第2話:現実
空が白み始め、それまで真っ暗だった森の中にも少しずつ日の光が差し込み始める。徐々に明るさを増し、視界の確保も容易になったレウルスは大きく息を吐いた。
(なんとか生き延びれたか……)
レウルスが潜む針葉樹の近くまで魔物が接近してきた回数は四回。その度に嫌な汗を掻いていたが、その臭いで気付かれなかったのは僥倖としか言えないだろう。事前に塗り付けていた木の葉の臭いが助けてくれたのかもしれない。
「ありがとな。お前さんは命の恩人……いや、木だよ」
一晩中姿を隠してくれた針葉樹に感謝し、優しく撫でる。そしてレウルスは意識を切り替えると、一晩の宿となった針葉樹を下り始めた。
視界が確保できた以上、この場に留まる理由はない。長時間寒い空気に晒され、一晩中動くことができなかったせいで体の節々に違和感があるが、己の意思通りに両手両足が動いてくれた。
なんとか落下することなく地面に降り立つと、屈伸運動を繰り返して足の筋肉をほぐす。それだけで全身の骨が小気味よい音を立てるが、その音を聞いて思わず周囲を確認してしまったのは昨晩の体験に因るものだろう。
体の調子を確認して問題はないと判断し、レウルスは移動を開始する。すぐに森から抜けたいが、最初に足を向けたのは昨日移動に利用した小川だ。
「水浴び……はさすがに寒すぎるか」
もう一度臭いを消したかったが、触れた川の水は非常に冷たかった。そのため水分補給だけをしようと考え、両手ですくって口元へと運ぶ。
「……美味い」
隠れるだけとはいえ、命がけの時間を過ごしたからか。冷え切った川の水が非常に美味く感じられ、レウルスは感嘆するように呟いていた。そのまま何度も水をすくい、喉を潤すと同時に腹を膨らませていく。
「川があっちに流れてるから……街道はこっち、か?」
いつまでも水を飲んでいたいが、水辺に魔物が寄ってくるかもしれない。そう考えたレウルスは手早く水分補給を済ませ、川の流れの方向から街道の位置にアタリをつけた。
そしてすぐさま移動を開始する。なるべく音を立てないよう注意しつつ、それでいて小走りに森の中を駆けていく。
朝方の空気で冷やされた森の中は静謐な雰囲気が漂っており、こんな状況でなければ散歩でもしたいほどだ。人間を襲う魔物が生息するという物騒ささえなければ、だが。
レウルスは一定の速度を保ち、なるべく枯れ葉が落ちておらず、地面が露出している場所を選んで移動していく。落ち葉の上だと走る際に大きな音が立つのもそうだが、周囲の音が聞こえなくなるのも危険だ。
己の『嫌な予感』にもある程度信頼を置き始めたレウルスだったが、それだけで全ての危険を回避できると考えるのは愚か者のすることだろう。『嫌な予感』を覚えた時には相手の索敵範囲内に入り込んでいた、ということも十分にあり得る。
(街道まであと少し……そこから町か村までどれだけ走れば良い?)
最悪の場合、シェナ村に引き返した方が良いかもしれない。ただし、その場合は幌馬車を襲った獅子らしき魔物がいた場所を通る必要がある。
(もしかしたらあの魔物も移動してて安全に帰れるか? いや、帰ってもどのみち危険か)
既にシェナ村の人別帳から削除された身だ。仮に辿り着けたとしても再度売り飛ばされるか、村に復讐するべく帰ってきたと判断して殺される危険性がある。
(進むも地獄退くも地獄……この世界に地獄があるか知らないけどな)
前世で命を落としてから天国にも地獄にも行った覚えがない。それならばないのだろう、などと考えたレウルスは存外に余裕がある自分に苦笑した。
それは命の危険を乗り切ったことで得た余裕――そうであったならばどれだけ良かっただろうか。
(道が見えて……っ!?)
