第22話:警戒態勢 その3
風を切り、振り回されるシトナムの鎌。巨大なカマキリにしか見えない魔物の斬撃を腕にかすらせつつも回避したレウルスは、体ごとぶつかる勢いで剣を胴体に突き刺す。
それでもまだ息があるのかシトナムの鎌が動こうとしているのを察し、足を蹴り払って地面に転がした。そして腰の短剣を引き抜き、今度は首に突き刺して息の根を止める。
「はぁ……はぁ……なんとか、なった……」
完全に動かなくなったシトナムから剣と短剣を引き抜きつつ、レウルスは顎先を伝う汗を強引にぬぐった。そして剣と短剣を振るってシトナムの体液を飛ばし、手拭いで拭いてから鞘に納める。
「いちち……これで三匹目か」
斬られたのは左の二の腕だった。傷はそこまで深くないが、心臓の脈動に合わせて傷口から血が溢れ出てくる。そのためレウルスは血止め用の布を取り出すと、傷口に巻いて止血しようとした。
「ボクがやるよ」
それを止めたのはシャロンであり、レウルスから止血用の布を奪い取る。さらに懐から小さな革製の水筒を取り出すと、蓋を開けて中身を手拭いに振り撒いた。
「……この匂いは酒? って痛っ!? し、沁みるぞ先輩!」
「傷口を拭くと消毒になる。あとは止血をすれば大丈夫」
どうやら傷の消毒をしてくれるらしい。それは有り難いと思うが、せめて一声かけてから傷口を拭いてほしかったレウルスである。
「これで三匹か……怪我したみたいだが、駆け出しでこれだけ狩れりゃあ上等だな」
そんなレウルスとシャロンのやり取りを他所に、周囲を警戒しながらニコラが褒めるように言う。『強化』の魔法を使っているからか少しは動けるようだが、時折ふらついている。怪我の影響は大きいようだった。
「戦ったことがある相手だからな。でも、数が多すぎやしないか?」
今のところレウルスが交戦したのはカマキリの魔物であるシトナムが一匹と、兎の魔物であるイーペルが二匹の合計三匹だ。
ラヴァル廃棄街の外に飛び出してまだ一時間程度しか経っておらず、ニコラ達に初めて指導を受けた時と比べても魔物との遭遇頻度が高かった。
「あまり考えたくはねえが、キマイラが近くまで来てるんだろ」
現在レウルス達がいるのはラヴァル廃棄街から南に十分ほど下った平野である。もう少し歩けば森に行き着くが、時折何かから逃れるようにして魔物が飛び出してくるのだ。
先程警鐘を鳴らした冒険者は負傷によって後退しているが、何匹か魔物を仕留めたのか、平地のあちらこちらに魔物の死骸が転がっている。
「俺が倒したやつもそうだけど、魔物の素材は剥ぎ取らなくても良いのか?」
「そんな余裕はない。ほら、次が来た」
シャロンに言われてレウルスが視線を向けると、そこには森から飛び出してくる角兎の姿があった。角兎は飛び出した勢いのまま走り去ろうとするが、レウルス達に気付いたのか方向転換して角先を向ける。
(また気付けなかった……やっぱりあの兎が相手だと“嫌な予感”がほとんどしないんだよな。というか……)
剣を抜いて構えつつ、レウルスは疑問を覚えて口を開く。
「アイツらキマイラから逃げてるんだろ? なんでわざわざこっちを狙ってくるんだ?」
キマイラを恐れて逃げ出したのなら、そのまま他の場所へ行けば良いだけの話だ。その逃げる際にラヴァル廃棄街を巻き込まないのなら、レウルスとしては放置しても良いと考えている。
「んなこたぁ魔物に聞いてくれ。魔物の思考なんざわかるわけねえだろ」
そんなレウルスの疑問をニコラはあっさりと切り捨てた。魔物の中には言葉が通じる魔物もいるらしいが、そうでない場合は意思の疎通ができない。言葉が交わせない以上、確認することはできないだろう。
「こちらが万全でないことに気付いているのかもしれない。兄さんは重傷でボクも本調子じゃない。レウルスは……狙いやすい獲物と思われているとか?」
「シャロン先輩、地味に傷つくからやめてくれよ……」
