第288話:『首狩り』 その3
グロ注意です。
「おいおい……爺さんの言うこともアテにならねえな」
『龍斬』を構えたレウルスは、思わずといった口調でそう呟いていた。
どこからともなく漂ってくる、鼻を覆いたくなるような腐臭。それは血の臭いというよりも腐った肉のような――それも腐って何日が経っているのかわからないような悪臭である。
同時に、レウルスは薄っすらと魔力を感じ取った。研ぎ澄まされた刃のように鋭く、それでいて殺気が滲んでいる。
周囲の腐臭と合わさり、気の弱い者ならばそれだけで気を失いそうな空気だ。
「これはなんとも……凄まじいものであるな」
コルラードも剣を抜き、馬車に背を向けながら構えた。その声には緊張が込められており、相手の異常さと厄介さを感じ取ったようである。
(ルヴィリアさんを馬車に……いや、動くのは危険か)
何の目的があるのか、探していた相手が向こうから出向いてきたようである。もちろん『首狩り』ではない可能性もあるが、レウルスは直感で相手が尋常ではない存在だと感じ取っていた。
離れているというのに、ピリピリと肌を刺すような威圧感を覚える。魔力の大きさはそれほどでもないようだが、それを忘れてしまいそうなほどに殺気が強い。
気配を隠すことなく、声すら隠さずに近づいてきたのは余裕の表れか、はたまたレウルス達を威嚇するためか。
三つ用意した焚き火と月の明かりによってある程度視界が確保されているものの、木陰などは闇が濃い。今しがた聞こえた声も、距離があるのか遠くから聞こえたように感じた。
『キキッ……キキキッ』
声が再度響くが、先ほどと比べても近くから聞こえたように思える。周囲に漂う腐臭も濃くなったように感じられ、ルヴィリアが慌てた様子で鼻を袖口で隠した。
エリザとネディも顔をしかめるが、ルヴィリアのように鼻を塞ぐために手を使うような真似はしない。戦闘中に片手だけでも塞がるというのは、危険なことだからだ。
「ぬぅ……声はすれど居場所はわからん、か」
「魔力も感じますけど、まだ距離がありそうですね……いえ、油断してたら一気に飛び込んでくるかもしれませんけど」
レウルスだけでなく、コルラードも慣れていると言わんばかりの様子で剣を構え続ける。腐臭に眉を寄せているが、“その程度”で剣の柄から手を離すなどあり得ないことだ。
(魔力の位置は……俺の正面か)
レウルスは静かに『熱量解放』を使い、いつでも迎撃できるように体勢を整える。だが、レウルスが『熱量解放』を使った瞬間、相手の空気が僅かに変化したように感じられた。
『キッ……キキキ……』
言葉はわからないが、少しばかり疑念が混ざったような声色である。あるいは戦闘態勢を整えたレウルスを警戒しているのか。
「……こちらから仕掛けますか?」
「まだである……まだ、完全に目が慣れおらぬ。暗がりに踏み込めば、その分だけ不利であろうよ」
レウルスが小声でコルラードに確認を取ると、コルラードも小声で答えた。
『熱量解放』を使ったレウルスではあるが、さすがに焚き火の傍から暗闇を見通すのは不可能である。逆に、相手からは丸見えだろう。
「……おい、爺さん。いい加減起きろ……」
続いてレウルスが声をかけたのは、地面に寝転がって不貞寝をしているアクシスである。さすがに夜間に戦うのは不利なため、アクシスを起こして相手を撤退させようと思ったのだ。
「すー……すー……」
だが、アクシスからの反応はない。規則正しい寝息が聞こえてるだけである。
(……? すぐに目を覚まさないぐらい熟睡してるのか? いや、まさかこの爺さん……)
寝たふりでもして『首狩り』の方から近づいてくるよう仕向けているのか。それならばレウルスとしても納得するしかなく、アクシスから意識を外して闇夜に目を凝らす。
そうして現れた気配と向き合うこと三十秒。わざと足音を立てて近づいてくる気配に気付き、レウルスは『龍斬』を握る両手に力を込める。
「…………」
そして不意に、焚き火の明かりが届くギリギリのところで動くものが見えた。仄かに照らされた視界に映ったのは、人間の顔である。
「アンタは……」
その顔に見覚えがあったのは、レウルスとコルラード、そしてルヴィリアである。
顔を見せたのは、グレイゴ教の司祭、キースだった。一度レウルス達を襲い、捕縛した後に逃がした敵が、何故か驚いたような表情を張り付けた顔を見せたのだ。
――ただし、見せたのは文字通り“顔だけ”だが。
「ヒッ……」
ルヴィリアの口から、零れるようにして悲鳴が漏れた。
暗がりから姿を見せたキースは首から下がない。目を見開いて驚いたような顔をしたままで、身動き一つしない。
そして、ルヴィリアの小さな悲鳴に釣られるようにして相手がもう一歩近づいてくる。それに合わせて、腐臭も強くなる。
