鏡映自身
[5 鏡映自身]
「師匠!」
外に飛び出した時には、争う音は収まっていた。
そして一人、ポケットに両手を突っ込んだ大男が、暗い空に白い息を吐いていた。
「シグ、ワシが戻るまでは外に来るなと言っといた筈だが」
いつものおちゃらけた感は微塵もなく、殺伐とした気配を放つ闇の住人がそこにはいた。
足元には、何人もの黒装束の者達が斃れ、殆どが事切れていた。
息のある者でも、手や足、行動するのに必要なものが尽く破壊されており、生ける屍だった。
残った者も、後3人程。
貌に恐怖がこびり付き、蒼白でこの暴力の主と対峙していた。
「ワシの処に刺客が来たってことは、繋がりは調べられているな。
で、誰だ。
指揮をしている者は。
この中にはいないな」
ノーブルはにじり拠り、威圧を掛ながら問う。
転がっている人数からして、戦力差は圧倒的と考えていたのだろう。
それを簡単に覆れて、敵は完全に浮き足立っていた。
「これだから実戦経験の少ない魔術師という輩は。
ワシが創った戦闘体制に頼って、戦いというものを舐めていやがる。
確かに身体能力増加、保護を可能になれば、人のレベルの喧嘩なんかは殆ど制覇できる。
だが、貴様らが仕掛けているのは戦争だ。
身体能力一つを勝因とするには、御粗末過ぎんか?」
ギラついた獰猛な笑みを浮かべ、ノーブルは残り3人に詰問する。
「誰が指揮をしている?
ワシが相手だと知りながら、攻めてくる輩だ。
並ではあるまい」
その問いに、恐怖に張り付いていた一人が、どこか優越を称えた引き攣った貌をする。
「霧の魔女だよ。
いくらアンタが相手でも、どうしようもあるまい」
霧の魔女。
その単語にノーブルは眉を顰めた。
それを隙と見て、魔術士3人が地を蹴った。
その速度は人のものとは思えず、状況を傍観していた少女では視界に捉える事ができずに、完全に見失う。
三者は、正面、両サイドに別れ、そこから魔術回路を構築し、場確定させて、固定する。
「マヌケどもが」
嘲笑したノーブルは両拳を突き出し、解放語を発する。
「{hagalaz}、{nauthiz}」
拳には指輪がされており、そこに棺桶に書き込まれていたのと同じルーン文字が刻まれていた。
つまり、初めから構築された術を解放するだけで、顕現を可能とする。
これから魔術を組もうとしている者達とでは、時間に隔たりがあった。
先行して術式を組出した三者だったが、用意していたものを活用しているノーブルの速度に敵う筈もない。
発動音が発せられ瞬間、世界が事象を顕現させる。
魔術師が認識できる場で、無数に網が加速的に広がり3人を束縛していく。
それに反応したものも、変化し増加していく網に対応できずに拘束されていく。
{nauthiz}の束縛と、{hagalaz}の変化の意を混合して使用し、敵は駆逐されていく。
「戦闘中に魔術を組んでいる暇がある訳なかろうが。
僅かなる時間が、生死を別ける。
これが殺し合いだ」
一般人には認識できない網に捕まり、全身を拘束された者達は、網から侵食してくる魔術式に、言葉すら拘束され、うめき声一つ挙げれなくなっていた。
「取り合えず、貴様らは寝てろ」
冷徹に言い放つと、容赦のない蹴りが顔面にめり込み、意識を分断されていく。
3回それをくり返し、そこに動く者は圧倒的な実力を見せた大男と、それを訳も分からず眺めるしか出来かった少女だけとなった。
「厄介な相手が出てきたな。
霧の魔女か」
独語するノーブル。
やっと立ち直ったシグは、一様警戒しながら、ノーブルに近寄る。
「シグ、こういう場ではさっき見たいな迂闊な行動が命取りになる。
命令の聞けない奴にうろつかれたら迷惑だ。
次命令を破ったら、破門にするぞ」
有無も言わさぬ迫力だった。
「お前は未だ若い。
これから経験も幾らでも積めるだろうが、此処は未来を一瞬の判断で失う場だ。
それを知らぬ訳ではあるまい。
暫くは下で、仰ぐことも経験だと想え、良いな」
「…悪かったわ、師匠」
身を安否しての事だけに、素直にシグは謝っていた。
魔術師という者達が、自分が想像したよりも力を有しているという事を知り、少しばかり腕が立つからといって自惚れていた自分が恥ずかしく想えた。
「こっちには指揮官は居ないようだな。
すると、これは時間稼ぎだな」
「なら、ヨーミエの方がヤバイやんか!」
駆け出そうとするシグをノーブルは捕まえ、落ち着くように促す。
「アイツ、ウチより弱いんで!」
「それは表面的な評価だ。
確かに組み合ったりすれば、シグ、十中八九はお前が勝つだろう。
だが、こと生きる事に関しては、アイツの方が上だろう。
戦場では、そういう能力の方が必要になる。
そしてアイツは躊躇を挟まない。
ヨーミエは、闇のルールには鼻が利くからな、暫くは大丈夫だろう。
それに、あそこは魔術師にとって鬼門だ。
簡単には破られはしない」
「鬼門?」
「魔術師が権力と力を有するようになったのは、ワシが開発して戦闘体制のお蔭と言っても過言ではあるまい」
さり気無く、自慢するノーブル。
「それさえ封じてしまえば、少しばかり特殊な能力を有する者、という程度となる」
「封じるって、いったい」
「開発者はワシだぞ。
そこらへんは術式、そしてNコードの深部まで熟知している。
封じるなんて、造作もない。
寧ろ、それこそが武器となる」
「…よう分からへんけど、簡単にヨーミエはくたばらへんのんやな」
「暫くはな。
それよりも、ワシらはワシらの仕事をせねばならん」
「ウチらの仕事?
ヨーミエの応援に行かんのか?」
「魔術師相手なら、応援の必要はないと踏んでいた。
問題は霧の魔女」
「霧の魔女。
なんや、今回の襲撃の指揮官みたいな話やけど、何者なん」
「レイゾナの子飼いだ。
エレクシルという物を知っているか?」
「バカにせんといてや。
これでも錬金術師を目指しとる人間やで。
人を不老不死へと転化させる秘薬。
問題は生態としての機能を失い、他から補給せねばならない躰、つまり吸血鬼になってしまうということやろ。
なんや、その秘薬がどうかしたんか?」
「百年前にな、新型のエレクシルを開発した者がいた。
それは旧と比べ、人を生態のまま吸血鬼へと転化するものだった。
新種に吸血鬼の誕生。
その名をテラングィードと言った」
それは世界を恐怖に貶めた吸血鬼の名だった。
聖夜にある街の者を皆殺しにし、惨劇の主と言う通り名を持っていた、最悪無比な吸血鬼。
しかし半年前、ある小さな島国で突然消息を絶っている。
教会の執行者に撃たれたとか、噂の域を抜けないまま、惨劇の主は姿を消した。
流石に有名な話だけあって、シグもその名には覚えがあった。
「奴は姿を消したものの、奴の実験で生み出したものは残った。
新型のエレクシル。
その実験に犠牲者がいても不思議はなかろう」
「それって」
「不完全ながらも、それは不死。
テロメアが切れなく、つまり細胞の寿命の軽減を止める事に成功した。
問題は、その失敗作はとんでもない副作用も起こした。
惨劇の主はそれを見て、長くないと考えて放置したのだろう。
自分と匹敵するかもしれない者を生かしておくほど、テラングィードなる元魔術師は甘くないだろうからな。
失敗作、そう霧の魔女は生き延びた。
そしてその魔女は、レイゾナ家に飼われているというのは、協会では有名は話だ」
「吸血鬼か、確かに厄介やな」
「悪いが、昔からいる吸血鬼、古参は確かに恐ろしいが、然程でもない。
準備を整えれば退治はできる。
だが、霧の魔女は違う。
不完全とは言え、新型のエレクシルの飲んだ者。
エレクシルは本来、肉体を不死へと転化し、永久の命を与えるものだ。
だが、それは生者には不可とされていた。
それを覆したのが、新型。
死者でなくなった新型は、旧吸血鬼が持ちえていた弱点を克服し、吸血鬼に2大能力の1つ、遺伝子適応能力で自分の能力を肥大化させる事を可能とした。
本来この能力は、生者でなくなった吸血鬼が、自分で生成出来なくなった細胞を他から補給し、自分の物へと書き変え、身を保管する為に存在する。
吸血はその手段だ。
さて、問題はもう一つの能力の方だ。
これを攻略しない限り、ワシらはその敵に傷一つ負わせる事ができないで終わってしまう。
こと、その能力に関しては、完成体であるテラングィードを超えていたという話だ」
「なんや、その能力って?」
シグはノーブルへと詰め寄り、エレクシルと呼ばれる秘薬の真実を尋ねる。
話に夢中になり、積めを誤ったことに気が付くのが遅れた。
それは長年、血生臭い空気に触れていなかった事から生じた、隙間だった。
普段は研究所に籠もり、戦場へと駆り出されることのない魔術師を内心で舐めていたのかもしれない。
だから、完全に無力化したという確たる証拠もなく、こんな場所で話し込んでしまった。
シグの後方に、碧光で描かれていく術式が、ノーブルの網膜に飛び込んでくる。
それが攻撃系の術式だった。
血塗れの顔面で怒りの形相を作り、1人の魔術師が攻勢に出ていた。
最早完成を見ている魔術に対し、無防備な後姿を見せているシグ。
1人ならば後方へと跳び退りながら、対策を練れただろう。
致命的に時間が足りない。
未だ気が付いていないシグに飛び掛る勢いで、抱きしめる。
「な、なにすんねん!」
シグから文句が洩れた瞬間、碧光が凝縮し場に固定されて、魔術となる。
其処から生まれた事象は、蒼き焔。
ノーブルはシグを自分の内に庇い、灼熱に背を向ける。
「グッッッ!!」
シグから見えたのは青白い光だけ。
それから守るように、逞しい胸に抱かれていた事だけが、ゆっくりと流れる思考で理解した。
ノーブルは背中が激痛に覆われ、厭な匂いが鼻に付く。
それは肉を焼けていく匂い。
シグは、自分が庇われている、荷物になっている事実を知ったのだろう。
ジタバタとノーブルの腕の中で暴れ、この状況を壊そうとしていた。
「やめっ、やめやっ!」
それを許さず、ノーブルは焔に触れないように必至にシグを庇い続ける。
そして青白い光が効力を失うと、シグを拘束していた力が解け項垂れるようにノーブルは膝を付く。
それをスローモーションのように眺めていたシグ。
何かが頭の中で切れる音がした。
「う、うあ、うわああああああああああ!!」
ノーブルの後ろで血に染まった貌で微笑を浮かべている魔術師に向かい、シグは疾走していた。
何の策もない、只の突撃。
直ぐさま、魔術師は新たな構成を組み上げ、そして先程ノーブルを焼いた魔術式を構築し、事象とする。
その構成が見えるようになっていようがいまいが、今のシグには関係無かった。
(許さへんっ!)
その想いだけが、身体を突き動かす。
「死ねっ!」
チープな台詞を飛ばされ、そして焔が差し迫る。
シグは咄嗟に顔を両腕で庇い、そのまま蒼炎に飛び込む。
暴挙、そう魔術師には見えた。
だが、これが一番的確な対処だった。
生まれたばかりの事象がその効力を遺憾なく発揮するには、それなりの距離が必要だった。
「っな!」
焔から飛び出してきた少女に、魔術師は驚愕した。
それも束の間、その顔面は再び血の花を咲かせる。
シグの跳び膝蹴りが鼻をヘシ折った。
蹈鞴を踏んだ処に懐に飛び込み、おもいっきり踏み込む。
突き出された拳は寸分違わず、腹筋の隙間を縫い突き刺さった。
それはシグが、自分の体重差を補う為に学んだ中国拳法の技の一つ、崩拳の型だった。
踏み込んだ勢いがそのまま拳に乗り、敵を撃つ。
ヨーミエの時の手加減をしたものと違い、腹にめり込んだ拳は悶絶させた。
これを受けた者は速攻で横転し、七転八倒した後、白目を剥いたままパクパクと口を開閉させるしか出来なくなる。
最早、無力となった相手にシグは追撃を加えに行く。
「許さへんでっ!」
横臥し痙攣している相手に蹴りを加えようとして、大きな影が後ろから伸びてくる。
新手と思い、横へと跳び退りながら足払いをかける。
だが、足払いはその相手の頑強な足を払うことは出来ず、止まってしまう。
「おい、シグ、痛いぞ」
「…へぇ?」
敵と思われた人物から、当たり前のように声を掛けられ、見上げる。
そこには背中を焼かれ、沈んだと想われていたノーブルが平気そうに立っていた。
「ったく、危ない奴だな。
判断は良かったが、一歩間違えれば黒こげだったぞ」
ドッシリとした大木のような巨体は、蹴られた足を軽く振りながら、ふらつく様子もない。
「…し、師匠。
ヤラれたんじゃ?」
「お前も見ただろうが。
背中は爛れている。
ちぃとばかり、意識が飛びかけたぐらいには、辛かったぞ」
見せて貰うと、確かに背中一面爛れ、痛々しかった。
だが、肉体越しで感じた熱量を想うと、これぐらいの怪我では収まらない筈だった。
「どうして無事なん、アンタ?」
「無事だと悪いのか?