レウルスも自分が強いなどとは到底思えないが、下級下位のイーペルに“良いカモ”だと思われているとなればそれはそれで思うところがある。相手が油断しているのは歓迎するべきだが、それにも限度があるだろう。
内心でため息を吐きつつもレウルスが剣を構えると、その後ろにシャロンが立つ。ニコラは剣をだらりと下げ、楽な姿勢を取りつつも周囲に視線を向けていた。
普段ならば、レウルスが前に立つよりもニコラの方が適任だろう。しかし負傷によって動くのがやっとのニコラでは不安があり、シャロンも装備が近接戦に向いていない。
もしも窮地に陥ればシャロンが援護として魔法を使う予定だったが、なるべくなら魔力を温存したいのだ。普段の魔物狩りならば魔法を使うことに戸惑いはないが、キマイラと戦う可能性が高い現状、少しでも魔力を残していたかった。
(ニコラ先輩は重傷で、シャロン先輩はキマイラに集中したい……俺が前に立つしかないのはわかるけど、せめてニコラ先輩は町で休んでてほしいんだけどな)
キマイラの習性が本当ならば、ニコラはキマイラへの餌だ。キマイラをおびき寄せ、その間にシャロンが全力で魔法を叩き込めば勝てる可能性がある――らしい。
その話を聞いた時、レウルスは犠牲前提の作戦に頭を抱えた。だが、キマイラほどの魔物が相手となると、正規の訓練が施された軍隊でも犠牲なしに勝利するのは困難らしかった。少なくともラヴァル廃棄街の戦力だけでは犠牲なしで勝つことは不可能だろう。
(というか、このままだと俺もその“犠牲”に含まれそうだな……)
一直線に突っ込んでくるイーペルを見据えつつ、レウルスはそんなことを考えた。キマイラに狙われるニコラと共にいれば、それだけでキマイラの標的になりそうである。
そうなると確実に死ぬだろう。キマイラから逃げ切れるほど足が速いわけではなく、キマイラに抗って退散させられるほどに腕が立つわけでもない。
そう考えると、機を見計らって逃げてしまうのも一つの選択肢だろう。今ならば質が悪いとはいえ武器と防具が一式揃っており、少しとはいえ金銭もある。シェナ村からラヴァルまでの道のりと違い、整備された街道に沿って歩けば他の町にたどり着けるはずだ。
そうすればキマイラと戦う必要もなく、運が良ければラヴァル廃棄街と同じように根無し草の自分でも住みつける場所があるかもしれず。
「――おおおおおおおおぉぉっっ!」
そんな考えごと叩き斬るように、前へと思い切り踏み込んで両手に持った剣を振り下ろす。眼前に迫っていたイーペルは先頭に立つレウルスを串刺しにしようと跳躍していたが、それに構うことなくレウルスはイーペルの頭蓋を叩き割っていた。
イーペルの角は三十センチほどの長さがあるが、さすがにレウルスが持つ剣と比べれば短い。その上で腕の長さを足せば、角が届くよりも先にイーペルを仕留めることも可能だった。
「……レウルス?」
イーペルの突撃を避けもせず、正面から斬り伏せたレウルスにシャロンが怪訝そうな声をかける。真上からの斬撃で地面に叩きつけられたイーペルは絶命しているが、魔法が使えないレウルスの戦い方としては慎重さに欠けていると言わざるを得ないだろう。
「少し、考え事してた」
魔物と対峙していたというのに、暢気に考え事をしていた自分にレウルスは呆れる。そして、ラヴァル廃棄街から逃げ出しても良いのではないか、と考えた自分に呆れを通り越して絶望すら覚えた。
二週間にも満たないラヴァル廃棄街での生活だったが、冒険者としてならば他の町でも生きていけるのではないかと錯覚したのだ。
自分が今、こうして生きているのは運の要素が大きい。
シェナ村で生き抜くことができたのは、前世の記憶があったからだ。経験豊富と呼べる人生ではなかったが、シェナ村での過酷な労働環境でも生き抜けるぐらいには知恵があった。もしも前世の記憶がなければ早々に命を落としていただろう。
シェナ村から抜け出すことができたのは奴隷として売られたからであり、十五年生き抜けたことは自分の努力の甲斐もあったが、移送の幌馬車がキマイラに襲われなければ今頃鉱山で鶴嘴でも振っていたに違いない。
