第1話:孤独
走る、走る、走る。
足場の悪さを気にも留めず、レウルスはひたすらに森の奥へと突き進んでいく。背後からは悲鳴と破砕音が聞こえてくるが、足を止める理由にはならない。むしろ、それらの音が聞こえる間に遠くへ逃げるべきだ。
レウルスが前世で聞きかじった程度の知識でも、素手の人間が勝てるのは精々中型犬程度。農業である程度は体が鍛えられていても、荒事に無縁だったレウルスではどう足掻いてもあのような化け物に勝てるはずがない。
街道から森の中へと進むと、今度は途中で進路を変える。無暗に森の中を彷徨っても死ぬだけであり、他の魔物に遭遇すればどの道死ぬからだ。
そのため、幌馬車からある程度離れたと判断したレウルスは、先ほどまで進んでいた街道に沿って移動するよう心がけながら走っていく。ついでに可能な限り周囲の状況に意識を向け、新手の登場や化け物の追跡がないかを可能な限り確認していく。
森の中は木の根や張り出した枝などで走りにくいが、その分大型の生き物は動きにくいだろう。そう自分に言い聞かせて走るレウルスだったが、ほんの僅かな水音を拾って急停止する。
(水……川か? 湖でも助かる!)
足を止めて意識を集中すると、聞き間違いではなかったらしく水の流れる音が聞こえた。レウルスは化け物が来ないよう祈りつつも、水音がする方へ即座に駆け出す。
確証はないが、幌馬車を襲った化け物は周囲にいた人間を殺せばレウルスを追ってくる可能性があった。その場合逃げ切れるはずもなく、今のレウルスにとっては追跡を困難にすることが急務である。
見た目は完全に化け物だったが、先ほど遭遇した魔物は獅子に近い姿をしていた。前世での知識に当てはめるのは危険だが、犬や猫並に鼻が利く可能性がある。その場合、レウルスの匂いを追うのは非常に容易だろう。
自分で言うのも嫌な話だが、風呂などには入れないため臭いがきつい自覚があった。それ故にレウルスは逃走の一助として川や湖を求めたのである。
化け物の嗅覚が抜群に鋭かった場合、川などに飛び込んで匂いを消しても追跡してくるかもしれない。だが、少なくとも今の状況で森の中を走り続けるよりは欺きやすいはずだ。
“今の体”では水泳の経験がないが、泳ぎ方は知っている。ある程度の速さの流れならば溺れることもないだろう。流れが速すぎる場合、木を圧し折って掴まり、浮き輪代わりにして一緒に流されても良い。
焦燥と恐怖の裏側でそんなことを考えるレウルスだったが、水の音が近づいてきたため気を引き締めた。水辺というものは野生動物が近づきやすく、先ほど見た魔物ほどでなくとも厄介な魔物に遭遇する可能性もあるからだ。
だが、どうやら今日はツイているらしい。到着した場所にはレウルスが見た限り魔物の姿がなく、それなりの水量が流れる小川があったのだ。これならば、臭い消しにも移動にも利用できそうだった。
(これぐらいなら……木を折ったら痕跡になりそうだし……)
水深は深い場所で一メートル程度。泳いで移動するにしても流れはそこまで急ではなく、溺れる危険性は少ないだろう。そう判断したレウルスは化け物の追跡を警戒し、すぐさま川へと飛び込むのだった。
「いくら春先っていっても、長時間水に浸かったのは間違いだったな……」
川に飛び込み、場所によっては流れに乗って泳ぐことしばし。さすがに疲労と寒気で辛くなったレウルスは水から上がり、己が着ていたシャツとズボンを絞りながら呟く。
最初の内は追われているかもしれないという恐怖と興奮で気にならなかったが、春先の川の水は非常に冷たかった。
気温や水温を考慮していなかった自分自身にため息を吐きたくなるレウルスだったが、泳ぐついでに体を洗えたため臭いを消すという目的は果たせただろう。川に飛び込んでから一キロほど移動しているため、先ほどの魔物に追跡される可能性も多少は下がったはずだ。
「……で、街道はどっちだよ……」
当初はなるべく街道に沿って移動するつもりだったというのに、臭いを消すことに気を取られて方向を見失ってしまった。一応街道の方向を意識していたが、川に沿って街道が存在している保証はない。下手をすると街道から大きく外れてしまっただろう。
行き当たりばったりで嫌気が差すが、獅子の化物のインパクトが強すぎたのだとレウルスは自分に対して言い訳をする。ついでに木々の隙間から空を見上げてみるが、茜色に染まり始めていることに気付いて大いに焦った。
――今から街道を見つけ、日が暮れるまでに町や村に辿り着くことは可能だろうか?