こっちは劇的な場面で涙チョチョ切れだと想っていたのだが?」
「じゃなくて!」
「怒鳴るな。
一様怪我人だぞ。
簡単に言えばワシらが着ている服は特注品でな、魔術を拡散させる魔術回路を適応させてある。
魔術の効果を半減させる事ができる、優れものだ」
「…ワシらって、ウチの服もか?」
「いくら判断が良くても、あれだけの炎に飛び込んだんだ。
少しの火傷で済む訳なかろう。
因みのその眼鏡も、そういった要素が組み込まれているから、顔には殆ど火傷を負ってなかろう」
そう言われれば、軽くはヒリヒリするが、火傷と呼ぶにはあまりに御粗末なくらいにしか顔が痛くない。
「備え有れば憂い無しだ。
あぁ、ワシの一張羅が台無しだな」
シグは説明を受け、頭が受理してくると沸々と怒りが湧き上がってくる。
「…この、オオバカがっ!」
「な、何を怒っているんだ、お前は」
「何で庇ったんや!
いくら備えが有ったからっていって、無謀にも程があるわ!
ウチなんかほっとけば良かったねん!」
「…ほっておけるか」
ノーブルはその言葉を受け、怒気を含みながら静かに答える。
「言った筈だ。
ワシは、お前達の事を家族だと思っている。
それを守ろうとしてなにが悪い。
大事な娘を守ってなにが悪い」
これまでおくびにも出さないできた言葉。
それ故に、この言葉は重くシグに届く。
「…ウチは」
「お前が家族という概念に憧れ、そして脅えているのは知っている。
ワシの勝手な想いだ。
強要するつもりも、要求するつもりもない。
只、そう思わせてくれ。
それも駄目か?」
(…ウチはっ!)
胸が満ち、痛いくらいに嬉しい。
だから素直になれない自分が恨めしい。
(壁を越えたヨーミエと豪い違いや。
ウチの方が臆病者やんか、これじゃ!)
シグは唾を飲み込み、せめて、精一杯の言葉を紡ぐ。
「…、あ、ありがとう、や」
熊のような大男が、その一言で破顔してしまう。
「さて、愚息の方も何とかしないといかんな」
と行動に移ろうとして、その体躯が傾ぐ。
それを逸早く察知してシグは、背中に触れないように支えに行く。
「やっぱ、オオバカや。
結構キツイんやろ、この火傷」
脂汗が額にビッシリと張り付いているのが、シグには目視できた。
じっとりと濡れた服も、その痛みが尋常でないのを物語っていた。
「心配するな、と言いたい処だが、少しな。
だが、手を拱いている状況じゃないのも事実。
霧の魔女相手では、ヨーミエに勝ち目は…、いや何とかなるかもしれん」
「何か方法があるんか?」
「今のヨーミエならば…。
あれを届けなければ」
シグの身体を押しのけ、事務所へと戻ろうとするノーブル。
降りて行く痛々しい後ろ姿のノーブルを見ながら、シグはある決意を固め、その後ろに続くのだった。
プジャァ!!
肉が弾け、又もこのアパートの外壁を血が濡らしていく。
これで何個の肉が弾けた事だろうか。
流石に誰も異常な現象に、恐怖を覚えて足を止めていた。
「どうしたのですか?
早く、進みなさい」
後ろから投げかけられる冷酷な命令。
目の前で起こっている不可思議な現象にも動じず、女は部下である者達に突撃するように命令した。
「しかしっ!」
無駄に命を散らすと分かっていて、誰が好き好んでその命令をきく事ができるだろうか。
反感が芽生え、口を開いた者がいた。
それに同調し他の者達も反論をしようとした。
「進みなさい」
返ってきたのは、相変わらずの命令だった。
侵入者を尽く爆ぜさせる、不可侵な領域。
一見ただのアパートを装っているが、ある境界線を過ぎた者を次々に抹殺していく。
「フザケルな!」
馬鹿げた命令に、先程反論しようとした男が切れた。
対策も講じずに、死ねと言っているのと同じ命令に誰が従うだろうか。
「勘違いしてませんか。
貴方達は駒に過ぎません。
私の命令を忠実に実行し、有益に屍を晒せと言っているのです」
丁寧に、そして残酷な台詞が流れる。
「貴方達には、それしか価値はありません。
突飛したものも無し。
あの方の御役に立つ訳でもない。
駒として忠実に事を成す以外に、何の価値があろうか。
この宝物庫のカラクリを解く為のパーツなのですよ、貴方方は」
怖気が走る。
ある意味で、この女こそ魔術師に相応しい概念の持ち主だと言えるだろう。
者を物とし、その活用方法を物として探す。
「安心しなさい。
貴方達の屍からは、貴重な魔術回路は回収しておきますから。
思う存分に散らしてください」
感情の一片すら窺えない、いや、宿すことのない表情が淡々と告げる。
死ぬと分かっていて、この不可侵の領域に踏み込もうものは厭世の自殺志願者だけだ。
素直に命令に従う者などいる筈もない。
此処に派遣された数名は、その理不尽で傲慢な命令に反骨心を芽生えさせた。
一番に反感を口にした者が、素早く大気に蠢く魔術回路を収拾し術式を組み上げる。
「貴様が死ねっ!」
怒声が木霊し、場が設定され、魔術が発生する。
弾き合い、バチバチッと電光が迸る。
その矛先には、能面な女が避ける仕草も見せずに、佇むだけだった。
それは確かに、自殺を促すなる女を貫いた。
そう、貫き通過してしまったのだ。
実体がなく、霧の存在であるかのように、彼女の体をすり抜けていく。
「無駄な事を。
それと、もう一つ」
その光景を見て、恐れを成した他の者達が、この場から逃げようと試みていた。
それを口だけで嘲笑し、霧の魔女は断言する。
「逃げられると思っているとは」
刹那、アパートの周りを濃い霧が包み込んだ。
それに伴い、霧の魔女の姿は霧に溶けていく。
そして一斉に悲鳴が轟く。
「ギヤアアアアアッ!!」
不用意に霧に突っ込んだ者が、全身から煙を噴出し、悶え苦しみ出す。
霧に触れた部分は焼け爛れていた。
霧に埋没した者は全身に火傷を被い、その場に横臥して間も無く息絶えていく。
そして鼻の良い者は、その霧の匂いに酸っぱいものが混じっている事に気がついただろう。
この霧が強酸に似た物質で構成されていることを。
姿が消えた魔女から、再び命令が下る。
「この霧に焼かれるか。
それとも可能性を求めて、この銀の宝物庫を攻略するか。
それは貴方方の判断に任せましょう。
只、霧は範囲を狭め、貴方方を追い立てるでしょう。
考える時間は有りませんよ」
躰を爆ぜさせるか、それとも強酸に焼かれるか。
どちらにしろ、死ぬ事しか選択権に含まれていない状況。
前門の虎、後門の狼。
彼らに残された手段は、微かなる希望に縋り、この宝物庫を解き明かす事だけだった。
それは共鳴だった。
魔術師の殆どがNコードと呼ばれる、補正補助の為の線を脊髄の真横に埋め込んでいる。
それは腹部の下、丹田に含まれている魔術回路、魔力を全身へと廻し、人間の肉体強化限界まで、3倍の身体能力を引き出すというシステム。
その際、酷使で細胞が死に至らないように、保護としての機能も備えており、魔術師を人を超えた存在へと誘う。
システムの開発者ノーブル ブルーガ。
銀の術師という通り名を持つ者。
銀とは錬金術において、金の次に高価で価値のあるもの。
つまり、有数の術師だとういう証明だった。
Nコードの開発は魔術師に大きな力を与えた。
脅威の身体能力、そして魔力を全身へと循環させるシステムは、三流の魔術士を、二流、ニ流の魔術士を一流へと昇華させた。
これにより、この世界で魔術師が持つ権威は増大した。
コードの埋め込みは魔術回路を認識できる人間ならば、命の危険もなく簡単に行う事ができ、その為殆どの魔術師がこれを埋め込んでいた。
開発者たるノーブルはそれを逆手に取り、ある罠をこの宝物庫に仕掛けた。
Nコードにある数の波動係数を与えると、コードが激しく振動し内部から肉体を食い破るという、無慈悲な罠を。
ノーブル自身はその係数に引っ掛からない新型のNコードを埋め込んでいる為、この場に入る事ができる。
魔術師でない者は、このアパートに仕掛けた疎外の概念に弄ばれ、この場所に興味を向ける事がない。
それを見抜ける魔術師もこの罠に前に成す術なく、門前で死体を晒す。
まさに鉄壁の守りだった。
だが、この銀の宝物庫も、まさかこれだけの人数に襲撃を受けると想定して罠を張り巡らせていなかった。
至る処に刻まれたルーン文字。
そこから発される、Nコードを狂わす波動係数。
魔術は永久ではない。
発露され、事象が顕現化してしまえば、起源へと帰化していく。
物量に任せたこの襲撃は、意外にもこの宝物庫を落すのには的確な手段だった。
死体の山が積み重なり、それでも突き進むしか許されない者達。
どれ程犠牲を叩いただろうか。
いつの間にか軍勢は境界線を超え、その先へと進軍を可能としていた。
絶望の形相が歓喜へと転化し、足が生へと進もうとしていた。
グゥッ!!
腹に響くような音。
そして、生へと歩んだ者の一つの頭を砕ける林檎のように粉砕した。
それだけでは留まらず、頭を打ち抜き、凶弾は後ろの地面を大きく抉った。
(っ!
なんて威力と反動だっ!)
愚痴が洩れそうになるが、口を縛り、作業を優先する。
横に付いているレバーを引き絞ると空になった薬莢が飛び出し、新たな弾が装填される。
そして狙いを然程付けずに、トリガーを引く。
やっと狙撃者の場所を見つけた襲撃者達は、屋上から除いているその銃口に、顔面を蒼白させる。
それは対戦車砲と呼ぶ物で、人に向けて放つような様なものではない。
そんな銃口から硝煙が吐き出される。
今度は2、3人を巻き込み、凶弾が二階へ上がる為の階段を粉砕しながら、着弾した。
地面を抉るまで、あらゆるものを貫通させる威力。
これを喰らって生きている者はいまい。
掠っただけでもその威力に血が逆流し、絶命を免れない。
2発の凶弾を放ち終えると対戦車砲を投げ捨て、状況を確認する。
屋上から見渡す限り、動いている数は目測で6。
死体の数はその3倍に及んでいた。
(女1人を連れて行くのに、この人数は何だ。
冗談じゃない!
それに何だ、この覆い尽くす霧はっ!
これだから、非常識な魔術師は!)
非常識の最たる男、ノーブルの顔が脳裡に過ぎる。
そして自分が相手にしている者が、自分には理解できない領域の者達だと常識を半分捨てて臨む。
手加減無用と、足元に用意していた手榴弾のピンを抜き、敵の中央目掛けて投擲する。
手榴弾が地面に何度か撥ねると、轟音が鼓膜を揺らし、爆発が辺りを包む。
「だから、魔術師は非常識なんだ」
口に出して、その光景に舌打ちをする。
爆心地に居た筈の魔術士の誰一人として、無傷だった。
魔術師達の周りには、円の中に描かれた六芒星が空中に展開しており、それが壁となり爆発を退けていた。
爆発が終わるのと同時に、魔術師は動き出す。
その動きは豹などを彷彿とさせる素早く躍動的なもので、人の動きを遥かに凌駕していた。
上から見下ろしてなければ、6人に姿が消えたように見えただろう。
2階へと差し迫った3名の魔術師が宙を描き、何かを生み出そうとしていた。
両手にサブマシンガンを構え、銃声を轟かせる。
片方は上ってこようとする残りの魔術師を牽制し、片方は構成を完成させようとしている魔術師の妨害を試みる。
闇の世界に閃光が瞬く。
トリガーを引きながら、足元にある石を蹴落とす。
その先には、魔術を行使しようとしている者どもがいた。
弾丸は1人が張った六芒星に阻まれ、その効果を見ない。
だが蹴落とした石はその防壁を透過して、人の頭ほどある石が顔面にもろに決まる。
その瞬間、防壁が霧散し、そこに弾丸の雨が降り注ぎ、3人の魔術士が動かなくなる。
{このアパートの材質は遠方から魔術を撃たれた際に、魔術を四散させる、高価な材質で建造されている。
あんま遣って欲しくはないが、必要なら削って使え}
ノーブルの助言を生かし、攻撃は成功した。
(残り半分!)
人を殺める事に感慨はない。
そして殺す事に躊躇はない。
この殺伐とした空気こそが、ヨーミエが生きてきた場所だった。
躊躇うことは、生きる事を放棄するに等しい。
泥を啜ってでも生き延びようとする姿勢、それこそが必要とされる。
ヨーミエの場合、ギルバートへ手紙を生きている証拠を絶やさない。
その事項だけが生きる糧であり、友として扱ってくれた者への報いだった。
今度も生きる為に、思考をフルに活動させる。
自分が生き延びねば、彼女を守る者がいなくなる。
その一点のみを肝に銘じる。
流石に敵も、愚かではない。
三方に別れ、それぞれが上から死角になる位置から屋上を目指してくる。
必至の形相で、向こう側も生き残りを賭けた勝負を挑んできていた。
空薬莢を吐き出さなくなったサブマシンガンを捨て、次なる得物を担ぐ。
(ったく、アイツは一国とでも戦争するつもりだったのかっ!)
屋上から躰を乗り出すと、アパートの影に逃げ込んだ者に向かいそれを撃ち放つ。
ゴッ!!
