防衛拒絶
[2 防衛拒絶]
体たらくにも程がある。
張本人を取り逃がしただけではなく、肝心の成功体まで逃がしてしまうとは。
男は暗がりの部屋で、憤慨しそうな感情を酒で流し込み、喉から沈下させる。
手段を選んでいる暇はない。
失墜した権力を取り戻すには、確実にあの秘術を手にする必要があった。
そう、手段は選んでいられないのだ。
「貴様に出張って貰うぞ。
その為に飼っているのだからな」
それに反応し、暗き部屋の隅に突然人の気配が現われる。
確かに、先程まではこの部屋には一人の気配しか無かったのだが、生まれた気配は人影となり、そして跪いて答える。
「御意に。
ですが、此処を離れてしまっては肉体の限界が来てしまいますが?」
「必要経費だ。
出来うる限り、隠蔽を行う。
多少の犠牲は構わぬ。
だが、無闇に搾取するな。
貴様の事で、教会の方から目を付けられているみたいだからな」
「感謝いたします。
存分に期待に応えさせて貰いますわ」
それは女だった。
女は嘘で塗り固められた美貌。
その貌はどこか作り物めいていて、マネキンを観賞している気分になる。
「失敗作としても、それなりに役に立つと踏んだからこそ、生かしておいたのだ」
女は辛辣な物言いにも眉一つ動かさず、まるで表情で縫い固められているかのようだった。
「成功作すら教会の執行者の前に敢え無く討たれ、正義という虚像に屈した。
奴らが何処まで平等なる虚構を積み重ねていくつもりかは知らぬが、紛い物たる世に意味などない。
人間の本質は所詮悪なのだ。
それを認めようともせず、要らぬ手間ばかりを嵩ませおってからに」
魔術師らしい見解に自分を煽り、奮起させる。
苛立ちを含みその矛先はこの場にいる女に向けた。
「失敗は許さん!
わかっているだろうな」
「はい」
張り付いた表情と同じく、変化の無い声が肯定してくる。
飼っているとはいえ、実に気持ちの悪い女だと思った。
「ギルバート ダーノスを拿捕し、あの方の秘術を模した者を必ず連れ帰れ!
無能を飼う程、裕福ではない、心得ておけ」
「御意に。
必ずや、その女を献上に参ります。
議長レイゾナ様」
女はそれだけ宣言すると、影に紛れるように姿を消す。
霧にでも転換されて、その身を分散したかのように。
「惨劇の主、テラングィードの残り香か。
あの吸血鬼も厄介なのを生み出したしたものだ」
女が居た証拠として、そこにはキツイ香水の匂いが立ち込めていた。
手にしたグラスを、女の消えた空間に翳し、中身のワインをぶちまける。
そうしなければ女が残していった、香水の匂いで誤魔化していたものが鼻に付きそうだったからだ。
嫌悪しか想わせない、腐臭の匂いが。
一歩そこに足を踏み入れて、異様な気配が立ち込めているのに眉を顰める。
剣呑で、気の置けない雰囲気。
ダウンタウンの奥地のような、殺伐とした空気がそこにはあった。
呼吸を殺し、階段を降っていく。
油断なく、全神経を配らせて、前進する先を観察する。
階段を降り、そこにある扉の一つから、その気配がしてくる。
喉が渇きを訴えてくるので、無理やりに分泌させた唾を飲み込む。
殺していた呼吸の蛇口を少しだけ開け、肺に空気を送り込み、覚悟を決める。
ノブの手を掛け、開け放ち、臨戦態勢で飛び込む。
「………」
自分がどれ程滑稽な事をしていたのだろうかと、沈黙でその光景を半眼する。
打撲等で腫れ上がった貌が、そこに鎮座していた。
元々強面で、普通の人は眼を合わせたくない貌が、更に酷さを増していた。
「おぉ、よーひえ、よくひてくれた」
口内も散々なのか、まともな発音が出来ないままで、その腫れ顔は挨拶をしてくる。
「…何をしている」
鎮座かと思えば、正座させられているだけだった。
反省させられている、小坊主の図。
そして剣呑な空気の元は、その奥で黙々と作業している人物からだった。
チャームポイントのおさげは、心境を表すかのように小刻みに震え、噴火寸前の火山を想わす。
声に反応し、気だるそうで、眼の端を吊り上げた少女が、貌だけ振り鋭い眼光を向けてくる。
「ヨーミエか。
見ての通り、そのバカに反省をさせとんねん」
気配の元は、そう言い放つと又、黙々と作業に戻る。
目の下に隈を見るに、一睡もしないで作業をしているようだった。
技術屋として、製造を営んでいる会社。
社員三名という、ここに揃っているのが全社員という、小さな会社だ。
昨日帰宅地点では、今日納品の物は八割方完成している為、早退させて貰ったのだが。
「…急ぎの仕事があったのか?」
早退した負い目からか、それとも少女の放つ殺気に気圧されたのか、自然と声音が小さくっていた。
人を睨み殺しそうな勢いで、再び視線を向けられる。
そして少女は視線を外し、正座させられている大男を睥睨する。
「このオオバカが、今日納品の品を完膚なきまでに解体しよったねん。
その修繕に朝方まで掛かっただけや。
…これで完成や、とっとと、配達しくされや!」
少女は完成した物を全力投球で、反省させられているノーブルに投げ渡す。
それを然も当たり前にキャッチしてみせる。
「正座はもう、宜しいでしょうか?」
「ウッサイ!
