気魂漸進
[3 気魂漸進]
愛しい者の面影を求め、何と愚かな事をしてしまったのだろうか。
それでも已まなかった。
一度、もう一度だけでも、微笑む姿が見たかった。
その為に、どれ程手を尽くした事だろうか。
確かに微笑みを見ることは出来た。
だがそれは、望んだものと違った。
そして、自分がとんでもない過ちを犯したことを知った。
死者の書(ペレト エム ヘルゥ)。
ツタンカーメンの墓から掘り出されし魔導書。
冥界の神オシリスの審判によって死後の幸福な生活と復活、再生を約束されるとされた書で、その中には様々な呪文や薬の作り方が記述されている。
半年前、夜な夜なパリ街を徘徊するゾンビが出現する事件があった。
これは死者の書の一部、ワイアードパピルスに載っていたゾンビパウダーを使った犯罪だった。
死と生を術として銘記された死者の書。
もし大切な者が失われたとして、これに記載された呪文を使い、人を再生させ、現代に復活させることが出来るとしたら。
(抗うべきだった。
もっと世界を知るべきだった)
世界とは幾つもの分岐点により枝分かれし、次元の壁を挟み隣に位置している。
切望は先行し、そして実現へと成った。
それがどんな悲劇だとしても奔る感情を押さえ込むことが出来なかった。
(生きて会う事が出来たなら、どんな誹謗も受けよう。
だから、この罪は精算しなければ)
動かすは罪の意識。
それ無くして、今自分を突き動かすだけの動力を得ることは出来なかった。
疲弊し、疲労しきった躰と心は。
只、許しを請うべき相手の元へ辿りつくまで、鈍くなる心音に止まるなと懇願するしかなかった。
出勤して見れば、おぞましいものが眼前にあった。
気配が無かった為、感知することも出来ず、不意打ちで網膜に飛び込んできたそれは心臓を圧迫し、活発化させた。
「おぉ、ヨーミエ。
サッパリした表情になったな」
それが喋り、満足そうにおぞましい顔を歪め、更に酷いものを拝ませた。
「相変わらず、寡黙だな。
ちょっとつまらんぞ。
突くような悲鳴でもあげてくれたら、可愛らしいのに」
人をおちょくったような口調。
それがおぞましい顔の生き物が、ノーブルである事を分からせた。
「どうした、その顔」
「人は理性を持ち、思惟する能力を持つ素晴しい生き物だ。
故に話し合いによる解決を試みる。
その事を提示したのだが、兇暴な弟子は言葉を交わさずに、拳を交わしてきおった」
その結果が、この異様な顔面らしい。
昨日の暴行も合わさり、凄まじいまで貌が変形していた。
「シグは錬金術師を目指すより、拳で天下を取った方が良いじゃないのか?」
「うっさいわ!
ヨーミエ訊きや。
昨日電話があったんや。
取引先の会社からや。
値段の交渉やった。
それでウチは知ったんや。
この男が提示して、受けた仕事の価格は真っ赤な嘘で、ホンマは倍近い値段で、ウチの商品は売れてたんや。
つまり、この大ボラ吹きは、その差額分をちょろまかしとたんねん!
これがいち社長のする事か!
ウチは悲しくて、拳が腫れあがるまで殴るしか出来へんかったわ!」
後方から激情を顕にした声がしてくる。
振り返ると、そこにも無慚な顔があった。
昨日の地点で目の下にあったクマが濃さを増し、全身からは疲労を訴えるような気だるい雰囲気を醸し出していた。
突き上げている拳は確かに腫れ、血糊が付着していた。
「だ、大丈夫か?」
「……、はぁ?」」
何故かノーブルとシグ、二人揃って疑問を俺に投げかけてくる。
自分は可笑しな事をしただろうかと、さっきの行動を脳内で反芻させるが、思い浮かばない。
ノーブルとシグは顔を見合わせ、勘違いでない事を確認し合うようにコンタクトアイを取る。
そして頷き、間違いでないという結論に達したようだ。
「…やっぱ変や。
アンタ、ホンマにヨーミエか?」
「そうだが」
返答をしたら、変と称されてしまい、眉間に皺を寄せてしまう。
「変って、何がだ」
「変というか、まぁ、アンタにしたら変やろうけど。
アンタって冷血漢で、他人事には一切干渉してこんかったやないか。
ましてや、気遣いなんて更々や」
豪い言われようだった。
手加減一つしないシグらしい、辛辣な台詞。
そこでもう一度反芻させ、自分の行動を思い返す。
そして自然に気遣う言葉を零していたことを思い出す。
何故かそれが気恥ずかしく想え、頭に血が登っていく感覚がした。
「…なんか、可愛らしい反応するな。
角が取れたって言うか。
ワシにはこの方が好ましいが」
「ヨーミエ、気お付け。
アンタを狙っとるで、この男色家は」
「気色悪い事を言うな!
ワシはボインの熟女好みだ!
小娘や男なんぞ興味あるか!」
「恥ずかしいこと暴露しながら、威張るなや。
教会辺りに有らぬ罪状括りつけて、放り込むぞ」
師匠を師匠と想わぬ言動。
その相変わらずな光景に、穏やかな気持ちが微笑を浮かべさせていた。
自分を間に挟み、罵り合っていた二人は言葉を失い、俺を見ていた。
「どうやら昨日の問題は解決したようだな」
「…お蔭様で」
礼と呼ぶには、ぶっきらぼうな言葉。
自分の席に座ると、今日の仕事の資料を探し出す。
そんなヨーミエを他所に、ノーブルとシグは顔を付き合わせて雑談を始める。
「…シグ、ヨーミエが素直だ」
「…どんな心境の変化やろうか」
「きっと、女だ。
男を大きく成長させるものと言ったら、女だろう」
「この朴念仁が?
