通勤電車で恋をした
毎朝、同じ時間に同じ電車の同じ車両の同じ席に座っていると、周りの人たちの何人かがいつも同じ顔ぶれだということに気付く。通勤ラッシュより少し遅い時間だからなおさら分かりやすい。
バカでかいヘッドフォンをした作業着の男は、「音楽猿」。疲れた顔で下を向き、薄くなった頭髪を露わにしているスーツの男は、「頭皮露出狂」。ウォーキングでもするかのようなジャージ姿の太った女は、「えせダイエッター」。そんなふうにアダ名を付けている。
その中に、「チワワちゃん」と名付けた女がいる。目が大きくて、胸くらいの長さの薄っすら茶色い髪を下ろしている美人。俺と同年代と思しき彼女のことが気になって仕方ない。
彼女はいつも俺の向かいに座る。七人掛けの端っこだ。俺は彼女の顔を見たくなると、一度中吊り広告に目をやり、次に彼女、次に自分のスマホと、三点を通して見るようにしている。気付かれないための浅はかな工夫である。
彼女はいつもカバーを掛けた文庫本サイズのものを読んでいる。その文系の雰囲気がたまらなく可愛い。きっと趣味はお菓子作り。時に失敗し、シュー生地が上手く膨らまないことに頬を膨らませ、「もう一回頑張るぞ!」と腕を捲る。エプロンはピンク色で……と、勝手な妄想はエンドレス。我ながら気持ちが悪い。
ところで、彼女の職業は何だろう。俺が出勤する月曜から金曜まで毎日見掛ける。俺が乗る次の駅で乗ってきて、俺が降りる一駅前で降りる。その駅の周りはオフィス街。私服姿であるところから想像するに、会社で制服に着替えるのか、近頃のIT企業よろしく私服で勤務するのか、それとも、仕事ではない用事で乗っているのか。
土日はどうしているのだろう。いつものように乗っているのだろうか。
俺は気になって、土曜に尾行をすることにした。
いつもの倍の時間を掛けて歯を磨き、一張羅に着替えた。こんな時のために三万円もする革のジャケットを買っておいた。本当はデートのときに着るべきなんだろうけど、何かあったときのため、一応カッコつけておきたい。
彼女はいつものように俺が乗る次の駅で乗ってきた。いつもの場所に座り、いつものように本を開いた。普段よりも混んでいる車内、平日と雰囲気が違うが、彼女はいつものまま。俺の視線は彼女と中吊り広告とスマホを何度も行き来する。
さぁ、次が彼女の降りる駅。バレないよう、少し時間を置いて降りよう。
到着のアナウンスが流れ、ドアが開いた。見逃さないよう、かといって見ていることがバレないよう、彼女の靴を注視する。
ところが彼女は降りなかった。ドアが閉まっても焦る様子はなかったから、降り過ごしたということでもないだろう。
一体何故……?
今日は土曜日、数駅先の、繁華街のある駅に用があるのかもしれない。不思議はないけど気になる。どうせ尾行をするのだから何処で降りようと構わないが、予定が狂う。
ふと、彼女に目をやると、彼女も俺の目を見た。焦って逸らしてしまいもう一度目をやると、彼女は視線を落として可愛らしく微笑んでいた。
もしかして、彼女も同じことを……?
俺はいつもの駅で降りた。改札へ向かうエスカレーターに乗り、スマホをいじる。画面は全く見えていない、というより、見えてはいるが入ってこない。彼女が、二人ほど挟んで俺の後ろの段に乗っているのを横目で確認したからだ。
改札まで十メートルほど。男から話し掛けるべきだろうか。
残り五メートルほどで、「すいません」と女の声が聞こえた。彼女の声を聞いたことはないが、声色で彼女だと推測出来る。あの顔から発する声はきっとこの声だ。
ポーカーフェイスで振り返ると、彼女は照れくさそうに「音楽猿」に手紙を渡していた。犬と猿は仲が悪いんじゃないの?