ようやく街道が見えてきたことに安堵したレウルスだったが、全身から力が抜けて思わずよろめいてしまう。傍にあった木に手をつくことで転倒は免れたが、先ほどまで軽快に動いていた体が鉛のように重くなっているように感じられた。
さすがに一晩中夜風に吹かれ続けたのはまずかったか。最初にそう考えたレウルスだったが、己の近況を思い出して頬を引き攣らせた。
幼少期から長年に渡る体の酷使に、最低限しか与えられない食事。栄養状況に反して背は伸びたが、農作業を行うのに必要な筋肉以外はつかなかった。
ただでさえ成長期の真っただ中である。必要になる食事量は多いが、それらを確保することなど夢のまた夢だ。それでも騙しだまし日々を過ごしてきたが、シェナ村から放り出されて以来食事を取れていない。
水分は取ることができたが、昨日から今まで食事も睡眠もなしだ。体が変調を訴えるのは当然だろう。
「はぁ、はぁ……きっつ……腹、減り過ぎて、逆に何も……わかんねぇ……」
自分を元気づけるために声を発してみるが、掠れたような声しかでなかった。川の水で腹を膨らませはしたが、根本的に栄養が足りていないのである。
春先だがまだまだ寒いということもあり、見える範囲に食べられそうな野草も存在しない。今ならばどんなゲテモノでも生で食べられるほどに空腹だが、生憎と見つけることができなかった。
(やばいな……自覚したら余計にきつい……)
空腹感を飛び越えた飢餓感。一瞬たりとも気を抜けない緊張感を抱えながら一晩を過ごしたことによる疲労感に眠気。それらはレウルスの体から力を抜かせ、この場で倒れ伏して眠りにつかせるほど凶悪かつ強烈だ。
思わずその場に膝をついてしまうが、このまま意識を手放せば死ぬだろう。餓死か魔物に襲われるかの違い程度だが、確実に死ぬ。
今にも止まりそうな思考の中でそう考えたレウルスは、咄嗟に頬の内側を噛み切った。そして痛みで意識をつなぎとめると、傍にあった明らかに食用ではなさそうな草を千切って口に放り込む。
新聞紙でも噛んでいるような食感と、噛み締めた際に溢れ出る苦み。それが今しがた噛み切った傷口に沁み、強烈な痛みとなってレウルスの脳を揺らした。
(が、く、そっ、まじい……)
前世で謳われていた不味さが健康につながりそうな食品の数々でも、ここまで苦くはないだろう。レウルスは苦みと血の鉄臭さに辟易としながらもなんとか飲み下し、近くに生えている野草を次から次へと口に放り込んでいく。
味になど期待しない。毒さえなければ上等だ。例え栄養がなくとも、腹に何かが入ればまだ動ける。そうやってレウルスは近場の野草を腹に詰め込むと、街道に向かって歩き出す。
ここにいても死ぬだけならば、移動するしか生きる道がない。街道を歩いていれば、運が良ければ誰か通りかかる可能性もある。
(それで助けてくれる人に出会うなんて、ありえないだろうけどな……)
平成の日本ならば、道路で行き倒れていれば大抵の人が助けるだろう。その場から立ち去るにしても、最低でも警察などに連絡するはずだ。
だが、そんな人情や常識を期待できるとは到底思えない。そのためレウルスは自らの足で歩くしかなく、街道に到達しても道沿いに進んでいくだけだ。
時折道端に生えた野草を摘んでは食べるという“道草”を繰り返すが、極力足を止めずに歩き続ける。日が沈むまでに人がいる場所に辿り付けなければ、再び恐怖の夜を過ごす羽目になるのだ。
それを思えばレウルスも倒れてなどいられない。可能な限り速く、少しでも前に進み続ける。魔物への警戒は最早最低限だ。魔物の接近に合わせて騒ぎ立てる己の勘を信じ、ひたすら前進していく。
日が完全に昇り、中天を過ぎても焦らず、倒れないことにだけ注意して歩く。ここまでくれば焦っても仕方がないのだ。焦れば焦った分だけ体力を浪費してしまう。ならば、焦る暇があれば一歩でも先に進むしかない。
そうやって歩き続けるレウルスだったが、あと一時間もすれば日が落ちるところで遠目に気にかかるものを見つけた。街道の先、まるで小山のように存在する“何か”。それはレウルスの目が狂ったのでなければ、何かしらの人工物に見える。
「っ!」
町か村か、どちらでも良い。人が住んでいる場所ならば、それだけで良い。砂漠で見かけるオアシスの蜃気楼のように消えてなくならないか不安に思うが、何度目を擦っても遠くの光景が変わることはない。