壁越しに躰を隠している者。
飛来してくるものが壁など無用の長物にしてしまう、破壊力を秘めたものだとは想像出来なかった。
物陰からこちらを窺おうと、顔を出した魔術士は凍る。
目に跳び込んで来たもの、それは大きな弾頭をつけた筒だった。
頭がそれを何か理解した時には、壁に激突したそれが、激震と爆炎を撒き散らした。
壁の破片が肉を穿ち、爆炎が肉を焦がす。
アパート全体を揺らすその激震が収まると、そこには紅いオブジェがあるだけだった。
それを確認する事もなく、ヨーミエは肩に担いでいたロケットランチャーを投げ捨てた。
そこまでで、屋上に影が差す。
異質な空気を含むそれは、間違いなく闇の住人。
自分と同じ位置に居る者の匂いだった。
それに続き、最後の1人も到着も相成る。
「ここまでだ。
良くも、ここまで遣ってくれたな」
屋上まで来た者達は、冷静さを装っているが、明らかに憤慨の意が声音から感じ取れた。
あれだけ居た人数が、最早2という、片手でも数えられる数字に陥れば、已むなき事だろう。
「別に。
人の住処に不法侵入しようとした輩に、制裁を加えただけだのこと。
礼は要らん」
軽口を叩きながらヨーミエは位置取りをするが、ニ方から挟むように迫る敵達に逃げ果せる算段も立たない。
唯一の逃げ道は、後方に控えている地上へと続く落下の道筋だけだった。
高さにして15メートル弱。
人が飛び降りれば命は助かるが、故障は免れないくらいの高さはある。
ビル風ならぬ、アパート風が下から吹き後ろ髪を撫でる。
警戒を強めながら、詰め寄る魔術師達。
「追い詰められた、と言う訳か」
ポツリと漏らすと、足元にあった手榴弾を片方の相手に蹴り渡す。
ここまで昇り詰めただけあって、冷静に場を組み上げ、手榴弾が接する前に防御幕を形成してこれを阻む。
少しでも現代兵器に精通している者ならば、それが無意味であることに気が付いただろう。
ピンの抜けていない手榴弾は爆発などしないと。
防御に徹した為、生まれた隙。
もう1名も身を固め、攻撃よりも防御の方に意識が囚われている。
その間にヨーミエはアッサリと自分の身を、宙に躍らせた。
「なっ!」
完全に追い込んだと思われた獲物が、自ら命を絶ちにいく行為に魔術師達は絶句した。
急ぎアパートの屋上から落ちたヨーミエを確認しようと、迂闊にも顔出して下を覗いた。
パスッ!
闇夜を切り裂き、弾丸が額に吸い込まれて脳内に収まる。
そして、覗かせた頭の重さに傾き、ヨーミエと同じく屋上から魔術師の1人が身を躍らせていく。
躍らせた、今や物体と成り下がった魔術師が最後に見たのは、窓の嵌ったおうとつの部分に手を掛けてぶら下ながら、サイレンサー付きの銃を突き上げているヨーミエの姿だった。
{機は訪れるのを待つのではなく、創作するもんだ。
その機転こそが、勝負の一番の鍵だ}
青年期、銃器の扱いを教えてくれた、半カップ(デミタス)なるフザケタ名をした暗殺者のレクチャーを1つずつ思い浮かべながら、それを着実こなしていく。
落ちていった同士の様子に怖気付いたのか、残り1人魔術師は端へと近づいてくる気配がしない。
ヨーミエはその間に窓を蹴破り、2階の1部屋へと侵入する。
これではどっちが侵入者かという感じだった。
物置と化している部屋を抜け、玄関を潜り再び外へ。
窓を破壊した音に、屋上の魔術師は戸惑い行動を決めかねていた。
完全に自分達が何を成しに来たか忘却し、闇に囚われていた。
惰弱と分類する、深淵なる知識にも触れられぬ者、それが今回の標的の筈だった。
その筈が、人数、能力、知識共に優れている筈の魔術師達が狩られ、恐怖に捕まっていた。
彼らは特殊な技術と、それにより培った身体能力を持つだけの人で、無敵や不死身ではない。
ナイフで刺され、銃で撃たれれば変わらぬ死が待っている。
人を惰弱と呼ぶならば、自分らも又惰弱と認識するべきだったのだ。
突出した能力が、傲慢を昂進させた。
その微温湯に似た認識こそが、この状況を生み出した一番の要因だろう。
それに比べ、今日まで生き延びる事しか試行錯誤してこなかった者の目は、機と場を心得、それをものにする方法を知っていた。
この戦いを御しているのは、基本スペックの劣る一般人だった。
屋上という、一望される場所に残された最後の魔術師は、動けないでいた。
この場から逃げようと画策しても、屋上から身を出した瞬間、落ちていった同士と同じ末路を辿るのではと脳裡を占拠されてしまい、金縛りにあっていた。
だからと言って、こんな目立つ場所にいれば、狙ってくれと公言しているようなものだ。
一秒一秒、刻が経つにつれ、恐怖の度合いが倍算のように膨れ上がっていく。
これでは、先程霧の魔女に脅されていた恐怖となんら変わりはない。
「で、出て来いっ!」
錯乱状態に陥り、魔術師は喚きだす。
そこに注意力、警戒心というものは皆無。
普段から黒ずくめで、闇に紛れる格好をした者を正確に捉えるこの者には出来ない。
殆ど音もなく発射され、風を裂く弾丸を捉えることも。
屋上に血の池が形成されていく。
痙攣をくり返し、次第にその小刻みな動きが失せていく。
これにより襲撃を試みた魔術師の一団は敢無く、一人の生きる事に長けた男に全滅させられたのだった。
いつ嗅いでも良いものではない。
戦場の後に残されたのは血と火薬の匂い。
自分の歩んできた道は、いつもこの匂いが渦巻いていた。
だからと言って、これを嗜好する気にはなれなかった。
これはいつも目的の後に出来上がるものであり、手段であったからだ。
嗜好もしないし、罪の意識もない。
只、自分と同じ生き物が生を終えていく瞬間は、どうにも気分が悪い。
それだけだった。
そんな事をボンヤリと思惟していると、アパート全体を覆っていた霧が失せている事に気が付く。
霧が立ち込めること事態は、そんなに珍しいものではないが、あまりにサッパリと消えてしまった霧に、異常だと覚えない者はいないだろう。
そして突然、背後に気配が生まれた。
警戒を解いたつもりはない。
なのに屋上へと上がってきた者を感じたのは、背後に気配が生まれてからだった。
「見事なものです。
いくらこの場を崩す為に、人員が大幅に減らしたとはいえ、魔術師相手に人なる者が勝利を手中に収めるとは。
良く考えれば恐々に、そして不随意に構成された世界を渡り歩いたこともない籠もり人が、そんな世界を堪能している者に勝てる道理もありませんでしたわね。
その点、貴方は堪能し着てますね、負する外套を」
背筋が凍るような悪寒がした。
背後から殺意は伝わってこない。
それ故におぞましく思えた。
跳び退り、距離を確保しながら振り返る。
そこには能面を装着したような、無表情な女が佇んでいた。
ラヴィアと違った精巧で作り物染みた美が表面にはあるが、何処か希薄で人の群に紛れれば埋没してしまいそうな女だった。
だが、目を離すことができない。
それはこの女が纏っている雰囲気だ。
齟齬というか、噛み合わないのだ。
者というか物。
その間を行き来し、曖昧で存在しているのかさえあやふやな感じを受ける。
「外道といっても、所詮は安全に託けただけの臆病者の集団だったということですかね。
さて、ナイトさん。
貴方が預かっているお嬢さんを渡して貰えないでしょうか?
この建物から退避していないのは確認済みですから、私一人でもどうとでもなります。
手間は省きたい。
差し出して貰えれば、命だけは助けて差し上げても宜しいですよ」
どうでしょうと首を傾げるが、それに表情が伴わない。
これは取引ではない。
圧倒的な有利な者が命令しているに過ぎない。
銃口を突き付けることを答えとする。
躊躇なく引鉄を引き絞る。
白煙が夜風に流れ、銃弾は女の額を貫いた。
「おやおや、野暮な方だ。
女の顔を逡巡なく傷つけようとするなんて、酷い人」
やはり無表情のまま、クスクスと笑う。
貫いた筈の額には穿った跡もなく、女は然も滑稽だと言わんばかりに、笑い続けていた。
夜目の利く俺は確かに見た。
弾丸が額に激突することなく、そのまますり抜けるように通過していくのを。
人間の脳は頭蓋骨に覆われており、並の銃では貫くに至れない程頑強さを秘めている。
それがなんの抵抗もなく額に吸い込まれ、事が終ると穴もなく傷もない。
額は無傷のままだった。
自分の視力の良さを怨んだ。
分かってしまったのだ。
2発目を発射することなく、この相手には弾丸、物理的な攻撃は一切効果を示さないと。
「どうしました?
月明かりでも確りと確認できる程、蒼白になっていますよ」
こちらの脅えを感知し、うっとりとしている、そんな響きだった。
無駄だと分かっているが、引鉄を連続で引き弾丸を叩き込む。
「無駄な事を」
女が奏でる愉悦の言葉通りになる。
躰の到る処を弾丸が貫き、そして女の後方へと抜けていく。
だが、女の優越は直ぐに消える。
俺はは弾を全部吐き出しながら、屋上の端へと駆けていた。
無用となった銃を仕舞いこみ、屋上から飛び降りた。
「ラヴィアっ!
逃げるぞっ!」
喉が痛みを覚える程に叫び、落下していく。
落下の先には出っ張ったベランダがあり、そこにマットが敷いてあった。
そこに着地を成功させ、素早くベランダから身を乗り出し飛び降りる。
又もマットがあり、屋上から短縮して一階へと降り立った。
そこへ、ヨーミエの叫びを聞いて出てきたラヴィアが丁度裏口から顔を覗かせていた。
裏口は中からしか開けられないようにされており、戸口のないレンガ状の模様が描かれ、カモフラージュされていていた。
この扉の前で、息を殺してラヴィアは待機していたのだ。
「こっちだっ!」
ドアを開け放ち、ラヴィアの手を取る。
そして脇目も振らずに、アパートの裏側に広がる森を目指して疾走する。
「中々の手際。
ですが、逃がしませんよ」
突如前方を塞ぐ霧が発生し、急ブレーキをかけて霧の手前で停止する。
「勘も良い。
獲物としては申し分ないですね、貴方は」
全身が粟立つ怖気がこの霧からした。
踵を返し、霧からラヴィアを遠ざけるように距離を取る。
「果敢に戦い、姫を守ろうとするナイト。
ですが、貴方はでは魔王を凌駕して、姫を守りきるヒーローにはなれない。
魔王とは、追随を許さない悪の権化。
犠牲の上にある力は、追随などできよう筈もない」
霧は集約し、人の形を成す。
そこには先程屋上に置き去りにした能面の女が立ちはだかっていた。
自分を悪と括り、即興の劇を楽しんでいる。
「ナイトにはここで退場して貰いましょう。
貴方は、十二分に役柄を演じました。
後は速やかに、そこらに転がるオブジェとして成って貰いましょう」
超状的な力の片鱗を見せられ、この言葉が簡単に実行できることだとおぼろげに理解できた。
そして、自分達が絶体絶命の状態にいることも。
「貴女を連れ帰り、そしてその男は処刑します。
あの反逆者のギルバート ダーノスも、直ぐに後を追わせますから、安心して旅立ってください」
能面女の姿は滲み、霧が辺りに充満する。
囲むように霧が蔓延し、アパートの方へと追い詰められる。
少しだけ周囲が明るくなる。
それは霧に遮断されながらも、確かに此方を照らしていた。
二本のライト。
それが何から発せられているかを知るのに、間をを有さなかった。
爆発させて行われるピストン運動が放つエンジン音。
物体が霧を突き抜けて、疾駆してくる。
全体から塗装を焦がした煙が立ち昇り、もの凄い匂いを引き連れてそれは霧を抜けてきた。
元の色が何色だったかも想像つかないぐらいに塗装が剥げ、タイヤも異様な匂いをさせながら煙を噴く。
満身創痍なそれは、自動車と呼ばれる代物だとするには、余りに御粗末な格好だった。
「なにっ!」
濃い霧自体から、能面女の驚愕が響く。
それを無視し車のドアが開け放たれた。
「乗れっ!
ラヴィア、ヨーミエっ!」
ヨーミエには初め、それが誰だか分からなかった。
だが、面影があった。
幼少の頃、あの故郷の唯一の楽しき思い出。
その中にあった、隣に居て無邪気な笑顔を称えた少年の面影が。
「ギルっ!」
ラヴィアの叫びに自分の予想が正しいだと判断し、ラヴィアを放り込む感じで助手席に詰め込むと、自分も急ぎ後部座席へと滑り込む。
「ドアを確り閉めろっ!
霧が、強酸が入ってくるぞっ!」
力一杯にドアを閉め、それと同時にギルと呼ばれた男はアクセルを踏み、タイヤが地面を掻く。
焼け爛れていたタイヤのグリップが地面を捉えると、加速を開始し、霧へと突入する。
視界がゼロになり、けたたましい音が車内を木霊する。
それも直ぐに消え視界が良好になる。
「オノレっ!