キースの首に続いて見えたのは、首と首、そして――首。
「っ……」
それなりに修羅場をくぐっているエリザでさえも、息を呑むようにして声が漏れた。それほどまでに、姿を見せた相手が異形過ぎたのだ。
その外見を可愛らしく表現するならば、黒毛の兎だろう。耳の先から爪先まで、黒い毛に覆われた兎である。
ただし、その“身長”はレウルスどころではなく、二メートル近い。
二本の足で直立しているが、兎というよりも人間と言われた方が納得できそうな両足は毛皮で覆われているにも関わらず、筋肉が隆起しているのが見て取れる。
猫背のように背中を丸めた上半身も、両足には劣るが筋肉がついていた。それでいてダラリとぶら下げた両腕は異常に太く、五指の先には焚き火の光を反射するほどに長い爪が生えている。
頭には二つの長い耳が生えており、レウルスが兎だと思った唯一の要素だった。ただし、口元は大きく裂けていて鋭利な牙が覗き、赤い瞳が暗闇に爛々と輝いている。
その異形もそうだが、エリザが悲鳴を上げかけたのは“趣味の悪い”装飾品を身に着けていたからだ。
キースのものもそうだが、髪の毛同士で頭を結び、数珠つなぎのようにした首の輪を袈裟懸けに身に着けているのである。
堂々と姿を見せた敵――これこそが『首狩り』だとレウルスは確信した。
姿を見せたことで倍加したように感じられる殺気と重圧。鼻が曲がりそうな腐臭はますます強まり、目を刺激しそうなほどだ。
『キキキキキッ』
悠々とした足取りで焚火の光が届く場所まで歩を進めたかと思うと、挨拶だ、とでも言わんばかりに牙を擦り合わせながら鳴き声を上げる『首狩り』。
その姿を完全に視界に収めた瞬間、レウルスは強く実感した。
(ああ……なるほど、グレイゴ教徒が躍起になって探し回る気持ちがよくわかる……)
眼前の生き物は、明確に人間の敵だ。それも野放しにしておけば多くの人間を、それこそ数えきれないほどに殺めるだろう。
ヴァーニルのように知性があり、場合によっては話し合いで戦いを回避できるような存在ではなく。
スライムのように周囲のものを無秩序に飲み込んで巨大化し、“結果的に”殺すような存在でもなく。
『城崩し』のようにその巨体から城を崩したり、害意を持って人間を襲うような、自ら他者を殺める存在――それが『首狩り』だ。
「なんだよオイ、ずいぶんと個性的なファッションしてんなお前。趣味が良いとは言えねえぞ」
気さくに、軽口を叩くように声をかけるレウルスだが、その声色は欠片も笑ってはいない。
ルヴィリアの体を治すための条件としてではなく、強者との戦いを望んだわけでもなく、この世界に生きる者として眼前の敵を仕留めなければならないように思えたのだ。
『キ、キキ……キ?』
『首狩り』はレウルスの顔を見て首を傾げたかと思うと、その視線をコルラードに向けた。しかしすぐさま視線を動かし、今度はエリザを見る。
『……? キキキキ……?』
レウルスを見た時と同じように首を傾げ、続いてネディを見たかと思うと更に首を傾げた。殺気に混じっていた困惑が強くなったようにも感じられ、レウルスは隙を探しながらも不思議に思う。
だが、そんな疑問もそこまでだった。
『――キキッ』
『首狩り』の視線がこの場に残った最後の一人、ルヴィリアに向けられたかと思うと、数秒と経たずにその口が大きく吊り上がった。
『キキキキ……キャカカカカカカカカカッ!』
それは、言葉がわからずとも伝わる歓喜の笑い声。一体何が気に入ったのか、『首狩り』はルヴィリアの顔や髪をじっと見つめたかと思うと、体を揺すって大声で笑い――次の瞬間には姿が消えていた。
「チィッ!」
『首狩り』が姿を消すと同時に、レウルスも動いていた。『熱量解放』で強化された動体視力でも辛うじて捉えられるかどうかという『首狩り』の動きに追従し、“ルヴィリアに向かって”大剣を振るう。
「……え?」
ルヴィリアが感じ取れたのは、耳元で鳴る金属音だけである。その音に釣られて視線を向けてみると、紙一重のところで差し込まれた『龍斬』と『首狩り』の爪がぶつかり合っているのが見えた。
何が起きたか、ルヴィリアは理解ができない。ただ、レウルスが防がなければ自分の首が落ちていたであろうことだけはおぼろげに理解できた。
身長の違いでネディの頭上を通過することになった『首狩り』の爪が、そのままルヴィリアの首を刎ねようとしたのだ。
「オオオオオオオォォッ!」
無理矢理『首狩り』の爪を受け止めたレウルスだったが、膂力に任せて強引に弾く。しかし『首狩り』の爪は両手に生えており、ルヴィリアの首を刎ねようと即座に追撃が放たれた。
強引に爪を弾いたことで、レウルスの体勢も崩れている。それでも地を蹴って跳躍すると、体を捻って『首狩り』の爪――その根元の手首に蹴りを叩き込んだ。
