第167話:『国喰らい』と『魔物喰らい』 その2
――“それしか”知らない。
青い少女が口にしたその言葉は、レウルスとしても聞き慣れた言葉だ。“見慣れた”言葉だと言っても良い。
少女が何を思ってそう言ったのかはわからない。本心からの言葉で、事実としてそれ以外のことを知らないのかもしれない。だが、その言葉はレウルスに過去を想起させる。
今となっては遠く思えるような、生まれ故郷であるシェナ村で生きた日々の記憶。
レウルスはラヴァル廃棄街にたどり着いてまだ一年も経っていない。つまり、記憶を一年も遡れば嫌でも思い出せる。
レウルスにとって、シェナ村という場所は“この世界”における人格が形成された場所だ。両親から生まれ、幼い頃に死に別れ、そして十五歳になって成人するまで毎日のように酷使された、忌まわしい記憶。
そんなシェナ村だが、過酷な環境に置かれていたのはレウルスだけではない。奴隷としか言いようがない立場の人間が多少なり存在していた。
村を運営する上層部に、“普通”の村人。そして、レウルス達――農奴。
農奴が行うのは単純な、それでいて過酷な農作業が主である。シェナ村の外に作られていた畑を耕すのも農奴の仕事で、レウルスの両親が命を落としたように魔物に襲われることも珍しくはなかった。
魔物の脅威を防ぐための戦力として兵士がいたが、村民ならばともかく農奴を率先して助けるほどではない。タイミングが良ければ、魔物が弱ければ助けてもらえるというような、不確実な“命綱”だ。
未来に展望はなく、日々生きるのが精いっぱいで、村の人間に逆らう余裕も気概もない。
与えられた仕事をこなすことしか――“それしか”知らないのがシェナ村の農奴だ。
その点ではレウルスも他の農奴と大差はなかった。違いがあるとすれば前世の記憶があり、前世でも過労死するほど働いていて、シェナ村で与えられる粗食に耐えられる精神性があったことだ。
そんなレウルスでも常識も勝手も違う世界では大したことはできなかった。できたことといえば、両親と同じように命を落とした農奴を篤く弔ったことぐらいだろう。
それすらも村の上層部に命じられたことではあるが、レウルスがやらなければ他の農奴に任され、積み重なった疲労で命を落としていた。
レウルスは成人まで生き延び、鉱山奴隷として売られたところをキマイラに襲われて逃げ出したが、それも言うなれば運が良かっただけのことである。
村の上層部の連中の目を掻い潜って虫や雑草を食んで飢えを凌ぎ、この世界の言葉を覚えたが、所詮は“それだけ”の話だ。
自分の意思でシェナ村から逃げ出すことも、他の農奴を助けることもできなかった。
農奴を助けて逃げても、行く宛も食い扶持を稼ぐ術もなかった。シェナ村から逃げてもどこに他の町や村があるかわからなかった。シェナ村から逃げ出して野盗にでもなろうとしても、武器も防具もない身では数日と経たずに魔物に襲われて死んでいただろう。
前世の記憶があってもそんなものだ。『熱量解放』を自在に扱えるようになった今ならばともかく、当時のレウルスではラヴァル廃棄街まで生きて辿り着き、ドミニクやコロナによって救われたことも偶然の連続によって起こった奇跡でしかない。
そんなレウルスだからこそ、思うのだ。
“それしか”知らないというのなら、これから知れば良いのだと。
「味がないってのは悲しいなぁ……おやっさんの塩スープが飲みたくて仕方ねえや……」
切り分けたスライムの皮を次々と口に放り込みつつ、レウルスが呟く。その表情は言葉にした通り悲しそうで、八の字を描く眉が悲哀を感じさせた。
「塩スープ?」
「そう、塩スープ。俺の命の恩人が初めて食べさせてくれた料理でさ、これが美味いのなんのって……あれ以上美味い物はないだろうなぁ」