「は……ははっ! あった! 良かった!」
まだまだ距離があるが、日が暮れるまでには辿り着くことができるだろう。その事実がレウルスの体を動かし、それまで歩くのがやっとだったのが嘘だったように走り始める。
最初は小走りで、数秒もすれば加速して、気が付けば全力疾走に近い速度で走っていく。遠くに見える建造物は時間を追うごとに近くなり、それがまたレウルスの足を急がせた。
(かなりデカい……城塞? 城壁? シェナ村の土壁とは比べ物にならねえな……)
だいぶ近づいたことで詳細も見えてきたが、どうやら石造りの壁で覆われているらしい。中には町か村があるのだろうが、シェナ村と比べると壁の高さや頑丈さが段違いだった。
もしかするとこの国の首都かそれに準ずる町なのかもしれない。レウルスはそんなことを考えながら走り続け、そしてようやくたどり着く。
「でけぇ……」
辛うじて日が暮れる前に到着できたが、傍で見上げてみるとその巨大さが余計に際立つ。
石を組み上げて造られた壁に、防衛力を増すために掘られたと思わしき空堀。そして空堀には城門とつながる橋がかけられており、橋の手前にはいくつかの人影があった。
橋の手前、石と木で造られたと思わしき小屋。そこには鎧で身を固め、手には槍を持った兵士らしき男性達がいた。シェナ村でも似たような装備の兵士を見たことがあったが、彼らは駆け寄ってきたレウルスに対して即座に槍を構える。
「動くな!」
「えっ? は、はい!」
単純かつ明瞭な命令。それを聞いたレウルスは咄嗟に走る足を止め、その場で硬直する。
たしかにみすぼらしい服装の人間が形相を変えて走ってくれば不審に思うだろう。城壁の内部へつながる橋を守る兵士からすれば、槍を向けるのは当然と言える。レウルスは足を止めたことで急激に圧し掛かってくる疲労に辟易としつつ、そんなことを考えた。
「妙な動きはするなよ……身分証を呈示しろ」
「……は? み、身分証?」
だが、続いてかけられた言葉に思わず困惑してしまった。身分証と言われても、運転免許証もなければ保険証や社員証もない。そのため呈示できるものなど何もなく、一向に身分証を出そうとしないレウルスに兵士達は顔をしかめた。
「身分証なし、と……どこの出身だ?」
「シェナ村……です」
続く質問に答えを返すものの、兵士達の態度は変わらない。その場にいた四人ほどの兵士の内、半分が顔を見合わせて肩を竦め合う。
「このラヴァルに何の用だ?」
どうやら目の前の城壁内にある町か村の名前はラヴァルというらしい。そんなことを頭の片隅で考えるレウルスだったが、何か答えなければ不審人物として殺されそうな雰囲気があった。
「こ、ここに用があったわけじゃなくて……大きな街なら働き口もあるかな、と」
――何でもいいから食べ物をください。あと水も飲ませてください。
そう言いたいのを堪え、この場で理由をでっちあげる。奴隷として売られたが逃げ出してここまでたどり着いたと正直に答えれば、何かしら罰則があるかもしれないのだ。
あの獅子の魔物を見る限りレウルスを買った商人が生き延びているとは思えないが、仮に生きていた場合“所有権”を主張されて引き渡される可能性もある。
「おいおい、またかよ……」
「領主は何をやってるんだか……」
兵士の中からそんな声が聞こえたが、そこにあったのは同情などではない。隣家の飼育小屋からニワトリが逃げ出したとでも聞いたような、呆れた声色である。
(……まずいな)
いくら空腹と疲労で頭が回っていなかったとはいえ、もっとそれらしい言い訳を考えておくべきだった。そう後悔するが、ようやく人がいる場所まで辿り着けたのである。ここまで淡白な対応をされるなど、考える余裕もなかった。
「面倒な……仕方ない、シェナ村の兵士に引き取りにこさせるか」
兵士の中でも一番偉いと思わしき男性がそう呟く。だが、それを聞いたレウルスは慌てたように声を張り上げた。
「む、村からは追い出されたんです! 成人したから払う税金が勿体ないって! 両親は小さい頃に魔物に殺されましたし、戻っても村の中で殺されるだけです!」
同情を引くよう、両親の死について触れながら言葉をぶつける。しかし、兵士の反応は冷ややかだ。
