第133話:異世界トイレ事情
真夜中と呼べる刻限。
レウルスはゆさゆさと体を揺らされる感覚に目を覚ました。
「……ん?」
場所は自宅の自室だが、野営をしているというわけでもないのにレウルスはすぐに目を覚ます。寝る時も手放さずにいた短剣の柄を反射的に握りつつ、レウルスは自身を起こした相手に視線を向けた。
「レウルス……」
だが、自分を起こした相手を見て短剣の柄から手を離す。レウルスを起こしたのは寝間着姿のエリザであり、恥ずかしそうな顔をしながらもじもじと体を揺らしていた。
その顔は朱色に染まっており、傍目から見ると夜這いに見える――が、そのような色っぽい事態ではなかった。
「れ、レウルス、その、じゃな……」
「はいはい、トイレな。だから寝る前に水を飲むなって言っただろ?」
「う、うむ、“といれ”じゃ」
レウルスは呆れたように言いながら体を起こすと、エリザはどこか嬉しそうに表情を輝かせた。
エリザがレウルスを起こした理由はとても簡単だ。夜中に一人でトイレに行くのが怖い――それだけである。
(吸血種が夜を怖がるってどうなんだろうか……いや、吸血鬼じゃないから別に普通なのか?)
年齢を考えると子ども過ぎる気がしないでもないが、レウルスが文句を言うことはない。毎日のように起こされるわけでもなく、ひどく恥じらっているエリザを一々からかう気も起きなかったのだ。
レウルスは寝る時も寝間着の類は着ない。さすがに防具の類は外すが、寝起きでも動けるようにと普段着である。
ラヴァル廃棄街の中ということもあり、レウルスは短剣だけを腰の裏に装備する。武装としては心もとないが、ドワーフ製の短剣はその短さに反して強力な武器だ。狭い場所ではむしろ短剣の方が役に立つだろう。
レウルスはベッド脇に置いていた靴を履くと、布団代わりにしていた薄布を手に取る。そしてエリザを招き寄せるとその全身を覆うように布をかぶせた。
晩夏も過ぎ、秋の気配が強まっている季節だ。朝晩の気温も下がっているため、寝間着のままで外に出るのは寒いだろう。
「起こしに来るのはいいけど、外套ぐらいは準備しとくんだな。そろそろ寒さが強まる季節だし、女の子が体を冷やすもんじゃねえ」
「あ、ありがとう……」
そう考えるとそろそろ布団の類も購入するべきだろうか。レウルスはそんなことを考えながらテーブルの上に目を向ける。そこにあったのは蝋燭だが、さすがに就寝前に火を消してあった。
それでもレウルスは手早く火打石で火を熾すと、蝋燭に火をつける。外に出れば月明かりがあるかもしれないが、光源があった方が良いのだ。
蝋燭だけでは風ですぐに火が消えてしまうため、ガラス製の風除けがついた蝋燭立てに蝋燭を差す。
「ほら、行くぞ」
「う、うむ……」
そして準備が整うとすぐに部屋を後にした。
真夜中ということもあり、家の中も真っ暗である。耳を澄ましてみると廊下を歩く音に混じり、サラのものと思わしきいびきが聞こえてきた。
「んごごご……しゅぴー……んがっ」
(精霊でもいびきを掻くんだよな……というかアイツ、本当は寝なくてもいいんじゃないか?)
