第163話:青い少女 その1
降り注ぐ雨によって湿った砂浜に、何かを引きずるような音が響く。
地面や湖面を打ち付ける雨音と吹き付ける風の音によってそのほとんどが掻き消されるが、それでもズルズルと、重量のある物体を引きずる音が響いていた。
「んしょ……んしょ……」
「…………」
引きずる音に加えて、幼さを感じさせる声も聞こえた。だが、引きずる音にも何者かの声にも引きずられている物体――レウルスは反応しない。
全身を弛緩させ、引きずられるがままになっていた。その顔からは血の気が失せており、身動ぎ一つしない。それどころか呼吸すらも止まっているようで――。
「“出て”いって」
「っ!?」
何かの声に、レウルスの体が大きく震えた。そして数秒と経たずにレウルスの口が開き、大量の水が“勝手に”流れ出ていく。
「ん、が、っ!? げほっ! げほっ! お、ぅ、えっ……な、なんだ!?」
体が排水ポンプにでもなったかのように水を吐き出したレウルスは、状況が掴めずに周囲を見回した。
何故自分が口から大量の水を吐いているのか、何故意識を失っていたのか。レウルスの体は呼吸を忘れていたように酸素を求め、大きく深呼吸を繰り返しながらもレウルスは困惑を深める。
(あれ? 俺、今まで何を……)
意識ははっきりとしてきたが、今の状況が理解できない。体を起こしたレウルスは自分の体を見下ろすと、不思議そうに首を傾げた。
防具は身に着けておらず、上下の服と靴、腰の裏につけた短剣と腰に巻いた皮の小物入れ。そして少し離れた場所には鞘に納まった愛剣が転がっている。
着ている服は寒い場所に行くということで厚手のものを選んでいたが、今は水で濡れて肌に張り付いていた。まるで服を着たままひと泳ぎでもしてきたような有様である。
「……あっ」
そこまで考えたレウルスは、遅まきながら自分の状況を思い出した。
船から落ちたエリザを助けるために荒れ狂うメルセナ湖へと飛び降り、エリザを船上へと放り投げてから魔物と戦ったこと。
そのまま船から離れすぎて方向を見失い、感じ取った魔力目指して泳いでいたことを。
「……俺、生きてるのか?」
思わず、といった様子でレウルスが呟いた。
記憶を辿ってみると、『熱量解放』に回していた魔力が尽きかけ、自力で泳ぎ出したことを思い出す。しかしエリザやサラとの『契約』による恩恵もなく、本当の意味で自力で泳ぐには状況が悪すぎた。
水を吸って重くなった衣服に、背負った愛剣の重さ。水の冷たさで冷えていく体に、雨と風で荒れたメルセナ湖。『熱量解放』を切っても最初こそは泳げていたが、五分も経たない内に泳ぐというよりも“沈まない”ために手足を動かしていた記憶がある。
疲労と寒さで動かなくなる手足。愛剣を捨ててまで生き延びるべきかと思考するが既に遅く、水を飲みながら水中へと沈んだのだ。
“人生”で何度感じたかわからない、死の気配。それも実際に命を落とした前世の時のように、これはもう駄目だと思考してから記憶が抜け落ちていた。
――だが、生きている。
愛剣の重さで水中へ没するだけだったはずだというのに、レウルスは砂浜に腰を下ろしてしっかりと思考することができている。
実は死んでいて魂だけになった、というオチはないだろう。寒さで感覚が鈍った体でも降り注ぐ雨の冷たさ、体を打つ感覚が伝わってくる。
(体は動く……でも魔力がほとんどない、か……)
溺死の一歩手前まで追い込まれていたからか、魔力が尽きかけているからか。腕を持ち上げるだけでも酷く億劫だ。魔力が尽きかけている体は気を抜けば意識を失いそうで、今意識を失えばそのまま永久の眠りについてしまいそうだった。
それでも、レウルスは生きている。体が動かしにくいが、心臓に手を当ててみればしっかりと鼓動を刻んでいた。
(……待てよ、なんで生きてるんだ?)
