第27話:キマイラとの死闘 その4
意識が遠退く。
白く染まった視界は何も映さない。
あと一秒もすれば雷撃が全身を貫き、自分は息絶えるだろう。
それを他人事のように捉えたレウルスの思考は急激に加速し、迫り来る雷撃の速度すら超えて脳裏に様々な光景を呼び起こさせた。
それは死に直面した人間が見る走馬灯か、あるいは何かしらの奇跡か。一秒という時間が引き延ばされ、永遠とも思える思考時間をレウルスにもたらす。
『…………』
最初に脳裏に浮かんだのは、前世での記憶だった。
モザイクがかかったように顔が潰れて見える何者か――おそらくは女性が無言で自分を見つめている。
その姿を見たレウルスは以前夢で見た前世の光景を脳裏に描いた。
“かつての自分”が過ごしていた家の中。
その家の中で共に過ごす女性。
声は聞こえずとも言い争っていることがわかる光景。
それらがレウルスの心を妙に波立たせる。哀愁のように胸を軋ませ、締め付けてくるのだ。
『…………』
思考が切り替わり、脳裏に描いていた光景も切り替わる。
そこにあったのは、道行く人波を掻き分けて前に進むかつての自分の姿だった。
おそらくは朝の通勤ラッシュに巻き込まれているのだろう。フラフラと進むその姿はまるで幽鬼のようで、頬肉が削げ落ちた顔は死人のようでもあった。目の下には濃い隈が浮かんでいるというのに、前を見る目だけはやけにギラギラとしている。
それでも、この後に起こることをレウルスは知っていた。
いくら時間が経っても忘れられない、忘れられるはずもない、かつての自分が“終わる”瞬間だ。
それを証明するようにかつての自分の体が大きく揺れる。続いて踏み出していた足から崩れ、前のめりに倒れていく。
その動きがやけにスローモーションに見えたのは、体験した自分自身がそう感じていたからだろうか。かつての自分がアスファルトの地面に倒れ伏したのを見届けたレウルスは深々とため息を吐き、頭を振る。
死ぬ間際にかつて死んだ時のことを追想するなど虚しいにもほどがあった。加えて言えば、二度死ぬことも腹立たしい。
結局、新たな人生はロクなものではなかった。何の意味もない、疲れるだけの人生だった。“これから”だという時に終わりを迎えた、腹立たしい人生だった。
ラヴァル廃棄街で過ごした日々は悪くなかった。これから先、未来に希望を持てる輝かしい日々だった。
悔いが残るとすれば、コロナとドミニクに恩返しが出来なかったことだろう。
自分がそこまで義理堅かったことに驚くレウルスだったが、命を救われたのだと思えばそれも仕方がない。それほどまでに嬉しくて、“あの時”食べた塩スープはそれほどまでに美味しかったのだ。
――死にたくない。
直前に死が迫った今だからこそ強くそう思う。
今から、これからなのだ。好きに生きられる、自分の意思で道を選んでいける、そう喜んだ矢先なのだ。
前世の自分が見れば顔をしかめる環境だろう。あるいは鼻で笑い飛ばすかもしれない。過酷で劣悪な環境であることはレウルスも認めるが、それでも充実感を覚える日々だった。
冒険者という己の腕一本で生き抜く生活も、慣れさえすれば悪くない。命をチップに自身の未来を切り拓いていくなど、前世の自分にはできなかったことだ。命を磨り減らすように働きはしたが、そこに充実感などなかった。
――死にたくない。
よりいっそう、強く願う。この場で死にたいと願う程、人生に絶望していない。畳の上で大往生とは言わないが、せめて満足しながら死にたいのだ。
そう考えている間にも雷撃が迫る。残された時間は僅かで、その長さは一瞬か、ほんの刹那か。それが過ぎれば雷撃が全身を貫いて死に絶えるだろうが、そんな結末は許容できなかった。
死を目前にしてレウルスに宿ったのは、純粋な生への渇望。この窮地を潜り抜け、未来を掴むという強烈な意思。
