第137話:お風呂あるの? その1
その日は、特筆するようなことがない一日だった。
普段通り日の出と共に目を覚まし、せっかくあるのだからと自宅の台所で朝食を作って食べ、エリザ達を連れて冒険者として依頼を請け負う。
依頼に関してはラヴァル廃棄街の近くにドワーフの集団がいることから、近辺に異変がないか調査するよう言われたぐらいである。
農作業者の護衛は必要ないのかとレウルスは疑問に思ったが、レウルス達が戻ってきたことで下級の魔物は余計に寄り付かなくなったらしい。
実行すれば即食材に早変わりする度胸試しを行う魔物もいないらしく、ラヴァル廃棄街周辺の調査を依頼されたのである。その過程で魔物を狩れるだけ狩って良いと言われたため、意気揚々と出発するレウルスだった。
しかし、この依頼に関しても特に問題はなかった。ラヴァル廃棄街の周辺を駆け回ったぐらいで、異変などは欠片も見受けられなかったのである。
途中でエリザやミーアから離れ、サラだけを連れて魔物探しに出かけ、三匹ほど角兎を仕留めたことぐらいしかレウルスの記憶にも残っていない。
調査である以上数日は同じような依頼を受ける必要があるが、夕食のおかずが一品増えただけだったな、とレウルスも考えたぐらいである。
ドミニクの料理店に角兎の肉を持ち込んで調理してもらい、量が増えた夕食に大喜びしながら平らげ、その後は自宅でのんびり――とはいかなかった。
コンコン、と玄関の扉を叩く音が響く。リビングでくつろいでいたレウルス達はその音に顔を上げると、玄関の扉に視線を向けた。
リビングには四人で使える大きさのテーブルと四脚の椅子が置かれており、それぞれ椅子に座って談笑していたのだが突如中断された形になる。
「む? 一体誰じゃ?」
「珍しいわねー。もしかしてコロナかしら?」
「それならさっきの食事の時に何か言うんじゃないかな?」
エリザ達は首を傾げているが、レウルスとしても似たような心境でだった。ただしエリザ達と違う点があるとすれば、レウルスは扉越しに魔力を感じ取っているということだろう。
(……誰だ?)
ラヴァル廃棄街において魔力を持つ者は多くない。最近はドワーフ達がいるため一気に数が増えたが、ドワーフ達ならばわざわざノックはしないだろう。仮にノックをするとしても、もっと荒々しくなるはずだ。
レウルスが知る限り、魔力を持っている者はドワーフやエリザ達を除けば六人しかいない。ニコラとシャロン、ドミニクとバルトロ、ジルバとエステルの六人だ。
(こっそり祈りを捧げるだけじゃ我慢ができなくなったから、家に上げてほしい……なんてジルバさんが言いに来たとか?)
レウルスは椅子から立ち上がり、扉へと歩み寄る。わざわざノックしてきた辺り、扉を開けたらグレイゴ教徒が立っていたというオチはないだろう。それでも油断はできないため、レウルスは短剣の柄を握りながら声をかける。
「はいはい、どちら様で?」
「……ボク」
だが、返ってきた反応に思わず首を傾げた。レウルスは背後へと視線を向けるが、ミーアは無言で首を横に振っている。
(ということは……シャロン先輩?)
