間にレベッカが襲ってきてエリザ達が魔法人形と入れ替わってるなんてことは……なさそうだな)
一瞬恐ろしい想像をしてしまったレウルスだったが、目の前のエリザからはきちんと『契約』によるつながりが感じ取れる。そのため疑いはすぐに晴れたのだが、そうなるとエリザに起こった変化が理解できないのだ。
(いや待て、この場合変わったのは俺の方か? 認識が狂ってる? 寝ている間に何かあったのか?)
昨晩、この世界に生まれて初めてとなる満腹感を覚えた。その後は急な眠気に襲われて抗えずに眠ってしまったが、こうして“普通に”起きている。
エリザが隣で眠っていたことに関しては、特に驚くことでもない。自宅の居間で眠っていると、誰かしらが潜り込んでくることも珍しくないからだ。
いくら成長期と呼べそうな年齢とはいえ、一晩の間にエリザが見違えるほど成長したとも思えない。初めて出会った頃と比べると五センチ近く身長が伸びているようで、さすがに一晩でそれほど成長するのは無理があるだろう。
エリザの身長が伸びたことに気付かなかったのは、レウルスも身長が伸びていたからだろうか。あるいは“気付けなかった”だけか。
(……くそっ、いきなり過ぎてよくわからん)
頭はしっかりと起きているが、感覚がおかしくなっているように思える。一体どうすれば良いのかと思考したレウルスは、眼前のエリザへと視線を戻した。
「エリザ」
「……は、はい」
顔を真っ赤に染めたまま、しおらしく返事をするエリザ。恥ずかしさから距離を離そうとするのを止め、落ち着かない様子でもじもじと膝を擦り合わせている。
体がプルプルと震えているように見えるが、同時に、何か覚悟を決めたような輝きが瞳に宿っていた。
そんなエリザをじっと見ながら、レウルスは言う。
「とりあえず朝飯にするか」
「……え?」
感覚としては満ち足りているが、小腹が空いたような感覚もある。それならばまずは腹ごしらえをしてから考えるのが“いつもの自分”だろう。
そう判断したレウルスに、数秒置いてから怒りで顔を真っ赤にしたエリザが飛び掛かったのだった。