第155話:レテ川 その1
「大きな川って聞いたけど……まさかあんなに大きいとはなぁ」
ラヴァル廃棄街を出発して五日の時が過ぎた。
飛ばせるだけ飛ばしてレテ川までの道のりを走破したレウルスだったが、見えてきた巨大な川――レテ川を見て呆気に取られたような声を漏らす。
エリザやサラ、ミーアもそれは同様で、遠目に見えるレテ川に気付くなり目だけでなく口も大きく開けている。
「ふむ……どうやらこちらの地域ではきちんと雨が降っていたようですね。以前訪れた時と比べて川の水位もそれほど変わっていないようです」
驚いていないのはジルバだけであり、遠くに見えるレテ川の水量からここ最近の天候を推測していた。
ここ五日間はそのほとんどを移動に充てていたが、ジルバに疲労の色はない。レウルスもまだ余裕があるが、ジルバほど体力が残っているとは口が裂けても言えなかった。
幸運というべきか、サラとレウルスの“索敵”による必然か。ここまでの道中では魔物や野盗に襲われることもなく、戦闘を行うこともなかった。
荷物を担いで走り続けるという肉体的な疲労は蓄積していたが、戦闘時の緊張など精神的な疲労は皆無と言って良い。レウルスは背負っていたリュックの肩紐の位置を調整しつつ、目を細めてレテ川を遠望する。
レテ川までは残り数百メートルといったところで、走らずとも十分足らずで到着するだろう。それほどまでに近い場所へたどり着いたのだが――。
「……対岸が滅茶苦茶遠いな」
前世の衰えた視力とは比べ物にならない明瞭な視界を持つレウルスだが、薄っすらと見えるレテ川の対岸を見てそう呟いていた。
水面を霧が覆っているのか、あるいは純粋に距離が遠いのか。目測では正確な距離もわからないが、少なくとも一キロメートル以上の川幅があると思われた。
(ラヴァル廃棄街の周辺は水が減ってるのに、こっちはこんなに水があるのか……いや、けっこうな距離を移動したからおかしくはないんだろうけど……)
さすがに真夜中は休んでいたが、日が暮れても月明かりを頼りにして移動してきたのだ。レウルス一行は全員が『強化』を使えるため、ラヴァル廃棄街からこの場所までの移動距離は相応に大きい。
(そう考えると、この国って本当に大きいんだな……)
荷物を背負い、最低限とはいえ警戒しながら走り続けたのだ。その移動距離は軽く千キロメートルを超えているだろう。
魔物や野盗だけでなく街道を巡回する兵士達も避け、時には森の中を進み、時には山道を越え。合間に休息を挟みつつも、急ぐ旅だからと可能な限り速度を上げて走り続けてきた。
荷物や装備がなく、魔物などの警戒も必要がなければもう少し時間を短縮できたのだが、現状では“これ以上”を求めるのは難しいだろう。
「うぅ……ボク、これからはもっと運動するよ……」
「ワシも……少しは、体力が……ついたと……思ったんじゃが……」
レテ川の巨大さに驚いていたミーアとエリザだったが、疲労を思い出したのか地面に座り込んで荒い息を吐く。
いくら『強化』が使えるといっても、疲労までゼロになるわけではない。長時間走り続ければ疲れるのだ。
「もう少しだけ頑張ってください。カダーレにつけば船に乗れますし、船の中ならいくらでも休めます。船の状況次第ではアデーレで数日宿泊することになりますから」
ジルバが苦笑しながら励ますと、エリザとミーアは気怠そうに立ち上がる。レウルスとしても休めるならば休みたいぐらいには疲れているため、二人の気持ちがよく分かった。
「ねーねーレウルス、船ってどんなの? 本当に休めるの?」
「……俺も見たことないから何とも言えねえな」
前世ならばともかく、今世においてはレウルスも初めて船を見ることになる。そのため惚けるが、もしかするとレウルスが知る前世の船とはまったくの別物の可能性もあった。
