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プロローグ:自由への逃避

 ガタゴトと無機質な音が響く。


 その音に合わせて幌馬車に大きな振動が伝わり、少年は顔を歪めた。街道に転がる小石を踏むだけで車体が跳ね、振動が伝わってくる。

 幌馬車が通る道は、街道と呼ぶには粗雑過ぎた。行き交う人々が地面を踏み(なら)したことで自然と作られたものであり、点在する凸凹によって車体が跳ねる頻度を増している。そして車体が跳ねる度に少年の体が浮き、衝撃と痛みを伝えてくるのだ。


 もっとも、乗っているというのも適切な表現ではない。正確には他の荷物と同様に積み込まれていると言うべきであり、置かれた立場は野菜などが詰め込まれた木箱同然である。


(物扱いってのが間違ってないのは笑えねえよなぁ……)


 少年――“この世界”ではレウルスと呼ばれている彼は、己の境遇を思い返して深々とため息を吐いて頭を掻く。そのため息の深さと仕草は年若い少年らしからぬものであり、実年齢よりも遥かに老けて見せる要因となっていた。


 車体にギリギリまで詰み込まれた荷物を崩さないよう膝を抱えて座り込むレウルスは、外見だけを見れば二十歳に届くかどうかといった風貌である。しかし、実際のところはつい先日十五歳を迎えたばかりだ。

 乱雑に切ったせいでボサボサになっている赤茶色の髪。そんな髪の毛と似たような色合いの瞳を持ち、身長は百七十センチに届くかどうか。顔立ちはそれなりに整っているとも言えるが、それを打ち消して余りある苦労と疲労の色が台無しにしていた。

 麻に近い質感を持つ布で作られたシャツとズボンを身に付け、足元には粗末な造りの革靴を履いているが、服は着古した上にところどころ穴が開いてボロボロになっている。


 己を客観的に見た場合、枯れ木のようだとレウルスは思う。身長はそれなりに伸びているものの、身長と比べて体が細すぎるのだ。

 ある程度の筋肉はついているものの必要に迫られて勝手についたのであり、脂肪はどう足掻いてもつけることができなかった。脂肪を纏う余裕があるほどの食生活など、今まで送れなかったが故に。


(“昔”食ってた牛や豚の方がよっぽど恵まれた食生活だったよな……よく生き延びれたもんだよ。でもそれも下手すりゃすぐに終わるけどな……)


 車体に合わせて時折体を跳ねさせながら内心だけで呟く。そして、現在に至るまでの人生を思い返したレウルスは、深々とため息を吐くのだった。








 “この世界”に生を受けて十五年。


 目を閉じればいくらでも思い出せる苦悩の日々。それは一日、一週間、一ヶ月、一年と遡り、さらには十年を超え――己の年齢である十五年すら超える。

 レウルスという名前を与えられた彼にとっては十五年という時間を境に、追加で二十五年近い記憶があった。妄想の産物ではなく、事実として存在する記憶である。


 それは、現在のレウルスとして生きている世界とは別の世界の記憶。平成と呼ばれる年号の時代、日本という比較的平和な国で生きた、日本人としての記憶だった。


 普通の家庭に生まれ、普通に育ち、公立の高校を卒業した後は専門学校に進学。卒業後はIT企業に就職し――二十代半ばに死亡。

 プログラマーとして働いていたのだが、度重なる休日出勤とサービス残業で体を酷使し続けたのがまずかったのだろう。最期の記憶にあるのは、会社に向かう途中で急に体が動かなくなり、目前に迫るアスファルトの地面を呆然と眺めていた記憶である。


 本人が知ることはなかったが、それは突然死や瞬間死と呼ばれる死に様だった。過労に睡眠不足、さらには栄養失調が重なった結果、“前世の彼”は虚血性心疾患によって僅かな時間で死を迎えたのである。


 いくら若いといっても限界が存在し――そして、彼は生まれ変わった。


 かつて生きていた世界では様々な宗教で語られていた輪廻転生。昨今ではサブカルチャーでも頻繁に見聞きするその現象に自分が陥ったと悟ったのは、レウルスとして今の世界に生を受けて三歳の頃。


