第34話:吸血種 その1
――吸血種。
名前と共にそう明かした少女を前に、レウルスの脳裏は驚愕で占められていた。
(吸血種……まさか吸血鬼かっ!?)
普段は役に立つことがほとんどなく、思い出したとしても確信が持てない前世の記憶。それがこの時ばかりは何故か明瞭に、レウルスの脳裏に閃きをもたらしていた。
吸血鬼あるいはドラキュラ。それは前世の記憶が色褪せたレウルスでも即座に思い出せるほどに知名度がある言葉だ。
漫画や小説、テレビドラマなど、日本人だけに留まらず地球全体で見ても知名度が高い怪物の名称といえるだろう。それ故にレウルスは吸血鬼がどんな怪物かも即座に思い出すことができた。
曰く、血を吸われた人間は同じように吸血鬼になる。
曰く、狼や蝙蝠、霧に化けることができる。
曰く、不老不死の化け物。
流水や太陽の光を嫌い、心臓に木の杭を打てば死ぬとも言われているが、化け物と呼ぶに相応しいその力。魔物が跋扈し魔法が存在するこの世界において、吸血鬼が生息していても何の不思議もないだろう。
目の前の吸血鬼の外見は少女のものだ。しかし、それが人間の目を欺くための擬態でないと誰が言えるだろうか。狼や蝙蝠だけでなく、自由自在に姿かたちを変えることができてもおかしくはない。
突如遭遇した吸血鬼に対し、レウルスは激しく戦慄する。現在地はラヴァル廃棄街から徒歩で二十分程度の距離しか離れておらず、もしも吸血鬼が街を襲えば大惨事になるだろう。それこそ以前倒したキマイラとは比べ物にならない被害が出るはずだ。
魔物の階級で言うならば、一体どれほど高位になるのかわからない。下手せずとも上級以上だろうか。“あの”吸血鬼がキマイラよりも弱いとは到底思えない。
(キマイラの次は吸血鬼? 本当に鬼が出やがった! 自分の運の悪さを呪うぞクソッタレが!)
今この場にいるのはレウルスだけだ。冒険者仲間の救援は望めそうにない。かといって相手が吸血鬼となれば撤退するのも戸惑われた。撤退しようにも振り切れるとは思えず、吸血鬼をラヴァル廃棄街へ案内する羽目になる
相手は吸血鬼だというのに、日中でも平気そうに姿を見せてきた。外套やフードによって日差しを避けているのかもしれないが、それにしても限度があるだろう。
この世界の吸血鬼は太陽が苦手ではないのか、あるいは太陽の下を歩けるほどに強力な存在なのか。感じ取れる魔力はそれほど強くないが、魔力の有無が強さに直結するわけではない。相手を油断させるために魔力を抑えている可能性もあるのだ。
相手が吸血鬼ということは、血を吸って増やした吸血鬼の群れが近くにいるということも有り得た。もしもそうだった場合、数によってはラヴァル廃棄街どころか城塞都市であるラヴァルとて危険だろう。
吸血鬼がどれほどの身体能力を持つのかわからない。魔力を感じる以上、魔法を使ってくると想定するべきである。吸血鬼としての身体能力に加え、『強化』まで使われればどれほどの脅威になるか。
そんな相手と一人で戦う必要があるのだ。絶望を覚えてこの場から逃げ出したくなるレウルスだったが、ラヴァル廃棄街が危険に晒されるとなれば逃げるわけにもいかない。
――つまり、生き延びるためには目の前の吸血鬼を倒す必要がある。
ガキン、と脳内で歯車が噛み合うような音が響く。そして次の瞬間にはレウルスから魔力が溢れ出し、全身に力を漲らせた。
普段は自分の意思で使えない未知数の能力だが、命を賭ける必要がある危機的状況を前にして体が応えてくれたようである。恐怖を振り払うように大剣を一振りすると、腰だめに構えて前傾姿勢を取った。
「首を刎ねて頭を潰す……心臓に木の杭を打つ……いや、バラバラに刻んで燃やした方が確実か」
相手は少女の外見をしているが、躊躇する理由にはならない。殺さなければ殺されるのだ。自分一人だけに留まらず、ラヴァル廃棄街の面々まで危険に晒されるとなれば戸惑う必要はない。
