第350話:離れた時間がもたらすもの
――さようなら。
それは別れの言葉であり、二度と再会することがないと思っての言葉である。
ルヴィリア=ヴィス=セク=ド=ヴェルグ。
ヴェルグ“子爵”の次女である彼女は、レウルスとの別れ際にその言葉を使用した。
再会を願う言葉を飲み込み、二度と会わないよう願う言葉を口にした理由はとても簡単だ。
そうするべきだと、“そうでないといけない”と、貴族の娘として育てられた理性がそう囁いたからである。
“あの夜”のことは、城塞都市アクラに戻った後でも思い出すことができた。何日、何週間と経とうとも鮮明に、夢に見るほどに。
ルヴィリアという少女は、レウルスに語った通り初めて抱いた感情をしっかりと持ち帰っていた。宝物を仕舞い込むように、心の奥底に押し込めながらも大切に、時間が経って薄れることを恐れるように、大事に大事にその気持ちを抱き続けていた。
満月の、丸い月が淡く照らす草原。
僅かな風の感触と、土と草の香り。
夜更けに異性と二人きりで散歩に出かけるという、“わるいこと”をしている緊張と高揚感。
レウルスから贈られた、白い腕飾り。
そして初めて口にした――これから先の人生で口にすることがないであろう、恋の告白。
それら全てが鮮明な感情と共に、ルヴィリアの記憶に刻まれている。
ルヴィリアは恋という感情を知った。言葉では知っていても実際の感覚として知り得なかったその感情を、ルヴィリアは思い知った。
その感情を抱いたきっかけを、ルヴィリアも正確には把握していない。
旅をする内に自然と惹かれたのか、グレイゴ教徒に襲われた際に助けられたからか、『首狩り』を倒してアクシスが体を治すために出した条件を達成したからか。
『――アンタが命を賭けるっていうのなら、俺も命を賭けるさ』
あるいは、真剣な眼差しと言葉で己のために命を賭けてくれたからか。
二ヶ月半に渡る旅で、ルヴィリアは世界の広さを知った。
自分の足で歩く旅路はとても辛く、“毒”で弱っていた体は常に倦怠感を与え、不安と疲労で何度も泣き出してしまいたくなった。
それでも、普通の貴族の娘ならば経験できないであろう旅は、とても楽しかったのだ。
野外で眠ったことも、レウルスが仕留めた魔物をその場で捌いて食べたことも、エリザやサラ、ミーアやネディといった裏も打算もない友人ができたことも、その全てが新鮮で楽しかったのだ。
初めて恋をしたことだけではない。辛く、恐怖も抱き、それでも楽しかったあの旅を、ルヴィリアは一生忘れないだろう。
――レウルス相手に色々と“恥ずかしい思い”をしたことに関しては、記憶の端に追いやっているが。
それらの思い出を胸に秘めて、ルヴィリアは貴族の娘としての仮面を被り直した。
これから先の人生、その全ては己が生まれた家のためにある。父が、遠からぬ内に兄が治める領地のためにこそ、ルヴィリアの人生は存在している。
他所の貴族のもとに嫁ぎ、ヴェルグ子爵家との縁をつなぎ、夫となる男性を支え、子を成す。そうすることがルヴィリアに残された人生の全てだ。
叶うならば――と願う気持ちは当然存在する。
だが、ルヴィリアという少女は良くも悪くも貴族の娘だった。抱く思いを押し殺して貴族らしく振舞える程度には“貴族”だった。
そもそも、子爵家の次女と冒険者という立場の違いは非常に大きい。本来ならば一生関わり合いになることがないほどの身分差で、言葉を交わすこともないだろう。
それこそ二ヶ月半もの長きに渡って共に旅をしたこと自体、ルヴィリアからすれば異常としか言えない事態なのだ。
故に、レウルスと二度と会うことはなく、仮に会うことがあったとしても自身の気持ちに蓋をして、“飾った笑顔”で顔を合わせることができると――そう思っていた。
そう、思っていたのだ。
「どうやらレウルス君達が王都に来ているみたいだ」
「…………え?」
兄であるルイスの言葉にルヴィリアが反応を返せたのは、数秒もの時間が経ってからである。
まったく予期せぬことを聞いたように、出来の悪い冗談を聞いたように、呆けた声を漏らしてしまった。
「ナタリア殿が叙爵するから、その護衛として同行したんだろうね……城門を潜るなり精霊教徒の集団に取り囲まれたらしいよ。いやはや、相変わらずというかなんというか……」
苦笑しながら語るルイスだったが、ルヴィリアの耳にはその言葉の半分も届いていない。
ヴェルグ子爵家もルイスが代替わりして家督を受け継ぎ、なおかつ伯爵になるということで訪れた王都。それにルヴィリアが同行しているのは、端的に言ってしまえば結婚相手を見つけるためだ。
“実態”は異なるが、体が弱いという評判が広まっていた影響でルヴィリアの評価は芳しくない。
貴族の娘にとって体が弱いというのは致命的だ。結婚しても子を成せるかわからず、もしも体が治っていなければルヴィリアの嫁ぎ先はひどく限られていただろう。
既に後継者が成人していて代替わりも済んでいる元領主の後妻か、ルヴィリアよりも家格が上の正妻を迎えている貴族の妾か、あるいはヴェルグ子爵家に仕えている者へ“下賜”されるか。
