第252話:ナタリア その5
「この世界とは別の世界がある……そう聞いたら姐さんはどう思う?」
まずは話の端緒として、レウルスはナタリアとの間にどの程度の認識の差があるかを確認する。
そもそも『世界』という言葉が通じているのか、仮に通じていたとしてどのように捉えているのか。これまでレウルスは他人との会話の中で『世界』という単語を使ってきたが、今となってはそれが“まとも”に伝わっていたかもわからないのだ。
「別の世界……ねぇ。それは比喩表現で、例えばあなたがいきなり王宮で生活することになって、その場所を違う世界だと感じる……そういった話ではなく?」
なるほど、それもたしかに別の世界だと感じるだろう。しかしレウルスが話しているのはもっと大規模な話だ。
「環境の違いではなく、生きていた世界自体が違うというか……俺が生きていた世界だと、魔法も魔物も物語とかには出てくるけど実在はしなかったんだ」
「それは……なるほど、別の世界ね」
レウルスの話に耳を傾けながら、ナタリアは煙管の吸い口を咥えて煙を立ち昇らせる。否定するでも肯定するでもなく、まずはレウルスの話を聞こうと思ったのだろう。
「ああ、俺が生きていた世界……ちき――」
地球という単語を口にしようとした瞬間、違和感を覚えて言葉が途切れた。そんなレウルスを不思議に思ったのか、ナタリアが眉を寄せている。
(なん……だ? 言葉が……いや、待て、この感覚は今までにも……)
これまでに何度か覚えたことがある、言い様のない違和感。“それ”はレウルスが言葉を発するのを邪魔するように、全身に伝わる。
(頭の中では考えられるのに、言葉にできない? 元の世界の言葉だからか? でも、これまでに何度か元の世界の言葉を使ってたよな……)
「……どうしたの?」
思考を巡らせるレウルスだが、ナタリアの言葉で我に返る。
「いや……俺が生きていた世界について説明しようと思ったんだけど、地名とかが言葉にできなくて……」
酒が回って舌が動かない、というわけでもない。純粋に発声できず、レウルスは強く困惑する。
「ち……ち……ヂギュ……に……に……ニューフォン……トウ、キョウ……あれ?」
「トウ、キョウ?」
僅かに言葉が途切れるものの、東京という地名は言葉にすることができた。それにレウルスが首を傾げると、ナタリアも不思議そうな顔をする。
「トウ、キョウ……キョウ……どこかで聞いた名前ね。たしか、東のジパングという国の首都の名前だったかしら?」
記憶を探るように目を細めるナタリア。準男爵という立場は伊達ではないらしく、他国の首都も記憶しているらしい。
「それは興味が惹かれる話だな……駄目だ。どうにも言葉が出てこねえ」
レウルスは何度か口を動かすが、地名による説明を諦めて頭を振る。その代わりに“かつての記憶”を掘り起こし、ナタリアへの説明を再開した。
「わからないものは横に置くとして……俺は別の世界で生まれ育って、そこで死んだ人間だ。死んだのは二十……何歳だったか」
「殺されたの?」
「死因で真っ先に他殺が出てくるほど物騒な国じゃなかったよ。その、なんだ……過労と栄養失調が重なって、ぽっくりと逝った。そうしたらシェナ村で赤ん坊になってた」
思い返してみても、何故としか言えない。そのまま死んでいたかったわけではないが、今の世界で二度目の人生を歩むことになるとは思いもしなかった。
「物騒な世界じゃないと言う割に、死に方は凄惨なのね。というかあなた、もしかしなくてもわたしより年上?」
「……一応? でも、若返ったからかあまり歳を取った気はしないんだよな」
ナタリアの年齢が気になったレウルスだったが、さすがに自分から尋ねる気はしない。例え世界が変わろうとも、女性に年齢を尋ねるのは危険だろう。
「“生きた年数”でいえば四十歳を超えたぐらいか? 俺個人の主観としては、死んだ時の年齢とそこまで変わってない気がするけどさ」
年齢を重ねたからといって、相応の貫禄が備わるとは限らない。年齢に見合った経験を詰まなければ意味がないだろう。
シェナ村での生活など、毎日が死と隣り合わせで疲労と空腹で頭が支配された十五年だった。前世の記憶も擦り減っていくばかりで、精神的に成長したという実感もない。
(というか、そもそも転生して記憶があるってのもおかしな話だよな……)
ナタリアと言葉を交わす傍ら、レウルスは心中だけで呟く。
当然の話ではあるが、人間の記憶というものは脳に保管されている。さすがに脳のどの部分が関係しているかまではレウルスも思い出せないが、ここで重要なのは脳の部位ではない。
前世の記憶は前世の脳にしか存在しない――その一点だ。
生まれ変わったのは良いとしても、何故記憶が残っているのか。“まったく別の体”だというのに、何故前世の記憶があるのか。
(こうなると、前世の記憶を持って生まれ変わったっていうよりも、“向こうの世界の誰かの記憶”がレウルスって存在に流れ込んできたって可能性もある……か?)