吸血鬼が相手となるとバラバラに刻んで燃やしても死ぬかわからないが、少なくとも時間は稼げるはずだ。
自分だけで殺せないのならば、回復に時間を要するレベルでダメージを与え、その間にラヴァル廃棄街へ撤退するしかない。そして緊急事態を知らせつつ、吸血鬼の対処方法を知る者を見つけるしかないだろう。
これまでに発動した経験から考えるに、己の能力は時間制限があるらしい。それならば時間をかけることはできず、レウルスは不意を突くように駆け出した。
「シャアアアアアアアァァッ!」
瞬時に間合いを詰め、地面を凹ませる強さの踏み込みと同時に体を思い切り捻る。そして腕力と遠心力を乗せながら大剣を振るい、吸血鬼の首を刎ねるべく右下から切り上げるように鋼の刃を煌めかせた。
「いぃっ!?」
“何故か”驚いたように目を見開く吸血鬼。しかし、その表情に浮かんでいたのは驚きだけでない。剣閃を走らせながらもレウルスが見たのは、吸血鬼の顔に浮かんだ諦観と絶望の表情だった。
「っ!?」
吸血鬼の表情を見たレウルスは咄嗟に大剣を跳ね上げ、軌道を逸らす。
レウルスが放った斬撃は空を切り、吸血鬼の背後に生えていた木を斜めに断ち切ると、その後ろに生えていた木もまとめて数本輪切りにした。レウルスの斬撃を受けた木々は轟音と共に大きく吹き飛んだが、それをレウルスが気にする余裕はない。
(コイツ避けやがった!?)
反射的に大剣の軌道をずらしてしまったが、その必要がなかったのだ。
レウルスの動きが見えていたのか吸血鬼の少女は上体を逸らし、レウルスが斬撃の軌道をずらさずとも回避していたのである。
「チィッ!」
今しがた吸血鬼が浮かべた表情も、擬態だったのかもしれない。そう思い至ったレウルスは舌打ちを一つ叩き、腕力に物を言わせて大剣を即座に引き寄せる。そして上体を逸らしたことで隙を晒した吸血鬼を真上から叩き斬ろうとし――。
「ふぎゃっ!?」
「…………?」
上体を逸らした勢いでそのまま後ろへと派手に転んだ吸血鬼の姿が視界に入った。見れば体全体が震えており、レウルスの凶行に対して怯えの視線を向けている。
その上、レウルスから逃げようとしているのか地面に尻もちをついたまま後退しようとしていた。しかし腰が抜けたのか満足に動くことができず、大剣を振り上げたレウルスの姿に絶望の色を濃くしている。
「……何を、している?」
問答無用で大剣を振り下ろさなかったのは、吸血鬼の怯え様が本物だったからだ。レウルスは怪訝そうに眉を寄せたが、こちらを油断させるための演技かもしれないと思い、大剣は振り上げたままである。
そんなレウルスの疑問に対し、体を震わせていた吸血鬼は吠えるように叫んだ。
「それはこっちの台詞じゃあほおおおおおおおおぉぉっ!」
「あー……つまり、なんだ。お嬢ちゃんはハリスト国? ってところから逃げてきただけで、俺に危害を加えるつもりはなかったと?」
大剣を構えたままで、目の前の吸血鬼――エリザから話を聞いたレウルスは大きく肩を落とした。結果として威嚇になったレウルスの斬撃を避けたのは、ただ単純に驚いて足を滑らせた結果らしい。
「吸血鬼って名乗るから決死の覚悟を決めちまったじゃねえか……ああクソッ、さっき腹いっぱい食ったはずなのにもう腹が……」
どうやらエステルの話の通り、食べたものを魔力に変換して『強化』のように身体能力を引き上げていたらしい。それを実感するレウルスだったが、つい数分前に角兎一匹食べたはずだというのに空腹の虫が大合唱を始めて辟易とした。
(ほんの数秒の発動で角兎一匹分を消費したのか? すぐに腹が減ったってことは、食った傍から魔力に変換してる? それで蓄えた分を使って今の力を発揮して……わかんねぇな)
現実から逃避するよう考え事に没頭するレウルス。そんなレウルスに対し、涙目になっているエリザが叫んだ。
「吸血鬼ってなんじゃ!? ワシは吸血種と言ったじゃろうが!」
(……吸血鬼じゃねえの? 何か違うの?)