キマイラから逃げ出した後も、運が悪ければ森の中で魔物に襲われて死んでいた。一晩を木の上で過ごした時も、魔物に襲われなかったのは運の要素が強かっただろう。いくら臭いを消して木の上でじっとしていたとはいえ、運が悪ければ死んでいたはずだ。
ラヴァル廃棄街に到着した後も、コロナに拾われなければ死んでいた。ドミニクが食事を恵もうと思わなければ、やはりそのまま死んでいた。
それら全ての事象を運の一言で片づけるつもりはないが、ラヴァル廃棄街から逃げ出したとしても“先”があるとは思えない。遠からず野垂れ死にするのがオチだろう、とレウルスは思う。
ラヴァル廃棄街に受け入れらたこと以上の幸運があるとは思えず、逃げた先で訪れるであろう苦難を自身の力だけで対処できると考えるほど自惚れてもいなかった。
「魔物を前にして考え事なんて余裕だなぁオイ……キマイラに殺されかけた俺が言えることじゃねえが、そんなんじゃすぐに死ぬぞ」
「わかってるよ。さすがに死にたくないさ」
「なら良いんだがな……で、何を考えてたんだ?」
レウルスの行動に思うところがあったのか、ニコラも強くは咎めなかった。その代わりに理由を話せと言わんばかりの態度であり、レウルスは剣に付着したイーペルの血を拭いながら口を開く。
「キマイラと遭遇したら殺されそうだしここから逃げようか、なんて考えてたんだ」
「へぇ……で、逃げるのか?」
面白い冗談を聞いた、とでも言いたげにニコラは小さく笑みを浮かべた。ただし、姿勢が僅かに前傾姿勢へと変わっており、剣を握る手にも力が込められている。レウルスが肩越しに視線を向けてみると、シャロンも警戒するように眉を寄せていた。
そんな二人の変化に苦笑すると、レウルスは視線を外して森の方を見る。
「逃げるつもりならわざわざ言わないって。でもさあ……なんて言ったら良いんだろうな」
死にたくないのなら、逃げるべきだ。理性ではそう理解しているというのに、逃げようという気持ちが湧いてこない。
「死にたくないから逃げてきたはずなのに、キマイラなんて化け物と戦うかもしれないのに逃げたくない……死にたく、ないんだけどなぁ」
シェナ村では泥水を啜ってでも生きてきた。例え一度死んだ身でも、これまでの苦労を思えば死にたくなどない。むしろ一度死んだからこそ、いくら前世と比べて過酷で悲惨な環境だろうと死にたくないのだ。
「もしもキマイラと戦えば死ぬよなぁ……だけど、さ」
自分が抱えている感覚を、レウルスは上手く説明することができない。
どうせ逃げてもロクでもない未来が待ってるからか――それはあるだろう。
この世界で初めて“まとも”な生活を送れた場所だからか――それもあるだろう。
コロナやドミニクに対する恩義があるからか――それも大きいだろう。
「逃げても生きていけないし……逃げたくないって思っちまったんだよなぁ」
どうにも定まらない己の心に、レウルスはため息を吐いた。
逃げたい、死にたくない。でも、逃げたくない。短い期間だったが、ようやく手に入れることができたまともな生活を手放したくない。
前世で見た漫画等に出てくるキャラクターならば、ここですっぱりと決断してキマイラに立ち向かうだろう。ありふれた言い方をするならばそれこそ勇者のように、颯爽と立ち向かうに違いない。
だが、レウルスは勇者などではない。キマイラへの不安があり、恐怖がある。今の環境への打算があり、そしてドミニクやコロナへの恩義がある。
「俺は自分がもうちょっと賢い人間だと思ってたんだけど、ただの馬鹿だったみたいだ」
結局、理屈ではないのだ。先が見えない、他に行く場所がない、死にたくないと理由を並び立てても、それらを上回る感情がレウルスをこの場から逃げることを許さない。
過酷な労働環境で働き続けて死んでしまった前世の自分を笑えない、とレウルスは思った。死ぬ前に仕事を辞めることもできたはずだというのに、死ぬまで働き続けた結果として今がある。