女を連れ込めるだけの甲斐性があるとは思えんのんやけど?」
「甘いな。
確かに無愛想で、不器用。
自分を守る為、世間との干渉を最小限に抑えているような奴だ。
だが、その実は飢えている。
飢えは自然と温もりを求めるのが説だ」
「どんな説や。
それは浮気を正当化する、男の言い訳やろ。
そんなもん説にされたら、堪らんわ」
本人の目の前で堂々と話し合いをする姿に、頭痛を覚える。
「まぁ、それは置いといて。
今はヨーミエの事だ。
これまでの行き方を反転させるもの。
傷つく事を厭わない程、魅力的な人物にあったとするのがワシの推理だ。
二日前の早退、そして仕事を終えたらサッサと帰宅する行動から、その人物と同居しているとみた!」
的を射た推理に、思わず資料を見ていた目が止まってしまう。
「どんな女だ。
まぁ、口は悪いが、見てくれはそれなりのシグには手を出さんかったからな。
恐らく、相当の美人タイプ。
又はシグと性格が反対で、包み込むような優しさを備えた人物か。
しかし、人の貸家に女を連れ込むとは、やるな」
家主、ノーブルはニヤニヤと興味津々な視線を投げてくる。
口を開けば負けのような気がし、沈黙して耐える。
「ヨーミエ、別に連れ込む事には反対はせんが、倉庫にあるものには触らせるなよ。
素人が手を出したら、取り返しのつかない物が多くあるからな」
「アンタ、そんなもんをあそこに放り込んでいたのか」
「まぁ、錬金術師としての作品の数々だ。
同じ穴の狢なら、唾涎もの代物ばかりだ。
これでも、名の知れた術師なんでね」
「術師?」
「なんだ、教えてあったろ」
不思議そうに尋ねてくるノーブルに、思考がある質問を導き出していた。
「…なら、ダーノスとローズマリーって名前に、覚えはないか?」
「ダーノスって言ったら、魔術師協会でも一、二を争う名家だ。
ローズマリーは、その配下に中るが、それでも相当の力を有した、これも名家だ。
でも、最早無いに等しいがな」
確証を得、自分の記憶が正しいのだと安堵を浮かべる。
ならば、彼女が持っている記憶はなんなのだろう?
それよりも、ノーブルが最後に告げた言葉の先が気になる。
「無いに等しい、どういう意味だ?」
「今副議長をしているセイント ダーノスってオッサンがいるんだが、その息子であるギルバートって男がな、禁術とされている書物を持ち逃げしたらしい。
たとえ副議長の息子だろうが、許されない代物だ。
あれは大魔術師マイセル リカラの持ち物だからな。
これを機に、現議長であるノーガス レイゾナがダーノス家を潰しに来ている。
抵抗しているものの、肝心の禁術と、持ち出した本人が失踪してしまっている。
罪状から免れない状態に陥っているらしい。
ローズマリー家は、もっと単純な理由だ」
「…なんなんだ」
何故か、この先は聞いてはならない、そんな気がする。
だが、無視できる話題ではなかった。
「跡継ぎであるラヴィア ローズマリーが、半年前に脳死している。
そしてつい最近、死亡した」
「嘘を言うな!」
感情を顕にする事に慣れていない為、一度あふれ出したモノは迸り、口に付く。
そんな俺に、ノーブルは落ち着くようにとコーヒーを注ぎ、渡してくる。
受け取るまで、話しを進める気が無いらしく、その対応に怒気を削がれて、渋々受け取る。
コップに口を付け、熱い液体を胃に流し込む。
それで強張っていた躰が解きほぐされていく。
それを見てとり、ノーブルは話の続きを話し出す。
「大枚叩いて仕入れた情報だ、間違いない」
神妙に、そして断言するようにノーブルは告げる。
(なんだよ、それ。
ギルバートが失踪、ラヴィアが死んでるだと。
何の冗談だ)
彼女がラヴィア ローズマリーである証拠は確かにない。
そうであれば、この話しはそれまでだった。
しかし、何かが奇妙しいのだ。
ピースが足りないだけで、もう絵の完成図は見えているような気がした。
「どうした?」
蒼白な顔をしているのだろうか。
ノーブルは昨日と同じく、真面目な顔で尋ねてくる。
それを見つめ返し、自問する。
(必要なものはなんだ。
この絵を完成させるのに、必要なものは)
「…魔術」
「魔術がどうした?」
口に出して見て、そこに集約しれいる気がした。
自分が持ちえていない知識。
そしてこの事件の発端であろう場所、それは魔術師を統括する機関。
ピースを繋げるには、その魔術に対し、それなりの知識が必要となってくるのではないだろうか。
「ノーブル、アンタ魔術に詳しいのか?」
「詳しいもなにも、ワシは魔術師だ」
「はぁ?
いつも錬金術師とか、言ってなかったか?」
「…アンタ、ホンマもの知らんね。
エエか、錬金術師は魔術を媒介として、それを付与したものを創るヤツの事を指すんや。
つまり、魔術師と錬金術師なんて、薄皮一枚の隔たりもあらへん、同種や」
「…使い分けるなよ、分かり辛い」
呆れ眼で説明してくるシグに、半眼で答える。
「そもそも、魔術っていうのはなんなんだ?
俺には手品の類にしか見えないんだが」
「手品ね。
確かに種も仕掛けもあるから、その根本が見えない者にとっては、手品と相違はないだろう」
「根本が見えない?」
疑問を投げる俺に、ノーブルは虚空に指を這わせ、それから言葉とは思えない発音を紡ぐ。
そうすると、虚空を走っていた指の先端に青白い火が灯り、指を焦がさずに顕現した。
近くにあった要らない紙を手にすると、その上に掲げる。
肉体に影響を及ぼさなかった火は、紙を中央から燃やし、そして全体を燃え滓へと瞬時に変えてしまった。
紙を掴んでいた指には、火傷どころか、炙られた跡すらなかった。
「これが魔術というヤツだ」
火という現象を全て操っていたとしか想えなかった。
いや、操っていたのだろう。
だからこそ、肉体に影響を与えずに、紙だけを燃やし尽くしたのだ。
「でだ、ヨーミエ。
此処には何がある?」
ノーブルは虚空を指で回転させて、ここら辺と示す。
どんなに眼を凝らしても何もなく、指が空気を掻き回しているだけだった。
思惟し、精々出せた答えは…。
「…大気か」
これが精一杯だった。
「ほぉ~、少しばかり利口だな」
どうにか答えらしきものを導き出した俺に、ノーブルは感嘆をあげた。
端から見れば、馬鹿にしているような笑みを浮かべながら。
「バカにしてるのか」
「これでも褒めてるつもりだ。
大抵の者は何も無いと、考える事、答えを導くことすら放棄して何も無いと言うもんだ。
それに比べれば、お前は賢くはないが、利口な人間だ」
「変な褒め方は止せ」
「まぁ、機嫌を悪くするな。
これは癖だ。
皆からは悪癖だと、お褒め頂いているんだがな。
さっきの答えだが、正解としておこう。
一般人としてはな。