さすがに、脳味噌だけがこの世界に転移してきて頭蓋に収まっているとは考えたくないレウルスだった。赤ん坊の頃から記憶があるため、前世では成人していた自分の脳は物理的に入りきらないはずである。
(言葉が通じていることといい、記憶があることといい、気持ち悪くて仕方ないな……)
胸の中でぐるぐると不快感が渦巻く。自分が何者かなど、これまで意識したこともなかった。
「俺がいた世界では学校……ああ、この言葉は通じるのか。とにかく、六歳から十五歳までの九年間、義務で教育を受けるんだ。普通はそこから追加で三年間高等教育を受けて、人によって更に上の学校に進む。短ければ一年か二年、長ければ……えーっと、四年と、あとは何年だっけ……二年? 四年?」
大学にも大学院にも縁がなかったレウルスは説明に詰まる。それでも不快感を堪えながらレウルスが元の世界――自分の知識のもとを説明していくと、ナタリアは驚いたように目を見開く。
「ちょっと待ちなさい。つまり、長い人なら二十年近く学問に励むの? 短くても九年? そこまで時間をかけて何を学ぶというの?」
「何をって……色々? 広く浅く学ぶっていえばいいのか……将来の夢とか就きたい仕事が決まったら専門の学校に入るために勉強して、今度は資格を取ったり就職したりするために勉強して……中には就職したくないからとりあえず学校に行くって奴もいたかな?」
レウルスの主観としては二十年以上昔となる、学生時代の記憶。それも擦り切れてボロボロだったが、なんとか記憶を掘り起こして説明していく。
「学生の時は、こんなことを勉強して将来何の役に立つんだって考えたこともあったっけ……あっ、ちなみに俺がそう考えてただけで、人によって考え方は違うからな? 中には将来の夢に向かって懸命に勉強をしてた奴もいたしさ」
学生の頃にもっと頑張って勉強をしていたら、この世界でも役に立つ知識を覚えていられたのだろうか。そう考えたレウルスだったが、シェナ村での生活を思い返すとそれも不可能だろうと思う。
「義務で学問を修めることができる世界、ね……平民でも?」
「もちろん……というか、俺が生きていた時代だと平民や貴族みたいな身分差は存在しなかったよ。いや、他の国には貴族がいたっけ? さっきの話も俺が生まれ育った国での話で、他の国だと事情が変わるんだよな」
最近は前世のことを思い出す機会も少なくなってきたが、思い出そうと思えば色々と思い出すことができた。ただしそれは抽象的な記憶が多く、レウルスは眉間に皺を寄せる。
「そういうわけで、俺の知識は学生の頃に習ったことと、あとは社会に出てから覚えたことぐらいか……この世界じゃあほとんど役に立たないけどさ」
「そうなの?」
「ああ、さっきも言ったろ? 俺の世界には魔法も魔物も存在しなかったんだ。それに技術の面でも差が大きいからな。“前提”が違い過ぎるんだ」
電化製品に慣れ親しんだ身としては、灯り一つ確保するのにも苦労するこの世界での生活は大変である。もう慣れはしたが、前世の便利さこそが一つの魔法と言えるかもしれない。
「まあ、そういうわけでな……記憶が薄れているけど、この世界で生まれる前に二十数年の蓄積があるんだ。姐さんが疑問に思うぐらい“物を知ってる”のもそれが理由だよ。言葉が通じるのは……うん、正直に言って俺にもわからん。むしろ教えてくれって言いたいね」
「……この世界で役に立つような知識も覚えていない、と?」
「覚えてたら使ってるよ……あっ、計算はできるぞ。こればっかりは中々忘れないもんでな」
話している内に先ほどまで抱えていた不快感も薄れ、レウルスは小さく笑みを浮かべる。
ナタリアはそんなレウルスの顔をじっと見ていたが、数秒もすると視線を逸らした。そして煙管に新たな刻み煙草を放り込んで火を点けると、ため息を誤魔化すように紫煙を吐き出す。
「ふぅ……正直なところ、狂人の妄言と言いたいところね」
「だろうなぁ……俺も自分の正気が疑わしいよ」
レウルスは自己の曖昧さに苦笑しながら、コップに酒を注いで口をつける。
「……四十歳前後ということは、これからは坊やとは呼べないわね」
「それを言われたら、俺が姐さんって呼ぶのもおかしな話だけどな……酒の冗談として聞き流してくれていいけど、本当に“年下”だよな?」
「年上に見えるのかしら?」
ジロリ、とナタリアの視線が強まる。そのあまりの視線の強さにレウルスは肩を竦めた。
「元の世界じゃあり得ないことなんだけど、何百年も生きてる魔物がいる世界だしな。外見はあてにならないというか……サラもあんな感じだけど、数十年は生きてるみたいだし」
「……わたしがこの町に戻ってきて、まだ六年しか経ってないわ」
それ以上は聞くな、と言外に告げるナタリア。レウルスは『二十六歳か』などと考えるが、空気が軽くなっていることに気付いて苦笑する。