 正直なところ、当初は自分の頭がおかしくなってしまったのかと思った。


 出勤途中で倒れた自分は現代日本の病室に寝かされ、植物人間になってずっと夢を見ているのだろう、と。あるいは倒れた際に頭を打ち、今までとは違う認識を得てしまったのだろう、と。

 ブラックだなんだと批判されやすいIT業界だが、その実態は入社した会社によって異なる。前世で入社したのはIT業界では中堅と呼べる会社だったが、ブラック企業かと尋ねられれば彼は無言でそっと目を逸らしただろう。


 同僚や先輩の中にはストレスと激務によって体を壊す者も珍しくなく、脳卒中で倒れた者も存在し、自分もまたそうなったのだとレウルスは思った。自分はベッドの上で眠り続けており、現在の意識は夢か、半覚醒の夢現にあるのだろうと思ったのである。

 倒れた状況が状況だけに、自分が死亡した上で転生したなどとは思えなかった。倒れる前は精神が壊れかけている自覚もあったため、自分はベッドの上で赤ん坊になった夢でも見ていると判断したのだ。


 もっとも、夢と表現するにはあまりにもリアルであり、その上退屈かつ屈辱と恥辱にまみれた拷問にも等しい時間だったのだが。


 木と土壁と藁で作られた粗末な家屋の天井を見上げ、空腹や尿意、便意を感じたら泣き声を上げる日々。体を満足に動かすこともできず、母親の母乳を飲んでは涎糞尿を垂れ流すしかない赤ん坊として過ごすのはトラウマ物だ。

 それは成人男性としての尊厳と正気を削るような日々だったが、それでも人間というものは何事にも慣れる生き物なのだろう。精神が摩耗した彼にとっては、慣れさえすればプログラムのバグ潰しに似た苛立ち混じりの作業感を覚えるだけで済んだ。


 そうやって赤ん坊として生活を送っていたが、倒れたことで中断する羽目になった仕事について考えてしまったのは日本人としての気質だろうか。

 自分が入院したことで職場にどれほどの迷惑をかけたのか。復帰したとして自分の席が残っているか。クビを切られたとして退職金は出るのか。その場合次の職はどうするか。

 好きな時間に好きなだけ眠ることができるのは幸せだったが、“目が覚めた”後のことを考えると不安に思ってしまう。


 仕事を気にする前にまずはリハビリからだろうか、保険屋に連絡して手続きもしなければ、体に後遺症がなければ良いが――次から次に、取り留めもなくそんな不安が湧いて出てくるのだ。


 そんな彼が“現実”に適応していった理由は、一年もすれば自らの意思で体を動かせるようになったからだろう。手足をバタバタと動かし、地面を這い、壁に掴まりながら立ち上がり、補助もなく歩く。

 そういった動作を自分の意思で行えるようになり、そこでようやく疑問に思ったのだ。


(……あれ? 夢にしてはリアルすぎないか?)


 それを遅いと思うべきか、早いと思うべきか。赤ん坊の体というのはとにかく不便であり、飲む出す泣くを除けば大抵の時間は寝ているのだ。現代人としての理性を上回る赤ん坊としての本能は、長時間起きていたくても強制的に眠りへと落ちていくのである。

 それでも徐々に延びていく活動時間に加え、自分の意思通り動く手足に五感から伝わる情報。それらは夢の中の出来事と片付けるには鮮明であり、彼の中で現実に対する理解と実感が増した。


 ただし、ほんの僅かな理解と実感に過ぎない。

 社会人になってからは睡眠時に夢を見ることもなく、眠れるとあれば泥のように眠っていたため、夢の中で自分がどのように感じるか確証が持てなかったのだ。非常にリアルな夢だと他人に言われれば、納得してしまう程度でしか認識が進んでいない。

 むしろ死亡後に記憶を持ったまま生まれ変わったと即座に思い至れる方が怖いだろう。前世での記憶がある以上、目が覚めたのならばそのまま人生が続いていると思う方が妥当である。


