第142話:哀切 その1
「オオオオオオオオオオォォッ!」
ラヴァル廃棄街から南に下った場所にある森の中で、レウルスの咆哮が響く。気合いの声と呼ぶには野生の毛色が強すぎるが、成人男性が腹の底から発声しながら襲い掛かってくれば大抵は驚くだろう。
レウルスは咆哮と共に踏み込み、固めた右拳を全力で繰り出す。ボクシングのように綺麗なフォームではない、身体能力に任せて振るうだけの喧嘩殺法だ。
それでも、レウルスの身体能力で繰り出される拳は十分以上に凶器に成り得る。さすがに魔物を撲殺するのは難しいだろうが、普通の人間が相手ならば一撃で仕留められる威力があるだろう。
だが、相手は普通の人間ではない。それどころかレウルスが知る限り最も近接戦闘に長けた男――ジルバだ。
「ふむ……」
空気を貫きながら迫るレウルスの拳に眉一つ動かさず、軽く首を傾けるだけでジルバは拳を回避する。
レウルスの拳は薄皮一枚すら捉えていない。文字通り紙一重で回避されたことに驚く暇もなく、レウルスは右拳を引きながら今度は腹部を狙って左拳を繰り出す。
利き腕である右腕で繰り出す拳に比べ、その威力は劣るだろう。それでもレウルスはエリザとサラから送られてくる魔力だけで高い身体能力を発揮するのだ。
右拳を引く速度は速く、繰り出す左拳もまた速い。瞬時に体を捻って左拳を弾丸の速度で放ち――容易く捌かれた。
「グ――アアアアアアアアアアアアァァッ!」
一撃では届かない。そう判断したレウルスは左右交互に乱打を繰り出す。狙いは敢えてつけず、体の一部にでも掠れば御の字だと拳の雨を降らせ続ける。
フェイントはなしだ。レウルスの拙い技術ではジルバに通用せず、フェイントに意識を割くぐらいならば乱打の速度を上げた方が有効だろう。
手数を重視した分一撃の重さは減っているが、それでも手数で押しきる。点の打撃ではなく面で圧倒する。
そう、思っていたのだが。
「なるほど……以前よりも動きが速くなっていますね」
レウルスが繰り出す拳の一発一発を左手で捌きながら、ジルバが感心したように呟いた。
ジルバは右足を引いて半身開き、腰を落として左手を前に突き出している。それは防御のためなのだろうが、レウルスの乱打を左手だけで弾いていくのだ。
どっしりを腰を落とし、右手は腰元に構えている。それは大砲が発射される直前のようでもあり、レウルスとしてはいつ放たれるか気が気ではなかった。
「いけー! レウルス、そこよそこー! 惜しいわよー!」
「のうサラ……お主本当に見えておるのか? ワシは目で追うのも難しいんじゃが……」
「安心してエリザちゃん。それはボクも一緒だから」
背後からサラの声援が届き、同時にエリザとミーアの呆れたような声も届く。しかし、レウルスにはその声援に応える余裕がない。
次から次へと拳を放つことでジルバの動きを封じているが、一度崩されれば容易く逆転されるだろう。
――森の中で何故ジルバと殴り合っているのか?