ワシら魔術師の答えは、移、回路、接続、構成と答える」
「何だそれは?」
「移は元素の移動を制御する回路、回路は黒き接続盤で、接続はその盤への接続を多くする配線。構成はそれらを統括し、構築化する。
そして構築化し空間固定する、これを場と言う。
それを操作と呼ばれる体内のみに生じる魔術回路で操作することにより、魔術が行使される。
魔術回路の名は、歴代の魔術師、その回路の発見者の名前だ」
「???」
「つまり、お主が見えぬもの魔術師には見える。
魔術師には魔術という現象を起こす為の部品が、この大気に蠢いているのを確認、認識能力が備わっているということだ」
ノーブルがもう一度人差し指を立て、その先端に青白い火を灯す。
さっき見せてくれた時と同じように、当然のように何も無い空間に火を灯してみせる。
「要素を組み合わせ顕現化させると、このような現象を引き起こすことができる。
見えていないだけ。
見えていないから、それを御する認識が生まれない。
魔術師と一般人との差なんて、その程度のことだ。
魔術師になるということは、その一般人が見えていないものを見るということ。
これを情報の海、もしくは第六元素エーテルとワシらは呼んでいる」
「エーテルねぇ」
「火、風、水、大地、光の五元素に連なる、第六の元素。
六芒星の一角を担うものだ。
光に相反するもの、魔術回路。
何故に魔術と言うか知っているか?」
魔術。
魔の術。
魔と断定しているからには、それは人の闇の部分を強く出しているからだろう。
しかし、その全貌は認識差。
ならばどうして魔と、術の前に付けられたのだろうか。
「この世界には大きく分類して、三つの術がある。
一つは付与術。
符術など、体内エネルギー五行を符へと投与し、そこから発動する術などが代表だな。
次に精霊術。
これは最近になって研究が確立されてきたのだが、年月を得、蓄積された鉱物には意思が宿る。
その鉱物が持つ、具現化する力を操り、精神を武器へと転化する術だ。
強力だが、遣い手が少なく、未知数な面が多い。
そして最後に魔術。
さっきも説明したとおり、魔術回路を使い、構成して、顕現化させる術だ。
さて魔の由来についてだ。
その魔術回路だが、どこに多く含まれていると思う?」
「多く含まれるだって。
大気に蠢いているんじゃないのか?」
「ワシは見えていないだけで、大気にも魔術回路があると説明しただけだ。
場所に拠れば、エーテルが微塵も無い場所だって存在する。
エーテルも無尽蔵に、転がっているという訳ではない」
無尽蔵でないと言われ、そして魔に意味を踏まえて考察する。
そして一番含まれている場所、いや、ものを思いつく。
故に魔なのだと。
「…人間か」
縺れる声音が、導き出した答えを紡ぐ。
「正解だ。
正確には生物だな。
生とは、多くの要素を含み育むもの。
故に多くの要素、つまり魔術回路が備わっている。
人体にしか宿っていない魔術回路は多く、発展と称して人を狩る。
偉大なる魔術師は、歴史上においては外道。
魔を背負って生きる者が殆どだ」
「…アンタもなのか」
ポツリと漏れたこの言葉に、これまで言葉を少なめにしていたシグが拳を握りこみ、下ろす。
ガキッ!
前にあったパイプテーブルが半ばから折れ、半壊した。
「アンタ、盲目すんのも大概にしときや」
シグは歯軋りをしながら、喉から滲み出るように言葉を吐き出していた。
テーブルを叩き割った拳は皮が剥がれ、赤い雫が床を濡らす。
「確かにこの男はバカで、どうしようもない最低な男や!
でもな、人を犠牲にしてまで何かを成そうとするような外道か!
アンタは魔術師と聞いてだけで、全てを色眼鏡で見るようになるんか!」
紅く染めた手で、此方の胸倉を掴み縛りあげてくる。
背の差で、然程絞まっていないが、下から突き上げてくる激昂、瞳は非難に満ちていた。
「このバカはな、拒絶し、壁を作って生きてるアンタでも受け入れてたんやで!
それを!」
「シグ、別に恩を着せたくて遣ったわけじゃない。
そのくらいにしとけ」
服に染み付いてくる血臭。
後ろから伸びた手がシグの手首を掴み、離すように促す。
「せやけどこいつは、これまでの生活全部否定して、意識してなかったとはいえ、あんな言葉を漏らしやがったんで!」
「シグッ!」
強く出たノーブルに、流石にシグは胸倉を掴むのを止め、項垂れる。
「…なんやったんねん。
アンタにとって、ここで積み重ねたものってホンマ、なんも無いんか。
なんも感じへんかったんか…」
俯かせている状態から、ポツポツと赤と黒の斑点が、コンクリートの床を彩っていた。
「悪かったな。
シグが暴走したみたいで」
ノーブルの謝罪に何も言えなかった。
シグの言う事は、所詮押し付けに過ぎない。
そう割り切り、流せば終りな事柄だった。
それなに、黙することでしか耐えられなかった。
(なんなんだ、この胸の苦しさは!)
答えは明白だった。
それでも眼を背けるしか出来なかった。
連続で起こる感情のうねりが、たった一歩踏み出すことを躊躇わせた。
「さぁ、シグ。
お前はその拳、治療してこい。
ヨーミエもそろそろ仕事に取り掛かろう。
この話は此処で仕舞いだ。
良いな」
打ち切り、それぞれにノーブルは指示を出す。
これで、この場を終わる。
だが、一度芽生えた感情は易々と消し去る事は叶わず、フィルムに焼きついた映像にように、胸を残り続けていた。
コートを着込み、夜風に吹かれる事一時間。
ここから立ち去る事が憚られ、佇んでいた。
自分でもどうかしていると思うが、どちらにも踏ん切りがつかないまま、時間だけが浪費されていく。
(昨日も似た状況だったな。
いや、答えが分かっている分、今の方が酷いな)
昨晩から降り始めた雪はこの街を覆い、白化粧を纏わせていた。
そんな街路を歩く見知らぬ人々。
白化粧は踏み躙られ、汚されていく。
綺麗なだけではいられない。
干渉されれば、汚れを含み、そして消えていく。
(心もそれに該当するのだろうか。
…そんな事を考えているから、俺は口走ってしまったんだな)
汚れる、傷つく、世界という悪意に磨耗し、削れて行くモノ。
それを恐れる余りに、逃げ続けた日々。
だから、見損じてしまった。
それ以外にも彩を受け取っている事を。
負の一面だけに囚われ、新たに絵の具を手にしている事を、可能性を見落としてしまった。
傷が、それが痛いと感じるからこそ、他人に優しくあろうとすること。
自分は未だ、原石のままで、世界の川を降っていないのだと。
(そう感じれるようになったのは、やっぱり)
「アンタ、何しとんねん」
不機嫌極まりない声が掛けられ、そちらに眼を向ける。
タップリと着込み、着膨れしている眼鏡の少女が、憮然とした顔でドアを開けていた。