 非常にリアルな長い夢を見ていると思いつつも、彼――レウルスは周囲の情報を集めようとした。しかし、すぐさま目論見がとん挫することになる。

 赤ん坊である以上、両親がいるというのは当然の話だ。コウノトリが運んできたわけでもなければキャベツ畑で収穫されたわけでもなく、レウルスの記憶にもそのような記憶はない。試験管ベイビーの可能性もあったが、レウルスにはきちんと両親が存在する。


 その両親だが、レウルスを放置していることが多いのだ。育児を放棄しているわけではなく、純粋に育児を行う時間と体力的な余裕がないらしい。いつ見ても疲れた顔をしており、目の下には濃い隈が浮かんでいる。

 それは毎朝鏡の前で見ていた“かつての自分”の疲れ顔にそっくりで、なるべく両親の手をかけないようにと決意したのは余談だ。情報を集めることは諦めないが、夜泣きなどはしないよう己を戒めたのである。


 日中はレウルスが泣き叫べば母親が様子を見に来るが、授乳なり糞尿の片付けなりを済ませるとすぐにいなくなってしまう。自身を抱きかかえる腕の細さ、頬を撫でる手指の荒れ模様を感じると、それを不満に思うこともできない。

 父親も母親も若く、現代日本で考えれば高校生と呼べるかどうかという外見である。父親は髪が赤色で母親は髪が茶色であり、初めて見た時はスレた若者が勢いに任せて“ゴールイン”したのかと思ったが、状況を確認していくと間違いであることに気付いた。


 レウルスが己の境遇を理解した理由として、己の住環境の悪さがある。地面は土間で、壁は土。一応木材も使われているが極僅かであり、屋根は茅葺きである。

 その上、電灯などは存在しない。少なくともレウルスは見たことがなく、両親は日が沈むと地面に敷いた藁をベッド代わりにして眠ってしまう。そして日の出と共に目を覚まし、家の外へと出かけていくのだ。


 家は現代で言うならば六畳もなく、トイレやキッチンも存在しない。それどころか玄関の扉すら存在しない。入口の上部から吊るした目の荒い(すだれ)によって外界と隔てているだけである。

 家の中もほとんど家具がなく、木で作られた小さな棚と水瓶が一つずつ部屋の隅に置かれ、他の家具は見当たらない。

 他の家具を挙げるとすれば、レウルスを寝かせるために蔓を編んで作られた大きなカゴがあるだけである。レウルスはカゴに藁を敷き詰め、その上に一枚の布を敷いてから寝かされていた。


 両親が着ている服はボロボロであり、平成日本で道路を歩いていれば即座に警察が飛んできそうなほどである。ついでに言えば、嗅覚が鋭い赤ん坊としては辛いほど臭いがきつかった。

 風呂に入る習慣がないのか、そもそも風呂自体がないのか。家の中にトイレすら存在しない以上、風呂があると考えるのは無理がある。現代人にとっては馴染み深い電気や水道、ガス設備も存在しないのだ。


 興味を惹かれて日中に家から出たことがあるが、レウルスは初めて見た家の外の光景に驚くことになる。一体どこの田舎なのかと思ったが、電信柱どころかアスファルトなどで整備された道すら見当たらなかったのだ。


 ――その時、レウルスは人生で初めて絶句した。


 レウルスが住んでいる家と似たような造りの家がいくつも立ち並び、両親と似たような服装を身に纏った者達が野良作業をしているのはまだ良いだろう。金属製の鍬や鎌が見当たらず、ほとんどの者が木製の鍬などで畑を耕しているのもまだ良い。

 だが、金属鎧で身を固めた男性らしき人物が目の前を通過した時、レウルスは己の目を疑った。その人物はガシャガシャと重苦しい金属音を立てて歩き、手には長柄の槍を持ち、腰には鞘に収められた剣らしき物体を下げていたのだ。

 現実を逃避するように『コスプレ?』と内心で呟くが、金属が擦れる音や重量感のある足音は到底偽物と思えない。年に二回行われる日本最大の同人誌即売会で似たような恰好をしていれば、即座に退場となるだろう。