ギルバートっ!」
後ろから、獣の咆哮のような叫びがしてくる。
そんな叫びを振り払うかのように、アクセルを全開に開いた車は疾駆し、月の光さえ届かない森の中に消えていくのだった。
どれ程走っただろうか。
感覚的には大した時間持たなかった。
森という場は、自動車というツールで奔るには不向きなものだった事と、あの焼く霧の中を突っ切った所為で車体が限界に達しており、正直距離を稼げただけでも恩の字だった。
軽く車の天上に触れてみると、パラパラと焼け焦げた外装が落ちてきて、穴が空くぐらいの有様。
エンジンも限界を来たしたのか、一度大きな爆発音をさせ、マフラーから黒煙を撒き散らすと、残った回転力だけを頼りに数メートル進み、そこで沈黙する。
「此処までだな」
静まり返っていた車内で口を開いたのは、運転席に居た精悍な顔立ちの男。
外へと出ようとドアに触れると、半ば崩れるようにドアが車体から外れて、鬱葱と茂った草の上に落ちる。
それに習い、ヨーミエもラヴィアも外へと出る。
こちらは開かず、軽く蹴りを入れると破砕音と共に燃え滓のような黒い破片みたいにバラバラになり、ドアとしての役目を永遠に終える。
沈黙したまま、ギルバートらしき男は車を離れて、森の奥へと進んでいく。
その様子に二人は顔を見合わせて頷くと、それに続く。
暫く進むと、少しばかり開けた場所に出、そこでギルバートは大木に背を預けると、ズルズルと崩れ降りていく。
「ギルっ!」
ラヴィアは崩れたギルバートの驚き、駆け寄って様子を窺う。
「…大丈夫。
ちょっとだけ、疲れただけだから」
ギルバートは安心させるように微笑み、心配要らないと態度で示す。
それから、ヨーミエの方に一度視線を向けると、直ぐ伏目になる。
「済まないっ!」
幾星霜を重ね、再会した最初にかけられたのが謝罪の言葉だった。
ギルバートは目も合わせられないと言わんばかりに下を向き、頭を垂れた。
「二人には、どんなに詫びても足りないっ!
ラヴィア、ヨーミエ!」
「…ギル、ギルバート ダーノスなんだよな」
謝罪している相手に、ヨーミエは見当違いな台詞を吐いた。
だが、これこそが先ず初めに確認せねばならぬ事だった。
「な、何を言ってるんですか!?」
ヨーミエの問いに、ラヴィアは驚いた声を上げていた。
「いや、ヨーミエの言うことが正しい。
私が本物ならば、対面するのは実に16年ぶりなのだから。
姿が分からないのは無理からぬこと。
追われている立場で、突然現われた者を信用するよりは間違いではないよ」
そうしてギルバートなる男は、曲を口ずさむ。
それは二人に出会いの切っ掛け。
太陽の木漏れ日と名付けられた曲。
生まれた環境を選べない中で、誰もが齎されたものを恵みとして感謝する。
それすら許されなかった小さき者の願いが込められた曲。
平等に降り注ぐものを受け取る、それだけを望んだ木漏れ日のように柔らかく、優しきテンポでそれは奏でられていく。
これこそが2人を繋ぐ絆であり、証拠として太陽の木漏れ日を選んだことは、この男が間違いなくギルバートという証明だった。
「16年ぶり、…という事は、やっぱりヨーミエの記憶の方が正しいのですね」
歌が終り互いに警戒が解かれた処に、ラヴィアは蒼ざめながら呟いた。
「違うよ。
ラヴィア、君の記憶は間違ってはいないんだ。
そして、ヨーミエも」
二人の記憶の齟齬。
それを埋める証人であるギルバートは、自信を失っていく者達の記憶を肯定した。
「どういう意味だ、ギル。
俺の記憶もラヴィアの記憶も正しいとでも言うのか?」
「私をどれだけ恨んでくれても構わない。
…だから驚かず、最後まで聞いて欲しい。
私が犯した罪を」
それは人の弱さが、そしてらしさが起こした罪だった。
ギルバートは息を呑み、告白を始める。
懺悔を。
私には愛する者が居た。
ラヴィア ローズマリー。
だが、今ヨーミエの横にいるラヴィアではない。
事の始まりは、半年前に遡る。
魔術師達を統括する協会。
私はそこの副議長セイント ダーノスの息子、最高議員の1人として協会に勤めていた。
5年前、そこで知り会ったラヴィアに私は一目惚れをし、そしていつしか付き合うようになる。
幸せな日々だった。
魔術師としては、些か問題な概念かもしてないが、私はこんな自分を好ましいと想った。
互いに魔術師として名高い家系に生まれながら、道徳や倫理を好み、そして音楽を趣味に持つ同士。
ヨーミエの話をすると、よく「会ってみたいです」と言っていたのを覚えている。
半年前、ある事件が起きた。
協会の頂点にいる大魔術師、マイセル リカラが突如失踪したのだ。
それに伴い、協会内では権力争い、内紛が多発するようになった。
勢力は議長であるレイゾナを支持する者と、副議長である父を支持する者と2つに別れていった。
そしてその争いの火の粉は、愛しき者へと降り掛かった。
単純な話だ。
副議長の息子であり、片腕である私をどうにかする為に、恋人であるラヴィアを狙った犯行。
その犯行は実行され、それを突き止めて現場に駆けつけたが、遅く、終焉へのカウントダウンは開始されていた。
彼女を発見した時、…壊れていた。
何があったかは一目瞭然だった。
一言で語るなら陵辱。
到る処に暴行の跡があり、彼女はどれだけ抵抗したのだろうか。
元々魔術師に向かない性格をしていた彼女は、この現実に耐えられなかったのだ。
私は自分の愛しい人すら守れなかった。
そして、彼女は2度と笑うことは無くなった。
男が触れようとするだけで発狂し、手の施しようが無かった。
未だ、それだけなら良かった。
だが、病状は次第に悪化に一途を辿った。
目を離した隙だった。
忽然と病室から居なくなった彼女を探して、病院内を彷徨っていると、悲鳴が沸いた。
焦燥が駆り立て、無我夢中でその悲鳴の場へと急いだ。
そこあったのは地面というキャンバスに落された、大きな肉という袋に入った紅い絵の具だった。
屋上から落ちたそれは随分と水分を含んでいたらしく、留まることを知らずに拡散していく。
それが致死量を超えてしまっているのを、魔術師としての見解が量り、人としての見解は現実を受け止めれないでいた。
もう、彼女がこの世にいないことを。
覚悟はあった。
どんな事をしても、どんな時でも、2度と彼女を傷つけるものを近づけさせないと。
守ると。
だから、耐えて欲しかった。
だが、それは傲慢に過ぎなかった。
この世界全てが、彼女にとって恐怖の対象でしかなかったのだ。
耐え難いものだったのだと。
彼女の跳び下り自殺が、それを雄弁に語っていた。
泣けなかった。
胸が慟哭に支配されているというのに、頬を伝うものは無かった。
私は2度も彼女を守れなかったのだという事実だけが残った。
死体だけは回収し、魔導生命体と呼ばれる錬金術の技術を使い、肉体を補修した。
ここのあるのは抜け殻。
そう分かっていても、私は彼女の死体を始末してしまう気には成れなかった。
2度と微笑まぬ物。
もう1度だけで良かった。
愛しい者が屈託の無い笑みを浮かべるのを見たかった。
胸を焼いて已まない、あの笑顔をもう一度だけ。
そんな時だった。
私はある魔導書を見つけた。
無気力な私は、いつの間にか大魔術師であるマイセルの書庫へと迷い込んでいた。
そこで1冊に写本を見つけた。
死者の書(ペレト エム ヘルゥ)。
冥界の神オシリスの審判によって、死後の幸福な生活と復活、再生を約束されるとされた書。
そしてそこに抗い難い、記述を見つけてしまった。
魔術回路、転移蘇生。
死と生を平行に捉えた、移転回路。
If。
この世界は1つの可能性。
無数の選択肢から選出された、1つの現在。
ならば、もしあの時違う選択を選んでいたならば、この世界はどう変革していただろうか?
300年前、東洋の小さな島国に現われた混沌の巫女。
巫女は、その国の天皇と呼ばれる存在を抹殺し、その国に君臨した。
それに発端とし、魑魅魍魎、怪物、妖怪、魔術師、闇に住まうもの達が一斉に声を上げた。
互いをけん制しあい、身動きの取れなかった者どもが一致団結し世界の中核を牛耳るようになった。
世界は変革していった。
術や超能力、力もつ言葉、言霊が世界に当たり前に存在するように。
これも1つの可能性から生まれた世界。
死者の書(ペレト エム ヘルゥ)に記載されていた魔術回路、転移蘇生とは、平行世界の情報を移動させて、適性させる効果を持っていた。
問題も多々ある。
1つは質量のあるものは移動できない。
そして最も重要なのは同じものは世界に存在できないという法則だった。
同世界に同人間は存在できないとう定義。
同じ名の、同じ人間は1つの世界には確定できない。
もしそんなことをすれば、強制的に書き換えが起こり、元居た人間は消され、その上に人格が形成される。
Ifの世界で、育った、同じ名の違う記憶を持った人間が成り代わる。
それは未だ運が良い方で、悪ければ互いの存在を磨耗し合い、存在そのものが世界から抹消される恐れさえある。
つまり、存在する人間には活用のない回路だった。
そう、居る人間には。
死んでしまい、この世界に呼び寄せるのに障害になる精神が無ければ。
冥界の神オシリスの審判によって死後の復活、再生を約束されるとされた書とは良く言ったものだった。
私はこの写本を持ち出し、無我夢中で研究した。
そして転移蘇生}の操作法と、構築法。
そして、この貴重な魔術回路が存在する箇所をつき止め、私はこれを実行した。
過ちがあったとすれば、笑顔が見たいという事1点に盲目となり、Ifを度外視してしまったことだろう。
死体だった肉体に精神が宿り、修繕した肉体は息を吹き返した。
そして彼女は、微笑んだ。
しかし違和感があった。
彼女が私に向けてくれる笑みは、こんな他人行儀なものでなく、もっと朗らかなものだった。
それもその筈だった。
彼女はIfの枝分かれした先にいる者で、自分の知っているラヴィアではなかったのだから。
彼女の暮らしていたIfの世界は、魔術などの存在は公にはなっておらず、私達は音楽家としてトリオを組んで生活していたという。
そしてなによりも、彼女はヨーミエの恋人であって、私の恋人ではなかった。
私の胸を焼いて已まない笑みはヨーミエのもので、私に向けられぬものだった。
なんて身勝手な話だろうか。
私はこの件に全く関係ないヨーミエに嫉妬した。
だが、そんな昏い感情に絆されている暇は無かった。
私が死者の書(ペレト エム ヘルゥ)を持ち出し、その研究に成功した事が何処かしら洩れた。
大魔術師マイセル以外なし得なかった偉業。
そしてその成功例であるラヴィアを差し出し、魔術の発展に貢献するようにと強制を迫られた。
魔術の研究。
内にある魔術回路だけが目的。
者と物として扱い、それは解体と大差はない。
そんな研究に愛しき者を差し出せる筈がない。
確かに似姿で、中身は違う。
だが、彼女は間違いなくラヴィア ローズマリーで、本質は何1つ変わらない、愛しき人だった。
どんな事をしても守る。
その約束を今こそ果たす時だった。
だが、どんなに足掻いても、人一人が成せる事は高が知れている。
元の世界に送り返そうにも、準備には時間を有する。
こんな敵中で、そんな時間を捻り出し、それまで彼女を守り切れる自信はない。
そして何よりも、このラヴィアはヨーミエに逢いたがっていた。
私は魔術を使い、彼女を冷凍睡眠にかけて、物を装ってヨーミエの元へと逃がす事にしたのだった。
「これが私の罪。
済まない。
ラヴィア、君が愛した者はこの世界のヨーミエではなく、平行に存在する世界にいる、違うヨーミエ。
そして君を危険な世界へと引き入れてしまったのは、私。
そしてヨーミエ、関係ない君を巻き込んだのは、確かにラヴィアを守りたったのもあるが、嫉妬からくる衝動からだった。
君にラヴィアを奪われたみたいで、感情の迸りに任せて、済まないっ!」
懺悔は闇で満たされた森に静かに溶けた。
ヨーミエはまともに此方を見れないで、頭を垂れたままのギルバートに歩み寄る。
そして胸倉を掴み、その頬に力いっぱいに殴りつける。
バキッ!
快音がし、木に叩きつけられように、ギルバートはヨロ付く。
激情に操られようにギルバートを殴ったヨーミエを、ラヴィアは腕にしがみ付き停めに入る。
「ダメです!
ヨーミエっ!」
「ラヴィア、良いんだ。
これは巻き込んだ当然の報い」
ギルバートは口を開くと、切れた口内から血が滴る。
そして塊を吐く。
そこには紅い液体に混じり、白い固形物が草むらに落ちる。
ヨーミエはそれを見て、ラヴィアがしがみ付いている腕を下ろす。
「言っておくがこれは巻き込まれた事に対する、俺に対するものじゃない。
俺はお前に負わされるものなら、喜んで受け入れた。
俺はお前には感謝しても仕切れない程に、恩を感じている。
俺がこうして生きているのは、お前のお蔭なのだから」
ヨーミエの抑揚のない声が、真実だけを告げる。
「俺が許せなかったのはラヴィアを、彼女をこんな世界に引き込んでことだっ!
結局、俺は彼女を迷わせただけじゃないかっ!」
悲痛なヨーミエの叫び。
それはギルバートにヨーミエの気持ちを測らせるに十分なものだった。
「…ヨーミエ、君も」
「俺はどうでもいい!
寧ろ、お前の気持ちを知りながら、こんな想いに駆られた自分を蔑みたいくらいだ。
…それでも、抑えられなかった」
俯き、ギルバートの手を取る。
「済まない。
先ず、誤らなければいけないのは俺の方なのに」
空虚だけが、伽藍堂だけがあった胸中。
簡易的に、臆病に自分を守り続けた日々に忘れていたものが、頬を伝う。
慙愧や怨嗟。
それはそれらを洗い流していく。
顔を付き合わせられない立場にいながら、痛い程に互いの気持ちがわかった。
同じ者を、その本質を愛してしまったのだ。
分からない筈が無かった。
罪としりながら、犯してしまうしか選べなかった純朴で愚か者達。
「…ヨーミエ、私は」
脅え、震える声が後ろからしてくる。
ラヴィアは蒼白になり、首を振りながらジリジリと下がっていた。
ギルバートの告白は、清算を覚悟してのことだった。
駄々を捏ねて、その覚悟を踏み躙ることなど、ヨーミエには出来なかった。
あまりに相手に気持ちが分かり過ぎる為、自然とヨーミエの中にもその覚悟が伝染していた。
恐らく、傍目から2人の様子を見ていたラヴィアには、2人が何を考えているか分かったのだろう。
この言葉を口にするのは、心が引き裂かれそうだった。
だが、これをギルバートが言っても仕方の無い、繋ぎ止めている者が斬らねばならない。
「ラヴィア、君は自分の世界に還るんだ」
静寂が森の囁きだけを反映し、場を満たす。
「…ヨーミエは、私が居なくてもいいの?」
感情の赴くままならば、そんな答えは初めから用意されている。
それこそ、全身全霊で答えることができるだろう。
でも、それだけは許されない。
「違うっ!