そこに深い理由はない。ジルバに誘われたからである。
今日も冒険者として依頼を受けようと思ったのだが、農作業者の護衛をニコラとシャロンが受けると聞き、戦力的に必要がないということでラヴァル廃棄街周辺の監視依頼を受けた。
すると、何故かジルバがついてきたのである。レウルスでは想像もできない技量を持つジルバだが、当然ながら鍛錬を欠かせばそれだけ腕が落ちる。
ジルバが依頼に同行して手伝う代わりに、レウルスとの“手合わせ”を希望してきたのだ。もちろん依頼が疎かになっては意味がないため、休憩時間を少しだけ多めに取って殴り合っているのである。
もっとも、殴り合っているというのは語弊があるだろう。レウルスの打撃は悉くが空を切るか、逸らされるか、弾かれているのだから。
今回は手合わせということで、ジルバに合わせて素手で戦っている。レウルスとしても真紅の大剣に頼らない戦い方を磨くのは重要なのだ。
大剣が振るえないほど狭い場所で戦うならば、拳か短剣を使うことになる。そういう意味ではジルバと拳を交えることはレウルスにとっても利益がある。
周囲に障害物があっても大剣で障害物ごと敵を斬るだけだが、少しは“引き出し”があった方が戦いでも有利になるだろう。
そう思ったものの、ジルバが相手では技量差が大きすぎる。ジルバは攻撃を仕掛けてこないが、繰り出す攻撃の全てが通じていない。
「こん、のぉっ!」
再度拳を繰り出す――と見せかけてこれまで使ってこなかった蹴りを放つ。
威力よりも範囲を優先して回し蹴りを放つレウルスだったが、不意を突いたつもりでもジルバには読まれていたのだろう。滑るような動きで後退したかと思うと、レウルスの蹴りが通り過ぎた瞬間再び前に出てくる。
「いけませんねぇ……蹴りは体勢を崩しやすい。修練を積んだならまだしも、素人が使うにはお勧めしません」
「っ!?」
残った片足で背後に向かって跳躍するレウルス。しかし、ジルバは逃がしてくれなかった。レウルスの足を掴んで動きを封じると、力任せに引き寄せて強引に体勢を崩す。
「蹴りは拳よりも威力がありますが、使うならこうやって体勢を崩した方が当てやすいです」
「ぐっ!?」
サッカーボールでも蹴り飛ばすような、真下からの掬い上げるような蹴り。レウルスは咄嗟に両腕を交差して受けるが、両足が地面から浮き上がってしまう。
「そして、空中では動きが制限される――」
蹴り上げた足を振り下ろし、地面にめり込むほどの勢いで踏み込むジルバ。レウルスが気づいた時には眼前にジルバの背中が迫っていた。
名称はわからないが、背面を使った体当たりだ。ただし、当たればトラックで撥ねられるような衝撃を受けそうである。
「なん……のおおおおぉっ!」
両足は地面から離れているため、回避はできない。そのためレウルスは空中で体を捻ってジルバの背中に“着地”すると、衝撃から逃げるべく全力で跳躍した。
「……あっ」
ジルバの体当たりの威力に加え、自分で思いっきり跳んでしまった。レウルスがその事実に気付いた時には、既に体が空を飛んでいる。
自らを“発射”してしまったレウルスは空中を遊泳し――追撃のために追ってきたジルバを見て絶望するのだった。
「ありがとうございました。良い鍛錬になりましたよ」
「ありがとうございました……死ぬかと思いました……」
手合わせを終えると、レウルスとジルバは互いに一礼を交わす。ジルバはどこか晴れやかな表情だが、レウルスは不満そうである。
武器を――真紅の大剣を使えば違った結果になるかもしれないが、素手では手も足も出なかった。
否、手も足も出したのだが、まったく通じなかった。
「レウルスさんの攻撃は容赦がありませんからね……私としても身が引き締まる思いです。実戦には及ばないでしょうが、型稽古をするよりも遥かに実りがある鍛錬になりましたよ」
お世辞なのか本心なのかわからないものの、真面目な顔つきでジルバが言う。それを聞いたレウルスはため息を吐きながら肩を竦めた。
「それならいいんですけどね……あー、ちくしょう。素手でも戦えるようにもっと訓練しようかな……」
ジルバに素手で挑んで勝てるとは思わなかったが、負けるとそれはそれで悔しい。それも、一撃も当てることができずに完敗だ。
「実戦ならまた違うのでしょうがね……レウルスさんは実戦向きでしょうし、今の時点でも一撃の重さも速さもあります。その辺のゴロツキなら素手でも瞬殺できるでしょう」
「でも、少しでも技術がある相手だと危険でしょう?」
「いえいえ、それだけの身体能力があれば多少の技術など容易くねじ伏せられます。もちろん、慢心は禁物ですがね」
穏やかに笑いながらジルバが言うが、レウルスとしては目の前に身体能力だけでは通じない相手がいるのだ。
今回は手合わせということでジルバも加減していたのだろうが、実戦ならば即座に一撃で沈められそうである。
