第273話:旅路 その10
熱を出したと思しきアネモネに周囲から向けられた感情は、強い困惑だった。
体が弱いと聞いていたルヴィリアが熱を出すのならば、まだ理解もできる。旅の道中では休憩を多く挟み、その体調や体力にも配慮していたが、体が弱いのならば仕方がないと思っていた。
だが、ルヴィリアの侍女にしてレウルスの目から見ても明らかに戦闘の心得があるアネモネが熱を出すなど、予想外にも程があった。
そんなアネモネを前に、コルラードが軽い問診を行っている。女性の体に触れるわけにもいかないと質問を繰り返し、目視できる範囲でアネモネの様子を確認していく。
「ふぅむ……吾輩は医者ではない故、断言して良いものか迷うのであるが……」
この場で最も知識や経験に長けているのがコルラードである。そのコルラードはアネモネの容態を確認し終わると、困ったように眉を寄せた。
「おそらく――ただの過労である」
「……え? 過労、ですか?」
ルヴィリアが心底不思議そうに首を傾げる。それに釣られるようにエリザ達も揃って首を傾げていたが、コルラードが嘘を言っている様子もない。
なお、『過労』という言葉にレウルスが密かに身を震わせていたが、それに気付いた者はいなかった。
「気疲れと言い換えても良いのですが……訓練で鍛え上げた兵士でもたまにいるのですよ。体力的には問題がないはずだというのに、戦地などに赴くと緊張と疲労で熱を出す者が。特に実戦経験が皆無か浅い、新兵によく見られる症状ですな」
ルヴィリアにそう説明するコルラードだが、これまでに何度も似たような症状を見たことがあるのかその声には確信の色が宿っている。
「過労じゃ仕方ないな、うん、仕方ない。熱を出した人を働かせるなんて鬼畜の所業だよ。今夜はぐっすり休んでもらって、旅を再開するかは明日の体調を見て決めよう」
「病人を連れていては移動も困難で、吾輩としても賛成するが……レウルス、何故目が泳いでいるのだ?」
「元奴隷のトラウマ……じゃない、過去の精神的な傷がですね……」
前世で過労死を経験したことがあり、シェナ村でも過労死寸前まで追い込まれていたレウルスは、コルラードから向けられる疑問にそっと視線を逸らした。
やけに実感が込められたレウルスの言葉を聞いたコルラードは頬を引きつらせると、触れない方が良いのだろうと判断してその視線をアネモネに向けた。
「というわけで侍女殿。吾輩としてもお主の心労はよくわかる。今夜はレウルスの言う通り、ゆっくりと休むが良い」
「……そんな、お嬢様を差し置いて休むなど……」
自身の疲れを自覚したのか、あるいは話している内に熱が上がってきたのか、アネモネの語調はひどく弱々しい。それでもルヴィリアの護衛を務めるのだと意地を張っているその姿に、レウルスはため息を吐いた。
「まだまだ旅は長いんですし、休める時に休んでおいてくださいよ。コルラードさん、熱が出ているのなら冷やした方が良いんですかね? ネディが魔法で氷を出せますけど」
「……火と水だけでなく、氷まで自由に使えるなど旅とは思えぬ便利さであるなぁ。軽く冷やしてあとはゆっくりと眠らせれば大丈夫であろうよ……ん?」
しみじみとした様子で感想を零すコルラードだったが、その視線が頭上に向けられる。レウルスも釣られて視線を頭上に向けるが、そこには真っ暗な空があるだけだ。
何かあるのかとレウルスが目を細めていると、その袖をネディが引っ張る。
「……レウルス」
「ん? どうした……って、そうか。ネディの“方針”に引っかかるのなら、手拭いを水で濡らして使うから。話に出してすまないな」
ネディは“人のために”力を振るう傾向があるが、病人の看病のためとはいえ魔法を使って氷を生み出すのは駄目だったのかもしれない。そう判断したレウルスが頭を下げると、ネディは小さく首を横に振った。
「違う……雨」
ネディの言葉に目を瞬かせたレウルスは、手の平を広げてみる。すると小さな雨粒が手に当たった。