そう自問するレウルスだったが、答えは明白だ。
「そこまで自分の運の良さを信じる気にはなれんなぁ……」
完全に日が暮れるまで一時間もないだろう。その短時間で人がいる場所まで辿り着けると思うのは、楽観を通り越して無謀というものである。
せめて自分を買った商人に次の村や町までの距離を聞いておけば良かった。そう考えたものの、既に後の祭りである。
商人達は野宿するつもりだったのか、それとも日暮れまでに目的地へ到着できるつもりだったのかもわからない。護衛がいたことから野宿も視野に入れていたのだろうが、さすがに先程のような魔物が出るとまでは予想していなかったのではないか。
「どうにか火を……って、火を焚いたら逆に危ないんだっけ?」
野生の動物に有効と勘違いされることが多いが、火を恐れるのは火で痛い目に遭ったことがある動物だけである。痛い目に遭ったことがない動物の場合、逆に興味を惹いてしまうことがあるのだ。
そもそも、森の中にいるとすれば魔物が大半だろう。火を恐れる保証がないどころか、レウルスが盗み聞きした話では火を吐く魔物も存在するらしく、焚き火を起こしても魔物を引き寄せるだけの結果に終わりそうだ。
自分の置かれた立場。街道までの距離に、町や村に到着するとしてかかる時間。それらを計算しつつ周囲を窺ってみるが、森の中は既に薄暗さが増しており、日暮れを待つことなく闇に沈むだろう。
(考えろ……日暮れまでに人がいる場所まで辿りつけるか? いや、やっぱりどう考えても無理だ……そうなると、また運任せになるのか……今日だけで何度目だよ)
移動よりも身の安全の確保が重要だろう。
そう結論付けたレウルスは水に濡れた体を見下ろした。水に長時間浸かり、ついでに体や服も洗ったことである程度は臭いも取れたはずだが、暢気にこの場で夜を明かそうなどとは思えない。
シャツやズボンは絞って極力水気を取ったが、冷え込みの酷さによっては風邪を引きそうである。ただし、これまでシェナ村のあばら家で十五年生き延びてきたのだ。凍死までは至らないと判断し、レウルスは付近の木々に目を向けた。
春先だからかほとんどの木は葉っぱを落としているが、中には背が高いものの葉っぱを多く残している木も存在する。見た限り針葉樹らしいが、春先でも葉っぱを残しているのは有り難かった。
レウルスは十メートルほどの高さを持つ針葉樹に近づくと、器用に登り始める。農業で強制的に鍛えられた体は軽い割にそれなりの筋力を誇り、ある程度の高さまでは枝がないにも関わらず猿のように登ることができた。
(これまでの生活でロクに飯を食えてないから体が軽いし、毎日の農作業で少しは筋肉がついてるし……うん、前向きに考えてもクソみたいな環境だったな)
挙句の果てに奴隷として売られ、今は逃避行の真っ最中だ。
レウルスはため息を吐きたくなるのを堪えると、木の幹の途中から左右へと張り出している枝に足をかける。そして体重をかけても折れないことを確認すると、両足をかけた上で木の幹にしがみ付いた。
ついでに手が届く範囲にある木の葉を千切り、手の中で磨り潰してから体に塗り付けていく。皮膚がかぶれそうで怖いが、体臭を消した上で木の臭いに同化できると思ったのだ。
あとは息を潜め、夜明けまでひたすらこの場で魔物が来ないよう祈り続けるだけである。木の幹にしがみ付いているが、眠ると落下する危険性があるため眠ることもできない。
ないと思いたいが、魔物に気付かれた場合木から下りて逃げることも有り得るのだ。
――気付かれた時点で、終わりだとは思うが。
魔物が近づかないよう、仮に近づいても気付かずに立ち去るようレウルスは願う。何に願えば良いのか、神などの祈る対象がこの世界にいるのかすらも、知らなかったが。
(……やべえ、滅茶苦茶おっかねえ)
完全に日が暮れて最初にレウルスが思ったのは、どうしようもない恐怖である。