「そうか……まったく、シェナ村の連中め。税の支払いを渋るとはな……」
既に兵士の意識はレウルスに向けられておらず、税金を払うのが勿体ないからと売り飛ばしたシェナ村に向いているらしい。加速度的に状況が悪くなっていることを悟ったレウルスは、その場に膝をついてしまった。
ようやく人のいる場所にたどり着けたというのに、シェナ村に送り返される。その現実を前にレウルスは地面を掻きむしった。
「……通行税と身元保証金は払えるか?」
そんなレウルスの様子に、一番年若い兵士が若干の同情を込めて尋ねてくる。しかし金銭など逆立ちしても出てこない――むしろこの国の通貨すら知らないのだ。
「……金、持ってないです」
素直にそう告げると、若い兵士はため息を吐く。
「一応聞いておくが、このラヴァルに住んでいる親族はいるか?」
新たな問いかけに、レウルスは無言で首を横に振った。口から出まかせを言おうにも、確認を取られればすぐに嘘だとバレるだろう。
そんなレウルスの様子を見た兵士は再度ため息を吐くと、野良犬でも追い払うように手を振った。
「通行は許可できんよ。さっさと消えな……隊長、良いですよね?」
「……ま、構わんだろう」
若い兵士が年嵩の兵士に話を振ると、やれやれと言わんばかりに肩を竦める。
この場で不審人物として捕まえず、殺すこともなく、シェナ村に送り返すこともしない。それは兵士達からすれば精一杯の温情だろう。レウルスの風体を見れば村から追い出された農民以外に思えず、送り返す手間を考えると面倒さの方が勝るのだ。
だが、レウルスとしては見逃されても行き場がない。ラヴァルと呼ばれた目の前の城塞都市周辺ならば夜も比較的安全に越せるかもしれないが、このままでは餓死するだけだ。
「何か……何か仕事とか、ないですかね? なんでもしますよ? 雑用でもなんでも……」
今ならばどんな過酷な仕事でも喜んで従事できる。腹いっぱいにとは言わないが、体がまともに動くだけの食事があれば喜んで働くだろう。
「シェナ村出身とは言うがその証拠もない。お前が逆の立場なら雇うか?」
ぐうの音も出ない正論だ。もしもレウルスが逆の立場なら、絶対に雇わないだろう。できるのは簡単な日常会話と農作業程度で、この世界の文字を読むこともできないのだ。かといって眼前の兵士達のように戦闘訓練を積んだわけでもない。
「ここ何日もまともに食べてなくて……」
「そうか」
「昨晩だって、魔物に襲われるかもって思いながら木の上で一晩過ごしたんですよね……」
「そうか」
プライドを放り投げ、同情を引こうと話をするが反応は極めて悪かった。そんな兵士達の反応に、レウルスは思わず頬を引き攣らせる。
「の、野垂れ死にしろと?」
最早遠からず訪れるであろう未来。己の死を悟ったレウルスが震える声で尋ねると、隊長らしき男性は冷徹に返す。
「その通りだ。勝手に餓えて勝手に死ね。できれば森の中でな。町の周囲で死なれると魔物が寄ってきて面倒だ」
情の欠片も存在しない返答だ。そう思うレウルスだったが、続く言葉に思わず納得してしまう。
「その格好と身分証の有無、体付き。お前が村から逃げ出したというのは本当だろう。その上、金もない……他国の間諜として捕まえないだけありがたいと思え」
それ以上のことは何もできない。レウルスが貧しい農民だとわかっており、本当は間諜ではないと思っているが、兵士である以上は己の職務を全うするのみである。このままレウルスを見逃すのが彼らに出来るギリギリの妥協なのだ。
隊長らしき男性は興味を失ったように背を向け、部下達を連れて引き上げていく。もうじき日が暮れるということもあり、堀にかけられた橋を上げるつもりなのだろう。
レウルスは膝を突いたままで動けなかったが、先ほど比較的優しく接してくれた若い兵士が駆け寄ってくる。
「東門の方へ行ってみろ」
「え?」
「運が良ければ死なずに済むだろうさ」
そう言って東と思われる方角を指差す若い兵士の目に浮かんでいたのは、憐憫の情だった。そこに僅かとはいえ同情が混ざっており、レウルスは震える膝に力を入れて立ち上がる。
(東門……何かあるのか?)
野垂れ死にしろと言われるよりはよっぽどマシだ。レウルスは若い兵士に小さく頭を下げると、今にも倒れそうな体に鞭を打って歩き始めた。