「…彫像かなんかか、アンタは。
頭の上に氷なんて乗せてからに」
一時間もジッと外に居た所為で、随分と雪に降られてしまっていたらしい。
それが気にならない程に、思考に没頭していたようだ。
「何を呆然としとるか知らんけど、会社の前で佇まれたら邪魔や。
そこ退き」
未だ怒気が失せていないのか、シグは邪険に此方を追い払おうする。
「ウチはどっかのボケの所為で、機嫌悪いねん。
生憎と、今回は止めてくれる人物はおらへんで。
怪我したくなかったら、道をあけや」
邪魔をすれば、実力行使すると訴えてくる。
シグは肩幅に足を開き、軽くステップを踏み拳を握り込む。
その構えは様になっており、虚勢ではないことを示していた。
何度かシグとノーブルの取っ組み合いを見たことがある。
玄人が好みそうな、高度な殴り合いが展開されていた。
小柄な体で、筋肉隆々のノーブルを相手に出来る玉だ。
脆いとはいえ、パイプテーブルを叩き割ったのは伊達ではない。
「……」
只、沈黙して立ち塞がるしか出来なかった。
人に伝えるという行為の大変さは、身に沁みている。
言葉がそれを貶める、そんな側面があることも。
無い脳ミソをフル回転させて、散々黙考した末に辿り着いたのは、不器用極まりない結論だけだった。
「ええ度胸や。
このボケが!」
とても着膨れてしている者の動きではなかった。
視界の死角へと滑り込み、そこから腹部へと拳を突き立ててくる。
「っ!」
息を呑み、衝撃に備える。
だが、予想を遥かに上回る衝撃が腹部にめり込んでくる。
脳へと、腹部から伝わってくる信号が届く。
口から洩れるのは、息を吐くだけで言葉にならない悲鳴だった。
女の細腕と、どこか侮りがあったかもしれない。
それを補う技術で、シグは的確に腹筋の隙間に拳を差込、回転させてめり込ませた。
「どうしたんや。
ご自慢の仮面が剥がれとるで。
そうやな、アンタの仮面を剥ぐのは、苦痛を与えるのでも出来たんやな」
シグはサディストチックな微笑を浮かべながら拳を引き抜き、膝を付く俺から距離を取る。
「これに懲りたら、ウチの機嫌を損ねんなや」
そうして、横をすり抜けようとする。
だが、その手を咄嗟に掴み、留める。
「…何のつもりや。
ええ加減にせんと、マジにヤキ入れんで」
朝方とは打って変わり、激情を表面から排除した、冷徹な表情を向けられる。
なんとなく、これがシグの本当の激情なのだとわかった。
この少女は、自分と反対なのだと。
「…うざいわ、アンタ。
初めてあった時から、ホンマ好かん奴やと想っとたけど」
激情が高まる程に、冷徹なで凍った貌が表面を満たす。
だが、それは何処か泣いているように見えた。
その為か、掴んだ手を離せないでいた。
苦痛で歪んだ貌、苦痛が呼吸を奪い、苦痛が湧き出る涎を地面へと滴らせる。
だが、苦痛を口にする事は無かった。
それだけは崩れ落ちそうな精神を総動員させて、留めた。
「その口から止めてと泣き叫ぶまで、痛めつけてやろうか?」
普段、陽気な少女はそこには居なかった。
そこに居るのは、世界の醜さを一身に受け、もがく事を耐える事を余技なくされた犠牲者だった。
地獄を徘徊して、生き延びてきた者の朽ちた瞳の彩。
それは鏡の中に居た、自分の姿に似ていた。
いつも繕っているモノが拭われ、狂気が牙を剥こうとしていた。
突然爪先が跳ね上がり、先程拳がめり込んだ腹部と寸分違わない場所に吸い込まれていく。
涎に赤い色が混じ出し、その威力の程を示していた。
「いつまで握ってんねん」
呼吸困難なところに掌打が打ち込まれた。
鼻腔の奥から液体が流れ出して、更に呼吸を奪う。
人体がどうすれば苦痛を上乗せしていくかを知ったやり口。
まともに息が出来なくなり、悶えるが掴んだものだけは離すことはなかった。
「…しつこいのう」
そんな様子に、シグは容赦のない攻撃を加えてくる。
喉、胸と徹底的に呼吸を奪い、そして苦痛が倍率していく箇所へ攻撃してくる。
しかも、こっちが持ち直したところを狙ってくる。
呼吸が再開し、僅かに回復しかけたところを狙ってくるのだ。
これは拷問の手口。
僅かな回復が、より一層に苦痛の割合を増幅させる。
次第に意識が朦朧としてくる。
只一点、この手だけは離してはならないという、義務感だったのか、意地だったのか、それとも別のモノだったのか、それだけを曲げなかった。
…どれ程続いたか。
時間の感覚が薄れている自分には分からなかった。
ただ、いつの間にか攻撃の手が止んでいた。
「…なんやねん、アンタ。
苦しいんやろ。
なら、手離しや。
そしたら、止めたるから」
先程と違い、何処か脅えたような声音がどうにか耳に届いた。
それはどこか懇願に想えた。
正直、それに答えるだけの余力は無かった。
消えかけている意識の中、離さないと一点だけが頭占め、俯いているしかできなかった。
意識があるというには、御粗末な状況だろう。
「アンタは何がしたいんや!」
(・こ、たえ、られ、ねぇ、つ・・・うん、だ・・)
冷徹さをかなぐり捨て、叫ぶシグの声を最後に意識が途絶える。
沈みこむ中、握っているという感触だけが確かに存在した。
(…訳分からんわ)
未だ、離されていない手首。
意識を失い、横臥している者はその事だけを成し遂げて、腫れた顔を綻ばせていた。
「お前の負けだな、シグ」
明らかに見計らったかのように、この男は現われよった。
出歯亀とは趣味が悪い事、この上ない。
だが、良く考えれば、会社前で散々大声を上げ暴れていたのだ。
気が付かない方が可笑しいとうもんやった。
師匠はヨーミエに寄ると、担ぎ上げようする。
だが、握られた手首が連動して、途中でウチが邪魔で立ち上げれないでいた。
「う~ん、これはどうしたものか」
確り掴まれているものの、無理やり引き剥がせない程握力が籠もっている訳やない。
恐らく、師匠もその事を見て、勘付いているんやろうか、意地の悪い笑みを浮かべよった。
「シグ、お前、ちょっとそのまま下の事務所まで来い」
案の定、無理やり引き剥がす案を除外しよった。
「ウチ、帰りたいやけど」
主張してみるが、
「ん、別に構わんが、お前逃げるのか?」
この後、ヨーミエが目を覚ました後、どんな顔をしたらいいのか分からんウチを見透かし、師匠は挑発してくる。
ウチが答えを一つしか出せない事も知りながらや。
ウチの主義に反することを承知した挑発やった。
「最悪や」
「うむ、自覚している」
満足に頷くと、師匠は立つように促し、事務所に繋がったまま戻っていく事になる。
師匠は臥所にヨーミエを横たえると、ウチにはパイプ椅子を差出し、隣に座れるようにする。
お節介にも程がある。
憮然とし、横たえられたヨーミエを眺める。
(あんなに他人との関係を恐れとったアンタが、どうしてあんな事を)