森の中ということもあるが、電灯などがないこの世界では夜になると本当に真っ暗になる。何の因果か月らしきものも存在するが、今夜の月光は弱々しく、森の中を照らすには至らなかった。
(身を隠せるから文句は言わないけど、限度があるだろ……)
針葉樹に抱き着いたまま、内心だけで呟く。森の中を照らせるほどに月明かりが強ければ、魔物が近づいてきた場合にレウルスが木の上にいると気付かれるかもしれない。
その点、自分が抱き着いている木の幹が見えないほどの真っ暗闇というのは好都合だった。少なくとも目視で発見される可能性は限りなく低いだろう――が、その暗闇がレウルスの恐怖心を刺激する。
春先の冷たい風が体温を奪っていくのはまだ良い。毛布どころかまともな布団すらなしで幾度も冬を越してきたレウルスからすれば、この程度の寒さは耐えられる。
空腹感についてもまだ良い。今の体に生まれてこの方、満腹感を味わったことすらないため空腹には慣れている。川の中を移動する際、水をたらふく飲めたためしばらくは大丈夫だ。
しかし、である。寒さよりも空腹感よりも、恐怖感の方が耐えかねる。
暗闇の中、いつ魔物が接近してくるかわからない恐怖。
接近してきた魔物に気付かれるかもしれないという恐怖。
時折吹く風が木々を揺らし、地面に落ちた木の葉を舞い上がらせて静かな森の中に雑音を鳴らす。それらの音の中に、魔物の足音が含まれていないと誰が言えるだろうか。
気が付いた頃には木の下に魔物が陣取り、レウルスへと飛びかかろうとしているのではないか。気付かなかっただけで、既に周囲を魔物に取り囲まれているのではないか。
ただひたすらに夜明けを願って時間の経過を待つレウルスとしては、一秒の経過がその何十倍もの長さに感じられた。頭の中で秒数を数えてみるが、実際に同じだけの時間が経っているとは思えない。
今の時期ならば、日暮れから夜明けまで十二時間近い時間が必要だ。森の中ということで日没が早く感じられた分、さらに時間は延びるかもしれない。
(は……ははっ……このまま半日以上じっとしてろってか……)
自分で選んだこととはいえ、さすがにこれほどまでの恐怖感は予想していなかった。これならば地面に穴を掘って土や落ち葉を被り、夜明けまでの無事を祈りつつ眠った方が良かったかもしれない。
(いや、待て、それだと魔物に気付かれたら逃げる間もなく死ぬ……かといってこの状況じゃ眠れやしねえ……)
一寸先すら見えない暗闇の中、魔物の襲来や些細な音に怯えながら寝ずに過ごす。これは下手な拷問よりもきついな、とレウルスは不快そうに口元を歪めた。
前世でのハードワークやこれまでやってきた年中無休の農作業を思えば、一晩徹夜するぐらいは何の問題もない。納期直前に発覚したプログラムミスにより、三日連続徹夜のデスマーチに放り込まれた時と比べれば肉体的にはまだマシだ。
ただし、精神的には話が別である。一秒ごとに精神が削れていく感覚。何か物音が聞こえる度に“削れ具合”が跳ね上がり、魂ごとヤスリ掛けされているような気分だ。
(……もつ、か?)
これならば僅かな望みをかけて森を走破し、日暮れまでに人里を発見する可能性に賭けた方が良かったかもしれない――楽な方へ思考が逃げようとしていることに気付き、レウルスは自制する。
精神的な恐怖や苦痛は、前世での経験を思い出せばどうにでもなる。
肉体的な疲労や辛さは、今世での経験を思い出せばどうにでもなる。
そう自分に言い聞かせ、レウルスは必死に耐える。一秒でも早く夜が明けることを願い、木の幹にしがみ付いたままでじっと耐え抜く。
(こういう時には楽しいことを考えるんだ……そうすればまだ楽になる……)
怖いと思うから怖いのだ。例え現実逃避だとしても、明るく楽しいことを思い浮かべれば少しは楽になるはずである。
(楽しいこと……楽しいこと……楽しいこと?)