君が愛した者は、この世界には居ないんだっ!
君は、俺をそのヨーミエと勘違いしたに過ぎない!
俺は代わりに過ぎないんだっ!」
「違うよ!
わ、私はっ!」
本当は、何処かで気が付いていた。
この人は、自分が愛した人では無いのではと。
そして、互いに話し合った日から、違う眼鏡でこっちのヨーミエを見るようになった。
無愛想でぶっきらぼう。
だけど、照れ屋で、気遣って、優しかった。
そんな不器用な彼を違う人間として目で追いながら、惹かれていった。
そう、私ラヴィア ローズマリーは同じ人に違う恋をしてしまっていたのだ。
真実を知った今でも、私は彼への好意は已まない。
身を裂くような想い。
私は誰を愛したのでしょうか?
「違わないっ!
もし、そうだとしても、それは俺の中に違う者の幻影を見ていたに過ぎないっ!
俺は、二分した想いは要らないっ!」
(逃げる道になったらダメだっ!
俺は、本気で彼女を…)
辛辣に、想いとは裏腹な言葉を突き付ける。
これが自分がしてやれる事だと信じて。
「っ!」
ラヴィアは息を呑み、踵を返すと、奥の森へと駆けていってしまう。
未だ、危険な敵が自分達を追っている。
それを考えれば、彼女を1人にする訳にはいかない。
そう考え、足を踏み出すが、後ろから斃れ込む音がする。
「ん、ギルっ!
どうした!」
振り返ると胸元を押さえ込み、呼吸を荒々しくしながら、ギルバートは身を立てるのも困難な様子で膝をついていた。
「未・だ、未だ、止・ま・ってくれ・るなっ」
搾り出される声。
そして胸の中心に位置する箇所を押さえ込み、懇願する。
「お前、心臓がっ!」
駆け寄り、ギルバートを支える。
次第に呼吸は収まりを見せ、一先ずは安心を得られる。
「す、すまな・い」
「それよりも、どうしたんだ。
心臓に疾患を抱えているとは聞いた覚えがないが」
「…これ・は、代償だ。
…頼む、ヨー・ミエ・、ラヴィ・ア・を、時・間が・無いんだ」
ギルバートは袖を掴み、訴えてくる。
現実を見ている筈の瞳は、色彩を失い、世界を見ていない。
突発的な呼吸困難に、視力が一時的に失われているのだろう。
発作が起こった途端に、生命力が著しく減少したかのようだった。
「未・だ、私は・・清・算を終え・・ていな・いん・・だ。
・・頼む」
「ギル、お前。
…待っていろ。
直ぐに説得して、連れてくる。
だから、それまで耐えろ」
そっと、ギルバートの躰を横たえると、ラヴィアが消えていった方向に疾走する。
ラヴィアの前だけ平然と振る舞い、耐えてきたものが切れ、本来のギルバートが浮き彫りになった。
その姿は蝋燭の末端。
放って置いても、ギルバートの命は1日を越すことはないだろう。
そう、唯一死者の書を解き明かし、その理論を知る者が旅立とうとしている。
これを逃せば、ラヴィアは2度と自分の生きてきた世界に戻ることは出来なくなる。
猶予は残されていない。
期待していた。
離さないで欲しかった。
何処かに理想を思い描いていた。
自分が知っている世界よりも殺伐とし、闇が濃い世界。
それでも一緒に歩めるならば、自分の世界すら棄てられると。
でも、放たれた言葉は、拒絶。
2度目、そして今度は全てを知った上での拒絶。
奥底で冷静な自分が語りかけてくる。
本当は分かっていた。
あれが彼の優しさで、耐えてくれているものだと。
それでも、言って欲しかった。
居て欲しいと。
彼は言った。
「迷わせただけ」と。
違う!
違う人として、私は貴方を。
だから、嬉しかった。
不謹慎にも、嬉しさがこみ上げた。
そこまで、想ってくれていたことに。
棄てれると覚悟すら決められた。
でも、彼はそれを拒絶した。
奪って欲しいなどと、独りよがりだったのだ。
消えてしまいたかった。
彼の瞳から、逃れたかった。
心臓が破裂しそうだった。
ボロボロと勝手に頬を伝うもの。
それは普段は心を軽くしてくれるシステム。
でも、どんなに流れても一向に拭えない。
寧ろ、積み重なって行くばかりだった。
いつしか走ることを身体が拒否し、木に凭れかかっていた。
顔はグチャグチャ。
もう、自分がわからない。
「おや、やっと見つかったと思えば、御一人ですか、お嬢さん?」
落胆をありあり含んだ声が、鼓膜を叩く。
「貴女をどうこうする訳にはいかないのですよね。
残念な話です。
で、離反者とあの男はどこですか?」
クシャクシャな顔が引き攣り、呼吸が儘成らない。
突如現われた雰囲気に森達もざわめき出し、苦しんでいるように見える。
そっと肩に手を掛けられ、そしてその雰囲気の濃さが増す。
恐らくこれが殺気と呼ばれる気配なのだろう。
当てられた私は、まともな行動おろか、思考すら停止してしまう。
そして楽しい事を思いついたのか、後ろの気配は嬉々として提案してくる。
「居ないならば、誘き寄せるのが常套手段ですね。
御誂えたように、餌もいることですし。
それに傷つけるなとは、命令は下されていませんし」
急に、肩口に灼熱の棒を当てられたような、激痛が生まれる。
「あ、あぅぅぅぅ」
ジュゥと肉が焦げていく音がし、意識が遠退くような痛みがしてくる。
「悲鳴をあげなさい。
堪える必要はありませんよ」
総動員させて、自分の口から漏れる悲鳴を堪える。
「守られるだけのお嬢様が、随分と頑張りますね。
そんなに大事ですか、あの2人が」
焼き鏝のような掌は、滑り腕を焼いていく。
自然と口が開きそうになるのを、噛み締めて封をする。
口内の肉の一部を噛み切り、挫けそうになる意志を立て直す。
瞼も閉じ、痛みと闘う。
(わ、わたしは、こんなことしか…)
「なんや、霧の魔女なんて大層な通り名を持つ奴やから、少しは期待したのに、どこにでもいそうな、サディストのオバはんやんけ。
ちゃちいねん!」
銀色のナイフが女の眉間を貫く。
それは確かに頭部肉体を捉えて、眉間の骨を裂き、突き刺さっていた。
「容赦のない人ですね。
普通の人間ならば、確実に死んでますよ」
平然と眉間に刺さったナイフを抜き去り、地に放る。
私に置かれていた手が外れ、痛みから解放されその場に膝を付く。
肩口を押さえ込む。
そこは肉が崩れ、掌に紅い液体を付着させた。
痛覚がおかしくなったのか、触れているのに感覚と痛みが無い。
「人の枠組みにいない者を相手にするのに、容赦なんて出来るかいな。
吸血鬼は吸血鬼らしく、銀の武器で清浄されて、消えろや」
銀色に輝くナイフを両腕に携えながら、小柄な少女が闇夜から飛び出してくる。
霧の魔女は動けないでいるラヴィアを他所に、攻撃者を向き合う。
眉間にあった穴はもう塞がり、能面へと戻っていた。
「それは死者に言ってください」
「成程、それが未完ながら新型エレクシルの効力かいな。
幽世に転化。
現世と幽世の道の確立と確定。
これがエレクシルが与える本当の能力。
せやけど、生という概念を埋め込まれた新型には過ぎた能力。
術式を構築し精神に植えつけた。
生きた肉体には、その術式は耐えらへん。
本来ならば精神へと転化され、幽世へと逃げ込んだ瞬間、吸血鬼はその物体を霧へと分解して現世から退避する。
せやけど、それは死体としてある、生を持たぬものだかこそ可能な技。
生と確保する為に追加された術式は、幽世に退避しながらも現実との繋がり、概念を構築せんとあかんかった。
それが肉体に異変を起こし、肉体は強酸へとしか分解できない状態へと構成されてしまった。
出来損ないエレクシルが与えたものは、このような不完全な根底暗示。
強酸に変貌した物体は、現実に戻れば肉を腐敗させ腐臭を漂わせる。
常に肉体は死へと突き進むちゅう訳や。
現世と幽世への道が確保されたアンタは、自分の器を棄て違う肉体に乗り移る手段をもって生き延びてきた。
惨劇の主は見限ったのに。
それがレイゾナちゅう、お偉いさんに仕える理由やな。
初めは魔導生命体を創っとったみたいやけど、設計図は貴重な魔術回路やから権力者でも手にするのは限界があった。
最近噂になってた失踪事件。
公になっとらんのは、レイゾナが揉み消し取ったちゅう寸法やな。
アンタに躰を与える為に」
長々と講釈をしながら、シグは手の中でナイフを回転させる。
先程の腕前から、それが脅しでないことが窺えた。
「ノーブル ブルーガ。
最近協会を嗅ぎまわっていた輩は、やはりあの人でしたか。
確か、貴女はシーグル メイヤロニーアでしたね」
「調べは十分ちゅう訳か」
「銀の術師。
その一派を相手にするのです。
下調べくらいはさせて貰いますよ。
基本的に、ノーブル ブルーガ以外は眼中になかったのですが、あのような男が守りにいるとは」
「ふ~ん。
魔術師が、良い様に一般人にしてやられたと言う訳や。
惨めやな」
「口の減らない娘。
レイゾナ様を愚弄した事も含め、教育してあげる必要がありますね」
「生憎とウチは勝ち目の無い戦はしない主義なんや。
エレクシルの術式を解明していないウチには、アンタに傷一つ与える事は不可能。
聖職者やなから、魔を抹消する方法なんて長けるとらんしな。
なら」
すべき事一つと、シグは行動を開始する。
夜目の利かない人間には、木々の並びさえ視認することが難しい闇の中を疾走する。
腕を交差させた。
瞬間、収まっていたナイフが消え、魔女の両目を抉った。
「成程、大した腕です。
そしてこれはノーブル作の、銀縛武器。
幽世に偏っている私に傷を負わせるとは。
流石、銀を遣わせたら右に出るものが居ないと言わせた、銀の術師。
ですが、所詮は媒介となっている肉を傷つけるのが関の山。
なんの意味もない」
「別に構わへん。
アンタの視界を一瞬奪えればそれで十分や」
魔女の横手を疾風が駆ける。
人は外界情報の大半を視覚から収集している。
八割は視覚からの情報に依存している。
眉間の時と同じように、瞬時に再生されたとしても、瞬間的に失われた視覚により、魔女は八割の情報源を失った。その隙を付き、シグは素早く魔女の横で膝をついていたラヴィアを掻っ攫う。
(っうっ!
あかんっ、こんなにも負担がっ!)
魔術師になってから間もないシグ。
脊髄の近辺の埋め込まれたNコードは、確かにシグの躰を強化し、身体的能力を飛躍させた。
だが、如何せん初心者なシグには、見る行為ができても魔術を行使する技術は備わっていない。
Nコードが元々構築している術式を使い、身体能力を増強させる事は成ったが、それを保護する術式まで展開させるに到っていない。
今のシグは、強大な力に肉体を振り回しているに過ぎない。
保護されていない肉体には、自滅にしかありえない。
それでもこの力に頼らなければ、とてもではないがこの霧の魔女から、護衛対象を守ることは出来ないと判断した。
筋肉の断裂音や、筋の軋み。
全身の到る処から厭な音と激痛が迸る。
「痛覚が無いってちゅうのも、問題やな。
霧の魔女さん」
見事ラヴィアを安全圏まで退避させたシグは、弱っているのを隠す為に微笑と軽口を叩く。
眼球に刺さった得物を無造作に引き抜き、そこから硝子体と血液が交じり合ったものが零れる。
それも束の間、眼球は巻き戻しのビデオのように穴を塞ぎ、虹彩が綺麗に再生される。
正直舌打ちしたくなるぐらいにダメージがない。
「そのようですね。
私は殺しには長けていますが、どうも武術家のような気配を読むようなことは苦手なのですよ。
それを見抜き、情報源を絶つとは、流石はあの銀の術師の弟子だけはありますね。
しかし、所詮はそれだけ」
魔女は上肢を上げ、指の先端から宙に消えていく。
消えた箇所から霧が発生し、肉体が次第に姿を消していく。
「幽世に退避してしまえば、貴方の攻撃は更に無意味となる。
それとも貴女には霧を、事象を透過するものを攻撃する手段が御有りですか?」
(痛いところ突きよるわ。
ウチにはこいつを斃す手段を持ち合わせとらんわ)
これは只の霧ではない。
そもそも、吸血鬼が霧に姿を変えるのではなく、残滓を、現世への繋がりが偶々霧という姿を見せているに過ぎない。
この状態では物理的な攻撃が一切受け付けない。
逆に言えば、この状態ならば吸血鬼は何も出来ない。
本来はだ。
だが、霧の魔女は、より強く現世との繋がりを強化し、生者として吸血鬼としての能力を得た為に、現世の残滓の有り方が強酸という形で残ってしまっていた。
それが自分の肉すら焼く、無慈悲なものでも。
「聡明な者は好きですよ。
そして諦めを受理しない、その瞳の色も。
意欲がそそられますね。
そろそろ補給が欲しいと想っていたところですし、貴女、私の血肉となりさない」
吸血予告をすると、霧がシグとラヴィア目掛けて流れてくる。
これから逃れようと、シグはラヴィアを抱えて跳び退ろうとするが、蹴った筈の足は膝から折れて、意志とは反して地面に伏していた。
(なっ!
