第227話:執事と『膺懲』
庭師によって手入れが行き届いていた庭園は、いまや見る影もないほどの惨状へと変化した。
レベッカによって操られた兵士とルイスの指揮する騎士や兵士がぶつかり合い、花も草木も怒号と共に踏み荒らされて蹂躙されていく。
ルイスに統率された騎士達が隊列を組み、同胞でありながら敵でもある兵士達を的確に、一人、一人と取り押さえていく。
だが、鎧を着込んだ兵士を気絶させるのは難しい。そのため地面に組み伏せて力任せに押さえ込んでいるが、敵一人を抑えるために兵士が一人必要になるという状況では戦力差が大きく変動することはなかった。
故に、状況は一進一退に近い。
レベッカに操られた兵士は普段通りの技量を発揮できないのか、死者を出さずに押さえ込めてはいる。中には地面に組み伏せられようとも己が身を顧みず暴れる者もいるが、対人戦にも長けているヴェルグ子爵家の兵士達はそのことごとくに対応していた。
「…………」
剣や槍、鎧がぶつかり合って甲高い音を立てる中、セバスは無言でジルバを真似た魔法人形と対峙していた。
開いた間合いは二メートル程。鏡写しのように互いに半身開いて腰を落とし、右拳を腰元に構え、開いた左手を突き出す。そして目線や肩、足先の僅かな挙動でフェイントを掛け合うが、セバスも魔法人形も動かない。
セバスは部下を指揮するルイスに背を向け、魔法人形を一歩たりとも通さぬと言わんばかりに構える。対する魔法人形は何を考えているのか、あるいは何も考えていないのか、セバスの動きをじっと見つめていた。
ルイス達やセバスから離れた場所では、レウルスがレベッカと、エリザ達と翼竜による戦いが繰り広げられている。時折獣のような咆哮と共に離れた場所にいるセバスにも感じられるほどの殺気が飛んでくるが、そちらに視線を向けることはなかった。
――視線を逸らす余裕など、欠片もなかったのだ。
真似た相手が相手だけに、いくら“本人”よりも劣るとはいえ油断も余所見もできようはずもない。相手は魔法人形とはいえ、レウルスとの戦いによってその危険さは十分に理解できた。
そうして魔法人形とフェイントを掛け合うことしばし。翼竜の魔力が膨れ上がって巨大な炎が放たれ、それに応えるようにサラが火炎魔法で迎撃する。
翼竜もそうだが、瞬時に火炎魔法を撃ったサラも相当の手練れだろう。互いに中級に匹敵する火炎魔法を撃ち合い、激突し、その余波はセバスの元まで届く。
迫りくる熱波と飛散する火の破片。花弁が宙を舞うように、風に吹かれるようにして千切れた火の破片がセバスと魔法人形の視線を遮り――同時に踏み込んだ。
「シィッ!」
鋭い呼気と共に放ったセバスの拳が、魔法人形の拳と衝突する。互いに『強化』を使って放った拳は最早凶器に等しく、人体がぶつかり合ったとは思えない鈍い重低音を奏でた。
踏み込んだ速度も、放った拳の威力も互角。しかしながら拳を通して腕に伝わってくる“衝撃”を感じ取ったセバスは即座に右腕を脱力させ、筋肉を引き千切りそうな衝撃を逃がしながら一歩だけ引いた。
拳がぶつかり合ったことで威力が落ちてはいたのだろうが、衝撃を逃がさなければ一撃で右腕が使い物にならなくなりそうだ。それでも瞬時に脱力し、一歩引くことで衝撃を逃がしきった技量は瞠目に値するだろう。
「――――」
一歩引いた分、魔法人形が前に出る。無言かつ完全に殺気を隠し、拳を叩き込まんと踏み込んでくる。
直撃すれば文字通りの必殺になるだろう。恐るべきはそれが魔法の類ではなく、純然たる技術によって成されるということか。
故に、魔法人形が繰り出す攻撃の全てをセバスは捌く。受け流し、弾き、逸らし、一撃たりともその身に受けず互角に渡り合う。
繰り出される拳は手首を叩くことで軌道を逸らす。軌道を逸らしたと思った瞬間、更に踏み込まれて腹部を抉りにきた肘は身を捻ってかわす。回避した体を追うようにして振るわれる鞭のような蹴りは後方に跳ぶことで回避する。
魔法人形の動きには“継ぎ目”がなく、一撃一撃が必殺の威力を持っているにも関わらず全ての動きをつなげて連撃となって繰り出されていく。
並の者ならば一撃で死に、ヴェルグ子爵家の兵士でも一撃で死に、騎士階級の者でもどれほど凌げるか。鎧を着込んでいようと鎧越しに肉体を破壊するであろう打撃を既に数十度凌いだセバスは、打撃を捌くことで痺れ始めている自身の左腕の感触に苦笑した。
「いやはや……これでジルバ殿本人を真似ているだけというのも恐ろしい話ですな」
だが、口から零れた言葉にはどこか余裕がある。当たれば必死という状況にも関わらず、その口元には笑みすら浮かんでいた。
魔法人形の動きは、セバスから見ても驚嘆すべきものがある。エステルの――これは驚愕すべきことだが、コモナの力を借りたエステルの言葉を信じれば、ジルバ本人の六割程度の力しかないという。
放たれる拳を捌きながら、なるほど、とセバスは思った。
精霊教徒に曰く――『膺懲』。
グレイゴ教徒に曰く――『狂犬』。