「…どうしてや」
「分からない程、愚か者ではあるまいお前は」
独語に、師匠は答えてくる。
「莫迦は許せるが、愚か者には成り下がるなよ」
と念を込めてくる。
本当は思考を差し挟むまでもなかった。
あれは、不器用者なりの償いの方法やった。
口で何を言っても、それは言い訳に成りかねなかった。
逆に不誠実と感じてしまったやろう。
「バカや、こいつは」
「あぁ、バカだな。
だが、愚か者ではなかったようだな。
お前と同じく、大事なモノに気が付いた。
だから、行動に出ようとした。
全く、ワシは草臥れ儲けだな。
誰だろうな、こいつを解き解したのは」
師匠は軽く頭を掻き、冷めたコーヒーを胃に流し込み、流しにカップを置くと片手を上げた。
「じゃ、後は宜しく」
「…待てや、このド腐れ。
まさか、ウチ一人に押し付けて帰る気か、コラァ」
「と言われてもな、ワシには全く持って関係ない事柄だしな。
居る理由はあるまい」
師匠はニヤニヤといやらしい笑みを浮かべて、反論できるかと挑発してきよった。
言葉に詰る。
確かに師匠には全く持って関係ないことや。
せやけど、コイツが目覚めた時に二人っきりやったら、気まずいことこの上ない。
こんなお膳立てを企てるくらいやから、一緒に待っといてくれるとばかり想っていたところに、この性悪男はいけしゃあしゃあと帰るとぬかしよった。
食わせ者というのは、こういう肝心な部分で罠を仕掛けてくる者のことを言うちゃうかと、絶句してしまった。
「人生は闘争。
それが自論だったな。
なら、逃げはいかんな」
そして完全に逃げ道を塞いでくる、性質の悪さ。
今のウチには、この腕を振り払うだけの勇気を持てないだけに、負けやった。
「まぁ、戦いを始めたばかりにヨーミエに、少しぐらい労いをかけても良いんじゃないのか?
言葉を交わし、伝えてやれ。
あの時の憤りと、感想とだ。
今のコイツなら、それが無駄ではないと理解できるだろう。
無駄と省くには、余りに悲しいことだと」
「…師匠、一つええか」
「なんだ?」
「昔、ヨーミエの事、訊いたことあったな。
その気持ち、今も変わらんか?」
「変える必要があるか?
寧ろ、信じていた分、ワシはその気持ちが誇らしく思える」
「…そうか、なら、ウチの憤りも間違いやなかったな。
ウチは、アンタの下について良かったって思えるわ」
「下ね。
まぁ、今はそれでいい。
だが、何れは横に来い。
対等の場所まで駆け上がってこい。
それが約束だからな」
「任しとき。
有言は実行する、それがウチや」
そんなウチに微笑し、師匠は事務所のドアを潜って行ってしまった。
…あんにゃろう、ホンマに帰りおった。
シーンに誤魔化されたけど、奴の思い通りに展開になったことに、言い知れぬ怒りが胸を占めた。
絶対明日、ヤきいれたる!
せやけど、そんな瞬間的なモノは、直ぐにモヤモヤとした想いに掻き消される。
それを抱かせている男は、未だ昏倒したまま起きてこうへん。
その横顔を眺めてとったら、違うモヤモヤが発起してきよった。
それが何かウチは分からへんまま、秒針の動く音だけが木霊する事務所で時間が経つのを耳するしかなかった。
暗闇から解放され、差し込んでくる光。
薄っすらとした光は光量を膨らませて、瞳の中を満たす。
網膜に、光と一緒になって映る者がいた。
「やっと目を覚ましたか」
呆れを篭めた眼差し向け、頬杖を付きながらシグはベッド横に座っていた。
「何をぼ~としとんねん。
意識確りしとるか?」
眼前で手を振られ、自分が寝惚けていることを知る。
シグの行動で、ようやく意識が戻ってくる。
確か、…目の前の少女に伸された、そんな記憶だった。
「意識が戻ったんなら、さっさと手ぇ離しれくれへんか。
ええ加減、痣ができそうやし」
催促され、やっと自分がシグの手首を握ったままなのだと気付く。
「あ…、悪い」
と離そうとするが、躊躇が生まれる。
それを敏感に感じ取ったシグは、
「逃げへんわ。
もしそのつまりなら、おんどれの指を切り落として、サッサと帰っとるわ」
物騒極まりないことをサラッと述べるが、勢いが無く、何かを押し隠した感じだった。
そこまで言われ、離す。
長い間握っていたのだろう。
指が硬直して、中々上手く動かない。
ゆっくりと自分の指を引き剥がし、やっと解放した。
シグの言うとおり、手首は痣となっており、少し罪悪感を覚える。
「気にすんなや。
これぐらい、なんともあらへん」
そこで一呼吸置き、
「…話訊いたるから、言うてみ。
アンタは行動で、誠実さをアピールしたんや。
朴訥にも程があるくらいにな。
それを見せられた以上、ウチは上辺でアンタの言葉を受けとへん。
それで良えやろ?」
不貞腐れた口調で、少女は頬杖付いたままそっぽを向く。
シグが年相応に振舞っているマネごとは見たことあるが、年相応に幼さを垣間見たのは初めてかもしれない。
この少女もこうやって自分を隠さねば、守れないモノがあるのだろう。
いや、人は誰しも、何かを隠している。
それが似た者同士だからこそ、シグは俺の、俺はシグの裏に勘付いてしまった。
同属だからこそ分かるのだ。
この相手には一度曝け出してしまったら、二度と隠し通せないと。
だから、俺たちは距離が必要だった。
晒したくない部分まで、見透かされてしまうから。
だから、嫌悪した。
冷遇した。
視界から消し去った。
表面だけ取り繕い、踏み込まないようにした。
壁があった。
そんな中、シグは臆せず闘っていた。
心を守り、拒絶する事しかしてない俺と違い。
今なら分かる。
それがいかに強靭な精神を必要としたかを。
そして、俺が漏らした言葉の一つが踏み躙った。
感情を顕にし、踏み込みきれていないシグが壁を越えて激怒し、訴えてきた。
シグをそこまでさせたモノが何なのか、実は言うと未だ分かっていない。
人の暗部を見抜くのは得意だが、忖度する能力は初心者以下。
只、シグをここまで掻き立てることをしたのだと。
だから、踏み込むことにした。
理由など、どうでも良かった。
謝りたかった。
昔なら一蹴してしまう理由で、踏み込んだのだ。
散々煩悶し手に容れた陳腐な理由で、シグに謝るという行為を実行したに過ぎない。
だから、言葉がなかった。
何が悪いのか分かっていない者に謝る言葉など、在りはしない。
「…何黙ってんねん。
なんかあるから、あんな行為に及んだんやろ?」
問い質されても、無いものは無いのだ。
正直、どうしたもんかと思案してみる。
勿論、こんな短時間で答えを導き出せるような優秀な脳は持っていない。
「…もしかして、アンタなんも考えんでこんな事したんか?」
沈黙で肯定してしまう。
「アンタなぁ、あんだけ…、あぁぁぁぁ!!
