第236話:後始末 その5
執務室の中にピリピリとした空気が広がっていく。まるで帯電しているような、張りつめた空気である。
その空気を発生させたのはエステルとジルバである。
エステルは完全に表情を殺し、その視線をルイスに固定した。
ジルバは薄く微笑んでいるものの、“この状況”で微笑んでいること自体が一種の異常事態だろう。
だが、そんな空気を生み出した原因であるルイスは疲れた顔に薄く笑みを浮かべ、気圧された様子もなく首を横に振る。
「ああ……どうやら誤解を与えてしまったようで申し訳ない。精霊教の客人にして当家の恩人でもあるレウルス君にこれ以上の“迷惑”はかけられませんよ」
穏やかな声色でルイスがそう言うと、エステルの形の良い眉がピクリと動いた。
「別にレウルス君にカルロを止めてほしい、説得してほしいなどと言うつもりもありません。ただ、正気に戻ったカルロに謝罪の機会を与えていただきたい……それだけですよ」
「……それでは、カルロさんの謝罪も聞かせていただきましたし、これでお暇させていただいても?」
「ははは、それは困ります。何せ今回の件の報酬に関してまだ話が済んでいませんからね。これだけの恩を受けておきながら何も渡さず帰すなど、祖先に顔向けができなくなりますよ」
険しいエステルの声色を気に留めず、ルイスは気さくに笑ってみせた。そして、笑顔を浮かべたままでその視線をレウルスに向ける。
「どうかな、レウルス君。何か望むものはあるかな? もちろん連れのお嬢さん達も希望があれば聞かせてほしい。まずは何でもいいから言ってみてくれないかい?」
そう言いつつルイスの視線がレウルスから逸れ、エリザ達にも向けられた。
最初にミーアを、次にエリザとサラを等分に見やり、最後にはネディをじっと見る。特に、ネディを見る際のルイスの視線には妙な力強さがあった。
(なんだ? なんでネディをそんな目で見る?)
ルイスの視線に気付いたレウルスは僅かに眉を寄せる。
ネディは小柄だが、可愛らしい上に異性の目を引く外見をしているから――などと低劣な理由で見ているわけではないだろう。仮にそうだとしても、ジルバがいる状況でそんな真似をするのは無謀も良いところだ。
(ここは辞退して……いや、祖先に顔向けできないとか言ってるから、単純に拒否するのは悪手か? そうなると……)
レウルスとしては、カルロの謝罪もルイスからの報酬もどうでもいい。前者はともかく、エステルの反応を思えば後者は受け取るのも戸惑われた。
子爵家の当主代行がどれほどの報酬を用意できるかわからないが、少なくともラヴァル廃棄街で受ける依頼よりも高額の報酬になるだろう。だが、エステルの反応を見る限り素直に報酬を受け取っていては厄介なことになりそうだった。
レウルスがどうしたものかと思いながらエリザを横目で見ると、エリザの口元が小さく動く。ルイスに気付かれないよう短く、それでいてレウルスにわかりやすいよう、『ダメ』と。
(エリザも反対、か。ミーアは……状況がわからないからこっち任せで、ネディはいつも通り何を考えてるかわからん。サラは……何も考えないな)
サラやミーア、ネディも確認してみるが、現状を把握していて何かしらの意見があるのはエリザだけだった。
ミーアはレウルスの判断に任せると言わんばかりに苦笑し、ネディはどこを見ているのかわからず、サラは退屈そうにあくびをしている。
エリザ達の反応を見てから数秒かけて思考をまとめたレウルスは、苦笑しながら肩を竦めた。
「俺達はエステルさんの護衛として働いただけですから、どうかお気になさらず。それでも何かいただけるのなら、エステルさんに渡していただければ、と……あとで“エステルさんからの報酬”という形で受け取らせてもらいますよ」
レウルスがエステルに視線を向けると、エステルは何故か驚いたように目を見開く。しかしすぐさま笑顔を浮かべ、何度も頷いた。
「今回はレウルスさん達にとてもお世話になりましたからねー。奮発しちゃいますよー?」
「お、そりゃ期待できますねぇ」
普段通りの柔らかい口調で話すエステルに対し、レウルスもまた気さくに答える。すると、そんなレウルスとエステルのやり取りを聞いていたルイスが顎に右手を当てながら口を開いた。
「ふむ……エステル殿に雇われているというのなら、それを無視して報酬を渡すのも筋が通らないか。なるほど、これはこちらが失礼をしてしまったようだ」
意外にというべきか、それとも最初からそのつもりだったのか、ルイスはあっさりと退く。そして顎に当てていた右手を机の下に隠すと、柔和な笑みを浮かべた。