たったあれだけで、肉体がいう事利かなくなっとるっ!)
痙攣して動かない足。
足だけではなく、抱えている腕から指先までもが勝手に震え始める。
(あかんっ!
せめてっ!)
脳裡に無愛想な男が浮かぶ。
1年間、拒絶して態度を崩さなかった男を変えた者。
肩を抑えて、必至に声を殺して耐えている白髪の女が、シグの腕の中にいた。
痙攣してまともに作動しない腕に叱咤し、ポシェットから銀の球体を取り出す。
それは瀕死のノーブルから託された代物。
正確には奪い取ってきた切り札らしきもの。
今頃は、事務所の隠し部屋の中で転がして…、転がっている筈だ。
魔術回路を認識できる脳を覚醒させ、素早くこの球体の術式を探り、展開させようとする。
(っ!
これって、只の銀やんっ!)
ノーブルが切り札として用意したものは、変哲も銀。
錬金術で生成された訳でもなく、術が篭められている様子もない。
一度溶かし、球体へと形成されたもの。
唯一他の銀と違いがあるならば、その重さだった。
掌に収まるが、それなりの大きさの銀球が羽のように軽いのだ。
だが、それだけだった。
切り札として用意したにしては、不可解な代物だった。
対応する手段を砕かれ、シグの心が折れかかった。
その瞬間、下で蹲っている者から突き飛ばされる。
それに抗うだけの力が残されていないシグは、横手に転がされた。
咄嗟に其方に視線を配ると、苦痛に歪めた顔で微笑むラヴィアがいた。
「巻き込んでごめんなさい」
力ない口がそう動き、ラヴィアは謝罪を告げる。
霧がシグへと向かうコースを塞ぎ、ふらつく足取りでラヴィアが立ち塞がる。
「ダメやっ!」
シグは力を手を振り絞り伸ばした。
だが、虚空を掻くだけで届かず、焦燥だけが換算されていく。
ドクンッ!
心音、シグはそれをそう感じた。
伸ばした指の間から光が籠漏れ、握りこまれていた物が発熱をしていた。
それはまるで息吹、鼓動、それを司る心臓の音。
それは足音と共に高まり、呼応しているかのようだった。
それは銀だった。
純銀製の球体。
術式が組み込まれている訳でもなく、特殊な金属でもない。
それは紛れもなく銀だった。
それなのに、まるで生物のように鼓動を持ち、熱を発していた。
それは近づいてくる足音と共に生物らしく息づいてくる。
年月を得、蓄積された鉱物には意志が宿る。
その鉱物が持つ、具現化する力を操り、精神を武器へと転化する精霊術。
無秩序に成り下がりかけた世界に秩序を取り戻す為に、キリスト、カトリックを中心にして、俗なるモノに対抗するために集結した組織、教会。
力を持たねば存在する危うくなるこの世界で、各宗教はこれに抗うために、合併を余儀なくされた。
その代わり、三大術師の勢力程でないにしろ、強大な力を有した機関として君臨していた。
その教会が、様々な力に対抗する為に研究された術、精霊術。
その鉱石には逸話は必ず付いて廻った。
手にした者は、あるものは巨額の富を得、またあるものは歴史に刻まれる栄光を手にした。
手にした者は、あるものは破局の人生を歩み、またあるものは狂気に魅入られた。
ある研究者はこう語った。
この鉱石は生きていると。
それらを裏付けたのは右に螺旋を描く塩基。
鉱石に適応する左螺旋ではなく、生物特有の右螺旋を描いていたのだと。
結晶と生物の両面を持ち合わせているその鉱石は、星の欠片だと魔術師たちは言った。
宇宙にビックバンが生じ、そして重力に引かれ数々の星が生まれた。
中でも多くの鉱石を含む地球は緑を成し、生物が生き残れる環境を形成した。
星の環境を形成した鉱石。
それは星の意思だったのではないか。
星の体である鉱石に生き物の証があっても不思議ではないと考えられた。
そういった鉱石はEarth Deoxyribonucleic Acid、通称EDNAと呼ばれた。
EDNAの特性は鉱石でありながら生物として特徴を持っていることにあった。
EDNAは呼吸をし、周りの物質を取り込み、不純物を排出する。
そして人がエネルギーを運動により消費するように、EDNAはその廻りにいるものに何らかの影響を及ぼすことによりエネルギーを消費させることが確認された。
意志を持つ鉱石。
シグはこの話を聞いた時、与太話と鼻で笑った。
だが、この鼓動が開始され、只でさえ枯渇しかけている肉体のエネルギーが奪われている感覚に襲われている。
この銀の球体の名は、シルバーレイ。
嘗て、中世最強と謳われた騎士、マクシミリアン一世が身につけていた銀の鎧。
鎧は着用者に全く重さを感じさせず、身を疾風のように走らせたという。
シルバーレイは歴史から埋没し、幾星霜の中で姿を変えて、シグの掌の中にあった。
その光景に絶句した。
絶望的な状況と言えたからだ。
距離的には、とてもではないが間に合わない。
鉄をも溶かしつける強酸の霧。
それが、ラヴィアに襲い掛かろうとしていた。
その後ろのシグまで。
霧の魔女は、決してラヴィアを死に至らしめない。
だが、突発的なハプニングには対処できるだろうか。
咄嗟にシグを後ろへと突き飛ばしたラヴィア。
そして本人は迂闊にも、その霧に対峙して立ち向かおうとしている。
手出しさえしなければ、霧の魔女もラヴィアに危害は加えない。
愚行の極みをラヴィアは赴くままに実行しようとしていた。
恐らくそれは、逃げ。
拒絶され、そして関係ないものを巻き込んでいく恐怖が、この愚行に走らせたのだろう。
一寸先は闇。
この先に飛び込めば、全てが終わる。
「っ、ラヴィアっ!」
届かない。
どんなに足掻いても、時間が刹那過ぎる。
(助けたいか?
それは偽善ではないのか?)
スローモーションに時が流れる中、突然声が脳裡に響く。
(彼女は受け入れられない事に絶望し、逃避を測った。
ならば、お主が助ける事は節介と言うもの。
いや、不粋も甚だしい。
拒絶したお主に資格があるのか?)
その声はラヴィアの死を正当化し、受け入れることを促してくる。
(拒絶などしていないっ!)
(だが、彼女はそう感じた筈だ。
繋がり、それを信じて裏切られた。
全てを捨てて、受け入れて欲しいと願った。
それを受け入れなかったのはお主だ。
お主らが成そうとしているのは、よがりで、本人の意志を無視した紛いモノ)
(誰か知らないが、フザけた事をヌかすなっ!
よがり、紛いモノ!
そんなモノ誰が決めたっ!
誰よりも、それこそもう一人の俺よりも、俺は彼女の幸せを願っている!)
(ならば、このまま逝かせてやるのが、情けではないのか)
(黙れっ!
そんな一時的な感情に任せて、決めてしまった想いなんて、俺は認めないっ!
ラヴィアは上辺だけの、刹那的な感情に踊られているだけだっ!
想いの矛先を創ったのが誰か、そして築いたのは誰か、それを履き違えている!
彼女は罪悪感から逃れようとしているだけだっ!)
(罪悪感だと?)
(そうだ!
この世界の俺を選び、そして受け入れられなかった。
今更、元の世界に戻って、あちらの俺を愛せるか。
不器用で一途なラヴィアには、しこりとして残る。
いや、もっと深い傷になる筈だ)
(ならば余計に無為だろう、助ける事は)
(バカか!
助けると言っておいて、無為なんてあるかっ!
助けるって言うのは、必要って意味だっ!
無為になるかっ!)
(屁理屈を。
結局、お主の押し付けではないか)
(完全な者などいるのかっ!
貴様こそ何様だ、全てを悟ったように語りやがって!
正しいなんて言葉、どこにもないんだよ!
なら、俺が正しいと想う事、それを提示してなにが悪いっ!
大切だと想う者が、俺が間違っている方向に進んでいると知って、無常を受け入れろと、ザケるなっ!)
(…成程、それでか)
これまで否定だけをしてきた声が、急に納得したような声音に変わる。
(お主の言霊、確かに受けた。
我はマクシミリアン。
名も無き悠久の彼方、我を携えし者より受けし名を継ぎし者。
{施}の意味において、貴公に{詩}に施しを与えん。
望み、臨め。
さすれば、貴公を主と認め、我力振るわん。
奏でよ。
貴公が望みし世界を。
意味の如く、貴公の言霊を詩として)
迫り来る霧の先。
シグが伸ばした掌から、銀光が零れる。
そして世界は、元の時間に戻り時を紡ぎだす。
脳裡を占めた声の主が、シグが握り締めたものであるとヨーミエは不思議と理解した。
先程までの怒りはなりを潜め、その言葉に偽りがないと理解した。
だから、足を止め、懐から自分の詩を紡ぐものを取り出す。
(俺の望みし世界)
そしてヨーミエが奏で始めたのは、ラヴィアとの楽しき思い出を重ねた詩ではなく、遠き日に願った一つの世界。
どこかで世界を呪いながら、それでも已める事ができなかった想いを紡ぎし詩。
太陽の木漏れ日。
ハーモニカの音は澄んだ大気を震わせ、森という世界を包む。
それに呼応して、シグの掌から銀光が眩いほどに増し、暗闇を引き裂く。
詩は一個の世界を生み出し、霧はその中で人へと転化していく。
「なんだとっ!」
自分の操作を離れ、勝手に具現化して肉体に霧の魔女は驚愕を顕にして姿を現す。
顕現化して魔女は、強酸に焼かれ爛れた異様さでラヴィアの前に佇んでいた。
「バカなっ!
どうして接続が切られたっ!」
ヨーミエはその怒声に反応して、ハーモニカを仕舞うと地を蹴った。
稼いだ時間をものにし、接近してハーモニカの替わりに手にした得物で、銃弾を叩き込んだ。
今度の銃弾は肉を捉え、次々に魔女へと撃ち込まれていく。
「ぐ、ぎやあああああぁ!!」
耳を劈く悲鳴。
横手から脇腹や太もも、側面を弾丸で穿たれた魔女は、これまであげたこともない痛みからくる悲鳴をあげた。
ヨーミエはそこへ容赦なく蹴りを加え、ラヴィアから引き離す。
目の前でエグイ光景が展開され、恐怖からラヴィアは氷付いていた。
「ラヴィアっ!」
ヨーミエの一括でラヴィアの焦点定まり、現実に視点が戻ってくる。
「いいか!
これが俺が居る世界だ!
お前が居た世界とは異なる場所で、殺伐とした、これが日常な世界だ!
お前が愛したのは、もっと穏やかな空間にて育った者だろう。
そして魅かれたは、そんな中で育て上げた感性を抱いた俺だろう!
お前は不安定な状態で、戸惑ってしまっているだけだ!
同じ俺という存在傷つけないようにと、安易な選択をしているだけだ!」
敵から庇い立てながら、突き放す発言をする。
「お前が愛したのは俺じゃない!
育まれた環境が違えば本質が同じでも、それは他人だ。
見誤るな!
俺は身代わりなんてまっぴらだっ!」
残りの銃弾を魔女へと吐き出す。
血飛沫と硝煙が蔓延し、目を背けたくなる空間へと変貌していく。
連続で突き刺さる弾丸が身を千切り、後方へ血糊りを撒き散らす。
マガジンを入れ替え、何度もくり返しその惨劇を拡大していく。
血煙が辺りを包み、最早原型を留めていない穿たれた物体があった。
普通の生物ならば、完全に生命を絶たれた状態。
そこから目を背け、口元を押さえ込むラヴィア。
この気丈ではない異世界の女に、この過酷な環境は受け入れられるものではないだろう。
それが解っているからこそ、愛しくても振り払わねばならない。
彼女は居るべき場所は此処ではないのだ。
「ちっ!」
撃ち崩した先から、肉体が元の形へと戻ろうと這いだす。
常識では測れない現象に、ヨーミエは舌打ちをしていた。
ちょっと前ならば受け入れられない、超状的な現象。
今日一日でそれも麻痺したのか、すんなりと受け入れている自分がいた。
ズリズリと肉が地を這う音がする。
ホラー映画の世界だった。
肉は元が頭と想われる部分に集結していき、そして紅い人形を形成していく。
「ボォォクボォォ!!!」
言葉にならない声が響き渡り、魔女は元の肉の爛れた状態へと再生されていく。
それは再生と呼ぶには余りに凄惨で、生物の域を逸脱してしまったものだった。
(くそっ、こいつを葬り去る手段はないのかっ!)
(この娘では遺憾なくとはいかないな。
肉体と精神を繋ぎ、逃れる手段を封じるのが精一杯か。
やはり意味を通ずる者でなければ、我の力は発揮されない。
我を取るが良い。
大切とする者を守りたいならば、我を行使せよ。
さすればこの歪みし者も、正しき姿へと投影しよう。
解放へと誘おう)
又も、マクシミリアンと名乗ったものが呼びかけてくる。
それに引かれ視線をやると、掌から発されていた光は失せ、シグもグッタリと伏せて、銀球を取りこぼしていた。
(キサマ!
シグに何をしたっ!)