無論、意思だけで窮地を脱することなどできない。必要なのは雷撃を耐え切るだけの耐久力か、回避できるだけの速度。
その上でキマイラを倒せるだけの力が必要であり――ガキン、と歯車が噛み合う音を聞いた気がした。
眼前まで迫っていた、視界を埋め尽くすほどの雷撃。確実に命を刈り取るであろうその一撃は、いつまでたっても命中しなかった。
「…………」
自分が未だに生きている。その事実が理解できず、レウルスは目を瞬かせた。
雷光で白く点滅する視界を巡らせてみると、僅かに離れた場所で雷撃の余波が地面を焦がしているのが見える。その場所は今までレウルスがいた場所であり、“避けなければ”そのまま死んでいただろう。
――そうか、避けたのか。
ぼんやりと、他人事のような思考の中でそんなことを考え、レウルスは雷撃を放ったキマイラへと視線を向ける。キマイラとしても今しがたの雷撃は必中だと思ったのだろう。しかしレウルスが回避して生き延びたことに驚き、戸惑っているようだった。
その困惑は当然のものだろう。なによりもレウルス自身が困惑しているぐらいだ。
レウルスはこれまでも雷魔法を回避していたが、先ほどの雷撃に関しては回避しようがなかった。キマイラに殴り飛ばされ、地面を派手に転がり、全身を激痛が苛んでいたのだ。キマイラが確実に仕留めたと判断してもおかしくはない。
だが、結果としてレウルスは回避していた。死に至るであろう雷撃を回避し、今も生を繋いでいるのだ。
この状況を一番信じることができないのはレウルスだろう。もしかすると雷撃が直撃しており、死ぬ間際に幻想でも見ているのかもしれない。そう思うほどに現実味がなかった。
『ガアアアアアアアアアァァッ!』
キマイラが困惑していたのはほんの数秒だけだった。雷撃が回避されたのならばと地を蹴り、一気に距離を詰めてくる。その勢いは走るだけで風が起こるほどだったが、レウルスは突進してくるキマイラをぼんやりと眺めていた。
先程まではキマイラがとても恐ろしく、その動きもロクに追えなかった。それが今では奇妙なほどに恐怖を感じず、キマイラの動きもしっかりと見える。まるで感情が麻痺したようだとレウルスは思考の片隅で考えた。
突進してきたキマイラはその途中で跳躍すると、黒い外殻で覆われた前足を振り上げながらレウルスへと迫る。キマイラの体重と外殻の頑丈さ、それに落下の勢いを加えることでレウルスを叩き潰すつもりなのだろう。
それを悟ったレウルスは背後へと跳ぶ。馬鹿正直に真正面から受ければ挽き肉になるだろう。あるいは車に轢かれた蛙のように叩き潰される。
故にレウルスは背後へと跳ぶ。そして思わず目を見開いた。
体が軽い――軽すぎる。
先程まで全身を駆け巡っていた激痛も不思議と消えているが、体の反応と意識の“ズレ”が酷過ぎて自分の体とは思えないほどだ。一メートル後退したつもりが五メートル近く距離を開けてしまっている。
あまりに勢いが良すぎて地面の僅かな起伏に足を取られるが、転ぶことを拒むように地面を蹴り付けると勢いをそのままに後方宙返りを行う羽目になった。
「…………」
後方への跳躍と、意図せぬ後方宙返り。それだけでキマイラとの距離が十メートルほど開き、レウルスは無言のままで困惑を強める。
まるで自分の体ではないようだ。繰り返しそう思うが、今この時、この場においては有り難いことこの上ない。
自分の体とは思えないほど速く動ける――それは良い、なんとも便利だ。
自分の体とは思えないほど力が湧いてくる――今ならばどんな武器でも持ち上げられそうだ。
自分の体とは思えないほど思考が冴え渡っている――キマイラの困惑すら読み取れるほどだ、問題はない。
「は……はははっ」
レウルスの口から思わず笑い声が漏れた。
視界から飛び込んでくる情報の量が今までとは桁違いに多い。しかしそれを処理する能力も上がっているように感じられる。