どうやらネディは雨が近づいていることに気付いていたらしい。だが、それを今まで口にしなかったのはネディの性格によるものだろう。あるいは、言おうとしたもののレウルス達の会話に入ることができなかったのか。
「ぬぅ……空気が湿っているとは思ったが、日が暮れていて気付くのが遅れたか。この場に隊長殿がいたら怒られ……いや、なんでもないのである」
そんなことを呟きつつ、コルラードが立ち上がる。そして馬車と馬をつないでいた馬具を手早く解くと、手綱を握った。
「吾輩は馬達が雨に濡れぬよう、端の方に雨避けを作るのである。お主らも雨具の用意をせよ。今はまだ小降りだが、じきに本降りになるぞ」
そう言って馬を『駅』の端に連れて行くコルラード。レウルスも指示通り動くべく立ち上がると、熱で顔を赤くしているアネモネに視線を向けた。
「ほら、天も休めって言ってるんですよ。どのみち夜に移動はできませんし、夜間の警戒は俺達に任せて休んでください」
「それは……いえ、そう……ですね。このままでは足手まといにしかなりませんか……」
アネモネはため息を吐くと、自身を納得させるように頷くのだった。
レウルスが“この世界”に生まれて不便に思ったことは色々とあるが、その一つは天気予報がないことである。
前世のようにテレビや新聞で週間天気予報を確認することなど当然できず、その時々の空模様や空気の湿り気から雨の到来を察知することぐらいしかできない。
今夜は月が出ていないな、と思った矢先に雨が降ってきたということもよくあるのだ。
前世の日本とは緯度や経度が異なるからか、あるいは世界自体が異なるからか、レウルスに残っているおぼろげな記憶の中にある日本と比べ、雨が降る回数はかなり少ない。それでも時折まとまった雨が降るのだが、旅の最中で大雨に見舞われることはほとんどなかった。
「あー……けっこう降ってきたなぁ」
だが、急に降り出した雨はその勢いを増しつつあり、レウルスは辟易とした声を漏らす。
雨が降るとわかればレウルス達の動きは早く、カルヴァンが改造した馬車を変形させた。馬車の骨組みを弄り、馬車の横に即席のテントを設営したのだ。
余程良い脂を塗り込んでいるのか、雨が屋根の布地を貫通して雨漏りを起こすことはない。風もそれほど強くなく、テントの横から雨が吹き込んでくるということもなかった。
テントとは言っても種類でいえばタープテントのように屋根部分しかないため、横からの雨に弱いのである。ただし、レウルス達が雨避けに使っている外套を張れば横からの雨もある程度防ぐことが可能だった。
地面も雨で水浸しにならないよう、テントの周りはミーアの手によって溝が掘られている。その手際は非常に洗練されており、溝を『駅』の外にある空堀につなげて排水もできるようにするという徹底ぶりだった。
かつて地中を掘り進んで移動したことがあるミーアならでは、これぞ地中に住むドワーフならではと言わんばかりの手早さである。
サラがいるため焚き火が消えることもなく、焚き火の周囲は温かな光に照らされていた。
ただし、馬車と同程度の面積しかないため雨が当たらない場所は相応に狭い。馬の雨避けを作りに行ったコルラードが戻れば全員が立ったまま過ごす必要があるほどだ。
もっとも、一足先に馬車で眠りについたアネモネと同様に、馬車に入って休めばその分スペースが空く。
馬車に四人、テントに四人と考えれば十分なスペースがあった。どの道不寝番をする必要があるため、雨が降る中でも座って休めるだけ上等だろう。
「わたしがアネモネの分も頑張りますねっ!」
そして、アネモネが馬車で眠りにつくなりルヴィリアが気合いの入った声を上げる。胸の前で拳を構え、瞳をキラキラと輝かせているほどだ。
「いや、頑張らんでください。ルヴィリアさんもしっかりと休んでください」
アンタ一番体が弱いでしょ、とツッコミを入れるレウルス。思わぬルヴィリアの発言に礼儀を放り捨てたレウルスだったが、当のルヴィリアは目を丸くした後に何故かくすくすと笑った。