(少しばかりエネルギー、そうだなカロリーを摂取させて貰った。
命に別状はない。
偶々この娘が我を行使する前に肉体を酷使し、意識を保て無くなっただけだ)
説明されて、余計に眉間に皺が寄ってしまう。
マクシミリアンの説明通り、シグは赤みを残し寝息へと移行している様子から、命には別状ないだろう。
紛らわしいのも程がある。
(我を手にせよ。
本来、我らは共に在りしもの。
闇や光を誕生せし、混沌より別れし雛形。
ならば、その元は一つ)
「まどろっこしい事はいいっ!
つまり、キサマを使えば引導を渡せるんだなっ!」
ヨーミエの姿無きものに怒声する姿は、端から見れば滑稽この上ないだろう。
この際、意味不明に叫んでいる自分が異常者とは分類するには難しい状況に感謝したい気分になる。
(不粋な言い方だな。
使うなど、我を愚弄するか)
「ゴチャゴチャウルサイっ!
協力する気があるのか、無いのかハッキリしろっ!」
(…まぁ、良かろう。
お主が下した決断の終焉を見届けても見たいしな。
娘が零し、銀の宝を持て。
後は魂に刻まれし意味が導くだろう)
ラヴィアの手を引き下がらせ、グッタリしているシグが零した銀の球体を拾い上げる。
「無理ばっかりしてから、このバカ娘が」
(無茶ができる内が花だぞ。
人は自然と限界を定め、超えられなくなる。
そして他人に対して無茶を成しえる事は、羨ましい限りだ)
ヨーミエは銀の玉を握りこみ、そして再生を終えようとしている魔女と向き合う。
「他人じゃない。
家族だ」
口に出すのが憚られていた言葉。
これを口にする、それは自分に中で一つの決意を覚悟し、一つの事柄を完結させた。
(ならば、守るが良い。
それを口にしたならば)
(言われなくてもだっ!)
瞬間、銀球は白銀の閃光を放つ。
それに伴い、肉体から様々なエネルギーが搾取されていくのがわかる。
(模索せよ。
お主が望み、臨むべきものを)
(ヨーミエだっ!
覚えておけっ!)
(なら、ヨーミエよ。
望みを強く願え。
それを我が具現化せしめよう。
結末を導き出せ)
(俺が望む結末)
白銀光が集約し、一つの望みを具現化する。
それは知った瞬間、マクシミリアンから驚愕が漏れる。
(これはっ!)
集約され、左に握りこまれた銀球の反対の手に、具現化された物があった。
それはこの状況を打開するには不適切にしか想えない、気を違えたとしか想えないものだった。
(主はいったい何を考えておるのだっ!)
マクシミリアンは問いに答えている暇はない。
再生を終えた魔女は、虚空を凪ぐ。
それが魔術回路の収拾であることは、流石に魔術師と戦闘をしてきたヨーミエは分かるようになった。
(特殊能力だけでなく、魔術も遣えるのかっ!)
ヨーミエは素早くラヴィアを横手に突き飛ばすと、シグを担いで逆に跳ぶ。
未だ理性があるならば、ラヴィアには危害を加えないと判断し、分かれて攻撃目標からラヴィアを外す。
(この戯けっ!
どうして武器を選ばぬっ!)
(戯けって何だっ!
生憎と教養は持ち合わせていなくてなっ!)
脳内で行われる罵り合い。
その間にも魔術は完成へと近づき、現世へと顕現しようとしていた。
(今からでも遅くないっ!
早く想像せよ!
強固で、遮断する盾を!)
シグを担ぎ動きが鈍い。
この状態では躱すだけの速度を得ることもできない。
(生憎と戦いは仕舞いだ。
俺が望むのは)
ヨーミエを具現化されし物を口にし、両手を空にする。
「グリイイイィ!!」
魔女から奇声が溢れ、虚空から焔が発生する。
これまで他の魔術師が行使したものとは比較にならない範囲で、巨大な焔の迸った。
ラヴィアの近辺まで伸ばされた灼熱の炎は、発生の中央部にいるヨーミエにはとてもではないが躱せるものではない。
ヨーミエは懐から手ごろな石を数個取り出し、それを投擲する。
焔は投擲されてきた石を避けるように分かれ、鎮静されていく。
そしてヨーミエに届く頃には、弱火になった焔を石を掴んだ手で打ち払う。
頬や指に幾らかの火傷は負ったものの、それだけであれだけの焔を切り抜けたのだ。
銀の術師が立てたアパートを削り取り懐に収めていた、対魔術師用に切り札。
「キサマァァァ!!」
「何を猛る。
この狂った世界で、お前は何に猛ている。
本音は何処だ。
殺しを嗜好し、目的は履き違え、お前は何処に向かっている」
吼える魔女、ヨーミエは彼女が哀れにしか映らなかった。
魔女はそれに応えることなく、再度攻撃に転じようとした。
「生きたかった」
だが、そのヨーミエの一言で、空間は凪ごうとした指が凍りつく。
「裏切られ、世界から拒絶され、只生きることすら剥奪された。
それが己が業だとしても、そんな自分を哀れみ、奪われていくものの中、果てに嗜好した。
いや、自分を誤魔化し、虚ろなる仮面を纏った」
再生された肉が、次第に腐り溶けていく。
そればかりは再生されずに、強酸を浴び続けるように、無慚な姿へと変わり果てていく。
「キサマニナニガワカルッ!!」
嗄れた声が怒声を放つ。
人形のように固まっていた形相が怒りに歪み、マネキンだった面影が何処にもなくなる。
「分からない。
分かる筈がない。
俺はお前ではない。
だが、共感はある。
生きるだけを目的として、自分を持てなくなっていく。
そんな空っぽな日々の積み重ね。
違うだろ、本当はっ!
お前も俺も欲しかったのは、そんな揺れ動かない日々ではなくて、降り注ぐ胎動する日々だろうっ!」
「ダマレッ!!」
叫びは肯定。
耳を塞ぎたくなる衝動を叫びで言葉を遮断することで、耐える。
耳まで塞いでしまえば、何もかもを曝け出してしまうと、誤魔化すように。
「俺は辛かった!
お前は違うのか!」
「ダマレェェ!!」
溶け、崩れる肉体を使い、魔女は襲い掛かってくる。
人を超えた領域で疾走し、そしてヨーミエの首を鷲掴みにして締め上げる。
「お前は俺だ。
歩みは違っても、空虚なその瞳は俺そのものだ」
絞められながらも、ヨーミエは告げる。
担いでいたシグは後ろに放り出され、地を転がる。
ヨーミエには魔女に葛藤が手に取るようにわかった。
こうやって生きているのが良い証拠だった。
これだけの身体能力を有した魔女が、普通の人間を殺すのに間が必要なわけがない。
戸惑いがあるからこそ、魔女はひと想いに殺しを完成させないのだ。
(だから、頼む。
解放してやってくれ、世界よ)
銀光が凝縮し具現化された、それをゆっくりと口にする。
締め上げられ息を吐き、吸うことが儘ならない中、それは勝手にメロディーを奏で始める。
それは銀色のハーモニカ。
ヨーミエが持っているものと寸分違わぬフォルムをしており、奏でられ音も同じだった。
だが、音は大気を震わすと、銀色の光の粒子を振り撒き、冥き森を真昼のようにしていく。
(これはっ!)
混沌から生まれ、分かれて世界に散らばった意味。
それは万物に宿り、世界を支えていた。
その一つ{詩}の意味を持つ者は、意味に違わぬ方法で世界に干渉をかけていく。
大気を舞う銀の粒子は魔女を覆い、そして世界へと顕現化させていく。
魔女は目を疑った。
締め上げていた腕が、目を背けたくなる腐乱した肉が修繕されていく。
肉体に宿る魔術回路が一つ、生命。
新陳代謝など、肉体の修繕などに使用される。
これが枯渇すれば、肉が爛れて腐っていく。
そうなれば、人から奪うしか肉体を保つことができなくなる。
枯渇し、次第に肉体が保てなくなっている筈の肉が、この粒子に触れることで、修繕されているのだ。
喉を掴んでいた指も、視界にある全てに自分のパーツが、朽ちる一途しかない肉体を生ある状態へと戻していく。
「あ、あ、あぁぁ…」
魔女は掴んでいた首から手を外し、自分の両腕を凝視する。
違う。
この肉体は与えられ、不協和音を刻む、他人の肉ではない。
(この指、この掌!)
衝動に駆られ、全身を触れる。
ほっそりした顔の輪郭。
撫肩に、少し長めの腕。
昔は不満だった胸に、痩せすぎで括れた腰。
どれも懐かしい、過去に捨て去った、生まれた頃から使ってきた自分の肉体を彷彿とさせた。
解放されたヨーミエは銀色のハーモニカを手に取り、一心不乱に奏でる。
(そうか、これがお主が望んだ終末)
闘うことだけに囚われていたマクシミリアンには想像し得なかった結末。
「私の肉体、あの頃の私っ!」
魔女は歓喜した声音高らかに、自分に躰を抱き抱いた。
それは優秀な魔術師の御話。
人よりも擢んでていた一人の魔術師は、ある日マシュカーゼと名乗る魔術師の目に留まる。
彼の望みは、新たな高み。
その為、新種のエレクシルの開発を模索した。
興味を引かれ、その研究に協力するようになった魔術師。
それから幾年月が流れ、遂に新薬は完成の目処がついた。
様々な実験を得、成功率を100%に近いものだった。
2人は決意し、同時にその新薬を口にした。
その時、魔術師は裏切られていた事にも気が付かず。
マシュカーゼは確かに生を持った吸血鬼として進化したが、魔術師の方は肉体が溶け出し、腐り始めた。
それを見たマシュカーゼは狂気に笑いを口にし、高らかに嘲笑した。
「愚かな人だ、君は。
この世に高みを抱く者は1人でいい。
君には少し気に掛かる部分の実験材料になって貰ったよ。
どうかな、生を強化し新たな生命に進化した気分は。
安心したまえ。
別に殺したりはしない。
でも、その状態で生きていられるかな」
マシュカーゼは研究に纏わる全ての資料を燃やし尽くすと、魔術師を置き去りにし、姿を消した。
真理に刻まれた術式は解除不能とされ、嘆きが研究室を覆った。
こうして高みを目指し、男に手を貸した悲しき魔術師の話は裏切りという形で終わる。
その後、違う話が世間に浮上してくる。
聖夜、ある街を紅く染め上げた惨劇。
その者の名をテラングィード D マシュカーゼ。
惨劇の主と名を馳せ、世界を狂気の渦へと貶めた。
その影で肉を腐らしながら、闇夜を跋扈する吸血鬼の話もあった。
普通に生きる事を叶わなくなった、魔術師の成れの果てという噂だけが、裏の世界で流れていた。
EDNAの真骨頂は具現化。
それは物質界に干渉できない幽界を、不可視のものを可視できるように変形させる。
EDNAは繋ぎ。
精神を物質に挿げ替えること。
人は認識していないだけで、この世界に多数のものが混在する混沌なる場。
物質、第六元素、精神、因果。
人が確認しているだけで、これだけのものが有し、幽している。
精霊術と呼ばれる、このEDNAは人の望みなのだ。
人が忘れてしまい、世界に散らばった意味に干渉し、世界の可能性の1つを物質世界に汲みあげるシステム。
「私だ、私だ、私だ、私だ……」
自分を抱きしめながら、魔女は狂ったように自分を確認していた。
それは迷子の子供が戻ってきた親御のような、そんな様だった。
(彼女も又、迷い子)
同じように迷走を繰り返していたヨーミエには、彼女が瞳に宿していた暗さを知っていた。
鏡の中。
そこに映し出された自分の瞳に。
ヨーミエは彼女の願いを具現化し、望みを奏で続ける。
それに伴い肉体が脱力し、消失していく力。
細胞に一つ一つから根こそぎ奪われていく喪失感。
この奇跡の代償とばかりに。
細胞の寿命すら縮めている感覚。
それは錯覚ではないだろう。
それでも止める気は無かった。
これは夢幻なのだ。
演奏が幕を閉じれば露と消え、世界は物質だけが蔓延る世界へと、元へと戻ってしまう。
そんな誤魔化しのような一間と知りながらも、それが残酷な事と理解していながらもヨーミエは与えることを選んだ。
魔女は突然耳元にしていた三角のピアスを引き千切り、自分の喉元に突き刺した。
「なっ!」
この事態に、ヨーミエは驚愕して演奏を取りやめていた。
魔女はそのまま、仰向けに倒れていき、雪が微かにある地面に熱い液体を流して溶かしていく。
「…どうして」
擦れた声が虚しく響く。
ヨーミエは膝を付き、魔女を覗き込む。
動脈を完全に突き破っており、普通の人間ならば致命傷なまでに深い傷が喉につけられていた。
「お・・ね・が・・い。
こ・・の・まま・・・」
絶え絶えに魔女から望みが告げられる。
演奏が止まり、物質だけの世界へ帰還しようとしている。
折角貫いた喉も、それに伴い腐り、再生を始めようとしていた。
「・・お・ね・・・がい。・・こ・の・・・ま・ま、し・・な・・・せ・て」
魔女は残った力で袖口を掴み、懇願してくる。
そこにはマネキンのように笑うことを忘れた者はなく、涙ながらに自分としての一生を終える事を望む、悲しき者がいた。
一拍置き、ヨーミエは首肯する。
そして再び銀色のハーモニカを奏でる。
子供の頃希望を託し、音楽に乗せた想い。
それを連ねた曲を。
人として受けられる平等な権利、太陽の恩恵を一身に浴びたい。
それだけを望み、託した曲が街外れの森に木霊した。
それに耳を傾け、魔女、いや、エレノア マクエールは静かに瞼を閉じていく。
そして2度とその瞼が開く事はなかった。
闇の中蠢く影は、必至に何かを探していた。
だが、どんなに手を尽くしても、目的のものは見つからず、苦虫を噛み潰したような眉間に皺を寄せて焦りを押し殺しながら探し物を続ける。