わからへん!
何がしたかったねん!」
「…謝りたった、シグに」
素直な気持ちだった。
シグが憤った理由は、ノーブルに対することだ。
だから、謝るのはノーブルの方で、シグではない。
なのに、俺はシグに謝りたったのだ。
「アホやろ。
アンタ、途方もなくアホやろ。
あんだけ嫌っていた癖に、そんな詰らん理由で、あぁぁ!
ホンマアホや!」
とことんアホを連発され、流石に眉間に皺が寄る。
「…詰まらなく悪かったな。
だが、俺にはこっちに理由の方が大事だった」
半身を起こし、眉を顰めながらそう告げる。
「大事なか、…そうか。
そうやな、こんな朴念仁に怒る事自体が間違っとたんやな」
シグは一人で勝手に話を解決させて、納得顔になっていた。
粛然としないものがあった。
「師匠の事、アンタはどう想っとるんや?」
突然話が切り替わり戸惑うが、今更嘘を付いたところで仕方ないので正直に話す。
「雇い主だ。
それ以外でも、それ以下でもない」
それを訊き、寂しそうに顔を歪めるシグ。
「そうか。
まぁ、アンタは踏み込まへんかったやもんな。
そんな認識しか生まれへんか。
…あんな、ヨーミエ。
確かにあの男は腹黒く、陰険で、最低な男や」
「酷い言い様だな」
「真実やからしゃあない。
ウチの口は正直やねん。
…でもな、悪党やない。
理不尽が詰め込まれてる世界においても、あの男は絶望せんかった。
ウチらに比べて、あの男はもっと深い昏い道を歩んできても、染まらんへんかった。
そんな男が言ったんや。
『所詮は傷の舐めあい。
だが、ワシ達は共通の苦しみ、痛みを知っている。
なら、家族みたいなものだ』ってな」
「…家族」
「そうや。
アンタなら、この言葉がどんな重みを持ってるか分かるやろ。
阻害され、爪弾きにされながれ生きてきた者が、この言葉を吐く重さが。
だから、許せへんかった、アンタの事が。
そんな言葉を言った者を蔑むようなことを漏らしたアンタが」
やっとシグの怒りの源を知った。
恐らく、この言葉に本当に救われたのは、他でもないこの少女なのだと。
その言葉を踏み躙ったのは俺だったのだと。
「それになヨーミエ、家族っていうのは、他人同士が引っ付いて新たに生まれるものなんや。
なら、ウチらはどうなんやろうな?」
シグの問いかけに答えるつもりは無かった。
そして必要はなかった。
初めから、それを踏まえて、シグは説明してくれたのだから。
全くの他人から家族が生まれるなら、同じ痛みを知る者同士なら。
血縁すら、他人と化す寂れた世。
でも、その概念がある以上、繋がりが、絆があるのだと。
答える気は無かったが、あるものが自然と頬を伝い出す。
それは熱い、とても熱い雫だった。
長い日というのは、どこまでも長いのだろうか?
淡泊に生活を送っていた分、特にそう感じてしまうのは否めない。
いざこざなど様々なイベントを超え、やっとの事帰宅してみれば時刻は二十二時を回っていた。
こんな時刻では温かい料理はありつけないなと、嘆息を洩らしてしまう。
急ぎ帰宅し、ドアを開く。
「お帰りなさい、ヨーミエ」
「お、ジャマしてるぞ」
可愛らしい声と野太い声が混じりあい、最悪なハーモニーを醸しだす。
髭の大男が、然も当然のように着席して、温かそうな料理を口にしながら、片手をあげて挨拶していた。
「…アンタ、何してる」
「ん、見て分からぬか?
視察だよ。
まさか、こんなご馳走にありつけるとは想わなかったがな、ガアハハハ!」
本気で息の根ごと、この笑いを止めてやりたい気分になりそうだった。
「申し分ない美人だ。
成程、ヨーミエが面食いだったとは。
オジサン、一本取られたぞ、ガアハハハ!」
「アハハハハ」
乾いた笑いを口にしながら、懐から銃を抜き放ち突きつけていた。
そしてコメカミにグリグリと押し付けつつ、笑い続ける。
「悪かった、許せ」
性質が悪い。
銃の安全装置を外したい衝動に駆られる程に。
シグが酷い言い草をしていた理由が遅々として分かった。
「え~と」
そんな馬鹿げた光景を見ていたラヴィアは、「あはは」と此方も乾いた笑いを口にしていた。
さっさと銃を仕舞い、空いている席に腰掛ける。
「で、なんの様だ、この腐れが」
「なんだか、シグの口の悪さが移って来たな」
ノーブルはぶつぶつと愚痴り出す。
この髭男は何しに来たのだろうか。
その間にラヴィアが温かなスープをテーブルに差出てくる。
そしてノーブルには紅茶など、この家にはなかった洒落たものを出す。
「温まりますよ。
ノーブルさんも、食後の一杯を」
「お、こりゃあ、済まないね。
ラヴィア ローズマリーさん」
「え、あ、はい。
あれ?
私、紹介しましたっけ?」
そこで緊張が走る。
それを歯牙にもかけないで、ノーブルは紅茶を口に含む。
ラヴィアに見えない位置から懐に差込、銃に手をかける。
「どうした?
折角のスープが冷めてしまうぞ」
「どういうつもりだ。
いや、何を知っている」
平然と受け流すノーブルに苛立ちを覚えつつ、静かに詰問する。
「別に、お前と一緒で大したことは知らんよ。
只、お前より魔術と協会の内情に詳しい、それだけだ。
そして、お前の口から洩れた二つの名から、彼女がローズマリーさんだと知れ訳だ。
所詮こんなもんだ。
安心しろ、ギルバートを狙っている協会の回し者ではない」
先回りして、説明してくる。
答えが用意周到で油断がならない。
「お前、今日ワシに相談したかったんじゃないのか?
