第24話:キマイラとの死闘 その1
『ガアアアアアアアアアァァッ!』
周辺の大気全てを震わせるような、キマイラの咆哮。その咆哮は物理的な圧力さえ伴い、暴風のような衝撃と共にレウルスの全身を震わせた。
「いくぞドミニク!」
「ああ!」
しかし、キマイラの咆哮で足を竦ませたのはレウルスだけである。戦斧を両手で構えたバルトロが飛び出すと、それに応じるように大剣を担いだドミニクが地を駆けた。
戦斧に大剣という巨大な武器を手に走るドミニクとバルトロだったが、その重量に反して両者の動きは速い。以前レウルスが見たニコラと同等か、それ以上の速度でキマイラとの距離を縮めていく。
「――氷の精霊よ」
その動きに驚くレウルスの耳に、今度はシャロンの声が届いた。慌てて視線を向けてみると、そこには杖を両手で握り、何かに祈るよう目を閉じたシャロンの姿がある。
それは話に聞いていた『詠唱』なのだろう。言葉を紡ぐシャロンの体からは見えない何か――おそらくは魔力であろう不可視の力が放たれているのを感じ取り、レウルスは小さく息を飲んだ。
「さあて、あとはおやっさん達が上手く時間を稼いでくれることを祈るしかねえ……ボケッとしてんなよレウルス。こっちはこっちで周囲の警戒だ」
鞘に納めたままの剣を地面に突き、杖代わりにしているニコラが真剣な目付きで周囲を見回しながらそう言う。それを聞いたレウルスは剣の柄に手をかけると、ニコラに倣うよう周囲を見回しながら口を開いた。
「……全部上手くいけば、キマイラにも勝てるのか?」
「んなもんわかるわけねえだろ。前にも話したが、同じ種類の魔物でも強さにばらつきがあるんだ。“アレ”がキマイラの中でも弱い方ならどうにかなる……と思いてえところだな」
戦いは水物であり、大きな力の差がない限り結果を予想することは非常に困難だ。それはレウルスにも理解できたが、キマイラとの戦いを他者に任せている身としては落ち着かない。
周囲を警戒しつつも視線を巡らせてみると、そこにはキマイラへ接近するなり二手に分かれたドミニクとバルトロの姿があった。
「合わせろ!」
「オオッ!」
四足歩行のキマイラを挟み、二人は左右から同時に斬りかかる。バルトロは巨大な戦斧を真横に振るい、ドミニクは長大な大剣を真っ向から振り下ろした。
バルトロもドミニクも、レウルスが見てきたこの世界の人間の中では最大と言えるほどに筋骨逞しい長身を持つ。
三メートルを超える体躯を持つキマイラと比べればさすがに劣るが、十キロを超えるであろう重量級の武器を過不足なく操り、さらには『強化』で増幅された身体能力から斬撃を繰り出すのである。
それは例え金属製の全身鎧で身を固めていようとも容易く叩き斬る、あるいは押し潰すほどに強力な一撃であり――その一撃は、硬質な金属音と共に弾き返された。
「…………は?」
それを見たレウルスは、思わず呆然とした声を漏らす。ドミニクとバルトロの斬撃はキマイラの体に届くことなく、キマイラが振り回した前足によって防がれたのである。
キマイラが取った行動は極めて単純だった。ドミニクとバルトロが左右に分かれて斬りかかるなり後ろ足だけで立ち、黒光りする外殻で覆われた前足を振るったのだ。
いくら『強化』の後押しがあり、人間の中では恵まれた体躯を持つドミニクとバルトロでも、三メートルを超える魔物の身体能力には及ばない。それに加え、キマイラの前足を覆っている外殻にはドミニク達の斬撃を弾けるだけの硬度があるのだ。
例えるならば、金属で覆われた丸太で横殴りにされたようなものである。武器を手放すことなく、刃を弾かれただけで済んだドミニクとバルトロこそを褒めるべきだろう。この場においては何の役にも立たないが。
「チィッ! 俺は前だ!」
「尻尾を落とす!」