精霊教徒第二位という立場も後押ししているが、マタロイ南部において勇名を馳せるに足る技量である。
精霊教徒としてマタロイ南部を駆け回り、時に野盗を捕縛し、時に人に危害を加える魔物を仕留め、時にグレイゴ教徒と激突する。その身軽さと激烈ぶりは精霊教徒のみならず民草へ、更には兵士や騎士を超えて各地の領主にも伝わるほどだ。
マタロイ一国、あるいはカルデヴァ大陸全土を見回しても、ジルバを超える技量の持ち主など早々見つからないだろう。こと打撃戦においては五本どころか三本の指に入るかもしれない。
仮に武器を持っていたとしても、素手のジルバに抗し得る者が一体どれほどいるか。対人戦においては騎士すらも容易く下すであろうその技量に、セバスは驚嘆と敬意を抱いた。
もっとも、眼前の魔法人形に対する感慨は微塵もない。
「――“真似ているだけ”に過ぎませんか」
捌き続けたことで学んだ魔法人形の動きに追従し、それまで防戦一方だったセバスが前に出る。拳をただ捌くのではなく、体勢を崩すように誘導していく。
ほんの僅かに、しかし確実に。打撃を一度捌く度に魔法人形の体勢が崩れていく。
仕切り直すために魔法人形が後方に跳んでも、その動きを読んでいたようにセバスが前に出る。体勢を立て直す暇など与えず、魔法人形が防御に徹しようとすればそれすらも利用して反撃の芽を摘んでいく。
戦っているのがジルバ本人だったならば、こうはいかないだろう。セバスもジルバの拳を数十と凌げる自信などない――が、魔法人形が相手ならば話は別だ。
レベッカが操っているのか、それとも魔法人形が自らの意思で動いているのかはわからないが、セバスにも十分対応できる。守勢に徹して見極めたが、魔法人形の技量は予想の範疇に収まっている。
完全に初見で戦っていたならば危うかったかもしれないが、先にレウルスが戦っていたことがセバスの余裕につながっていた。
仮に一対一ではなく、乱戦の状況だったならばこうはいかなかっただろう。あるいは、レベッカの意識がレウルス一人に向いていなければまた違った結末もあったかもしれない。
この場にレウルス達がいなければ、押し切られていただろうとセバスは思う。
それでも、“そう”はならなかった。
拳を、掌底を、蹴りを捌く度に、魔法人形が死地へと足を踏み入れていく。少しずつ乱れていく体勢は、最早取り返しのつかない領域に突入している。
残り三手――魔法人形が繰り出す左拳を体の内側へと受け流す。
残り二手――体を捻りつつ放たれた左肘を首を引いてかわす。
残り一手――左肘を追うようにして放たれる右の掌底を真上へと逸らす。
魔法人形の体が僅かに浮いた。セバスを振り払うように放たれた右の掌底を上方に逸らしたことで、勢いに押されて魔法人形の足が地面から離れた。
その瞬間、セバスが踏み込む。右手の指が伸ばされて貫手の形を取る。
セバスが繰り出す攻撃を回避できないと判断して、体が浮いた状態でも魔法人形は上体を逸らそうとした。それと同時に、空振りした左腕を引き戻して防御態勢を取り――“その動き”を見たセバスは貫手を放つ。
魔法人形が庇おうとした心臓を、防御に回そうとした左腕の隙間を通すようにして貫く。『強化』によって引き上げられた腕力とセバス自身の技量により、名槍にも劣らぬ刺突となって魔法人形の左胸部を抉り抜く。
「頭か心臓か迷いましたが……どうやら“当たり”だったようですね」
セバスが呟くと同時に、魔法人形が動きを止めた。それまでの猛威が嘘だったように全身を脱力させ、膝から崩れ落ちる。
首を刎ねても動いたレベッカの魔法人形とは異なるのか、セバスの一撃が致命的だったのか、血の一滴も流すことなく魔法人形は沈黙した。
それまでジルバの姿を真似ていた魔法人形の体が見る見るうちに縮み始め、数秒と経たない内に三十センチ程度の大きさへと変わる。
最後に残ったのは、手縫いと思しき人形だった。セバスの目から見ても材質はわからないが、胸にぽっかりと穴が開いている。
間違いなく魔法人形を仕留めた。その事実を前に、セバスは大きく息を吐いて額に浮かんでいた汗を拭う。
「いやはや……歳は取りたくないものですな」
魔法人形を下したものの、その声色には疲労の色が滲んでいた。一撃でも当たれば命を落とすなど、理不尽にもほどがある状況だろう。それを思えば、肉体と精神が疲れただけで済んだのは僥倖としか言えない。
主人を守る最後の砦――セバスは執事としての己をそう定義しているが、ルイスの命令とはいえ今の状況は戦略的には敗北に近い。
ルイスは無事だが、自らが動かなければならない状況に追い込まれたこと自体反省すべきだろう。もしくは、ヴェルグ子爵家の家臣団とレウルス達を相手に“単独”で渡り合うレベッカこそを賞賛すべきか。
だが、それでも。
「機会があれば――例え敵わずとも本人と手合わせ願いたいものです」
どこか惜しむように呟き、セバスは己の右手に視線を落とす。
魔法人形の胸部を貫いた右手には、半分に割れたスライムの『核』が握られていたのだった。




