第161話:選択 その1
「さて……これからどうするかな」
仕留めたシャチに似た魔物――その巨大な“背中”に立つレウルスは、血の臭いに惹かれて群がってきている鮫の魔物を狩りながら一人で呟いた。
いつ沈むかわからないが、足場があるのは素晴らしいことだ。そう思いながら『龍斬』を振るい、群がる鮫の魔物を片っ端から両断していく。
そして手短かに鮫の魔物の群れを仕留め終わると、『龍斬』の刀身に視線を向けた。手入れをしたいところだが、現状ではその余裕もない。そもそも手入れのための道具がない。
刃毀れなどはしていないが、血や泥水で汚れていてはせっかくの“美人”が台無しだ、などと現実を逃避するように思考した。
とりあえず、といった様子で鞘ともどもシャチの魔物の背中に大剣を突き刺したレウルスは、『熱量解放』と解いてから短剣を抜き、鮫の魔物の解体を始める。
仕留めたシャチの魔物は巨体でまだ水に浮いているが、いつ沈むかわからない以上、今の内に腹ごしらえをしようと思ったのだ。
そうしている間にもメルセナ湖の“流れ”によって移動しているが、レウルスには自分の現在位置がわからない。
水の流れが一直線ならば方向にアタリを付けるのも簡単なのだが、さすがにそんなことはないだろう。レテ川と違い、現在いるのはメルセナ湖だ。
メルセナ湖に流れ込んでいる川がレテ川だけとは限らない以上、水の流れが規則的とは思えない。レウルスが乗っている魔物の死骸も時折左右に揺れており、単純に流れに逆らって泳いでいっても元の場所に戻れる保証はない。
それ以上に厄介なのが、普段ならば明確に感じ取れるはずのエリザやサラとの『契約』――多少距離があってもどこにいるかわかるはずの魔力のつながりが、今はほとんど感じられないことだった。
戦闘中に方向を見失ったため、どの方向に泳げば岸があるかもわからない。足場が沈んでしまえば勘で岸を目指すしかないが、下手すると岸ではなくメルセナ湖の奥へと進んでしまいそうだ。
それでも頑張れば対岸まで泳ぎ切れるかもしれないが、聞いた話ではメルセナ湖は海までつながっているという。泳ぎ続けたらいつの間にか海に出ていた、という笑えないオチが待っている危険性もあった。
さすがにメルセナ湖を抜ければすぐに海が広がっているということはないだろう。レテ川のように水の流れがあり、その先に海があるのだとは思う。
しかし、レテ川の下流は川幅が非常に広かった。視界が悪い状態では岸に気付かないこともあり得る。いよいよとなれば勘頼りで泳ぐしかないものの、頼りにするには自分の運や勘が信じられないレウルスだった。
(魔物がこっちに寄ってきた以上、船は無事だと思うけど……浸水してたって言ってたし、救助を待つのは悪手か)
自力で岸に上がり、目的地であるヴァルディへ向かうのが無難だろう。金がないため税金を払ってヴァルディに入るのは難しいだろうが、近くまで行けば魔力のつながりを感じてエリザ達の方から来てくれるはずだ。
「えーっと……さすがに売れる素材がわからないし、持って行くのは無理か。食えるだけ食ってあとは捨てるなんて勿体ないけど……」
考え事をしながらも動いていたレウルスの手は、それほど時間をかけずに鮫の魔物一匹をバラバラにしていた。皮を剥げば食べられるだろうと考え、ひとまず内臓だけは避けて生で齧り始める。
(生臭いというか泥臭いというか……焼いて塩を振ればまだ美味く……いや、贅沢だな、うん)
咀嚼してみるが、毒を持っているようには感じられない。レウルスは『加護』として毒に対する耐性を持っているが、好んで毒を食べたいと思うほど変わった趣味は持っていなかった。
加えて言えば、あくまで耐性があるだけで無効化できるわけでもない。レウルスは以前猛毒が塗られた短剣で刺されたことがあるが、死にはせずとも毒によって体に変調をきたした。
それらを考えれば、わざわざ毒を持つ魚を好んで食べたいとは思わない。ただし、食べ方と味については思うところがあった。
サラがいれば二メートル近い魔物だろうと容易く丸焼きにできただろう。そこに塩を振ればそれだけでレウルスにとっては御馳走だ。
しかし、去年の今頃は木の根や虫、雑草で飢えを凌いでいたと思えば贅沢極まりない。海魚とも川魚ともわからない、得体の知れない魔物ではあるが、生でも“肉”を食べられるだけ上等だろう。
「火の精霊の契約者、レウルスの名において命ずる……燃えろ」
それでも、一応エリザやサラに倣って『詠唱』を試みた。『龍斬』を握りながら『詠唱』を口にしてみるが、炎どころか火の粉すら出てこない。
(『詠唱』の仕方が悪いのか、サラとの距離が離れすぎてるのが悪いのか……)
普段から魔法の扱いはエリザとサラに任せ、レウルスは剣を握って突撃するばかりだった。
敵が魔法を使えば魔法を斬る。向かってきたら正面から斬る。逃げようとしたら背中から斬る。魔法らしい魔法と言えば『熱量解放』ぐらいで、あとは精々魔力の刃を飛ばしていたぐらいだ。
自分が魔法を使うよりも、エリザやサラの魔法による援護を受けながら切り込む方が手っ取り早い。『熱量解放』はともかく、『詠唱』しながら切り結ぶような器用さはないのだ。
無事にエリザ達の元に戻ったならば、魔法の訓練もした方が良いのかもしれない。せめて『契約』を活かした魔法の行使についてはもっと磨くべきだろう。
「…………ん?」
そんなことを考えながら『龍斬』を鞘に納めようと思ったレウルスだが、違和感を覚えて眉を寄せる。
――愛剣が妙に重い。
足場に突き刺した大剣を抜こうとしたレウルスだったが、“普段”と比べて非常に重く感じられた。魔物の死骸に突き刺しているからかと思ったが、それにしても重すぎる。
(……まさか!?)