 しばらく固まっていたレウルスだったが、逃げるようにして家に戻ると藁が敷き詰められたカゴに飛び込む。夢ならば覚めるようにと願って眠ってみるが、現実が変わることはなかった。目が覚めてから再度確認しても、鎧姿の兵士らしき人物を見かけたのである。


 それからは時折家の外の様子を確認するようになったが、どうやら自分がいるのは村と表現すべき共同体の中らしいとレウルスは判断した。どう見ても現代とは思えず良くて近代、悪ければ中世かそれ以前の文化しかないようだった。

 平成の地球でも国によっては似たような生活を送っているのかもしれないが、少なくともレウルスは知らない。明らかに手作りと思わしき衣類を身に纏い、電気もガスも水道もない場所はテレビの中でさえほとんど見たことがないのだ。


 己の置かれた環境に内心で戦慄するレウルスだったが、嘆いてばかりでは何も始まらない。そう自分を鼓舞し、手近なところから情報収集を始める。


 母親は村の中に作られた畑で仕事をしているらしく、大抵は家から見える範囲にいる。しかし父親の姿はなく、どこか遠くで作業をしているようだった。

 この世界のことを知りたいと思ったレウルスだったが、第一歩として言語がわからない。当然ながら日本語ではなく、英語や中国語のような使用人口が多い言語でもなく、フランス語のような欧州系の言語でもないようだった。

 そのためどうやっても質問ができず、身振り手振りで確認するには内容が複雑すぎた。かといって言語を習得しようにも両親が傍におらず、絵本などの幼児が文字を習得するための道具もない。


 100%近い識字率を誇っていた日本はすごかったのだなぁ、と赤ん坊の姿で目を細めてみるが、何も問題は解決しなかった。


 自分の名前や朝夕の挨拶はすぐに理解できたが、細々(こまごま)とした単語や文脈の法則などは理解が非常に遅れてしまった。疲れ果てた両親から聞き出すのは良心が咎め、他に教えてくれるような人物もいなかったからだ。

 その上、両親が知る単語の数も少ない。日常生活に加えて農業に関する単語が聞こえてくるぐらいで、村の中で生活する上で必要となる言葉以外出てこないのだ。


 それでも必死に覚えようと頭を働かせること二年。新たな人生において最大の転機が訪れる。


 ――両親の死亡。


 それが転機だった。拙いながらも辛うじて簡単な日常会話が可能になった彼が知ったのは、両親が魔物と呼ばれる生き物に襲われ、命を落としたという凶報である。

 それまで知らなかったことだが、どうやらこの世界にはゲームに登場するモンスターのような生き物が生息しているらしい。生後三年にしてそれを知った彼は、己の両親が殺されたという衝撃もあって気絶した。


 一日経って目を覚ました彼が知ったのは、父親は農作業を行うために村の外に出ていたこと。そして、父親のもとに食事を運んだ母親諸共魔物に殺されたという追加の情報である。


 レウルスが住んでいる村はシェナ村と呼ばれ、人口が五百人程度の村だ。村の周囲を土塀でグルリと囲み、なおかつ水堀が設けられた防衛力の高い村である。

 家から出たレウルスも遠目に土塀が築かれていることは知っていたが、魔物や盗賊から身を守るために造られたらしい。ただし、五百人もの人間が生活を送るには莫大な量の食糧が必要であり、村の内部だけでなく周囲にも畑が作られていたようである。

 作物を荒らされないよう木の柵などが設けられていたが、レウルスの両親は運悪く魔物に襲われたそうだ。村を守る兵士が駆け付けたものの間に合わず、命を落としたらしい。


 以前見かけた全身鎧の男性はシェナ村付きの兵士らしく、危険な魔物が出ればその討伐を行うのが仕事だったようだ。討伐が間に合わずにレウルスの両親が死んだことに関しては、運が悪かったの一言で済ませられたが。