自分自身の体の状態。キマイラの動き。遠くで呆然としているドミニクとバルトロの顔。吹き付ける風。空気の湿り具合。その全てを同時に把握できる自分自身に笑いたくなった。
何が起きたのかはレウルスにもわからない。こんなことはレウルスにとっても初めてのことで――。
「ああ……そういえば初めてじゃねえや」
思い出すのは、ドミニクとコロナへの恩返しのために森へ出かけた時のことだ。その時遭遇した角兎に殺されかけたが、ギリギリのところで角兎の突撃を回避して石で撲殺したことがある。
今の感覚は、その時に似ている。回避しようがなかった角兎の突撃を回避した時の、“あの感覚”に。
あの時も何が起きたのか理解できなかった。それは今でも同じだ。自分の身に何が起きたのか、正確には理解できない。
現状でわかっているのは、“あの時”よりも長く今の状態が続いていること――そしてそれがいつまで続くかわからず、決して楽観ができないということだ。
自身の状態に驚愕する一方、冷静に思考できる気持ち悪さ。それを感じつつもレウルスは視線を巡らせる。
今ならばこの場から離脱することもできるだろうが、それは却下だ。自分一人では逃げ出せないと、ドミニクを見捨てられないと思ったからこそこの場にいるのである。
あるいはドミニクを抱えて逃げ出すこともできるかもしれない。バルトロまで抱えればどうなるかわからないが、キマイラから逃げ切れる可能性はある。シャロンの魔法で仕留めきれなかった以上、全員が生きてこの場から撤退できるのならそれに越したことはない。
最初に浮かんできたのが逃げの一手であることにレウルスは苦笑する。それと同時にキマイラの様子を窺うが、キマイラはレウルスが見せた動きを警戒したのか唸り声を上げるだけだった。
――冷静に見てみると、キマイラも万全には程遠い。
先日ニコラとシャロンが交戦した時の傷は大部分が塞がっているが、完治しているわけではない。その上で今回の戦いがあったのだ。
ドミニクとバルトロは足止めのために戦ったが、完全に無傷で済ませたわけではない。特に、ドミニクが全力で斬り付けた前足からは未だに大量の血が溢れている。斬り飛ばした角を筆頭に、体のあちらこちらに小さいながらも切り傷が刻まれている。
その全てがドミニクとバルトロの足止めの結果だ。それらに加え、シャロンが放った氷魔法もまったく効果がなかったわけではない。凍傷を負ったのか壊死したのか、キマイラの後ろ足が不自然な動き方をしている。
これならばキマイラから逃げ切ることも難しくはない――が、逃げるということはキマイラに回復する時間を与えるということでもある。どれだけの時間がかかるかわからないが、シャロンが魔力を全回復するまでに要する時間よりは短いのではないか。
それでも、今回のことに懲りてラヴァル廃棄街に近づかなくなるかもしれない。そう考えるのは自分が甘いのだろうとレウルスは思う。そんな不確定要素に頼るぐらいならば、もっと確実な手段を取るべきだった。
「おやっさん……この剣借りるよ」
ドミニクがレウルスを助けるために投擲した大剣。前世の知識で例えるならば鯨包丁に似た片刃の大剣の場所へと瞬時に駆け寄り、両手で拾い上げる。
普段ならば持ち上げるのが精一杯だろう。しかし、今の状態ならば片手でも振るえそうなほど軽く感じた。
バルトロの戦斧でも良かったが、先ほどキマイラの攻撃を防ぐ盾にしたため大きく破損しているのだ。それに加え、ドミニクの大剣は魔法具だとニコラに聞いている。その頑丈さと切れ味は頼りになるだろう。
いつまで今の状態が続くかわからない。だから時間をかけずに仕留める。仕留めきれなければ死ぬが、つい先ほどまで死に掛けていたのだ。
今更怖いとは思えず、大剣を振りかぶりながらレウルスは駆け出すのだった。