思わず、といった様子で自分の体を見下ろすレウルス。外見的な変化はないが、大剣を引き抜いてみると自身の体に起こった異常に気付く。
今の自分は“素”の身体能力しかないのだ、と。
「…………」
どうやら、距離が離れすぎてエリザやサラから送られてくる魔力が完全に途切れたらしい。
レウルスは両手で大剣を握り、無言で振り上げる。
普段ならば『熱量解放』なしでも右腕一本で持ち上げ、振るうこともできるが、今は両腕を使わなければ持ち上げるのも辛い。
以前と比べると筋肉が増えたため、ドミニクから譲られた大剣を使っていた時のように振り下ろすだけで精一杯ということはないだろう。
だが、エリザやサラから魔力が送られていた時とは比べ物にならないほど鈍重な動きになりそうだ。大剣を鞘に納めて持ち上げてみると、それが余計に顕著になる。
「……本当に、贅沢な話だなぁ、おい」
“元に戻った”だけだというのに、奇妙なほど喪失感を覚えている自分に苦笑を零す。
『契約』を交わしたエリザやサラとここまで距離が離れることになるとは思っていなかった。そんな想定をしていなかった自分をレウルスは笑い飛ばすと、いつ沈むとも知れない魔物の死骸にどっかりと腰を下ろす。
死骸の背中に乗ったままで流され、陸地の傍まで辿り着ける可能性はどれぐらいあるか。そこまで運良く物事が運ぶだろうか。
――答えは否である。
レウルスはそう結論付けると、自分が仕留めた魔物を片っ端から食べ始める。焼いていない、塩がないと愚痴を零す時間すらも勿体ない。
今のレウルスにできるのは、魔物を喰らって少しでも魔力を増やすことだけだった。
魔物の死骸を船代わりにして漂流し、どれぐらいの時間が過ぎたのか。天候は相変わらずの荒れ模様で、視界は百メートル先も見えないほど黒々としている。
自分がどこにいるのかもわからない。太陽が見えれば方角ぐらいは割り出せたのかもしれないが、音を立てて雨を降らす雨雲は一向に晴れる気配がなかった。
「……やっぱり駄目か」
少しずつ沈み始めている“足場”に気付き、レウルスはぽつりと呟く。
襲ってきた鮫の魔物は毒がないことを祈りつつ、頭から尻尾まで全部食べてしまった。非常に生臭かったが、幸いにして水は周囲にいくらでもある。水といっても泥水に近いが、シェナ村にいた頃はよく“お世話”になっていたのだ。口をすすいで生臭さを泥臭さに変えることぐらいはできた。
足場にしていたシャチに似た魔物の死骸も可能な限り食べたが、これ以上は無理だろう。既に足首まで水に浸かっており、そう遠くない内に水没すると思われた。
(縦に斬らなきゃ良かったな……)
仕留める際に背中から頭にかけて一直線に斬ってしまったが、首を落としていればもう少し船として頑張ってくれたかもしれない。今となってはどうにもならないが。
(さて……“どっち”に行くべきか)
少しずつ足場が沈んでいく恐怖を堪えるように両腕を組み、レウルスは目を細める。
体感としては現状に陥って二時間ほど経っただろうか。実際はもっと時間が経っているのか、それとも全然時間が経っていないのかもしれないが、レウルスとしては非常に気になることがあった。
メルセナ湖に入るなり魔物に襲われたわけだが、漂流を始めてからは襲われていない。魔力に惹かれたのか血の臭いに惹かれたのかはわからないが、鮫の魔物が再び襲い掛かってきてもおかしくないと思っていたのだ。
レテ川の流れとメルセナ湖が合流する辺りを縄張りにしていただけなのか、それともただ運が良いだけなのか。
そう思考するレウルスだが、船長はメルセナ湖に入ってすぐの段階でシャチに似た魔物のような巨体の魔物と遭遇するのはおかしいと言っていた。つまり、普段はメルセナ湖の中でも水深が深い場所に生息しているのだろう。
「……何かいるんだよなぁ」
“これから”のことを思考するレウルスだったが、その視線を自身の右側へと向ける。
開き直って鮫の魔物を食い散らかしていた時に気付いたのだが、薄っすらとした魔力が周囲に広がっている。その魔力は非常に希薄で、まるで水面を漂う靄のように広がっているのだ。