吸血鬼ならばわかるが、吸血種という言葉はこの世界でも聞いたことがない。何かしらの種族なのだろうかと首を傾げつつ、認識の差異を埋めるために質問をすることにした。
「若く見えるけど、実は何百年も生きてるんだろ? 人間の血を吸って自分と同じ化け物に変えたり、狼や蝙蝠に変化したり、不老不死で体をバラバラにされても平気な顔で復活するんだろ?」
「なんじゃその化け物!? そんなのがいたら恐ろしすぎるわ! というかワシのどこを見れば何百年も生きていると思うんじゃ!?」
「……口調?」
「これはおばあ様の真似じゃ!」
腰を抜かしているからか、地団駄を踏むこともなく両腕をバタバタと振り回すエリザ。暴れるうちにフードがめくれてその素顔が露わになるが、口元に長い牙が覗いているということもない。
外見だけで判断するならば、レウルスよりもやや年下といった風貌である。桃色を帯びたブロンドの長髪が風に揺れているが、手入れをしていないのか酷く傷んでいるように見えた。
エリザの顔立ちは可愛らしいものの、髪の傷みや頬のやつれ、更には目の下の隈などによってその魅力が半減している。水分もまともに取れていないのか唇もガサガサに乾燥しており、外套から僅かに見えた手足は枯れ木のように細かった。
短期間食事を取らなかっただけでそうはならないだろう。それこそレウルスのように年単位で過酷な労働に従事していたか、余程食生活に恵まれなかったか、あるいはその両方か。そうでなければこれほどまでに痩せ細るはずもない。
――その姿はまるで、“かつての自分”のようだ。
シェナ村で長い年月を農奴として過ごし、奴隷として売られた頃。鉱山に運ばれる途中でキマイラに襲われ、命辛々逃げ出すことができた。自分はまだ運が良かった方だとレウルスは思っているが、恵まれていた生活を送ったとは到底言えない。
それでも前世の記憶があり、前世で社畜生活を送ったことがあり、なおかつ虫や雑草、木の根を食べてでも生き抜こうと思える精神的なタフさがあった。
そんな自分と比べて、目の前の少女はどうだろうか。ガリガリとしか表現できないほどに痩せ細り、今にも倒れてしまいそうな有様はかつての自分と大差ないとレウルスは思う。
そして、一度そう思ってしまえば敵意を抱くことなどできない。レウルスは大剣を地面に突き立てると、複雑な感情のこもったため息を吐く。
「あー……そうだったのか」
裸足で歩いていたからか足もボロボロで、今も血が滲んでいる。ここに至るまで様々な苦労があったのだと察することができ、レウルスは困ったように頭を掻いた。
大剣を下ろしたレウルスをどう思ったのか、涙目だったエリザの表情がくしゃりと歪む。そして徐々に大粒の涙が溜まり始め、しゃくりと共に頬を流れ落ちた。
「ひっく……うっ……ぐぅ……なんで……なんで、ここまで逃げてきて……こんな目に遭うんじゃ……ワシが何をしたんじゃ……」
緊張の糸が切れたのか、レウルスの剣幕が恐ろしかったのか。幼子のように泣き始めたエリザの姿にレウルスの胸が罪悪感で痛む。
――これが自分を騙すための演技だったのならば最早どうしようもない。
そもそもただの冒険者でしかないレウルスを騙す意味もないだろう。城壁に囲まれたラヴァルに入るためならばともかく、レウルスはラヴァル廃棄街の住人だ。その点から考えると、エリザとの出会いは偶然だったのだとレウルスは思う。
レウルスは膝を突いてエリザと視線の高さを合わせると、深々と頭を下げた。