真紅の大剣を作る際、不眠不休で炉の火力を維持していたはずだ。サラに言わせれば寝なくても大丈夫だが寝た方が気分が良い、という程度の感覚らしい。
そんなサラとは対照的に、ミーアの部屋からは特に物音も声も聞こえない。かといって耳を澄ましてまで確認する気も起きず、レウルスはなるべく足音を立てないよう注意しながら階段を下りていく。
行く先はトイレだが、レウルスの家の中にはトイレはない。それどころかラヴァル廃棄街を見回しても個人でトイレを所有している者はいないだろう。
もちろん、トイレといっても前世で使っていたようなものが存在するわけではない。陶器やプラスチックで作られた便器も存在せず、レバーを引けば水が流れるといった仕組みもないのだ。
レウルス達が向かうのは、いわゆる公衆便所である。ラヴァル廃棄街の各地には公衆便所が設置されており、レウルスの家の近くにもそれがあるのだ。
(シェナ村と比べると驚きの格差だよな……公衆便所とはいえトイレがあるんだから)
農村であるシェナ村で生まれ育ったレウルスだが、公衆便所すらなかった。基本的にその辺の茂みで用を足すか、近くの小川で用を足すかのどちらかである。
しかし、ラヴァル廃棄街は違う。きちんと公衆便所が整備されており、そこで用を足すことができるのだ。
手に持った蝋燭の明かりで足元を照らしつつ、エリザを先導して歩くレウルス。
家を出て一分も歩けば件の公衆便所が見えてくるが、真夜中ということもあり視界は真っ暗だ。前世の日本ならば真夜中でも街灯で明るい場所もあるだろうが、ラヴァル廃棄街に街灯など存在しない。
今夜は月も出ておらず、蝋燭の明かりがなければ足元すら見えないほど闇が深かった。エリザが一人でトイレに行けないのも仕方ないと思える暗さである。
「れ、レウルス……」
そのエリザといえば、レウルスの服の裾を掴んで離さない。レウルスとしても手を引いてやりたいところだが、左手が蝋燭で塞がっているのだ。右手を空けておかなければ何かあった時に対応できなくなる。
「もう少しだから我慢しろ……漏らすなよ?」
「も、漏らさんわいっ」
真夜中だからか、声を潜めながら怒鳴るという器用な真似を披露するエリザ。レウルスはそれに笑いつつ歩を進めると、すぐに公衆便所に到着した。
「ほら、蝋燭を持っていけ。足元に気をつけろよ? “穴”に落ちたら洒落にならんぞ」
「わかっておる……で、でも帰ったりしてはいかんぞ?」
「帰らない帰らない。俺も用を足してくるわ」
闇に目が慣れてきたのか、蝋燭がなくても歩くぐらいはできそうだ。そう判断したレウルスはせっかくなので小用を足していこうと考えた。
「あ、うん……でもあの、み……耳は塞いでて……」
「両耳を塞ぎながら小便ってのは難易度が高そうだなぁおい……」
なるべく善処はするが、無理な場合は諦めてもらうしかない。そう思いつつレウルスは男性用の公衆便所に足を向ける。
公衆便所とレウルスは考えているが、その外見は粗末なものだ。土壁と木の屋根で造られているため外部からの視線は通らないが、入口は簾のような物体がついているだけである。
レウルスは簾をめくって中に足を踏み入れると、アンモニアに似た独特の臭気が漂ってきた。だが、普段から血生臭い戦いを繰り広げるレウルスにとっては然して気になる臭いでもない。
公衆便所は二十畳ほどと広く造られているが、周辺の住民だけでも数十人から百人程度がこの公衆便所を利用するのだ。男性側の公衆便所はまだマシだが、女性側の公衆便所は時間帯や状況によっては大渋滞を起こしている。
(しかし、何回来ても慣れんな……)
ズボンに手をかけながら小便器に視線を向けるレウルスだが、仕切りなどは存在しない。大便の場合はともかく、小便の場合は壁際に掘ってある溝に向かって用を足すだけなのだ。
溝は僅かな傾斜を描いており、突き固められた溝を伝って小便が流れていくという構造になっていた。小便を流すための水も準備されているが、水がもったいないため頻繁に水を流すわけではない。
そして、小便が流れた先は――なんと下水道である。
これはレウルスも驚いたことであるが、ラヴァル廃棄街の地下には下水道が掘られているのだ。
レウルスが見たことがない土魔法で掘ったのか、それとも人力なのかはわからない。それでも地下水などを汚染しないようきちんと配慮された下水道が掘られているのだ。
レウルスもラヴァル廃棄街に来てから後々知ったことではあるが、ラヴァルなどにも下水道が掘られているらしい。ラヴァル廃棄街の下水道はラヴァル側の下水道に合流しており、流れに流れて遠くの川までつながっているそうだ。
一体いつ頃造られたのかはレウルスもわからない。それでも地下水を汚染しないよう、周囲の土壌を汚染しないよう、きちんと毎日水を流して汚物を洗い流しているらしい。
(あー……なんだっけ? 前世でもどっかの国で紀元前から下水道があったような……もっと後だっけ?)