たしかに自分は水中に没したはずだ、とレウルスは眉を寄せる。意識を失ってから体が勝手に動いたというわけでもないはずである。
往生際が悪い方だとは思うが、さすがに意識を失った体が勝手に動けばそれは人体の奇跡というよりもただのホラーだ。スポーツ選手などが体に染み付いた動きを反復するだけならまだしも、意識がない状態で自分が岸まで泳ぎ続けられるとは思えない。
「…………」
「っ!?」
それならば一体何が――と疑問を抱きながら周囲を見回したレウルスだが、背後に視線を向けるとそこに誰かが立っていた。
死の淵から戻ってきたばかりだからか、寒すぎて感覚が鈍っていたのか。体を起こしたレウルスの背後一メートルほどのところに一人の少女が立っていたのだ。
「えっ……あ、き、君は?」
無言で見つめてくる少女に、レウルスは動転しながらも声をかける。
少女は幼く、顔立ちだけで判断するならばエリザ達と大差ない年齢だろう。可愛らしい顔立ちをしているものの、無言を貫いているからかどこか冷たい印象も与える。
背中まで伸びた青味がかった髪は透き通るようで、大雨が降っているというのにふわりとカーブを描いていた。
少女の身長はエリザやサラよりも僅かに低く、ミーアよりは高い。背が低い割に起伏がある体には水色の布――羽衣とでも評すべき布を巻いて服代わりにしているが、足元を見ると素足だった。
(なんだ、この子……)
じっと見つめてくる少女の青い瞳を見つめ返しつつ、レウルスは内心だけで困惑する。
敵意は感じられないが、レウルスに対して興味を抱いているようにも見えない。よくよく探ってみると少女からは魔力が感じられたため、ただの少女とも思えない。
(っ……本当に感覚が鈍ってるな。この子、かなり強いぞ……)
頭が覚醒したばかりだからなのか、少女に敵意がないからかはわからないが、しっかりと確認することでレウルスは少女が持つ魔力の量に気付く。
魔力の量が強さに直結するわけではないが、少女からはエリザ以上の魔力が感じ取れた。それでいてどこか超然とした雰囲気を纏っており、レウルスの身近な人物としては先輩冒険者であるシャロンに近いものを感じる。
「君が助けてくれたのか?」
「…………」
「俺は冒険者のレウルス。君は?」
「…………」
敵意は感じないのだからと声をかけてみるが、反応はない。少女はじっとレウルスを見つめるばかりで、言葉の一つも返さなかった。
言葉が通じるのなら魔物が相手でもコミュニケーションを取れると思っていたレウルスだが、何も返事がないのではさすがに困ってしまう。
もしかするとコモナ語が通じないのかと思ったものの、言葉が通じる通じない以前に話を聞いてくれているのかと疑問に思うほどの無反応振りだった。
(……生きてるよな?)
思わずそんなことを考えてしまうぐらいに反応がない。レウルスは少女の意識を確認するために目の前で手を振ってみると、少女は小さく首を傾げる。
どうやら意識はあるらしい、とレウルスは安堵した。真剣に安堵するぐらいに反応がないが、レウルスは目の前の少女が自分を助けてくれたのだろうとアタリをつける。
「君が俺を助けてくれたんだろ? ありがとう、助かりました」
立ち上がるのも辛いが、レウルスは何とか立ち上がって頭を下げた。周囲には他の人影もないのだ――相変わらず薄っすらと魔力が漂っているが。
レウルスが頭を下げると、何を思ったのか少女が手を伸ばす。そしてレウルスの頬をぺちぺちと叩くと、小さく頷いた。何事かと視線を向けてみると、少女の顔はどこか満足そうである。
少女はそのままレウルスから視線を外すと、小走りで『龍斬』のもとへと駆け寄った。
少女は『龍斬』の柄を握ろうとしたが、レウルスが止めるよりも先に手を止めて『龍斬』を眺め、左右に首を傾げてから鞘を掴む。そして重さを気にした様子もなく持ち上げたかと思うと、レウルスの方へと戻ってきた。
鞘ではなく柄を握っていたら危険だったが、『龍斬』に仕掛けてある“防犯機能”に気付いたのかもしれない。
「えーっと……ありがとう?」
差し出された『龍斬』を受け取ると、少女は再び満足そうに頷いた。表情はほとんど変わっていないが、無表情に近いからこそ僅かな変化が目立つ。
(人間なのか、それとも魔物なのか……魔物なら『変化』を使ってる? もしくはドワーフみたいに亜人か?)