青い少女が首を傾げ、レウルスが答える。
餓死寸前の空腹感に今世で初めて与えられた“優しさ”という補正もあるだろうが、レウルスにとってはドミニクの塩スープ以上に美味いと思った物はない。
レウルスがそんな話をすると、少女はどこか興味深そうに頷いていた。
少女はスライムを凍らせる以外にやることがないのか、レウルスの傍から離れようとしない。もしかするとスライムが襲ってくることを警戒しているのかもしれないが、レウルスが見た限りでは少女が話した通り身動きが取れないようだった。
だが、それも残り僅かな日数の話だ。少女に助けられてから夜通しスライムを削っては食べていたレウルスだが、スライムの傍に居続けていると少女の話がよく理解できる。
たしかにスライムの“外側”は凍り付いているが、内部では氷が解けているのだろう。ゆっくりとではあるが三つの『核』が動き回っており、氷の束縛を脱しようともがいているように見えた。
「調味料があればもっと美味しく食べられるんだけど……って、それじゃあスライムが美味しいんじゃなくて調味料が美味しいだけって話だよな」
「調味料……」
「塩とか砂糖とか……胡椒はあるんだっけ? あと醤油があるといいな……あー、でもこの前食べた米は不味かったし、醤油があったとしても不味い可能性があるのか」
凍ったままではスライムの皮が非常に硬いため、『龍斬』を使って大雑把に切り分けてから砂浜に転がして解凍し、溶けたものから短剣で切り分けて口に放り込むというルーチンワークをこなすレウルス。
天候は徐々に回復に向かっているのか雨が降ることもなく、レウルスはせっせとスライムを食べ続ける。
そんなレウルスの傍には焚き火があった。多少渋ったものの少女の力を借り、手近なところにあった木を切り倒して乾燥させ、火打石で火を熾したのだ。
夜間の視界を確保するのが目的だが、物は試しにとスライムの皮を焼いて食べてもいる。味がほとんど変わらない上に、熱すぎて舌を火傷しそうになったが。
(うーん……美味い不味いじゃなくて味がないのがなぁ。でも“普通に”食べられる……スライムは頑丈って話だったけど、切り分けたから少しは柔らかくなってるのか?)
もしかすると、体から切り離したことでスライム本来の頑丈さも失われているのかもしれない。それでもレウルスが難儀するほどに硬いのだが。
余談ではあるが、スライムの“中身”については食べるのを諦めている。皮の部分ならばともかく、金属製の武器すら溶かすと聞いている以上無茶はできない。
(凍ってるならイケる……わけないか。腹の内側から溶けて死ぬとかゾッとしねえ……)
『龍斬』で切り分ける時にも、極力皮の部分だけを斬るようにしているのだ。
凍っているからか、『龍斬』の頑丈さが勝っているのかはわからないが、今のところ刃も欠けてはいない。水死寸前ですら手放せない愛剣が刃毀れをすれば自分がどんな行動に出るかわからないレウルスだが、スライムを倒そうと思えば『龍斬』を使う必要があるだろう。
「あなたはそんなに食べて平気なの?」
「昔から飢えててなぁ……あと、魔物ならいくら食べても大丈夫だ。すぐに消化するから」
体の中で本当に消化という事象が起こっているのかは定かではないが、今世の体に生まれてからは一度も腹を壊したことがない。同時に、満腹感も覚えた記憶がないが。
「あっちに生えてる木と同じぐらい食べてる……人間ってすごい」
「まだまだ食えるぞ? 無理矢理詰め込んでるだけで食べてる感じは全然しないけどな」
ほとんど噛むことなく、スライムの皮を丸呑みしているだけだ。喉を通りやすいよう小さく切り刻んではいるものの、いつ喉に引っかかるか不安でもある。
(なんだっけな……わ……わん、わんこ……そば?)