「レウルス君さえ良ければ、当家の騎士として取り立てたいと思っていたんだがね」
そう言って笑顔のままでレウルスを見るルイス。
――目が笑っていないように見えたのは、レウルスの気のせいか。
「今回の一件でカルロの騎士爵を剥奪する予定なんだ。レベッカに操られていたとはいえ、これだけの騒動の原因になったんだからね」
どうやらカルロから剥奪することで空く予定の騎士爵をレウルスに授けるつもりだったらしい。レウルスは横目でカルロを見るが、カルロも納得しているのか頭を下げたままで微動だにしない。
(騎士の立場ってそんな簡単に剥奪したり授けたりできるのか……って、ヴェルグ子爵家が任命した騎士だから可能なのか? しかし、騎士ねぇ……)
精霊教の客人として扱われているレウルスだが、本来の“身分”はラヴァル廃棄街の冒険者だ。更に遡って農奴として生きてきたことを思えば、騎士に任命されれば大出世と言えるだろう。
(ディエゴさんはともかく、コルラードさんを見てると騎士になるメリットが見当たらないんだよな……)
騎士としての所属の違いもあるのだろうが、これまでのコルラードのことを思い出すと騎士という立場に何の魅力も感じられなかった。
加えて言えば、騎士に任命された場合ラヴァル廃棄街ではなくヴェルグ子爵家の命令に従って生きることになりそうである。ラヴァル廃棄街のためならば躊躇なく命を賭けられるが、ヴェルグ子爵家のために命を賭けることはできそうにない。
(そもそもの話、今回の騒動ってヴェルグ子爵がレベッカに操られたのが原因だよな。カルロは騎士爵剥奪の予定で、ヴェルグ子爵は謹慎してルイスが当主代行……)
どうにも腑に落ちないものを感じるレウルスだったが、それはエステルが言ったようにヴェルグ子爵家の内部での問題だ。
ルイスもどこまで本気かわからない。そう思って自身を納得させたレウルスだったが、観察するようなルイスの視線に気付いた。ネディに向けていたような、内面まで探るような視線である。
「残念だけど、興味はなさそうだね?」
「今の生活が性に合ってますから」
レウルスがそう言うと、ルイスは小さく笑ってからセバスを見た。すると、セバスが滑らかな動きでルイスの元へと歩み寄る。
「エステル殿、この町を出るのはいつ頃になりますか?」
「そうですね……旅具を教会に置いていますし、あちらこちらに出立の挨拶をして回る必要があります。出立は二日後になるかと」
「それでは、今回の報酬……いえ、“迷惑料”は出立までにディエゴに届けさせましょう」
どうやら話は終わりに近づいているらしい。今後の予定についてエステルと話し合うルイスの姿に内心で安堵するレウルスだったが、再びルイスの視線が向けられた。
「それとレウルス君。これは精霊教を通して渡すわけにはいかないから直接渡したいと思うんだが……セバス」
ルイスがセバスに何かを手渡す。一体何事かとレウルスが警戒していると、セバスが足音一つ立てずに歩み寄ってきた。
「レウルス様、こちらをどうぞ」
そう言ってセバスが差し出してきたのは、二通の封筒だった。
一通は封がされておらず、中身がすぐに確認できるようになっている。だが、もう一通は封蝋が施され、ヴェルグ子爵家の紋章が捺されていた。
ひとまず封がされていない封筒を覗き込んでみると、中には折り畳まれた手紙らしきものが入っている。
「……これは?」
「ヴェルグ子爵家の領内における通行許可証さ。街道を通る時や町や村で身分を問われた時に見せると良い」
さらりと、何でもないことのようにルイスが言う。
「もちろんこのアクラにも入れる。身元保証金も通行税も免除されるから、近くを通ることがあれば気軽に寄ってくれるかい? 今回のこともあるし、盛大に歓迎させてもらうよ」
にこやかに、親しみを感じさせる笑顔を浮かべて言葉を紡ぐルイス。
これも報酬になるのではないかとレウルスは思ったが、精霊教の『客人の証』のように本人以外に渡すのは問題があるのだろう。エステルもジルバも何も言わなかった。
使う気が微塵も湧かないレウルスだが、いらないからと突き返すのは危険な気がした。そのためルイスに合わせて親しみを感じさせる笑顔を浮かべる。
「どんな風に歓迎してもらえるのか想像もできませんね……機会があれば、その時は」
「ああ。今度こそ君の冒険話を聞かせてほしい。妹もきっと楽しみにしているよ」
笑顔を浮かべ合うレウルスとルイス。傍から見れば友人同士に見えないこともないやり取りだろう。
「それで、もう一通の封筒はなんですか?」