体勢も悪いため、攻撃を止めるには至らない。それでも『首狩り』の手首を“足場”にして横に跳ねると、ルヴィリアの腰を抱いてその場から離脱した。
「きゃあああぁっ!?」
突然の衝撃にルヴィリアが悲鳴を上げるが、レウルスに謝る暇などない。ルヴィリアを守ったものの、『首狩り』の傍にはエリザとネディがいるのだ。
「ぬぅんっ!」
だが、それをコルラードがカバーする。レウルスがルヴィリアを抱えて離脱した瞬間、『首狩り』に向かって剣を振るったのだ。
『キキッ』
レウルスが手首を蹴り飛ばしたことで僅かに体勢を崩していた『首狩り』だが、コルラードの斬撃を容易く見切った様子で回避する。そして回避ついでにコルラードの首を刎ねようとしたが、何かを察知したのか瞬時に後退して距離を取った。
「……はやい」
霞むような速度で後退した『首狩り』だが、数瞬前までいた場所には地面から突き出た氷の槍が出現していた。コルラードに意識を取られた隙を突いてネディが氷魔法を使ったものの、回避されてしまったのだ。
「外見の気持ち悪さもそうじゃが、本当に速いのう……」
地面ではなく『首狩り』に杖を突き刺して電撃を放とうとしていたエリザだが、動くよりも先に『首狩り』の姿が消えていて呆然と呟く。
(たしかに、こりゃ難敵だ……)
レウルスもまた、『首狩り』の速度を目の当たりにして僅かに冷や汗をかいていた。
アクシスの言う通り、『熱量解放』を使ったレウルスがようやく追従できるような速度。それでいて振るわれる爪は一撃必殺になり得る鋭利さがあり、『龍斬』でなければ防げないというのも納得だった。
何よりもまずいのが、助けるためとはいえルヴィリアを抱えているという点である。放り出して『龍斬』を両手で構えたいところだが、少しの隙を見せるだけで『首狩り』が踏み込んでくるだろう。
「……ルヴィリア、動けるなら自分の足で立ってくれ」
敬語も礼儀も取り払い、なるべく手短にルヴィリアへ声をかけるレウルス。しかし、返ってくる声は弱々しい。
「すい、ま……せん……体……震えて……」
眼前に死が迫ったからか、抱きかかえたルヴィリアからは大きな震えが伝わってくる。
(馬車の方は……アネモネさんも起きたか)
ルヴィリアをどうするか迷ったレウルスだが、視界の端、荷車に張られた布の隙間からアネモネが覗いているのが見えた。どうやら『首狩り』の隙を窺っているようだが、危険は承知でルヴィリアを放れば受け止めてくれるだろう。
(投げる隙、ルヴィリアさんが空中にいる隙……厳しい、か?)
だが、『首狩り』の速度ならばルヴィリアを殺せる可能性がある。
そのためレウルスは選択に迷うが、それまで笑い声を上げていた『首狩り』が急に動きを止めたかと思うと、即座に反転してその場から駆け出した。
「……なんだ?」
急速に遠ざかっていく魔力に、レウルスは虚を突かれたように目を瞬かせる。大きく距離を離し、迂回して襲ってくるつもりかと警戒しても『首狩り』は姿を見せない。
「ふむ……狸寝入りに気付かれてしもうたか。相変わらずの逃げ足じゃのう」
しかし、そんなレウルスの疑問を解消するようにアクシスが声を上げた。その声に釣られて視線を向けてみると、そこには体を起こすアクシスの姿がある。
アクシスは真剣な表情で『首狩り』が走り去った方向を見ていたが、その視線はすぐさまレウルスへと向けられる。
「アレが『首狩り』じゃ……その危険性、理解できたかの?」
レウルスが疑問に思った通り、わざと隙を晒して『首狩り』を招き寄せたらしい。
それに思い至ったレウルスは大きく息を吐くと、『熱量解放』を解く。
「爺さん……せめて前もって言ってくれよ……」
「そんなことをしたら、お主らの動きから気付かれるじゃろう? じゃが、これで同じ手は通じんか……」
『首狩り』の脅威を実際に見せたいという思惑もあったのだろうが、レウルスとしても心臓に悪い。それでも『首狩り』がどんな姿で、どの程度の脅威かをある程度は測ることができたのも事実である。
「ルヴィリアさん? とりあえず敵は逃げました。今日のところは馬車に……」
レウルスはもう一度だけ息を吐くと、抱えていたルヴィリアを地面に立たせようとした。しかし、その声が途中で途切れる。
いつの間にか、ルヴィリアの口からは押し殺すような泣き声が上がっていた。それは『首狩り』の恐怖と直面したと思えば仕方がないだろう。
だが、レウルスとしては非常に困った事態に直面することとなる。
(あー……本当に怖かったんだな……)
革鎧越しに感じる温かな湿り気と、この場に残留する腐臭に混じって鼻を突くアンモニアの臭い。
事前の通知もなく一芝居打ったアクシスは後で殴ろうと決意しつつ、レウルスはエリザ達に聞こえないよう小声でアネモネを呼ぶのだった。