噛まずに丸呑みする食べ方に、前世の記憶が刺激された。挑戦したことはないが、そんな料理があったような気がする。味がないスライムの皮を食べ続ける現状と比べれば、きっと天国に違いない。
「あなたは――」
「レウルスだよ、お嬢ちゃん。よければ名前で呼んでほしいな」
レウルスとの会話に慣れてきたのか、何かを言おうとした少女を遮ってレウルスは言う。少女のように名前自体がないのならばまだしも、レウルスにはちゃんと名前があるのだ。
(あなたって呼ばれるより、名前で呼ばれた方が距離感が縮まった気がするしな……まあ、“あなた”ってある意味距離感ゼロだけど)
苦笑しながら名前を呼んでほしいと願うレウルスに、少女は視線を彷徨わせた。思わぬことを言われたとでもいわんばかりに、右に左にと目線が移動する。
「レウ……ルス?」
「おう」
「レウルス」
「おう……ここでお嬢ちゃんに名前があれば呼び返せるんだけどな」
名前を呼んでくれるのは嬉しいが、少女に名前がないためどうにも格好がつかない。“ワタシちゃん”以外で何か名前があれば良いのだが。
「名前……わたしは“わたし”」
「うん、お嬢ちゃんには悪いけどそれは名前じゃなくて一人称なんだ。例えばだな……」
そこまで言ってレウルスは口を閉ざす。名前に関しては、“サラの件”もあるため迂闊に言葉にして良いのか迷ったのだ。
「例えば?」
「あー……っと、うん、まあ、なんだ。名前の前に一つ尋ねるけど、お嬢ちゃんは精霊だよな?」
レウルスは以前、火の精霊として顕現する前のサラと言葉を交わしたことがある。
夢の中で声をかけられ、『自分の名前はなんだ』と聞かれたため『サラマンダーのサラちゃん』と答えてしまったのだ。それをきっかけとして顕現し、レウルスに憑いてきた――もとい、ついてきた過去がある。
今でこそ受け入れたが、その頃はサラの扱いをどうしたものかと悩んだものである。
そして、火の精霊であるサラと正式に『契約』を交わしたレウルスからすれば、眼前の少女もまた精霊ではないかと疑っていた。
感じ取れる魔力はサラよりも小さいが、長い間スライムを凍らせ続けていたと思えばそれも仕方がないだろう。むしろいまだに多くの魔力を保有していることを驚くべきである。
仮に少女が精霊だとすれば、行く先々で珍しい存在に出会い過ぎだろうと頭を抱えたくなる。だが、ラヴァル廃棄街の水事情を思えばこれ以上の人選もないため文句も言えない。
おそらくは水の精霊か、氷の精霊か。そのどちらかだろうとレウルスは考えるが、少女は不思議そうに首を傾げるだけである。
「精霊……って、なに? わたしは“わたし”」
(……ん? 精霊じゃない……いや、精霊自体を知らないのか?)
少女の反応にレウルスは内心だけで疑問の声を漏らす。少女の纏う雰囲気は人間のものではなく、精霊だと思ったのだが――。
(サラは火の精霊の祭壇にいたし、ヴァーニルと話もしていた……でも、この子は違う。それが理由か?)
どこか会話に慣れていないように見えるのも、それが原因だろうか。コモナ語を使える以上、最低限の知識はありそうなのだが。
(精霊の実例をサラしか知らないからな……いや、サラを精霊の代表みたいに考えるから駄目なのか? この子の方が精霊として正常って可能性も……)
例え話だろうと名前を出すことを躊躇していたが、それ以前の問題かもしれない。そもそも、眼前の少女はどうやってこの場に顕現したのか。スライムを凍らせるためといっても、そのためだけに顕現したのか。
「精霊っていうのは、その属性を司る……生き物? 昔、大精霊っていう偉い精霊がいたとかで、宗教が造られるぐらいすごい……えーっと……お嬢ちゃんの場合は氷か水の精霊だと思うんだけど……」
「……?」
精霊に関して説明をしようとしたレウルスだったが、サラという精霊の実物を知ってはいても一般的な知識は乏しい。この場にジルバがいれば嬉々として語ってくれたのだろうが、残念ながらメルセナ湖を隔てて離れている。
「……ごめん、俺も詳しくはないんだ。でも、お嬢ちゃんさえ良ければ名前を考えてみるけど……」
レウルスとしても、この青い少女を孤島に放置して立ち去るつもりはない。ラヴァル廃棄街に来てほしいという気持ちもあるが、それ以上に命を救われたのだ。
少女がこの孤島から離れたくないというのならば諦めるしかないが、少しでも“外”に出たいと思うのならば叶えたかった。
「名前……“わたし”の名前……」
少女は不思議そうにしていたが、嫌がってはいないように見える。そのため、レウルスはスライムを齧りながら時間が許す限り良い名前を考えてみようと思った。
――そんなレウルスと少女を見つめるように、スライムの『核』が蠢いていた。