自分の推理を組み立てるのに必要なもの、それが何か知ったからこそ」
先手の先手を打たれる。
だから、こっちは睨みを利かす事しかできないでいた。
「信じるか信じないかはお前次第だ。
まぁ、言い方を変えるなら、ワシを利用するという形でもいい」
あくまで平然と、そんな言葉を吐く。
年季なのだろうか、どうにも口で勝てる気がしなかった。
不意に口に笑みがついてしまう。
「アンタは悪人を装い過ぎだな。
態々疑われるように演技するなんて」
「…なんの事だ」
確か拾われた時も、そんな態度を取っていた。
『衣食住の保障してやる。
安い賃金で、馬車馬のように扱き使ってやる。
それでも良いなら、この手を取れ』
悪党の台詞そのままに、この男は俺の前に現われた。
悪意に敏感な俺がこの男の手を取ったのは、そこになんの含みもなかったからだ。
本当に半年間、糞のような賃金で馬車馬のように働かされた。
だが、そこには悪意が指し挟まってはいなかったからこそ、苦労がそのまま滲んだようなゴツゴツした手を握り返したのだ。
「…シグに免じて、信じてやる」
自分でも随分と拗ねた答えだったと想った。
シグから訊かされた、あの言葉を信じてみようと。
「アンタに見せたい物がある」
それにノーブルは首肯した。
完全に話しに置いていかれているラヴィアが、オタオタとしていた。
俺が放つ剣呑な雰囲気に、戸惑っているのだろう。
「ラヴィア」
「あ、はい」
「悪いがスープを温め直しておいてくれ。
それと、どうせこいつが俺の分を食ってしまっているだろうから、軽い夕食を頼む」
と、俺は席を立ちそのまま玄関へと進んでいく。
背中から、ラヴィアの声がしてくる。
「あの~、どちらに?」
「下だ。
直ぐに戻るから、頼んだぞ」
それだけ言い残し、玄関を潜り雪化粧の世界へと踏み出す。
それに続いて、ノーブルもコートを着て付いて来る。
一階へまでくると、右端の部屋へと足を向ける。
「ん、方便ではなかったのか?」
「いや、確かにラヴィアには聞かせたくないのもあるが、見せたい物があるのは本当だ」
右端の部屋まで来ると、ポケットを探り、八つの鍵のついた鉄の輪を取り出す。
鍵の一つを突っ込み、開錠する。
ギィーと錆付いた厭な音をさせながら、ドアが開く。
そこには色んな物体が山積みにされていた。
乱雑に所狭しと置かれた物は、どれも異質な雰囲気を醸しだしていた。
「御目当ては、これか」
ノーブルは部屋の入り口付近にあった棺桶に目を付けた。
それはラヴィアが送られて来た時に入っていた、箱だった。
人が入っていただけに、やはり棺桶と称する方が正しいのかもしれない。
ノーブルはそれに近づき、ジックリと観察していく。
そして、棺桶の上に置いてある木版を手にする。
「もしかしてこの棺桶に入れられて、あの嬢ちゃんが送られてきたのか?」
検討がつくのか、ノーブルは推理を口にしてくる。
それに首肯しようとして、ここが暗闇なのを思い出し、「あぁ」と返事をする。
そして入り口のスイッチにオンにし、部屋に光を迎える。
こっちに来るように手招きをするノーブル。
それに従い、ノーブルの指差すものを見る。
そこには、力を有していた文字があった。
今では只の文様にしか見えない。
「これはルーン文字と言って、魔術の構築を留め、強化する役割がある。
簡単に言えば、この形に魔術を構築すると、文字が示す効力が最大限に発揮され、持続する。
高度な魔術の一つだ。
この蓋に描かれている文字は{isa}。
氷や停止の意を持つ。
これで冷凍睡眠にしていたのだろう。
それを打ち消すのが木版に描かれた{kenaz}。
火と開始を意味する文字。
ついでに棺桶自体にも{elhaz}というルーン文字が書き込まれているな。
意味は防御や保護といったものだ」
ノーブルは説明を終えると、独語する。
「…物としてか。
なら、納得がいく」
「独り言で納得しないでくれ」
「ん、あぁ…。
明白な答えが分からない以上、推論でしかないが、大体の現状の予想はついた。
ヨーミエ、これの送り主からの手紙かなんかはあるか?」
「あるにはあるが」
「なら、見せて欲しい。
もし駄目なら、質問に何点か答えて欲しいのだが」
自分充ての手紙を人に見せるのは抵抗があるが、乗りかかった船であると、手紙だけを取りに部屋へと戻る。
キッチンに居るラヴィアに気がつかれないように、手紙を引っさげて戻る。
「悪いな」
ノーブルは簡素に謝辞を述べると、サッと目を通していく。
「ギルバート ダーノス。
お前達は知り合いだったんだな。
魔術のまの字も知らないお前が、どうしてその名を口にしたのか疑問だったが。
…お前に託されたもの、棺桶の中身、詰まり彼女、ラヴィア ローズマリーか。
こいつは、予想以上に厄介な事に巻き込まれているかもしれんぞ、ヨーミエ」
「…どう言う事だ」
「言っただろう。
魔術師協会は、今内紛真っ只中だと。
それは大魔術師マイセル リカラの禁術を、ダーノス家の嫡男が持ち出した処から始まっている。
三大術師というのは、流石に知っているな?」
「あぁ、三百年に渡り、世界を牛耳ってきた三人の力ある術師のことだろ。
確か、一角である混沌の巫女が崩御して、それに続きそのマイセルとかいう大魔術師が姿を暗ましたとか。
それぐらいなら」
「大魔術師は魔術師協会という機関を作り、それを手足のように使っていた。
つまり、協会のトップだった訳だ。
大きな顔をしていた協会の者達は、バックを失ったことになる。
そこで今までの権力を持続する為に考えたのが、マイセルの残した禁術だった」
持ち出された禁術。
そして匿うように託された者。
「その顔だと察しがついてきたようだな。
これは未だ確かな情報ではないが、議長レイゾナはギルバートを執拗に探しているらしい。
もしこれが本当なら、狙いは恐らく」
「ラヴィアだとでも」
「認めたくないのは分かる。
だがそれを否定して、危険に目隠しをしてしまっては、守れる者すら守れなくなるぞ」
俺に対し、ノーブルは叱咤するように言い放ってくる。
「大体、その禁術の内容も想像がつく。
…正直、あれだけ確りとしている人物を見てから言うのも気が引けるが、ラヴィア ローズマリーなる人物は死んだことに成っている」
蘇生。
それは誰もが夢み、狂気へと誘う、魔性の術。
永遠を求めし者や、大切な者を再び会いたいと、その夢に駆り立てられていく。
ノーブルはピースを次々に並べていく。
(未だ足りていない。
この絵には、もっと多くのピースがある)
記憶の相違から生まれてくる、疑念。
(まるで…)
「ヨーミエ。
もし、彼女が大魔術師の秘術の在り方なら。
誰も成しえなかったものが、成功例があるとしたら」
思考を中断され、ノーブルの意見に耳を傾ける。
言いたいことは分かった。
「昔説明したと想うが、この場所は魔術回路を組み込んで、カモフラージュを施してある。
一般人には、近寄りがたい忌むべき場所に思える。
そして魔術師、正確には人の内臓されている回路、ファウスト、所謂魔力と呼ばれるものを表面化に感知すると、防衛機能を発露する仕組みになっている」
「?