目を凝らしてみても、何も見えない。相変わらず不明瞭な視界には何も映らず、感覚だけが魔力の存在を伝えてくる。
(ヴァーニルみたいな魔物がいるのかと思ったけど、何か違う……とりあえず敵意は感じないけど……いや、でも何か“混ざってる”感じもするような……)
普通ならばその場にいないはずの魔物が他所から移動してくるというのは、あり得ないことではない。レウルスも過去にその手の魔物と交戦したことがある。
マダロ廃棄街から救援依頼を受けた時のことだが、その時は酷い目に遭ったものだ。並の戦士よりも余程戦巧者な魔物と戦う羽目になり、死を覚悟したほどである。
魔物が他所から移動してくるなど、それこそ他の魔物との縄張り争いに負けるか、数が増えすぎて自然とそうなったか――あるいは事前に“危険”から逃れるためか。
(……考える時間はないな。足場もそうだけど、俺の体もきつい)
大量の魔物を喰らったからか、体内に魔力が満ちているように感じられる。だが、冬のメルセナ湖に落ち、水中で戦闘を行い、着替えることもなく雨に打たれ続けているのだ。
前世の仕事に疲れた体ならば肺炎になっていてもおかしくはない。今世の体は“その程度”で肺炎になっていたならばとっくの昔に死んでいたと思えるほどに頑丈だが、寒いものは寒いのだ。
レウルスは今、二つの選択を迫られている。
一つは感じ取った魔力から遠ざかるように泳ぎ出すことだ。
魔力からは敵意も殺意も感じられないが、近づけば何が起こるかわからない。
こちらを選んだ場合、問題点はいくつかある。泳いだ先に陸地があるかわからず、仮にあったとしても陸地までの距離がわからない。それに加えて謎の魔力から遠ざかれば再び魔物に襲われる危険性があるだろう。
泳いでいる最中に流され、あるいは押し戻され、いつまで経っても陸地に泳ぎ着けないという最悪の未来もあり得る。
もう一つは敢えて魔力を感じる方へと泳ぎ出すことだ。
何が起こるかわからないが、魔力を感じ取れる以上“距離”も掴みやすい。レウルスの予測が正しければ魔物に襲われることもないはずだ。
泳ぐだけならば後者の方が良いだろうが、問題なのは感じ取った魔力を“何が”発しているかである。
感じ取れる魔力は希薄で、少なくともすぐ近くに存在しているわけではないだろう。距離があっても感じ取れるほど強大な魔力の持ち主なのか、それともレウルスが知らない魔法の術があるのか。
近くに魔物がいない以上、ヴァーニルのように強力な魔物がいるのではないかとレウルスは予想しているが――。
(藪をつついて蛇が出たら……いや、湖を泳いで龍が出たらヴァーニルの名前を出そう。ヴァーニルと似たような性格だったらなんとかなるかもしれないし……)
僅かに逡巡したレウルスだったが、敢えて魔力の方に近づくことにした。湖で“遭う”のなら水龍だろうか、ヴァーニルみたいに殴り合いで解決できればいいのに、と自分を奮い立たせるために無理難題口の端を吊り上げたみた。
『契約』による魔力が途切れている以上、『熱量解放』を使って泳ぐ必要がある。『熱量解放』なしで泳ごうとした場合は大剣の重さで沈みそうだ。
大剣を置いていけば『熱量解放』なしでも泳げるだろうが、魔物に襲われたら確実に死ぬだろう。
愛剣を手放すつもりは毛頭なかったが、ヴァーニルを斬って以降、魔物が避けてくれるのだ。シャチや鮫の魔物は寄ってきたが、さすがに水棲の魔物が船の上にいるレウルスの匂いを察知するのは不可能である。
水に浸かっていればヴァーニルの匂いを感じ取り、魔物の方から避けてくれるかもしれない。レウルスが進む先に“何か”がいたとしても、それがきっかけで興味を持つ可能性もある。
「……さすがに限界だな」
つらつらと考え事をしていたレウルスだったが、水が腰まで上がってきたため思考を打ち切った。大剣を剣帯でしっかりと背中に固定すると、寒さで震えそうになる体を叱咤するために両手で顔を叩く。
(鬼が出るか蛇が出るか龍が出るか……自分の運を信じてみるか。自信はないけどな)
レウルスは大きく息を吸い込むと、『熱量解放』を発動してメルセナ湖に飛び込むのだった。