レウルスの話を信じたのか、あるいは信じたふりなのか、レウルスの年齢をネタにしてからかってくれたのだ。
部屋の中に沈黙が下りる。レウルスが酒を飲み、ナタリアが煙草を吹かす。そうして無言の時間が過ぎていくが、不思議と雰囲気が落ち着いていた。
「結局、俺にできるのはこんな与太話染みた話だけなんだが……」
コップに注いだ酒を飲み干したレウルスは、呟くようにして声を紡ぐ。
「俺はこの町が、町のみんなが大好きだ。もう一度死にたいとは思わないが、この町のために死ぬんなら後悔はしないって断言できるぐらいにな……それだけは信じてくれないか?」
ナタリアの言う通り、狂人の妄言にしか聞こえなかっただろう。レウルスという存在を信用できずとも、ラヴァル廃棄街を大切に思う気持ちだけは信じてほしかった。
真剣な様子で告げるレウルスに対し、ナタリアは苦笑を浮かべる。
「わたしの話をもう忘れたの? わたしはあなたが何者なのか聞きたかっただけで、あなたはそれに答えた。それでおしまい……そうでしょう?」
「おしまい……にしていいのかね?」
ナタリアの言葉を聞いたレウルスは思わずそう問いかけていた。すると、ナタリアは苦笑を深めて言う。
「“以前のあなた”がどうだったかは知らないけれど、あなたはもう、この町の仲間だわ。それ以外に気にすることがあって?」
「……ない、か?」
「ええ、ないわ。それに……」
ナタリアは迷うレウルスを肯定するように断言するが、そこで一度言葉を切った。そしてレウルスの顔をまじまじと眺めながら呟く。
「“この世界”ではあなたみたいな人を『まれびと』と呼ぶの。わたしも噂に聞いた程度で、見るのは初めてだけどね」
「まれびと?」
何かを知っていると思しきナタリアの言葉。それにレウルスが反応すると、ナタリアは天井を見上げる。
「あなたみたいに生まれ変わったって話は初めて聞いたわ。でも、どこからともなく人が現れることがあるらしいの。それが『まれびと』……たしか、精霊教の伝承にもあったと思うわ。大精霊コモナと旅をしたのが『まれびと』だって話を聞いた覚えがあるもの」
「……他所から流れてきた人間をそう勘違いしているだけって可能性は?」
「それは否定できないわ。ただ、『まれびと』はコモナ語とは全く違う言葉を話していたり、服装が違ったりするらしいわよ?」
ナタリアの話を聞いたレウルスは、そのような存在もいるのかと驚く――が、不意に脳裏に過ぎるものがあった。
(言葉はともかく、服装が違う? あれ、そういえば以前……)
レウルスの脳裏に思い浮かんだのは、シンと名乗る男性とスノウと名乗る少女だ。やけに“現代的”な服を着ていた二人組である。
「ああ……くそ、そういえばそれらしいのに会ってた……『まれびと』……ははっ……」
脳裏で一本の線がつながり、レウルスは机に突っ伏してしまう。
再会することがあれば問い詰めようと思っていたことまで思い出し、深々とため息を吐いた。
「何か思い当たる節があるみたいね?」
「あるよ……でも、だからといってどうにかなるって話でもなくてさ……ちくしょう、もっとしっかり話をしとけば良かった……」
本気で落ち込んだ様子のレウルスを見たナタリアは苦笑を浮かべ、レウルスの頭を細い指で小突く。
「これを良い機会だと思って、もっとこの世界の勉強をしなさいな。いつまでエリザのお嬢さんに手紙を読ませたり代筆してもらうつもり? 少なくともこの国には義務で教育を学ぶような場はないのよ?」
「……そうするよ。ただ、これまで誰にも話せなかったことが話せてすっきりはしたかな?」
そう言いながらレウルスが顔を上げると、ナタリアはレウルスの額を人差し指で突く。
「あら、ずっと隠していた秘密を打ち明けてもらえるなんて光栄なことね?」
「聞いたの姐さんじゃないか……まあ、エリザ達に話すのもな。いつかは話さないといけないかもしれないけど……」
「そう……その辺りの判断にとやかく言うつもりはないわ」
額を突かれる感触にレウルスが顔を歪めていると、ナタリアは表情を真剣なものに変えた。
「レウルス、近いうちにまたあなたの力を借りることになると思うわ。その時が来るまで、出来得る限りコルラードから学んでちょうだい」
「……今日呼んだのって、実はそれが本題か?」
ナタリアの言葉にレウルスが疑問をぶつける。すると、ナタリアは破顔した。
「それも忘れたの? 今日はあなたをお祝いするために呼んだのよ?」
「ああ……そうだったな」
レウルスも釣られるように笑うと、ナタリアは封がしてある酒瓶を手に取る。
「まだいける?」
「せっかくだ……もらうよ」
そう言ってレウルスは体を起こし、コップを差し出す。
先ほどまで心中を満たしていた不快感も、酒に流されるようにしていつしか消え失せていたのだった。