レウルスが口にした礼の言葉に反応しているため、言葉が通じないわけではないのだろう。意識はなかったが、どこか遠くで少女らしき声も聞いた気がするのだが。
「こっち」
言葉を話せないのかと思っていたレウルスだが、その疑問を覆すように少女が声を発した。そしてレウルスの返事を待つことなく歩き始めると、数歩進んでから足を止めて振り返る。
その姿は早くついてこいと言わんばかりで、顔を上げたレウルスは『龍斬』を背負って歩き出す。
(ぐっ……体が、重い……)
だが、一歩踏み出すだけで倒れそうになった。『龍斬』の重さもあるが、魔力が不足している上に体が疲労している。加えて言えば、素の身体能力に戻ったことで“これまで”との感覚のズレが大きかった。
一歩一歩、倒れないように地面を踏み締めて歩く。それだけでも一苦労だが、少女はレウルスの足の遅さに何も言わず、追いつくのを静かに待っていた。
得体の知れない少女に従うのは危険かもしれないが、今のレウルスに取れる選択肢は限りなく少ない。少なくとも少女から敵意は感じられず、レウルスは己の感覚を信じて少女の先導に従う。
雨で視界が悪かったため気付かなかったが、砂浜を抜けると木々が生い茂っていた。数はそれほど多くないが、冬だというのに葉をつけた“天然の屋根”によって雨脚が弱くなったように感じられる。
(木が生えてるってことは岸の近くまで泳いでたってことなのか? でも、その割に魔物には遭わなかったしな……運が良かっただけか?)
運が良ければ今のような状況には陥っていないのだろうが、その点に関しては目を逸らす。
少女の先導に従ってゆっくりと歩を進めるレウルスだったが、目的地に到着したのか少女の足が止まる。
そこには、周囲の木と比べて一際大きな木が一本生えていた。木の太さは三メートル近くあり、地面にはがっしりと根が張っている。その割に木の高さはそれほどでもないらしく、四方に伸びた枝葉が雨の大部分を弾いていた。
「こっち」
先ほどと同じような言葉を紡いだ少女が木の裏に回ると、そこには大きな洞があった。視界が悪いため詳細は確認できないが、洞の中には草か藁が敷き詰めてあるようだ。
どんな意図があってこの場に案内したのか。レウルスが不思議そうに少女を見ると、少女はレウルスと同じように不思議そうな目付きで見返してくる。
「どうぞ」
「え?」
「どうぞ」
洞を指さして何かしらの行動を促してくる少女だが、レウルスとしてはどう反応すれば良いのかわからない。
洞に入れということなのか、それとも何か別の意図があるのか。『龍斬』を洞の外に置けばレウルスが寝転がれるぐらいの広さはあるのだが――。
「わかった」
一向に洞に入ろうとしないレウルスをじっと見つめていた少女だが、やがて何かに思い至ったのかレウルスとの距離を詰める。相変わらず敵意がないため反応に困るレウルスだったが、少女はレウルスの濡れた衣服に右手を当てた。
一体何をするつもりなのかとレウルスは少しだけ警戒したが、すぐさま自らに起こった“異変”に気付く。
(これは……服が乾いてる?)
メルセナ湖の水と雨で滴るほどに濡れていた衣服から、急速に水分が抜けていく。何が起きているのかと瞠目するレウルスだが、いつの間にか少女の右手には水の塊が生み出されていた。
水の塊は球体に形を変えたかと思うと、少女が手を振るなり遠くへと飛んで派手な水音を立てながら砕け散る。レウルスが慌てて自分の体を確認してみると、服や靴の中、体に付着していた過剰な水分の全てが消え失せていた。
(まさか、服に染み込んだ水を抜いた? 魔法だとしてもどんな技術だ?)
無言で絶句するレウルスだったが、そんなレウルスを気にした様子もなく少女が洞を指さす。
「これで寒くない。寝床も水で汚れない」
どうやらレウルスが洞に入らなかったのは寒さと濡れていることが原因だと思ったようだ。そうだとしても、すぐさま水を取り除いた少女の手腕にはどう反応すれば良いか困るのだが。
「……君は一体何者なんだ?」
敵意はないが、かといって善意に溢れているようにも思えない。淡々と行動する姿はロボットのようで、レウルスは少しだけ声色を硬くしながら尋ねていた。
「わたしは“わたし”。それ以外の何者でもない」
しかし、少女の返答は理解できないものである。
名乗ることもなく、静かに見つめてくる少女にレウルスができたのは、困ったように雨雲で覆われた空を見上げることだけだった。
どうも、作者の池崎数也です。
久しぶりに後書き欄をお借りします。
今回の更新で拙作も100万字を超えました。
早いもので、掲載を始めて半年経っていないのに100万字に到達です。
これも毎度ご感想やご指摘、評価ポイント等をいただけているからだと思っています。感謝感謝です。
最近は更新ペースが落ちていましたが、花粉症も落ち着いてきたので少しでも更新ペースを取り戻せればと思います。
それでは、こんな拙作ではありますが今後ともお付き合いいただければ幸いに思います。