 そうして両親を失ったレウルスだったが、悲しんでいる暇はなかった。現代日本で生まれ育った彼としては驚くことに、死亡した両親の分の労働を言い渡されたからである。

 三歳になったばかりで、両親を失って三日となっていない幼児。そんな状態で即座に働くよう言われた時は、さすがに耳を疑ったものである。


 体が出来ていない、などと主張する以前の問題だ。働かざるもの食うべからずとは言うが、三歳児にまで農作業をさせるのはどう考えても無理がある。

 しかし、村の上層部からすればそんなレウルスの考えはどうでも良い。言われた通りに働くか、餓えて死ぬかの二択を迫ったのだ。レウルスの一家は農民よりも扱いが悪い、奴隷のような立場に置かれていたのも一因だろう。


 この世界は現代の地球ではない。そして、村社会というものは恐ろしい。少なくともシェナ村においては労働基準法など存在せず、両親を失った子どもだろうと何の容赦もなく働かせようと考えるぐらいには情が乏しかった。

 現代日本でさえ村八分がどうだと恐れられるが、比べ物にならない危険さと厄介さがある。当然ながら人権などという言葉は存在せず、相手側に幼児だからと遠慮する理由も存在しない。少しでも逆らえば平然と私刑を行うだろう。


 レウルスが知る限り中世程度にしか見えないシェナ村において、レウルスの両親を含めた大部分の村民はただの労働力だ。村を治める一部の人間に管理され、生まれてから死ぬまで畑を耕し続けるだけの存在である。

 それを考えればレウルスの住居の粗末さや家具の少なさも納得だった。与えられるのは最低限の住居と食事だけであり、その“最低限”も現代日本を知るレウルスからすれば底を突き抜けた劣悪さだ。


 だが、そんな劣悪な環境がレウルスの認識を変えた。毎日の農作業による疲労や理不尽な要求が、生まれ変わった当初に考えていた夢や幻ではなく、実際の現実での出来事だとレウルスに悟らせたのである。

 村の上層部も、さすがに三歳児が鍬を振るうのは難しいと理解していたのだろう。初めてレウルスに与えられた仕事は村の外れに流れる小川から水を汲み、畑まで運ぶという単純作業だった。


 ――朝から晩まで水が入った木桶を抱えて歩き回るなど、村の上層部が遠回しに殺そうとしていたに違いない。


 レウルスはそう考えたが、幸か不幸かレウルスはただの子供ではなかった。ある程度の作業効率を保ちつつ、適度に手を抜くことで必要以上に疲れることを避けたのである。


 頑張って働き続けても、更なる仕事が積み重なる。手を抜き過ぎれば容赦なく食事を抜かれ、運が悪ければ殺される。

 前世の過労死した経験と村の雰囲気から、間違いなくそうなるとレウルスは判断した。


 現代日本で培った知識を基に行動を起こそうと考えないでもなかったが、この世界は魔物が存在するような世界だ。魔物だけでなく魔法も存在するらしく、村付きの兵士が何もない場所から炎を生み出した瞬間を目撃した時、手に持っていた水桶を落としてしまった。


 この時点でレウルスは前世の知識を放り投げた。農業に関する知識は乏しく、学校の授業で習ったことも前世の社畜生活でほとんどが消失している。その上で魔法や魔物が存在するとなれば、前世の情報を当てはめようと考える方がおかしいだろう。


 重力や物理法則すら異なり、下手すると土の中には微生物や栄養なども存在せず、魔法を基礎とした不思議パワーで作物が育っている可能性もある。

 頭の中に某インターネットの百科事典が常設されているわけでもないのだ。現代で培った知識を活かそうにも年月の経過と共に記憶が薄れており、その知識が正しいという保証はどこにもない。中途半端な知識で余計な厄介事を招くより、何もしない方が安全だった。


 加えて言えば何かを試そうにもその余裕がなく、恐ろしいことに村人の動きは常に監視されている。狭い村の中ではどこにいようと他人の目があり、少しでも妙なことをすれば十分と経たずに村の上層部が飛んでくるのである。