「俺の場合、エリザとサラの『契約』があるからこれだけ動けているわけですし……慢心の代わりに感謝しときますよ」
「ええ、それで良いと思います」
レウルスはエリザとサラの二人と『契約』を交わしているが、その恩恵として二人から魔力が送られている。
その魔力によって『強化』が働いて身体能力が向上していた。身体能力と一口にいっても力や速度だけではなく、反射神経や動体視力なども強化されている。
『熱量解放』を使えば更に上乗せされるわけだが、普通に戦う分には現時点でも十分だろう。
ラヴァル廃棄街に来てから食生活が改善されたため、体も出来上がりつつある。毎日のように大剣を振り回しているからか、全身に筋肉がついているのだ。
(でも体つきと技術は別物、と……)
シェナ村で農奴をしていた時と比べると、“素”の身体能力も伸びているだろう。自由自在とまではいかないが、今ならばエリザとサラの魔力がなくても大剣を振ることもできるかもしれない。
「うーん……エリザがいるからなのか、カルヴァン達がいるからなのか、この辺には全然魔物がいないっぽいわねー。レウルスとジルバが騒いでても全然寄ってこないもの」
そうやってレウルスとジルバが話していると、周囲の索敵を行っていたサラが話しかけてくる。
レウルスも周囲の魔力を探ってみるが、カルヴァン達ドワーフの魔力を感じるぐらいで他の魔物の魔力は感じなかった。
エリザがいるため下級の魔物は寄ってこないだろうが、中級の魔物だろうと五十人近いドワーフの群れに好んで近づこうとは思わないだろう。
「それじゃあ、いつも通り俺とサラで魔物を探してくるか……エリザとミーアはジルバさんと一緒にいてくれ。何かあったらすぐに駆け付けるからな」
「うむ……レウルスも気を付けてほしいのじゃ。サラは……まあ、森を燃やさんようにな」
「“家”が近いし、ボクは皆のところに顔を出してこようかな……」
今日はジルバがいるため複数に別れても何の心配もいらない。そう判断したレウルスは、サラを連れて魔物探しに出かけるのだった。
そして、二時間もするとレウルス達はラヴァル廃棄街に帰還していた。それぞれが今日仕留めた獲物を担いでおり、その数は十匹に届く。
特に角兎が多く、食用の肉としてラヴァル廃棄街で引き取られるぐらいには美味しいためレウルスは笑顔である。
一時的とはいえ南の森にドワーフ達が住み着いた影響なのか、魔物達が狭い範囲に固まっていたのである。おそらくはドワーフ達から極力距離を取り、なおかつ他の強い魔物の縄張りに入らないよう苦心した結果なのだろう。
サラの熱源感知に引っかかったため急行して仕留め、ここ最近では珍しいほどの“大漁”になったのだった。
「いやぁ、今日は大漁でしたね」
「こちらにも一匹出ましたが、最近は平和ですからね……狭い範囲に固まっていたことを考えると、素直に喜んで良いものか迷いますが」
ラヴァル廃棄街に戻ったレウルスは、冒険者組合で報告を行ってから素材の大半を売却していた。それでも角兎の肉を丸々二匹分手元に残しており、今夜は豪勢な食事になるな、と満面の笑顔である。
ジルバも角兎を一匹仕留めたため、教会の孤児達に食べさせるべく持ち帰っていた。
「……あれ? コロナちゃん……か?」
そうやってラヴァル廃棄街の大通りを歩いていると、視界の端にコロナの姿を捉える。レウルスは反射的に振り返ってコロナの姿を探すが、丁度コロナの背中が入り組んだ小道の先に消えるところだった。
時刻は既に夕刻で、コロナが一人で出歩くには少しばかり遅い時間帯である。いくら身内ばかりの町とはいえ、余所者もゼロではない。冒険者ならばともかく、コロナが一人で出歩くのは不用心という他ないだろう。
「あー……ジルバさん、俺達はコロナちゃんの後を追いますんで、ここで失礼しますね」
見知らぬ他人ならば放っておくが、他ならぬコロナが危険に晒されるかもしれないと思うと放っておけない。レウルスはジルバに頭を下げると、エリザ達を伴ってコロナの後を追おうとする。
「待ってください、レウルスさん」
「え? なんで止めるんですか?」
だが、ジルバに肩を掴まれて止められた。一体何事かとレウルスが視線を向けると、ジルバはコロナが消えた先を見て目を細める。
「そうですか……もう、“そんな時期”なんですね」
何やら納得した様子で呟くジルバ。レウルスとしては意味がわからず、首を傾げるしかない。
「レウルスさんはコロナさんが向かった先に何があるか……御存知ですか?」
「いや、この辺は組合に行く時に通りかかるぐらいですから……何かあるんですか?」
ラヴァル廃棄街に来てまだ一年も経っていないのだ。普段利用している場所周辺ならばわかるが、町全体の配置はレウルスも知らない。
そんなレウルスに対し、ジルバは遠くを見ながら口を開く。
「コロナさんが向かった先は――彼女の母親が眠る墓地です」
そう言って、少しだけ寂しげに微笑むのだった。