僅かに乱れた体勢を即座に立て直すると、バルトロはキマイラの前に立って気を引くように斬りかかった。ドミニクはそれに合わせてキマイラの背後を取り、鞭のように蠢いている三本の尻尾を切り落とそうと大剣を振るう。
だが、それでも届かない。
二つの頭を持つキマイラは両者の動きをそれぞれの頭で見切ると、バルトロの戦斧を前足で弾き、ドミニクの大剣を三本の尻尾で叩いて逸らす。その動きは獣というよりも武芸を学んだ人間のようでもあり、それを見ていたレウルスは音を立てて唾を飲み込んだ。
「なんだよ、オイ……魔物のくせに動きが……」
戦闘経験が乏しいレウルスからすれば、ドミニクもバルトロも凄まじい技量を備えているように見える。目でも追えないほど、といえば言葉が過ぎるだろうが、レウルスには到底出せないであろう速度で移動し、次々に斬撃を繰り出していく。
ドミニクは冒険者を引退していたらしいが大剣を振るう姿には一切の無駄がなく、キマイラの攻撃も的確に捌いていた。バルトロも戦斧を振るう姿がサマになっており、右目だけでキマイラの動きを見切って攻撃を回避している。
キマイラを相手に互角の戦いを演じており――“それ以上”には至らない。
常に動き回って相手を挟むようにして立ち回るドミニクとバルトロに対し、キマイラの守勢は崩れなかった。咆哮を上げながらも二人の動きから最適な行動を見抜き、迫りくる戦斧と大剣を防ぎきっている。
「強力な魔物は高い知能を持っていることが多い。あのキマイラもその手合いってだけの話さ」
「……援護しなくても良いのか? その、石でも投げて意識を逸らすとか」
ドミニク達の戦いを冷静に見ていたニコラの言葉に対し、レウルスはせめて何かできないかと思考を巡らす。しかしニコラは首を横に振り、その口元を苦々しく歪めた。
「やめとけ、余計な真似をするんじゃねえ。あの二人だからこそ拮抗に持ち込めてんだ。キマイラが防御したってことは、防御しなかったらそのまま斬られてたってことなんだよ。このまま二人が時間を稼いでくれりゃそれでいいんだ。魔法を撃つ隙も与えてねえしな」
そう言ってシャロンを見るニコラ。戦いが始まってそれほど時間は経っていないが、レウルスからすればいつシャロンの『詠唱』が終わるのかと焦燥を覚えてしまう。
ニコラの言う通り、ドミニクとバルトロはキマイラとしても脅威なのだろう。一進一退の攻防を繰り広げる姿は魔物とは思えないほどだが、“それだけ”で終わるように思えないのはレウルスの弱気がそう感じさせるだけなのか。
何もできない自分自身に歯噛みするレウルスの耳に、シャロンの『詠唱』が響いていく。
「絶対零度の世界に吹き荒ぶ氷雪よ。炎にも融けず、風にも揺るがず、雷にも砕けぬ氷塊よ」
静かに、落ち着いた様子で言葉を紡ぐシャロン。『詠唱』が進むにつれて周囲の気温が下がり始め、レウルスも背筋が粟立つような奇妙な感覚を覚える。
『詠唱』にどれだけの時間がかかるのか、どれほどの効果があるのかレウルスにはわからない。しかしながら少しずつ周囲の空気が変わっているのを感じ、『詠唱』にも大きな効果があるのだと察せられた。
(今のところは問題もなさそうだが……)
キマイラを牽制するドミニクとバルトロは互いに怪我もなく、キマイラに魔法を撃たせることすら許さずにしっかりと抑え込んでいる。
シャロンも『詠唱』が進んでおり、素人の目から見ても問題はなさそうに思えた。
レウルスはニコラと共に周囲の警戒を行っているが、今のところ増援も見えない。さすがにキマイラが暴れているところへわざわざ突撃してくる魔物はいないらしく、レウルスはそっと安堵の息を吐いた。
気を緩ませるわけではないが、レウルスは剣の柄から手を離そうとする。だが、思ったように手が動かなかった。知らず知らずの内に剣の柄を強く握り絞めていたらしく、視線を向けると血の気が引いている。