(さすがにエンジンを積んでて操縦できるってわけじゃないだろうしな……木造船? あれ? それだとけっこう揺れるんじゃないか? 船酔いしたら休むどころじゃないような……)
川を下るだけならそこまで揺れないのだろうか、とレウルスは内心だけで首を傾げる。船の大きさや川の流れの速さにもよるのだろうが、前世の船ほど快適とは思えない。
(いや、魔法具もあるんだし、もしかすると前世の船みたいに自動で動くのかもしれないな……)
この世界の技術力の高さは未だにわからないが、魔法がある以上どんな船が出てきても驚くまい。
レウルスは自分にそう言い聞かせ、ジルバの案内に従ってカダーレへと向かうのだった。
レテ川に接する城塞都市カダーレ。
当然ながらレウルスも初めて訪れたのだが、初めて踏み入れたカダーレの町並み――正確に言えば町中に漂う雰囲気に首を傾げる。
「……なんか、他の町と違いませんか?」
建ち並ぶ家々や道路などは、これまで訪れたことがある町と大差がない。しかし、すぐにそんな疑問を零すぐらいには町の雰囲気が違った。
廃棄街ならばともかく、城壁で覆われた“平和な町”へと足を踏み入れた時に向けられる周囲の視線は特徴的だ。
レウルス達は冒険者だが、正規の手順を踏んで町に入っても住民から向けられるのは嫌悪の感情である。冒険者という職業上仕方ないのだろうが、野盗でも見たように嫌悪感が顔に出るのだ。
絡んでこなければレウルスは気にしないが、エリザなどは居心地が悪そうにしていた。だが、カダーレの町では“それ”がないのだ。
町の住民はレウルス達を見ても大した反応をしない。ジルバが先頭を歩いているからか、以前と比べて装備が整っているからか、あるいは単に住民が慣れているだけなのか。
すれ違う住民もレウルス達を一瞥するが、そのまま何も反応せずに通り過ぎていく。
「カダーレは河港がある分、他の町と比べて多くの人が訪れますからね。住民も慣れているんですよ」
「へぇ……これまで入ったことがある城塞都市だと反応が悪かったんで、逆に新鮮ですね」
住民の全てが無関心というわけではないのだろう。時折観察するような視線も飛んでくる――が、ジルバの服装を確認してからレウルスの装備を見るとすぐに視線が外れた。
「レウルスさんの場合は装備が整っていますし、私はこの格好ですからね。精霊教徒が護衛を連れていると考える人もいるのでしょう」
「……ジルバさんに“お守り”をしてもらってる側としては反応に困りますね」
ジルバは護衛をされる側ではなくする側だろう。レウルスはそう思いながらエリザ達がはぐれないよう歩調を緩める。
大剣もそうだが、傍目には革鎧に見える装備一式もすべてがドワーフ手製の代物だ。魔物の革から作った緩衝材をドワーフが精錬した鉄板の裏面に張り合わせ、表面には中級の魔物の革を固定することで革鎧に見せかけた複層の鎧である。
装飾の類が一切ない実用一辺倒の鎧だが、そのシンプルさが良い影響をもたらしているのかもしれない。
「うーむ……活気がある町じゃのう」
「周囲の人間も睨んでこないし、住みやすそうねー」
「ボク、廃棄街以外の町に入ったのって初めてだから何も言えないんだけど……」
エリザ達は感心したように周囲を見回している。
無手で戦えるサラはともかく、杖を両手で抱えているエリザや金属製の巨大な鎚を背負っているミーアには時折視線が向けられるが、そこに悪意はない。珍しいものを見たように目を見開く者がいる程度だ。
「まずは河港に行きましょう。船がいつ頃出るかを確認しないと動きようがありません」
「了解です……っと、ここまで来て尋ねるのも遅いんでしょうけど、船に乗るにはいくらぐらいかかるんですか?」
ジルバの先導に従って歩きつつ、レウルスは懐の財布を意識する。