妄想にでも縋りたい。そんな思いを抱えながら“楽しいこと”を想像しようとしたレウルスだったが、一向に思い浮かばない自分に愕然とする。
(もう農業をする必要もないし、ぐっすりと眠る……小さいな。腹いっぱいご飯を食べる……わびしいな。美人でスタイルが良くて気立ても良い彼女を……)
とりあえずいくつか考えてみる――ザリ、と思考にノイズが走った。
(そういえば……死ぬ前に何か……)
セピア色に染まり、虫食いが目立ち始めた前世の記憶。そこに何か引っかかるものを感じた。既に十五年も前の記憶だが、何か重要なことを忘れているような――。
「っ!?」
思考を遮るようにして全身を貫く、嫌な予感。思わず息を飲んだレウルスだが、すぐさま思考を打ち切って耳を澄ました。
第六感や霊感などは微塵も信じなかった前世だが、今の体になってからというものの時折こうやって嫌な予感を覚えていた。その時は予感に従ってその場から離れるようにしていたが、今回は身動きを取ることもできない。
息を潜め、衣擦れの音にすら注意して周囲の様子を探る。相変わらず闇が濃いため聴覚のみに頼ることになるが、レウルスは必死に耳を澄まして周囲の音を拾おうと試みた。
風の音に落ち葉が動く音、風によってざわめく木々に日中移動に利用した小川の水音。それらの音の中から“異物”を探し出そうと集中する。
(外れろ……頼むから外れてくれ……)
その一方で、己の勘が外れていることを切に願う。幾度となく救われてきたが、この時ばかりは外れてほしかった。
――落ち葉を踏む、乾いた音が耳に届く。
ガサガサと、明らかに“何か”が落ち葉の上を歩く音。その音を拾ったレウルスは、口から絶望の声が漏れないようにするだけで精一杯だった。
夜間に歩き回っているということは夜行性であり、夜目も利くのだろう。その足音はレウルスが隠れる針葉樹の方へと少しずつ近づいてきており、接近に合わせてレウルスの心臓が強く脈打ち始める。
(来るな……こっちに来るなよ……)
木の幹にしがみ付いているがために、心臓の脈動が全身に伝わっているような錯覚に陥る。心臓の音で気付かれるのではないかと心配してしまう程にうるさく、全身が震えて木全体を揺らしてしまいそうだ。
それでもレウルスは必死に思考を落ち着かせると、ゆっくりと静かに、鼻から息を吸っては同じ時間をかけて吐き出す。呼吸音で気付かれれば洒落にならず、可能な限り音を消すよう心掛けた。
徐々に大きくなる足音。聞こえる音だけで判断する限り、近づいてきている相手は単独だろうとレウルスはアタリをつける。単独だろうと複数だろうと見つかれば危険なことに変わりはないが、相手が単独ならば見つかる可能性も少なくなると自分に言い聞かせた。
(音を聞く限り四足歩行の生き物……か? 犬みたいな魔物なら木に登ってくることはないかもしれないけど……)
相手が魔物である以上、楽観はできない。前世では木に登れなかった生き物だろうと、平気で駆け登るってくる可能性もある。あるいは、地面からそれなりの高さがあろうとも跳躍するだけでレウルスのところまで来るかもしれない。
(空を飛んだりしないだろうな……ははっ、そうなったら絶対に逃げ切れねぇ)
前世を含めてもこれ以上はないほど聴覚に集中しつつも、内心では若干諦めつつあった。魔法が存在し、魔物という慮外の生き物すら生息する世界である。レウルスが知らない方法で気配を探知してくるかもしれない。
接近してくる足音は最早集中せずとも聞こえるほどに大きく、レウルスが潜む針葉樹へと向かってきているようだ。
足音が大きくなるたびに絶望も大きくなるが、それでもレウルスは諦めない。最悪の場合、殺されるとわかっていても抵抗するしかない。少しでも傷を負わせることができれば、相手も撤退するかもしれないのだ。
「グルルルル……」
足音がさらに近づき、そして止まる。続いて聞こえてきたのは唸り声だ。レウルスの存在に気付いたのか、それとも気付きはせずとも何かしらの違和感を覚えたのか。一度止まった足音が動き出し、周囲を探るように歩き回る。
「……………………」
ここまでくればレウルスとしては無心になるしかない。息を殺し、物音を立てないよう細心の注意を払いつつ、相手が立ち去ることを静かに祈る。
そうやって一体どれほどの時間が過ぎただろうか。レウルスが潜む針葉樹の周辺を歩き回る足音が聞こえていたが、しばらくするとその足音が遠ざかり始める。
足音が遠くなっていくことにレウルスは安堵しかけるが、もしかするとこちら側の変化を狙っているかもしれない。そう考えると動くこともできず、そのままの体勢でじっと息を殺し続けた。
(……行った、か?)
頭の中で十分近い時間を数えてみると、足音は既になくなっていた。それに合わせて先程まで感じていた嫌な予感も消えており、レウルスは額に浮かび上がった冷や汗を静かに拭う。
生きた心地がしないとは、まさにこのことだろう。一体どれだけの時間が過ぎたのかわからないが、レウルスの体感としては永遠に等しい地獄である。
そうして、レウルスはなんとか魔物をやり過ごすことに成功する。ただし、夜が明けるまでに三回ほど同じようなことがあり、その度に精神をすり減らすのだった。