それに気付いたレウルスは慌てて手を開くと、手の平がじっとりと汗で濡れていた。続いて額を拭ってみると冷や汗が大量に滲んでおり、意識できないほどに体が緊張していたのだと悟る。
「なあ、ニコラ先輩」
「なんだ?」
自分が直接戦っているわけではない。それでもキマイラの放つ威圧感に圧されていたのだ。レウルスは意識して深呼吸をすると、強がるように笑みを浮かべた。
「滅茶苦茶こえぇ。全身汗だくだ」
「奇遇だな、俺もだよ。ビビってるわけじゃねえが、全身がいてぇわ」
「そりゃあんなに怪我してたら当然だろ」
軽口を叩き合うと、少しだけ緊張がほぐれる気がした。レウルスは二度、三度と右手を開閉させると、握り絞めないよう注意しながら剣の柄に手を乗せる。
戦いを見ているだけでこれほどまでに消耗するのだ。実際に剣を交えているドミニクとバルトロの負担は、一体どれほどか。
「シャアアアァッ!」
「オオオォッ!」
外見に見合わぬ速度で地を駆け回り、裂帛の気合いと共に斬撃を繰り出すバルトロとドミニク。キマイラは二人の動きに応じて両の前足を振るい、鞭のように尻尾を振り回し、直撃を許さなかった。
『グルウゥッ! ガアアアァッ!』
それでも、このままでは埒が明かないと判断したのだろう。牽制するようにその場で一回転することで尻尾を振り回し、ドミニクとバルトロを強制的に弾き飛ばす。二人はそれぞれの得物を盾にすることで直撃を避け、衝撃に逆らわず後方へと弾かれた。
十メートル程度とはいえ、距離が開いた。それを悟った瞬間キマイラが地に伏せ、双頭に生えた角を空へと向ける。
『オオオオオオオオオォォンッ!』
空気を震わせる咆哮。それは離れた場所にいたレウルスの全身を震わせるほどであり、何をするつもりなのかと目を見開く。
「まずいな……」
小さく呟かれたニコラの言葉。それが何を意味するのか確認するよりも先にニコラが動き、シャロンとキマイラの間に立つ。
「レウルスは俺の後ろに立て! もしも俺が倒れたら後は頼む!」
「何を……ってなんだありゃあ!?」
言われるがままにシャロンの前に立ったレウルスだったが、キマイラを確認して思わず目を見開く。
キマイラの双頭にそれぞれ生えた角。そこから紫電が迸り、バチバチと音を立てていたのだ。
雷魔法を使うとは聞いていたが、実際に目の前で雷を起こされると言葉を失ってしまう。前世ではデンキウナギなどがいたが、キマイラほどの魔物が使う魔法となればその威力は雲泥の差があるだろう。
ニコラはキマイラの雷魔法の盾になるつもりなのだ。自分達を狙うかはわからないが、背後で『詠唱』を続けるシャロンを守るために。
「ドミニク!」
「わかっている!」
そしてそれはキマイラの傍にいたドミニクとバルトロも同様である。キマイラが紫電を発しているのにも構わず、武器を振りかぶって一気に距離を詰めていく。
「ぬうっ!?」
「ぐっ!?」
そして、二人から苦悶の声が漏れた。斬りかかったものの、周囲に放たれている“だけ”の紫電で全身に痛みと痺れが走ったのだ。
それでも二人は戦斧と大剣を振り切り、魔法の発現に集中していたキマイラの体に僅かとはいえ傷をつける。ドミニクはキマイラの左胴を、バルトロは右前足を斬り付け、血しぶきが宙に舞った。
戦闘不能に追い込むには小さすぎる傷。たったそれだけの傷を与えるのに払った代償は、キマイラからの痛烈な反撃である。
『ガアアアアアアアアアアアアアァァッ!』
咆哮と共に迸る雷。周囲を舐めるように放たれた雷光がカメラのフラッシュのように瞬き、得物を振るって即座に離脱しようとしていたドミニクとバルトロを狙う。
放たれた雷光は速く、視認もできないほどだ。それでもバルトロは戦斧を地面に突き立てて手放し、避雷針代わりにすることで直撃を回避する。しかしドミニクは武器を手放すのが間に合わず、真正面から雷光の直撃を許すのだった。