水の『宝玉』を購入する可能性を考えると、ナタリアから渡された“軍資金”には手を付けられない。今回はラヴァル廃棄街からの依頼ということで多少の路銀は渡されているが、船代があまりにも高い場合は一時的に自腹を切る必要があるだろう。
ジルバがいるからこそ気軽に船代の相場を聞けるが、性質の悪い相手だと吹っ掛けられる可能性もあった。
「私がこの町を訪れたのは十年近く昔なので現在もそうだとは限りませんが……金貨三枚といったところでしょうか」
「金貨……三枚……」
日本円で考えれば三十万円程度だろうか。それは高すぎるのではないか、とレウルスは眉を寄せる。
「ははは、それでも上りと比べると安いんですよ。それに、“私達”ならもっと安く済むと思います」
「それはどういう……あれ、また城門がありますよ?」
ジルバと会話をしながら進んでいたが、道の先に城門が見えてきたためレウルスは首を傾げた。レテ川はもう少しだけ先にあるはずである。
「レテ川は遡上するとラパリやベルリドにつながっていますからね。攻められた時に備えて河港と町を城壁で隔ててあるんですよ」
(こんなに大きい川なら支流もたくさんありそうだしな……)
どうやらレテ川を遡ると隣国までいけるようだ。それはそれで国防に問題が起きそうだが、レウルスが気にすることではないだろう。
内心だけで呟くレウルスだったが、先導するジルバに従って城門を潜る。これまで訪れたことがある城塞都市と異なり、河港につながる城門は開け放たれていた。
当然ながら有事の際には城門を閉めるのだろう。だが、平時ならば町の住民やカダーレを訪れた者の通行のしやすさを優先しているのだと思われた。
城門を抜けた先にあったのは、ジルバが語った通り河港である。遠くに目を向けてみると何艘かの船も見えた。
前世の港のようにコンクリートで護岸整備されているわけではない。足元は相変わらずの土で、レテ川に近づくとところどころ石材や木材で補強されているがそれだけだ。
ただし、左右に目を向けてみるとカダーレの城壁から続くようにしてレテ川まで城壁が突き出しているのが見える。陸上の魔物の被害を防ぐために城壁を延長して河港を守っているのだろう。
河港にはいくつもの桟橋が造られており、船が係留されている。荷物や乗客を乗せる威勢の良い声があちこちから聞こえ、中にはレテ川で漁をしてきたのか魚を下ろしている船もあった。
船の大きさはさまざまで、小さなものは三メートル程度の手漕ぎ船が、大きなものになると数十メートルもの大きさがある帆船が留まっている。
特に目を引いたのは大きな帆を備えた帆船で、船体の下部は金属で補強されているらしく鈍色の輝きを放っていた。それでいて不自然なほどに多くの“穴”が船の側面に開いている。
(帆を張って進むだけじゃなくて、オールを使って漕ぐのか? あれ……なんだっけ……あ、あ、あた……あた……)
前世の日本――それも平成日本よりも遥か昔にそういった船があった気がした。小学校なり中学校なりの教科書で見た気がするのだが、と記憶を漁るが明確には思い出せない。
「船が留まっているということは出航は今日か明日ですね……それでは、私は船長と交渉してきます」
そう言ってレウルスが見ていた帆船に足を向けるジルバ。どうやら偶然“川下り”をする船を見ていたらしい。
タイミングが良かったのか、悪かったのか。カダーレの町にも精霊教の教会があるのならば、ジルバに頼んで水魔法の使い手がいないか確認してもらった方が良いだろう。
(そういえば、俺達なら船賃が安くなるってのはなんだったんだろう……ジルバさんが戻ってきたら聞くか)
初めて見る河港の様子に興奮して駆け出そうとするサラを捕まえつつ、そんなことを考えるレウルスだった。