 何かしらの実験をこっそりと行おうにも、時間がなければ物資もない、その上自分以外の人手もないとないない尽くしだ。プライバシーなど存在しないため、家の中で何かしらの実験を行うこともできない。


 村の中でも富裕層と呼べる家庭に生まれていれば話は別だっただろうが、レウルスの一家は働き蟻並に待遇が悪かった。ましてや何も知らないはずの子供が研究紛いのことを行えば、悪目立ちすることこの上ないだろう。

 下手をすれば魔女狩りのように火炙りにでも遭うかもしれない。火を焚くのもタダではないため、村から放り出して魔物に食わせる可能性の方が高いという笑えない環境である。


 さらに困ったことに、自分で考え出したという言い訳も使えなかった。シェナ村においては上層部の人間だけで知識が独占されており、文字や計算などの文明社会で必要不可欠な要素すら学ぶことができない。

 彼らとしては働く農民に余計な知恵をつけさせたくないのだろう。盗み見て密かに習得しようとしたレウルスだったが、収穫した農作物を数えている彼らに近づこうとしただけで睨まれ、追い払われた。

 一度子どもらしい無邪気さと無遠慮さを前面に出して近づいたものの、何の躊躇もなく蹴り飛ばされたためそれ以来近づかないようにしている。


 そのためレウルスは頭の中では物を数え、四則演算に留まらない計算を行えるが、その結果を日本語以外で何かに書いたり言葉にすることができなかった。


 そんな状況に置かれること十二年。体が成長するにつれて与えられる仕事が増え、疲労と危険も増えたが、レウルスは辛うじて生き延びていた。常に空腹で疲労も溜まっていたが、生きることだけはできていたのである。


 前世での人生経験がなければ早々に体を壊し、人生二度目の過労死という笑えない状況に陥っていただろう。しかし、農作業中にこっそりと雑草や虫を食べ、更には適度に手を抜くことで何とか命を保つことに成功していた。

 父親と同じように村外で農作業を行うよう命令された時は遠からず死ぬかと思ったが、“嫌な予感”を覚える度に村の中に引っ込むことで危機を乗り切ることができたのである。


 それは虫の知らせなのか第六感なのか、あるいは人間が元々持つ危険を察知する力なのか。レウルスは勘という確証のないものに命を預けることを忌避していたが、今のところ外れたことがないためある程度は信用している。


 村の外に出る度、いっそのこと村から逃げ出そうと考えることもあった。だが、逃げ出しても飢え死にするか魔物に殺されるかの二択であり、大人しくするしかない。

 シェナ村は山間部を切り拓いて造られた村らしく、村周辺はともかくとしてほんの少し歩くだけで山林が存在する。近隣にも村や町があるのだろうが、どの方向にどれだけ歩けば到着するかもわからないのだ。

 また、近隣と言っても徒歩で数日かかることもあるため、何の準備もなく飛び出せば魔物に殺される以前に飢えて死ぬだろう。


 当然ながらレウルスが地図を持っているはずもなく、近隣の町や村の正確な位置を知る者は村の上層部だけで聞き出すのは不可能だ。かといって当てもなく逃げ出せばそれは迂遠な自殺に過ぎず、レウルスに二の足を踏ませていた。


 そして両親の死から十二年後、春先に十五歳になったレウルスにとって新たな転機が訪れる。


 それは十五歳という節目を迎えて成人として認められたことだ。これによってレウルスは一人前の大人と見做され――誕生日を迎えたその日に奴隷として売り払われた。


 それまでレウルスが知る由もなかったが、シェナ村が属するのはマタロイと呼ばれる国である。マタロイの法律で成人を迎えた者に関しては人頭税がかけられ、その負担を嫌ったシェナ村上層部の判断で売りに出されたわけだ。

 当然ながら、レウルスの意思など関係ない。何やら商人らしき人物が出入りをしているな、などと考えながら畑に向かう途中で幌馬車に詰め込まれ、野菜共々“出荷”されたのだった。