馬鹿は死ななきゃ治らないと言うが、それは間違いだったのだと他人事のように思った。
「……本当に逃げるつもりはないんだな?」
自身の状況を笑うレウルスに対し、ニコラが確認するように尋ねる。その問いかけにレウルスは頷くと、大仰に肩を竦めてみせた。
「逃げるならこっそりと逃げてるっての。今から逃げようとしたら、シャロン先輩が後ろから魔法を撃ってきそうだしな。というか、逃げたらおやっさんにも申し訳が立たねえよ」
前世の環境で例えるならば、コネを使って入社したというのに初日で出社拒否するようなものだろう。実際に入社予定だった新人に同じことをやられたレウルスとしては、死んでも拒否したい事態である。
「安心しろよ。俺もおやっさんの顔に泥を塗る気はねえ。もしも逃げてたら魔物に殺されたってことで処分してやったさ」
「微塵も安心できる要素がないぞ先輩……」
下手すれば“名誉の戦死”に追い込まれていたと知り、レウルスは冷や汗を流した。処分というのが魔物と戦って死んだことにして、冒険者組合から追放するという形を取っただけかもしれないが、深く聞く勇気はない。
「ま、なんだかんだ言ったけど、キマイラが相手だと俺が役に立てるとも思わないしな。大人しく援護に徹するよ」
色々と並べ立てたレウルスだったが、キマイラと戦って役に立つとは思えない。既に四体の魔物を倒しているが、倒し方を知っているからどうにかなっただけだ。キマイラの倒し方などわからず、逆に自分の方があっさりと殺されそうである。
「俺とシャロンが戦った時は遭遇戦だったからな……今回は迎撃するまで時間があるだろうし、それなら打つ手もあるってもんさ」
「そうなのか? そりゃ是非とも期待したい――」
どうやらキマイラを倒す手段があるらしい。その事実に喜びの声を上げようとしたレウルスだったが、その言葉は途中で途切れた。
風に乗って匂いが伝わるように、遠くから伝わってくる強烈な悪寒。まるで極寒の世界にでも放り出されたように、全身を震わせるほどの“嫌な予感”。
キマイラが相手と聞いても、逃げずに自分にできることをやる。この世界で初めて得た居場所で、恩義がある相手もいる大切な場所を守る。ここで逃げては安っぽい己の意地すら貫けなくなる。
――そんな中途半端で生ぬるい決意が、霧散した。
「ヒ……グ……」
大気を震わせるような悪寒に、思わずレウルスの呼吸が止まった。まるで呼吸困難に陥ったように口を開閉させ、顔色を真っ青なものへと変える。
「おい、レウルス? どうした? いきなり顔色が悪くなってんぞ」
そんなレウルスの変化を見て、ニコラが心配そうに声をかけた。それまでの会話が原因かもしれないが、それにしては変化が急激過ぎたのである。
「ぁ、が……いや、や……べぇ……これは……」
「っ……兄さん! 近くにキマイラがいる!」
ニコラと同様にレウルスの変化を不思議そうに見ていたシャロンだったが、遠くに大きな魔力が出現したのを感じ取って警戒の声を上げる。
『ガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアァァァァッ!』
そんな警戒すら掻き消すように、獣の咆哮が鳴り響いた。その咆哮は空気を震わせ、周辺の木々から一斉に鳥が飛び立つ。さらには魔物すらも逃げ惑うように森から飛び出し、一目散に駆け出していた。
「シャロン! 詠唱はできそうか!?」
「間に合わない! 近すぎる!」
「チィッ! こんだけ強烈な威圧感を隠しながら移動してやがったか! レウルスもボケッとしてんじゃねえ! 今は退くぞ!」
それまで回復に努めていたニコラだったが、さすがに動かないわけにはいかない。そのためレウルスの肩を叩いて正気に戻すと、腰に吊り下げていた小型の鐘を手に取った。
緊急事態を知らせるよう、金属製の鐘を打ち鳴らしながら駆け出すニコラ。それに続いて駆け出したレウルスには、先ほどまでの余裕など微塵もなかったのだった。