何処かしら大気の揺らぎが生じる。
忍び込むという行動をとっている為、敏感に働いている感知能力が、その揺らぎが人の面積が押し出されている生じさせる気配だと知る。
「貴方ともあろう方が人様の家を漁るとは。
この死者の書(ペレト エム ヘルゥ)の真意を知ってしまったのですね。
まぁ、これは正確には写本ですけど」
大気の揺らぎの先に、銀髪の男がいつの間にか壁に凭れながら立っていた。
細めの眉毛にとって付けたようにマッチした穏和な感じの藍色の瞳。
鼻は高く、軽く結んだ口元が、又魅力的な印象を受けた。
スラッとした体は、無駄な肉を一切削ぎ落としされているかのようだった。
窓辺から差し込む月光を反射させる銀髪が、幻想的な美に拍車を掛けていた。
「まさか、半年前にパリの街を騒がしていたゾンビパウダーの事件の真相が、此処にあるとは思いませんでしたよ、レイゾナ議長」
のんびりとした、それでいて威圧的な声。
凛とし、心を曝け出させるような鋭利な声音がレイゾナに投げかけられる。
「レオン サイアス、テルト ゴート。
彼らを使い、ゾンビパウダーの真実、いや、この死者の書(ペレト エム ヘルゥ)の本来の姿を解明しようとしていたとは。
迂闊でしたよ。
死者の書(ペレト エム ヘルゥ)の一文、ワイヤードパピルスが流出した時、もっと裏側を探るべきだった。
一文でも、一介の魔術師が手に出来るものではないと」
「…バンパイアキラー、エンブリオ マシュカーゼ」
「おや、いつの間にそんな渾名が付けられてしまったのでしょうね。
唯、敵討ちをしただけに過ぎないのに」
「粛清者がどうして」
「あ、私は今はフリーですよ。
教会と言う枠組みからは抜け出した人間です。
唯、少し雇われて今回の仕事はしていますけど。
まさか、ゾンビパウダーが別軸にある自分の姿をコピーする、次元複写とは思いませんでしたよ。
死者の書(ペレト エム ヘルゥ)。
死人を生き返らせる魔術が記された、禁断の術書。
その本質が、別世界への干渉を可能する為の秘術だったとは。
死人を蘇らせる法の殆どは不完全で、人という規格を無視した形で顕現させてしまう。
それがどんなに惨いことか。
だが、死者の書(ペレト エム ヘルゥ)はそれを覆すものだと聞き及んでいました。
それが、他世界への干渉」
「どうしてそれを」
「この書が私の手にあることが、答えですよ。
ギルバート ダーノスに託されましてね。
皮肉にも、かのゾンビパウダー事件で知り合いまして。
情報提供などと、色々あの時御世話になっていました。
まぁ、軽い恩返しみたいなものです。
それと貴方が飼っている、テラングィードの残滓を消しにね。
度が過ぎました。
ゾンビパウダーにより多くの者が亡き者に書き換えられた。
そしてテラングィードの残滓を飼う為に、人々を供物にした。
それは許される行為ではないですよ」
エンブリオと呼ばれた男は、窓際から一歩レイゾナに近づく。
それに脅えたレイゾナは術式を組み上げて、腕を突き出す。
嵌められていた指輪の文字が光出し、そこから膨大な雷撃が派生する。
だが、そんな雷撃に構わず、エンブリオは歩みを止めずに突き進んでいく。
雷光に包まれるエンブリオ。
迸る雷から、一筋の光が灯る。
「なっ!」
雷光は陽炎のようにエンブリオをすり抜けていく。
そして初めから存在しなかったかのように、跡形も無く雷は失せていた。
そして光が増し、光源は左眼からしていた。
有機物の目ではなく、そこには鉱物が埋め込まれていた。
「無駄ですよ。
アストラルサイドから干渉を掛け、魔術の具現化そのものを乱しました。
EDNAを有している私には魔術は通じません」
魔術師にとって死刑宣告に近い発言をしながら、エンブリオは歩みをやめない。
「貴方みたいな大物は、どうしても教会という組織では処罰する事ができない。
どうしてフリーである私が派遣されたか、分かりますか?
そして私が教会という組織を抜けた意味が?
罪人は罪人らしく、罪に染まった者に狩られるのが御似合いです。
私のような、ね」
エンブリオは無造作に腕を振り上げる。
そして手を握り込むと、そこに蒼白い発光が生まれ、そして一振りの光の剣が誕生する。
「ノーガス レイゾナ、貴方を断罪します」
逃げようにも、蛇に睨まれた蛙の如く躰が竦みあがり微動にしない。
レイゾナは光の剣が振り下ろされる様を、唯見つめることしかできないでいた。
「…全く」
嘆息を付き、眼前で止めた光の剣を消す。
レイゾナからは何の反応もしてこない。
天井を凝視したまま、停滞していた。
「器用な男ですね。
立ったまま、気絶するなんて」
(まぁ、仕方ないんじゃないかしら。
研究所に籠もりっきり、もしくは政治にしか興味のない上の人間に、こんな絶望的状況は経験がないでしょうし。
エンブリオ、殺さなかったのね)
どこからともなく、愛らしい声が脳内に響いてくる。
エンブリオはそれに答えるように、左眼窩に埋っている鉱物にそっと触れる。
「えぇ。
このまま死んで終われる程、この男の罪は安くありません。
証拠を取り揃えて、纏っている物を全て剥奪しましょう。
その上で罪を償わさせます。
これで魔術師協会の大きく揺れるでしょう。
唯でさえマイセル リカラが失踪したままですからね。
後ろ盾を失った魔術師協会、いえ、この男が切り札としてこの秘術を欲していたのは分かりますよ。
でも、この秘術は意味を持たないことに最後まで気が付かなかったみたいですね」
(どうして?)
「規格が違うからですよ。
同じ世界に同じ人間がいれば、矛盾、パラドックスが起こる。
つまり、そうならないように世界は構成されているのですよ」
(それって、違う世界からものを持ってきても、それがこっちの世界に存在したら弾かれるってこと?)
「そう言う事です。
悲しい事ですが、失われなければ得ることの出来ない秘術なのですよ。
結局の処、違う世界のものを手にしても、それは違うものでしかない。
1度失われたものはやはり、2度と得ることはないですよ」
(…そうね。
貴方は、失っても歩いていける人ですから、心配はしてませんけど)
「それは貴方が傍に居てくれるからです。
風通しが良くなった横を振り返らず歩けるのは」
(…ありがとう、エンブリオ)
「お礼はこっちの台詞ですよ。
これで、ここ一連の事件は終幕を見た訳ですが、議長の失脚は組織そのものに響くでしょうね」
(混沌の巫女、大魔術師と目まぐるしく事態が動いてるから、状勢も大変ね。
良く考えると、色々と関わってるよね、エンブリオは)
「私は平穏が欲しいのですが」
(無理ね。
エンブリオの性格では)
「自分の性格が恨めしいですよ。
彼らみたいに、のんびりと世界を周りたい気分です」
(彼らも意外に、色んなものに巻き込まれているかも。
ほら、彼女は物事に首を突っ込むのが性格のような人だから)
それを聞いたエンブリオは、微笑を浮かべそう「かもしれませんね」と答える。
「さて、人使いの荒い人の元に報告に戻りましょう」
(教会を抜けたのに、その頭脳に使われるなんて。
あんまり立場が変わってない気がするのは、私の気のせいかしら?)
「…言わないでください。
どうにも逆らい難い上に、引き受けざる得ない依頼ばかり持ちかけてきますから、ナイルは」
ヤレヤレと肩を竦め、エンブリオは気絶して硬直しているレイゾナに当身を食らわせ、弛緩させる。
それを担ぎあげると、左手に収まっていた死者の書(ペレト エム ヘルゥ)の写本を宙に放る。
「帰へ」
落下していく写本に手を翳すと、閃光が迸る。
閃光は刹那に消え、写本は姿を消していた。
「地道に悲劇の元を消していくしかない、これが私の選んだ道ですから」
(どこまでも、お供するわ)
「ありがとう、テイヤノーラ」
その礼に呼応して、左眼窩に収まっている鉱物が輝く。
何処か照れて、頬を赤らめている女性のように。
月明かりを届けない森も、白んでいく世界まで拒絶することはなく、次第に光を許容して満ちていく。
気を失ったままのシグを抱き抱え、ヨーミエとラヴィアはギルバートの元まで戻ってきていた。
それまで交わした会話はなく、互いに俯いたままで。
木漏れ日に頬を彩られながら待つギルバート。
毅然と立ち、落ち着いた様子だった。
これが上辺だけで、立つことすら難しいまでに彼が弱っていること知っているだけに、毅然した姿も痛々しく思えてしまう。
「御帰り、…覚悟は決まったかい?」
静かに告げるギルバートの問いに、ラヴィアには頷くしか選択権が残されていなかった。
「ヨーミエ、本当に」
「頼む」
ギルバートの言葉を遮るように答える。
忽然と離れてしまったような距離を2人の間に感じた。
納得済みでないことは、この様子からも分かる。
それでも残された時間がないギルバートは、これで推し進めるしかないと自分に言い聞かせてラヴィアに手を差し出す。
「準備は整っている。
さぁ、こっちに」
視線を上げる事なく、その手に導かれるようにラヴィアは足を進める。
(ダメだっ!
このままじゃっ!)
何も解決していない。
これでは、只ヨーミエがラヴィアを拒絶した形で終わってしまう。
自分に出来ること、感情の奔流が防壁を決壊させ、走り出さないように自分を戒めながら、模索する。
意を決し、その背中に呼びかける。
「ラヴィアっ!」
僅か、この一言で足を止めてしまうラヴィア。
この様が語るように、彼女の中では何も整理されていない。
たった一言で、簡単に打ち崩せる程に揺らいでいる。
だからこそ、この小さな背中を一押ししていやる必要があるのだ。
「ありがとう、俺は君に会えて本当に良かった」
ゆっくりと振り返るラヴィア。
そんなラヴィアにヨーミエは、シグを抱き抱え直して、
「俺は大丈夫だから、家族がいるから。
だから、君は本当に家族を作ってくれ。
愛が溢れる世界で、育んでくれ。
縛られないで。
大丈夫だから。
君が愛したのは、俺であって俺でない、もっと優しき者だ。
心配いらないから、御帰り。
君達が育んだものを信じて」
開かれた瞳が潤み、ポタポタと朝日に晒されて溶けていく雪と同じように敷き詰められた草の絨毯に雫が落ちていく。
何度も袖で拭っても、溢れてくる涙。
涙声だが、拭いながら確かににラヴィアは、
「…うん」
と頷いてくれた。
「…私も、貴方に、もう一人のヨーミエに会えて良かった」
そして泣き顔で、満面の笑みを浮かべた。
それはギルバートが望んだものとは違ったが、それに値する十分なものだった。
黙し、ギルバートは魔術回路を構築していく。
終えると、そこには光の門が顕現化されていた。
此方を見てくるラヴィアに頷くと、ラヴィアはそのまま光の門へと進み、振り返ることなく足を踏み込んでいった。
2つの倒れる音がした。
光の門は消え、その先でラヴィアの躰が糸の切れた人形のように横臥していた。
そして、その横でギルバートも満足な表情のまま、事切れていた。
「…ラヴィア、ギル、どうなって」
まともに思考が働かない。
「死者の復活と再生には査定があるんや。
死者の審判の場面では、死者自らの心臓を秤の上にのせて計量すると。
死者の書(ペレト エム ヘルゥ)には、そう銘記されていと聞いたことがあるわ。
恐らくそれを可能にした回路は、心臓にあったんやろうな。
それも自分からもぎ取り、新鮮なものにしか宿らんのやろう。
この兄ちゃんは、心臓を動かしている魔術回路を使い果たした。
そして彼女は、精神が元の世界に還ったんや。
せやから、此処にあるのはこの世界の、もうとっくに死んどる彼女やな」
薄っすらと胸元で瞼を開き、意識を取り戻していたシグが説明をしてくる。
あまりのタイミングの良さ。
恐らく自分が干渉できる場面ではないと、見守っていたのだろう。
ノーブルが魔術協会を調べ、導き出した答えに自分の推理を交えながら、シグは推論を述べていた。
「…そうか。
なら、一緒に埋葬してやらないとな。
彼女は、ギルの恋人なんだから」
暫く呆然と、居なくなった者達を眺めていた。
こうなる事は重々承知していた。
それでも否めない、この喪失感。
親友と愛した者。
その2点を同時に無くしたという事実は、現実なのだから。
視界がぼやけ、自然と嗚咽が漏れそうになる。
それを噛み殺し、動こうとする。
しかし、躰は悲しみに囚われて身動きが取れない。
「ウッ、ウウウ…」
膝から力が抜けて、立っていられなくなる。
膝を付き、どうにかシグを落さないようにするのが精一杯で、最早顔を上げれなくなっていた。
「何を殺しとんのや。
アンタは、この2人が大切やったんやろ。
なら、声を出して泣いたらええやん。
殺す必要なんて、何処にもあらへんのや」
耳元に優しく語り掛けてくる。
シグは抱き抱えられたまま、鈍い音がする躰に鞭打ち、そっとヨーミエの頭を抱く。
「我慢せんでええ。
家族の前で、我慢なんてせんでええから」
それが引鉄となり、慟哭が溢れ出す。
「ウアアアアアアアッ、グッ、アアアッ!!」
止め処なく溢れるものに身を任せ、泣いた。
朝日が木漏れ日となって注ぐ森の中、男の嗚咽だけが木霊した。