「すまなかった。早とちりした俺が悪い」
元々の原因を挙げるならばエリザが吸血種と名乗ったことなのだろうが、それを吸血鬼だと勘違いして斬りかかったのは自分だ。
エリザの怯えた表情に気付いて大剣の軌道をずらしたため、エリザが後ろに転ばなくても怪我一つ負わせなかっただろう。それでも怖がらせたことに変わりはなく、レウルスは大剣から手を離して敵意がないことをアピールした。
もしも次の瞬間にエリザの様子が変貌して襲い掛かってきたとしても、この状態で攻撃を受ければ反撃どころか回避することもできないだろう。
それでも自分が原因で子供が泣いているのだ。エリザの名乗り方にも問題があったのだろうが、威嚇に留まったとはいえ斬りかかったのはレウルスの判断である。吸血種を吸血鬼だと勘違いしたのがまずかったのだ。
エリザに非がないわけではない――が、目の前で子どもに泣かれてしまってはレウルスもお手上げだった。まさか今から大剣を握り直し、座り込んでいるエリザを叩き斬るわけにもいかないのである。
もしかすると、この世界では吸血種も吸血鬼と似たような存在なのかもしれない。ラヴァル廃棄街に害をもたらすのならばこの場で斬るべきだろう。だが、現時点では情報が足りなさ過ぎて何も判断できなかった。
謝罪するレウルスに対し、エリザは何も言わず、動きもしない。しゃくりを上げて涙を流すだけであり、何かを話せる状態ではないようだった。
その代わりにというべきか、クゥ、とエリザの腹が可愛らしい音を立てる。その音に気を引かれたレウルスが顔を上げると、それまで泣いていたエリザの顔に赤みが差し始めていた。
両手で涙を拭っているため、顔全体を見ることはできない。しかしながら耳が赤くなっているのだ。
「立てるか? いつ魔物が来るかわからないし、場所を移したいんだが……」
ひとまず腹の虫が鳴ったのを聞かなかったことにすると、この場から離れることを提案する。
「ぐずっ……遠くまで、肉の焼ける匂いが……していたしのう」
どうやら角兎を焼いた匂いを嗅ぎ取ってここまで来たらしい。もしも自分が逆の立場ならば同じことをしただろうとレウルスは思う。
「じゃが、無理じゃ……腰が抜けて動けんのじゃ……」
涙を拭いながらそう告げるエリザ。それを聞いたレウルスは魔物の気配がないことを確認すると、地面に突き刺していた大剣を引き抜いて放り出していた鞘に納める。そして剣帯を締めて大剣を背負うと、エリザの傍に膝を突いた。
「それなら運ばせてもらうよ。ここから二十分も歩けば俺が住んでいる場所に着く。いきなり斬りかかった奴に運ばれるのは不安だろうけど、それまでは我慢してくれ」
「わっ!?」
そう言って断りを入れ、エリザの膝裏と背中に腕を通す。続いて全身に力を込めて持ち上げると、エリザが驚いたような声を上げた。
それは俗に言うお姫様抱っこ――なのだが、内心だけでレウルスは焦る。
身に付けている装備が重いため、正直なところかなり辛いのだ。しかしながらドミニクから渡された大剣や新調したばかりの革鎧などを置いていくのは気が咎め、曖昧な笑みを浮かべる。
「俺がどんな償いをすればいいか考えておいてくれ。まずは俺が住む街――ラヴァル廃棄街で腹ごしらえをしよう」
いくら重たいと言っても、この状況を招いたのは自分自身である。これも一つの罰だろうと自分に言い聞かせ、レウルスは重厚な足音を立てながらラヴァル廃棄街に帰還するのだった。