少しだけ扉を開けてみると、そこには予想した通りシャロンが立っていた。相変わらずの魔法使いらしい服装に加えて杖を握っており――そして何故か籠らしき物体を小脇に抱えている。
籠の中には服とタオルらしき布が入っており、レウルスは不思議に思いながらシャロンの顔を見た。
「えーっと……シャロン先輩、もう体調は良いのか? ニコラ先輩から聞いたけど食あたりしたんだろ?」
とりあえず、といった様子でレウルスは話題を絞り出す。先日ニコラと会った時にそう言っていたはずで、見舞いに行くほどではないという話だった。それでも心配していたことに変わりはない。
「……食あたり? あっ……そ、そう、食あたりだった。でももう大丈夫」
何故か首を傾げたシャロンだったが、すぐに頷く。ただし、その頬は僅かに引きつっていた。レウルスはそんなシャロンの反応から少しだけ目線を泳がせたが、すぐさま他の話題へとつなげる。
「って、あれ? ニコラ先輩は一緒じゃないのか?」
「兄さんはドミニクさんのところで飲んだくれてる。さっき見た時はカルヴァンさんと飲み比べしてた」
「いくらニコラ先輩でも、ドワーフ相手に酒の飲み比べは無謀じゃねえかな……」
話題がニコラに移ったことでどこか安堵した様子のシャロン。レウルスも少しだけ安堵しつつ、来訪の目的を尋ねることにした。
「それで? シャロン先輩はなんで俺の家に?」
既に日が落ち、ラヴァル廃棄街の大通りなどを歩く人の数も減っている。家々から漏れる仄かな明かりが周囲を照らしているが、出歩くには少しばかり遅い時間帯と言えた。
何が用があるのならば明日でも良かったのではないか。そんなことを考えるレウルスに対し、シャロンは真剣な表情を浮かべる。
「レウルス……風の噂で聞いたけど、君の家にはお風呂があると聞いた。それは本当?」
「どんな風だよ先輩……その風って他にも変な噂を運んでないか?」
具体的には性的嗜好がホモやロリコンであるといった噂である。先日ナタリアの家に“お呼ばれ”したことで噂も消えたと思ったが、もしかすると噂が根強く残っているのかもしれない。
「……? よくわからないけど、お風呂は?」
「自分の意見を押し通すその姿勢、素敵だと思う。というか風呂? たしかに新しく作ったのがあるけど……それがどうしたんだ?」
レウルスはシャロンが来訪した理由を薄々察する。それでも確認は取るべきだろうと尋ねると、シャロンは凄まじい目力を発揮しながら言った。
「――是非入らせてほしい。お金は払う」
「ごめん先輩、浴槽に入れる水がない」
「…………」
浴槽に水とサラを入れて三分待てば――もとい、しばらく待てば温かい風呂の出来上がりだが、水がなければどうにもならないのだ。
井戸の水を使うのは金も手間もかかるということでカルヴァン達に頼み、屋根に溜まった雨水がパイプを通って地下の風呂場まで届くように改良してもらってもいる。
パイプといっても土の壁を円状に真っすぐ貫き、粘土を垂らしてサラに焼かせることで表面を強引に陶器のように変えたパイプもどきだ。
普段は風呂場にある排水口を木の板で塞いであり、雨が降れば木の板を外して労なく雨水を確保できる。
当然ながら、雨が降らなければ水は溜まらない。
井戸の水を汲んできても良いのだが、井戸の水は飲用や生活用である。他の住民も買うため必要以上には買えず、余った分を溜めることしかできない。
カルヴァン達ドワーフに頼めばこっそりと井戸を掘ってもらえそうだが、それでレウルス達が水を得られたとしても今度は近辺の井戸の取水量が減りそうである。
つまり――風呂はあってもすぐに入れるわけではない。
以前ラヴァル廃棄街の東にある川へ行った時も、乗り気で水浴びをしていたシャロンである。レウルスの家に風呂があるという噂を聞き、喜び勇んで駆けつけたのだろう。
(でもどこから俺の家に風呂があるって漏れたんだ? カルヴァンのおっちゃんかな……)
ドワーフは人間嫌いだが、カルヴァン達からすればラヴァル廃棄街の面々は波長が合うらしい。人間は人間でも、廃棄街に住む者達は“世間”からすれば無頼者でしかない。その点がドワーフ達の波長に合ったのだ。
そして、カルヴァンなどはよくドミニクの料理店に顔を出すらしい。ドワーフ達の代表としてラヴァル廃棄街の視察をするという名目で、酒を飲みに来ているのだ。
酒に酔ってレウルスの家に関する情報をうっかり漏らしたのだろう、とレウルスはアタリをつけた。
(大々的に広まって風呂に入りたい奴が大勢来ても困るしなぁ……噂を一つ消したらまた新しい噂が出てくるのか。いや、風呂については噂じゃなくて事実だけど)
つい先日、ホモだのロリコンだのという不名誉な噂を払拭したばかりなのである。噂というものはすぐに遠くまで広がるものだが、今回は色々と困ってしまう。
レウルスとしては風呂を独占するつもりはないが、風呂を沸かすサラに大きな問題があるのだ。