そんな話を聞いたことがあったような、と思いながらレウルスは用を足し終わる。そしてついでと言わんばかりに大便器の方を覗き込んだ。
こちらはさすがに木の板で仕切りがされているが、それでも大便器とは名ばかりの穴が開いているだけである。俗に言うポットン便所のような様式になっており、下水道に汚物が直接落下する仕組みになっていた。
レウルスが大便器の方まで覗き込んだことに深い理由はない。時折酒に酔った者や小さな子どもが落下することがあるため、公衆便所を利用した者は大抵が“穴”に落ちた者がいないかを確認するのである。
(でもまあ、衛生状態が悪くて疫病が発生……なんて危険性が少なそうで良いよな)
穴に誰かが落ちた場合、周辺の住民を巻き込んでの救出劇が繰り広げられることとなる。レウルスは落ちたことがないが、半年に一度ぐらいは誰かが落ちるらしい。
この公衆便所はラヴァル廃棄街のあちらこちらに設置されており、レウルスも詳しい数は知らないが二十ヶ所近く存在するはずだ。
“廃棄街”にも関わらずこういった設備が整備されている辺り、レウルスとしては色々と言いたいことがある。だが、以前から気になっていた税金の行く先としては至極まっとうだろう。
(なんだかんだでラヴァルの下水道とつながってる辺りがなんとも……ま、俺としちゃあ害がないなら構わないけどな)
入口傍に置かれていた桶の水で手を洗い、レウルスは公衆便所を後にする。
(しかし……これはこれで面倒なんだよな。家の中にトイレを設置したいところだけど、俺達の場合外出する頻度がなぁ……)
下水道に直結したトイレは造れないが、“おまる”のようなものを置くことはできる。二畳程度の広さの部屋を造り、そこにおまるを設置すればトイレとして最低限の様式は保てるだろう。
しかし、である。それにはエリザが反対した。それはもう、すさまじいほどの反対っぷりだった。顔を真っ赤にして、今にも泣きそうなほどの大反対だった。
(たしかに“中身”を捨てに行くのも手間だしな……)
ドワーフがいる今なら、下水道に直結させたトイレも作れるかもしれない。だが、武器や防具の作成、家の増築などはともかく、トイレを作ってくれとは頼みにくかった。
「レウルスー……レウルスー……ぐすっ、レウルスゥ……」
色々と考え事をしていたレウルスだが、エリザの声が聞こえてきたため思考を打ち切る。名前を呼ばれたため視線を向けてみると、そこには女性用の公衆便所の前で涙目になっているエリザが立っていた。
「……あ、すまんすまん。ちょいと考え事をしてたら遅くなった」
「置いて行かれたのかと思ったぞ……」
「悪かったって……手はちゃんと洗ったか? それなら家に帰るぞ」
「うん……」
素直に頷くエリザ。レウルスは蝋燭を受け取って歩き出すと、後に続くエリザがぽつりと呟く。
「帰ったら一緒に寝たい……んじゃが……」
その声にレウルスが振り向いてみると、蝋燭の明かりに照らされた真っ赤な顔のエリザが見えた。そのためレウルスは思わず吹き出してしまう。
「ははっ、甘えん坊め。何なら子守歌でも歌ってやろうか?」
「む? 歌えるのか?」
「そりゃお前……歌えねえな」
“前世”の子守歌も既に忘れたが、今世に至っては聞いた覚えすらない。三歳の頃に死んだ両親からそういったものを聴かされた覚えもなかった。
「子守歌は無理でも、一緒に寝るぐらいならいつでもしてやるよ」
「ほ、本当かっ!?」
「ああ……でも、今度からはちゃんと寝る前にトイレに行くんだぞ?」
レウルスがそう言うと、エリザは顔を真っ赤にして頬を膨らませる。それを見たレウルスは穏やかに笑うのだった。
何故私はトイレの説明に一話を費やしたのか……。