 己の境遇を思い返し、レウルスは再びため息を吐く。


 この世に生を受けて十五年経ったが、何故前世の記憶があるのかはわからない。生まれ変わったのは既に十五年も前のことであり、前世の記憶に関しては時を追うごとに欠けていっているが、かつての自分の記憶を抱えている理由などわからなかった。

 そんな理由よりも毎日を生きる方が大切で、考えるだけ無駄というものである。脳を動かすだけでもカロリーを消費するため、無駄どころか贅沢ですらあっただろう。


 その結果として売り飛ばされたとなれば、笑うしかないが。


(やっぱりどこかで逃げるべきだったか……いや、逃げても死ぬだけだしな……)


 無謀な行いは若者の特権だろうが、無謀な行いが死亡とイコールで紐付いている環境である。問題を先送りにした結果として奴隷になるのはある意味自業自得だが、だからといって諦められるものでもない。


(話を聞く限り、奴隷は奴隷でも鉱山奴隷……こりゃ今度こそ終わったか)


 転職先では畑で振るった鍬を鶴嘴(つるはし)に変え、死ぬまで鉱山を発掘するだけの簡単なお仕事をするだけだ。

 労働条件は教えてもらえないが、年中無休で給料は簡素な食事のみ。ボーナスも有給も社会保険もないが、命の危険は盛り沢山という素敵極まりない環境だろうと予測できる。


 過労で死ぬか、肺をやられて死ぬか、ガスを吸って死ぬか、落盤に巻き込まれて死ぬか。死亡理由と危険性については農作業以上であり、レウルスは何度目かになるかわからないため息を吐いた。


 シェナ村で生まれ育ったレウルスだが、奴隷として出荷されるに当たって(にん)別帳(べつちょう)らしき書類からもその存在を削除されていた。あとは死ぬまで鉱山で働けということなのだろう。


 一縷の望みに賭け、鉱山に押し込まれるまでに逃げ出すことが可能だろうか。頭の片隅でそんなことを考えるレウルスだが、それも難しい。

 レウルスを買ったのは商人であり、他の商品共々輸送するために護衛を雇っている。幌馬車を操るのは商人だが、幌馬車の前後を固めるために武装した男達が雇われているのだ。


 村で見かけた兵士と異なり、個々で身に纏っているものが違う。身に纏うのは部分的な金属鎧や革鎧、手には槍や剣、弓などを携えており、荒事に慣れた雰囲気が漂っている。

 レウルスも年中農作業に従事していただけあり、ある程度の体力と筋力があった。しかし、荒事を生業とする者達に素手で勝てると考えるほど能天気でも無鉄砲でもない。


 幌馬車に詰み込まれる際、手枷や足枷を嵌められなかったのはどう足掻いても逃げられないと判断されたからだろう。


 だから、仕方がない。ここは大人しくしておこう。鉱山に放り込まれたとしても、運が良ければ生きていけるかもしれない。今までだって生きてこられたのだ。運の良さにはそれなりに自信がある。

 そう自分に言い聞かせるレウルスだったが、心の底から現状に甘んじているわけではなかった。雑草を食み、虫を喰らい、泥水を啜ってでも生き延びてきたのだ。


 諦めるしかない状況とは裏腹に、レウルスには現状に対する憤りと“切っ掛け”さえあればと願う心があった。逃げ出す切っ掛けさえあれば、どんなに少ない可能性だろうと迷わず逃げを打つだろうと。

 鉱山奴隷として死ぬぐらいなら、野垂れ死にした方が余程マシだ。少なくとも己が選択した決断の末に死ねる。それだけで十分な価値がある。

 どのような因果かわからないが、せっかく訪れた“二度目”の人生。それが粗食と重労働に耐えただけで終わるなど、何の意味があるというのか。


 そう思うが故に切っ掛けさえあればと切に願い――そんなレウルスの願いは叶えられる。


 それは突然の出来事。それまでガタゴトと一定の速度を保って動いていた幌馬車が急停車し、悲鳴のような声が進路上から上がった。

 驚愕と恐怖が込められた絶叫。その声を聞いた瞬間、レウルスは全身を貫くような悪寒を覚える。これまで感じたことがないほどに強烈な“嫌な予感”。生存本能がこの場から逃げ出すよう騒ぎ立てるが、レウルスはその警鐘に逆らってこの場から動かなかった。