そんなルヴィリアも、ユニコーンであるアクシスの協力を得て体が元通りになった。それどころか以前よりも元気が良くなったぐらいだが、それはアクシスの治療が影響しているのか、それとも長旅で体力がついただけなのかはわからない。
城塞都市アクラに戻ってからも体調が崩れることはなく、ヴェルグ子爵家で抱えている医師からも体が完治した、むしろ遥かに丈夫になったと断言されたほどだ。
そういった背景もあり、ルイスが王都に行く際も同行したのだが――。
「会いたいかい?」
言葉を失ったルヴィリアに対し、ルイスは覗き込むように見つめながら尋ねる。それが誰を指しているかは明白で、ルヴィリアは薄く微笑む。
「……いえ、そんなことはありません。それよりも、夫となる方を見つけなければ……」
言葉尻が弱くなってしまったことを、ルイスも咎めなかった。ルヴィリアの表情を見ながら、苦笑するように言う。
「それに関しては心配してないよ。当家が伯爵家になれば、いくらでも見つけられるさ。仮に難しくとも、グリマール侯爵に頼めばいくらでも仲介してくれる。あの方は南部貴族の旗頭だからね。むしろ仲介してくれとあちらこちらの貴族から声がかかるかもしれない」
「……そう、ですか」
「ああ、そうだとも」
頷くルイスに、ルヴィリアは自分でも気付かない内にため息を吐いていた。憂いが込められたそのため息に、ルイスの苦笑が深まる。
「ルヴィリア……俺の可愛い妹。今回の昇進も、当家の領地が増えたのも、お前のおかげだ。“だからこそ”、お前が望むのなら」
「――お兄様」
ルイスの言葉を、ルヴィリアの硬い声が遮った。
「ヴェルグ子爵家……いえ、ヴェルグ伯爵家の当主として、最善を尽くしてください。わたしの体が治ったのも“そのため”なのですから」
「……ああ、わかったよ」
決意を感じさせるその声色に、ルイスは引き下がるのだった。
「ルヴィリア、たまには気分転換をしてこないか?」
レウルス達が王都に到着して十日近く経つ頃、不意にルイスがそんなことをルヴィリアに提案した。
「気分転換……ですか?」
王都の別邸で日々を過ごすルヴィリアは、暇とは言わないが忙しいとも言えない生活を送っている。
体が元気になったことを証明するように社交の場を設け、他家の人間や騎士などを招いているものの、その全てが退屈なものだった。
ルヴィリアが元気になり、結婚の相手を探している――それを宣伝するためでもあるのだが、当のルヴィリアからすれば社交の場で顔を合わせた者達全てが“物足りない”のだ。
社交の場で顔を合わせたのは、ルヴィリアと歳の近い男女ばかりである。
顔を合わせ、互いに名乗り合い、雑談という名の情報交換や貴族としての牽制を繰り広げてみても、心が微塵も動かない。
特に、男性は貴族の生まれであっても次男や三男で、交わす言葉もルヴィリアの琴線には触れない。相手はルヴィリアの快復を喜んだり、容姿を褒めたりと張り切っていたが、言動の全てが薄っぺらく感じてしまったのだ。
笑顔でそれらに応じたルヴィリアだが、無意識の内に“誰か”と比較していたことに本人も気付いていない。
「ああ。今日はちょっとした催しがあってね。少々刺激的かもしれないが、少なくとも退屈はしないはずさ」
そんなルヴィリアの様子を心配に思ったのか、ルイスはそんな提案をした。
ルヴィリアは深く考えることもなく頷き――そして歓喜と後悔を等分に抱く。
家紋も刻まれていないお忍び用の馬車に乗り込んだルヴィリアが連れて行かれたのは、王都に存在する練兵場だった。
こんなところで一体何があるのか、などと疑問に思ったルヴィリアだったが、周囲から中がわからないよう布地が垂らされた馬車の窓から、遠くに見えた人影に気付いて思わず声を上げかけた。
ルヴィリアが歓喜を抱いたのは、遠目にとはいえ二度と会うことはないと思っていた人物を見ることができたからである。
ルヴィリアが後悔を抱いたのは、その姿を見た時に自身の胸がかつてないほどに高鳴ったからだ。
顔を合わせなければ、時間が経てば、自然と落ち着くと思っていた。だが、ルヴィリアは知らなかった。
――時間が経った分、強まる想いもあるのだと知らなかったのだ。
遠目に見えた人物――想い人であるレウルスの戦う姿に、ルヴィリアは震えるような息を漏らす。
相手はルヴィリアでさえ知っているような有名人、『天雷』のベルナルドだ。マタロイの中でも屈指の実力者であるベルナルドを相手に果敢に、獰猛に、そして必死に立ち向かうその姿。
十分近い激闘はレウルスの敗北という形で終わったが、相手が相手である。ルヴィリアの気持ちが弱まることは微塵もなく、むしろ強まる気さえした。
――護衛としてついてきていたアネモネに、『お嬢様興奮しすぎです』と真顔で言われた時は顔を真っ赤にしてしまったが。
何はともあれ、一方的ながらもレウルスの顔を見ることができた。相手が気付いていなくとも、胸の中に仕舞い込んでいた想いが溢れそうになるその感覚は何物にも代えがたかった。
そうして更に日が経ち、ヴェルグ子爵家がヴェルグ伯爵家と名乗りを変える頃。
――ルヴィリアはレウルスと再会することとなった。