一般人にはその魔力は備わっていないのか?」
「いや、内在はしているが、認識できない為に操作できる者はいない。
だから丹田、下腹の辺りに溜まっているだけで、上辺には出てこないものだ。
つまり、魔術師って奴は、これを表に出し、他の魔術回路を操作し混合することにより、場に確定する。
簡単に言えば、これを表面に纏っていないと魔術回路に触れられないという事だ。
そこんところを感知するシステムが、このアパートには仕込まれている。
魔術師なら、この装置の恐ろしさを垣間見ることができるから、迂闊には近づかん。
多少の防壁となりうる訳だ。
ローズマリーさんには悪いが、暫く外出などは止めて貰え」
「…何故、庇う?」
それを聞いたノーブルは、逆にキョトンとした表情になり、問い返してくる。
「お前、守ってやる気はないのか?」
「俺はあるが」
戸惑いながら返答する俺。
「なら、それでいいだろう。
何か問題があるのか?」
然も当たり前に返し、ノーブルは奥から何かを引っ張り出してくる。
大きな箱。
棺桶と並ぶくらいに、巨大なものを出してくると、埃塗れのそれを勢いよく開ける。
粒子が舞い、目をまともに開けておけなくなる。
「ごふっ、て、なにをする!」
埃を払いながら、目と口元を保護する。
暫くして、粒子の数が空中から減るってくる。
「まぁ、これを見な」
ノーブルが指した箱の中身。
そこにはズラーと並んだ、銃器の数々だった。
「お前も暗い道を歩いてきた人間だから、それなりに護身術は身につけているが、戦争は知るまい。
まぁ、子供的な考えだが、これが一番だろう。
つまり、物量で勝負するってことだ。
相手は外道を道とした者達。
これぐらいの準備は、当然とするべきだろう」
自分の職業を棚に上げて、敵の外れた者と評価して対処をあげる。
(ったく、この男は)
こうやって、素で棚上げできるということはシグの言うとおり、このノーブル ブルーガと言う男は塗れながらも、一線でアイデンティテーを保って生きているのだろう。
癪だが、好感を持てるタイプだった。
「…ヨーミエ、半端な覚悟ならばこの権から手を引いておけ。
魔術師にとって、人の価値は物と同格。
そんな者を相手にする以上、そこは血みどろな跡地しか在り得ないぞ」
「…余計だろう。
そんな奴らに渡す訳にはいかないだろう、あのお人好しを」
迷うことなく、そう言えた。
ノーブルは満足げに頷く。
「そうか。
なら、これはくれてやる。
ほったらかしにしていたものだから、整備は自分でやれよ。
こういった作業は得意だったろ」
社内での役割が脳裡に過ぎり、嘆息してしまう。
自分の仕事内容は、主に書類整理と製品の試しと整備などだ。
様々な種類の品が注文される我が社で、そのような役割を担っていると、厭でも整備のプロになってしまう。
「嬉しくない事にな。
だが、アンタもこのままだと巻き込まれるぞ」
「ワシなら問題ない。
魔術師協会には借りがあるから、ちょっと還すだけだ」
「何をした」
「なぁに、ちょいとばかり協会の資金を湯水のように使って、財政を瀕死に追い込んだだけだ。
それに見合うだけの研究をしてやったのに、アイツ等ときたら協会を追い出し、その上研究を奪いおった。
いつかこの借りは返してやると思っていたからな、丁度いいわ」
「それは、アンタが悪いだろうが」
「まぁ、大人の事情がそれなりに有るものだよ。
ヨーミエ、良いか。
もし何か周囲で異変があれば、必ず連絡して来い。
こっちも何か掴んだら、教えてやる」
「…どうして、そこまでしてくれる」
シグから、その答えを貰っていた。
だが、それでも本人の口から真実かを確かめたかった。
「…家族。
ワシはな、本物を知らない。
罵り、誹り、嘲る。
そんな人を人と思わぬ環境で、いじけて暮らしてきた。
そして、そんな概念があることすら知らずに育った。
だから、憧れた。
シグやお前を見た時、心を開けない、見えるモノだけが総てだと割り切って生きてきた者だと直ぐに分かった。
同種の勘というやつだ。
だからかな、同じ傷を持つ同士なら、分け合える、慰め合える。
そんな労わり合える関係になれるんじゃないかとな。
擬似家族。
勝手な押し付けだが、ワシはな、お前達を家族だと想うことにした。
血の繋がりなんかよりも、もっと硬く結ばれるモノがあればとな。
まぁ、この試みも、シグが押しかけてくるまで凍結していたんだが。
昔やって痛い目を見ているから、ワシも臆病風に吹かれていたんだな。
あの猪突猛進娘を見ていたらな、少し、いや、死まで馬鹿を演じてみるのもいいかと想ったんだ。
これはシグにはオフレコにしといてくれ。
知ったら調子に乗りそうだからな」
髭を撫でながら、微笑するノーブル。
ノーブルの発言にプッと笑いが吹き出ていた。
「な、なにか可笑しいか?」
ノーブルは珍しく動揺していた。
「いや、アンタは親子喧嘩を楽しんでいたんだなと思うと、少しな」
シグをワザと逆撫でして、挑発しているのは、その関係を楽しんでいる、親の心境なんだと。
いつもは馬鹿な遣り取りだと呆れていたが、今は温かなものが胸にこみ上げてくる。
髭の覆われた顔が見る見る内に林檎みたい染まっていく。
「アンタ、良い親になれるよ」
本心からそう想えた。
普段からかわれる立場から一転して、うろたえるノーブルをからかう立場を堪能するのだった。
こういった廃れた目は、この下町には結構転がっている。
だから、そいつに目が止まったには偶然だった。
偶々持ち合わせた物が、この男に反応した、それだけだった。
(ほぉ~、真逆、本当に反応するとはな)
興味半分で購入した物が、この男の前だけ鉱物としては在り得ない反応を見せていた。
タップリ蓄えた髭を撫でながら思案してみる。
正直面白い素材である。
それにこの目だ。
普段は覗くことのない、転がっている者の目を見てしまった。
意欲のない、空虚な瞳。
その瞳が、何処か昔の知り合いに良く似ていた。
(丁度人手も足りないとぼやいていたし、拾ってみるのも一興かな)
自分の提案が妙に気に入ったのか、髭はその廃れた瞳をした者に近づいて行く。
そして手を差し出し、自分でも中々しゃれの利いたナイスな台詞を口にした。
凡そ一年前、路地裏での話しだった。