 “何か”が起こったのは確実だが、今はまだ動くべき時ではないと咄嗟に判断したのである。現に、幌馬車の後方には護衛がまだ残っているのだ。革鎧に身を包んだ男性は幌馬車の前方を見やり、続いて幌馬車の中にいるレウルスへと視線を向ける。

 その視線を感じ取ったレウルスは膝を抱えたままで表情を殺し、今しがた聞こえた悲鳴が聞こえなかったように振る舞った。喜び勇んで幌馬車から逃げ出せば、即座に捕まっていただろう。


 今だけは自分が物だと言い聞かせ、置き物のように不動を貫く。護衛の男性は魂が抜けたような顔で座り込んだままのレウルスを数秒観察すると、視線を外して幌馬車の前方へと向けた。

 レウルスも何が起こっているのか確認したかったが、幌馬車から身を乗り出して確認するわけにもいかない。そのため耳を澄まして少しでも情報を得ようとする――と、獣の唸り声と苦痛に濡れた護衛の悲鳴が飛び込んできた。聞こえる唸り声の数は一つだが、護衛が手を焼くほどに厄介な魔物が出たらしい。


 盗賊などの組織立った相手ではないようだ。それをレウルスは幸運に思う。相手が人間の場合、捕まって売り払われる可能性が――。


「うぉっ!?」


 思考を遮るように幌馬車が大きく揺れ、レウルスは思わず声を漏らしていた。それと同時に馬を操っていたはずの商人から悲鳴が上がり、幌馬車の屋根が豪快に吹き飛ぶ。


「……は?」


 それなりにしっかりした造りだと思っていた幌馬車を一撃で半壊させた相手――二つの頭が生えた巨大な獅子らしき生き物と目が合い、レウルスの口から呆然とした呟きが零れる。


 ――さすがに、“コレ”は、予想外に過ぎる。


 内心でそう呟くレウルスだったが、呟きとは裏腹に余裕は一切ない。


 大型車並に巨大な体。二つの頭に生えた角から何故か三本生えている尻尾まで含めれば、その体長は三メートルを軽く超えるだろう。幌馬車の屋根を殴り壊した前腕は如何なる進化を遂げてそうなったのか、黒曜石のような鈍く黒光りする外殻で覆われている。


「ハ――アハハハハハハハッ!」


 恐怖を通り越せば笑うしかないなど、長い人生で初めて知った。あまりの衝撃にレウルスは無意識の内に笑って思考を放棄する――よりも早く、体は生存のために動いていた。


 最早護衛に捕まることを心配する必要はない。今、この場で逃げ出さなければ、目の前の化け物に殺される。

 レウルスはそれまでの大人しさが嘘のように立ち上がると、幌馬車から飛び降りて一目散に逃げ出した。


 この世界に生まれて初めてとなる、自由を求めての逃走。それは自由を求めるよりも先に、命を永らえるための逃走でもあった。


(こんなところで死ねるかっ! せめて納得のいく死に方をさせろよクソ世界!)


 あんな化け物に殺されて死ぬなど、真っ平御免だ。止めようとする護衛の声を背中に聞きながら、レウルスは街道を外れて森の中へと逃げ込むのだった。












初めましての方は初めまして、前作以前から拙作を読んでくださっている方はお久しぶりです。

作者の池崎数也です。


今作は『異世界の王様』以来の異世界ファンタジーになります。前作、前々作に続いて長編になると思いますので、気長にお付き合いいただければと思います。


しばらくの間は毎日0時に更新できるよう頑張りたいと思います。

ご感想やご指摘等ありましたらお気軽にどうぞ。評価ポイントやお気に入り登録をいただけると非常に嬉しいです。


それでは、こんな拙作ではありますが今後ともお付き合いいただければ幸いに思います。

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[一言] 苦痛に濡れた、って表現は初めて見ました。 苦痛にまみれた、ならよくありますが。
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