笑顔を浮かべたままでレウルスが尋ねる。これ以上の爆弾は御免だが、中身を聞かないわけにもいかないだろう。
ヴェルグ子爵家の紋章が捺されている以上、見なかったことにしてサラに燃やさせるわけにもいかない。
「ラヴァル廃棄街の冒険者組合に提出してくれるかい? ああ、気になるなら中を見てもいいよ?」
「絶対に開けませんよ」
冗談か本気か、笑顔で言い放つルイスにレウルスも笑顔で答えた。
そして、これ以上の用件はないということでレウルス達は執務室を後にする。
「――ラヴァル廃棄街の“管理官”殿によろしく」
執務室の扉が閉まる瞬間に、そんな言葉がレウルスの耳に届くのだった。
「エステル様やジルバ様からの印象は悪くなったようですが……良かったのですか?」
レウルス達だけでなく、ディエゴやカルロも退室した執務室でセバスが気遣わしげに問いかけた。その問いを受けたルイスは中断していた書類仕事を再開しながら口を開く。
「グレイゴ教という共通の敵がいるんだ。ある程度は配慮するけど、必要以上に遠慮する必要もないさ」
羽根ペンを手に取り、紙面に文字を綴り始めるルイス。しかしすぐに羽根ペンの動きが止まり、その視線がセバスに向けられた。
「セバスはレウルス君をどう見た?」
「何処かの家中の生まれか、あるいは私生児か……ただの農民や冒険者では“ああ”はなりますまい。言葉の端々に教養を感じさせる割に、物を知らない童のようでもある……なんとも判断に困ります」
セバスとしては、仕える主人に曖昧な物言いしかできないことは恥ずべきことだ。しかし、セバスの目から見てもレウルスを正確に推し量ることができない。
「セバスもそう思うか……ただ、わかったこともある」
「と、言われますと?」
「レベッカの冗談、あるいは俺の聞き間違いかと思ったけど、エステル殿とジルバ殿の反応を見て確信が持てた。レウルス君が連れているあの少女……ネディ嬢と言ったかな。どうやら彼女は本当に精霊らしい」
ひとまずレウルスのことを脇に置き、話題の矛先がネディへと向けられた。
そしてそれは、ヴェルグ子爵家の当主代行たるルイスでさえも初めて直面する事態だった。
「いくら精霊教の客人といっても、レウルス君に対する二人の態度がおかしかった……コモナ様の言葉を聞いた時はサラ嬢も精霊かと思ったけど、彼女はエリザ嬢に似過ぎている。さすがに双子の精霊ということはないだろう」
「双子の精霊とは……私も寡聞にして存じませんな。そもそも、精霊様を直接拝見したこと自体初めてですが」
「俺もだよ。双子の精霊は冗談としても、サラ嬢はあまりにも性格や仕草が人間臭すぎる。詳しくは聞けなかったけど、エリザ嬢の双子の妹かな?」
自分の考えをまとめていくようにルイスは言葉を続ける。
「精霊だと思えばネディ嬢……いや、ネディ様の浮世離れした雰囲気も納得できる」
「たしかに……そういえば、北のメルセナ湖に現れたスライムをジルバ殿が倒したという噂もありましたな」
「そこにレウルス君達が同行していた。そしてネディ様と出会った、か……あり得ない話じゃないな」
ルイスとセバスは互いに情報を確認し合っていく。
「おそらくだが、レウルス君はネディ様と『契約』を交わしている。そうでなければ精霊が個人を助けるなどあり得ないだろう」
「精霊と『契約』を交わした冒険者……なるほど、エステル様やジルバ様があのような反応を見せるのも当然でしょう。客人というのも納得です」
セバスがそう言うと、ルイスは深々とため息を吐いた。
「まあ、『契約』に関しては詳細がわからない部分もあるんだ……ネディ様との『契約』は横に置くとしても、レウルス君は火炎魔法も扱えるみたいだしまだまだ若い。これからどれほど伸びるのか……」
「精霊教との関わりの深さも考えれば、友誼を結んでおいて損はないですな。もっとも、だいぶ警戒されていたようですが」
先ほどの話し合いに関しても、エステルの反発があったにせよレウルス自身疑念を抱いたはずだ。そのことを指摘すると、ルイスは首を横に振る。
「レウルス君の目を見たかい? あれは警戒というよりも無関心なだけさ。カルロの話を聞いても、騎士に取り立てる話をしても大した反応を見せなかったしね。身内以外はどうでもいい……そう考える手合いだろうさ」
「……それでは?」
「今は様子見さ。まずは目の前の仕事を片付けないといけないしね……それに、“向こう”がどんな手を打つか見届けてからでも遅くはないよ」
セバスの言葉に対し、ルイスは薄っすらと笑みを浮かべてそう答えたのだった。