そうやってレウルス達が話していると、雨避けの外套を羽織ったコルラードが戻ってくる。そして変形した馬車を見るなり、どこか遠くを見るように目を細めた。
「……吾輩の目の錯覚か、馬車の形が変わっているように見えるのだが……いかんな、吾輩も疲れが出ているのか?」
「安心してください。コルラードさんの目は正常ですよ。これは姐さんがうちの町の職人に頼んで馬車を改造させた結果です」
「……そうか」
考えることをやめたのか、コルラードは軽く頷くに留める。そして馬車に少しだけ視線を向けると、安心したように息を吐いた。
「侍女殿はきちんと休んでくれたか……やれやれ、王都の軍にいた時もそうだったが、意地を張って休まん新兵は無理にでも“寝かせる”必要があるから助かったのである」
(姐さんの部下だったって話だけど、昔から苦労してたのかな……)
コルラードの表情を見て、レウルスはなんとなくそう思った。しかし敢えてそれを聞くのは野暮だろうと考え、エリザ達に視線を向ける。
「とりあえず休む順番を決めるか……俺は朝まで起きてるけど、警戒のためにサラにも起きていてほしいところだな。大丈夫か?」
雨が降っているため範囲と精度が落ちそうだが、熱源を探知できるサラがいれば非常に頼りになるだろう。そう思ってレウルスがサラに話を振ると、サラは満面の笑みを浮かべて頷いた。
「ん? つまり、今夜は朝までレウルスに甘え放題? うんうん! 起きてる起きてる!」
「あ、甘え放題……」
サラの返答を聞き、何を想像したのか頬を赤らめるルヴィリア。レウルスはそんなルヴィリアの反応を努めて見ないようにして、眠る順番を決めていく。
「エリザとネディを先に寝かせて、次にミーアかな? ルヴィリアさんには朝まで休んでもらうとして、コルラードさんはどうします?」
「一応聞いておきたいが、まさか吾輩も馬車の中で眠れとは言うまいな?」
「俺も一応聞きますけど、寝ます? ちょっと狭いかもしれませんが」
大人四人が横になって眠れる程度にはスペースがあるのだ。コルラードも寝ようと思えば可能な広さである。
「……信頼されているのだと前向きに受け取っておくのである。だが、不要だ。さすがに年若い女性ばかりがいる場所で眠るわけにもいかん。吾輩は馬と一緒にいるのである」
そう言って馬のために造った雨避けに視線を向けるコルラード。暗いため詳細はよく見えないが、『駅』の端――角になっている場所に布を張って屋根を作り、更に木の柵に外套を張ることで雨に濡れないようになっていた。
「柵の内側にいるから大丈夫だとは思うが、野盗が馬を盗んでいくことも考慮せねばならんのでな。そうでなくとも馬を殺されては一大事だ」
「たしかにそうですね。馬が怖がるかもしれませんけど、焚き火はどうします?」
「不要である。馬と一緒にいれば暖かいしな……それに、光源がない程度で戦えないようでは騎士を名乗れぬ」
コルラードはそう言うと、馬車に積んである食料から干し肉と香草を取り出す。おそらくは噛んで眠気を覚ますのだろう。
「これまで共に旅をしていて不要だとは思うが、夜間かつ雨では周囲を警戒するにも限度がある。吾輩は馬を守るから、馬車の護衛は任せたぞ?」
そう言って外套を羽織り直し、駆けていくコルラード。馬車とは十メートル程度しか離れていないが、何かあればワンテンポ遅れる距離である。
「やっぱり真面目な人だよなぁ……」
いや、真面目だからこそ頻繁に胃が痛むのか、などと思考しながらレウルスはルヴィリアに視線を向けた。
「というわけで、ルヴィリアさんはアネモネさんと一緒に眠ってください。眠っている間も俺達が守りますから……ルヴィリアさん?」
馬車で眠るよう促すが、ルヴィリアは動かない。服の裾を握り締めながらもチラチラと視線を向けてくる。
何かあるのだろうか、とレウルスが不思議に思っていると、ルヴィリアは数回深呼吸をしてから口を開いた。
「その……まだ眠くないですし、せっかくの機会ですから……少し、お話しませんか?」