サラが火の精霊だということはラヴァル廃棄街でもごく一部の者しか知らず、こればかりは迂闊に広めるわけにもいかない。いくら身内での結束が固いラヴァル廃棄街とはいえ、どこから噂が広がるかわからないのだ。
風呂を沸かすにはサラの力が必要になるため、風呂に入りたいという者が増えればサラの正体が露見する可能性も増えることになる。
「……先輩、そんなに風呂に入りたいのか?」
そのため、レウルスは一つの取引を持ち掛けることにした。シャロンは沈んだ表情をしたまま、レウルスの言葉に小さく頷く。
「それなら一つ、先輩に頼みたいことがある。俺の家に風呂に入りにきたけど、風呂はなかった……そんな噂を流してくれないか?」
「……? そんな噂を流す意味がわからない。理由を聞いても?」
それは当然の疑問だろう。しかし、レウルスとしてもどう答えたものかと悩んでしまう。
(実はここにいるサラは火の精霊なんだ……なんて言っても信じてもらえるか? ここは姐さんの名前を借りるか……)
町中でサラが火の精霊だとわかるよう“実演”させるわけにもいかないだろう。火事になったら目も当てられない。
「その辺は姐さんに話をしてみてくれるか? シャロン先輩なら姐さんも話してくれるかもしれないし」
「……いや、いい。もう理由は聞かない。“その言葉”だけで事情の深刻さは理解できた」
レウルスではサラのことを知る者を増やすことについて判断ができない。そう思ってナタリアに丸投げしようとしたのだが、シャロンは何かを察したように頷いた。
「いいのか?」
「いい。噂も撒いておく。それで、お風呂は?」
どうやらレウルスの事情よりも風呂の方が気になっているらしい。レウルスは苦笑すると、シャロンを家の中に招き入れる。そして地下室へと案内すると、風呂場の扉を開けた。
「ここだよ。ただ、さっきも言った通り水が問題でね……そうだ、シャロン先輩なら氷魔法で――」
「ていっ」
前世では当然のことだったが、氷が溶ければ水になる。シャロンの氷魔法を使うことを思いついたレウルスだったが、確認を取る前にシャロンが杖を振っていた。
「おおう……」
周囲の気温が下がったと思いきや、数秒と経たない内に浴槽の中に巨大な氷が生み出されていた。それを見たレウルスは思わず唸るような声を漏らす。
「あの……シャロン先輩? 魔法を使うと魔力が減るんじゃ……」
「問題ない。レウルス達のおかげで最近は魔力も余り気味になってる。余らせるよりも使った方がいい」
「そ、そうなのか」
最近は魔物も大人しいため、シャロンが氷魔法を使うことも減っている。そうなると使用する魔力よりも回復する魔力の方が上回るため、こうやって無駄遣いをしても問題がないようだ。
シャロンにとっては、決して無駄ではないのだろうが。
「量は……足りるな。溶けきるのに時間がかかりそうだけど」
「それなら明日の夜にまた来る。構わない?」
「俺は構わないけど……」
シャロンにはラヴァル廃棄街の面々の中でも特に世話になった。風呂に入りたいと言うのならばレウルスも拒否はしない。しないのだが――。
(俺の家で風呂に入ることに抵抗はないんだろうか……ああいや、ニコラ先輩の“弟”であるシャロン先輩相手にそんな心配をする必要はないか、うん)
シャロンの性別の疑義に関しては、あくまでレウルスの所見である。だが、シャロンがレウルスの事情を詮索しなかったように、レウルスもまたシャロンの事情を詮索する気はないのだ。
全てはレウルスの勘違いで、シャロンはニコラの弟――男だという可能性も捨てきれない。
魔物が存在する世界なのだ。女性に見える男性が存在していても何らおかしくはない。線が細く、女性よりも女性らしい男性というのも前世でいたはずだ、などとレウルスは自分に言い聞かせた。
「それじゃあボクは兄さんを“拾って”帰る。明日を楽しみにしてる」
「ああ……暗いから帰りは気を付けて」
「うん。それじゃあまた」
浴槽に氷を生み出したシャロンは、心なしか嬉しそうに“高い声”で返事をすると軽い足取りで歩き出す。レウルスの先を歩いて階段を上り始めたシャロンの後ろ姿に、小さく眉を寄せた。
(あれ? 今、声が高かったような……いやいや、気のせい気のせい)
地下室ということで声が普段と違って聞こえたのだろう。レウルスはそう自分に言い聞かせ、溶ければ浴槽を満杯に満たしそうなほど巨大な氷へと視線を向ける。
(これ、明日の夜までに溶けるかな……)
もしも溶けなければサラに溶かしてもらおう。レウルスはそう結論付け、シャロンを見送るために階段を上り始める。
(……先輩が風呂に入ってる間はエリザ達が近寄らないようにしないとな)
エリザ達も好んで“男”の入浴に突撃しないとは思うが、用心のためだ。シャロンが風呂に入っている間はドミニクの料理店に行っていても良いだろう。
それで問題は起きないはずだ――レウルスはそう思った。
体が勝手に……