サッサと行き去らせっ!」
この二人の関係は師匠と弟子だった筈だが、知らない人が見れば、大男の方が扱き使われている弟子のように見える。
許し?を得たノーブルは、痺れる足を引き摺りながら、忙々と逃げる準備を始める。
「機嫌悪そうだな」
「当たり前や!
このマヌケの所為で、ウチまで徹夜させられたんやで!
これを寛大な心で許せっちゅうんなら、ウチは仏にでも神にでもなれるわ!」
ノーブルを指差し、目くじらを立てるシグ。
確かに自分のミスなら頷けるが、巻き込まれた人間がそんな寛大な心を見せたなら、聖人と名付けてしまいそうだ。
「じゃあ、これから運んでくるわ」
ノーブルはジャラルミンケースを片手にすると、脱兎の如く出口へと退散していく。
とても、さっきまで正座させられていた人間とは思えない俊敏さだった。
その反応の良さに、シグは相手の意図を読み、怒声を上げる。
「待てや!
そのままバックれる気やなかろうな!
今日も仕事あんねんやど!」
その激昂が終わらない内に扉は閉まり、階段を急ぎ駆け上っていく音が響いていた。
「あんにゃろ~!
人に仕事押し付けて行きやがって。
どうせ配達が終わったら、どこか時間を潰して戻ってくる腹やな。
畜生め」
グチグチの文句を述べ、シグは渋々と予定表に眼を通す。
「なんだかんだ律儀だな、相変わらず」
「師匠の気紛れで信用を失って、飯の食い上げになったらアンタも困るやろうが。
これは自己防衛。
たく、堪らんわ。
…ん?」
分厚い眼鏡越しに、シグはこっちの様子をいぶかしんで見てくる。
「…珍しいな、アンタから口を開くなんて。
普段はこっちが質問するまで、全く反応しない、朴訥男やのに。
変なもんでも食ったんか?」
文句が口に付きそうになるが、普段からそう振舞っているのは事実だった。
それが逆に、今日は感情のメッキが剥がれていることを指摘されたみたいで、口元を手で覆う。
その奇妙な行動に、更に眉を顰めるシグ。
そしていつもの様に能面のような表情を装うことに成功してたのか、シグは興味を失くし、視線を予定表に戻す。
「処でアンタ、昨日はウチが仕事しとんのに、先帰ったみたいやな」
「…別に、ノーブルは良いと言った」
「ホンマ、アンタには協調性や助け合いの精神は無いんか」
敵愾心満々のギラついた言葉がしてくる。
それを聞いて、正直卑屈な笑いが貌に付きそうになる。
くだらないと。
そんなモノに思考を挟んだところで、何が膨れるというんだと。
口に出してまで、卑屈な意見を提示する気も起こらないので、いつも通りに無視して、朴訥に作業をこなすことにする。
「…つまらん男やな」
心底軽蔑したようにシグは嘆息を吐くと、予定に余裕があるのか暫く寝ると、事務所に備え付けの簡易ベッドに横になると、直ぐに寝息を立てる。
(誰もが、お前みたいに闘争を胸に抱いているわけじゃない)
そんなシグの寝姿に、言い訳がましく胸の奥にだけ毒づいておく。
これが本当に言い訳だと知っているだけに、自分を風刺したくなる。
(分かっている。
これは守りなんだ。
自分を、何の伝手もない自分に対する守りなんだ)
無感情に振舞う事で周りへの期待を全て除外し、己の心守る。
期待さえしなければ、裏切られた際、やっぱりと全てを割り切れる。
(そうしなければ生きて来られなかった。
そんな環境で生きてきたんだ、仕方ないだろう)
無機質に振舞っても、心は確かにその投げかけに波紋を呼び起こしていた。
己を守りながら生きた自分と、そこから抜け出したい自分とが鬩ぎ(コンフリクト)あっている。
それはあの日を境に培ってきた、強固な拒絶の壁。
守る為に形成したものを、自分から打ち崩す事など叶う筈もなかった。
「お帰りなさい」
やはり、今日もその言葉に反応を示すことはできなかった。
明かりが灯っており、暖が取られていようとも、長年染み付いた習慣というものか、頭の中では寒い孤独な部屋に戻ってきた気持ちで帰宅してしまう。
挨拶を出来ず、その所為で彼女が微かにだけ寂しそうな貌を覗かせてしまう。
胸の奥でチクッと針に刺されたような痛みがした。
「どうしたんですか?
そこに立っていたら、躰が冷えてしまいますよ」
「あぁ、済まない」
部屋の中から暖が抜けているのを謝り、玄関を閉める。
(…俺は何を謝っている)
別に彼女は部屋の温度が落ちることを咎めた訳ではないのに、自然と謝罪を口にしていた。
彼女は気にはしていないだろうが、バツが悪くなりそそくさとコートを脱いでハンガーに掛けると、暖炉横の壁に吊るしておく。
今日もキッチンの方から香ばしい香りが運ばれてくる。
結局、夕食を一緒食べるという彼女の提案に押し切られ、自分の分も彼女が作っておくということになった。
席に着かされ、彼女はせっせとキッチンから料理を運んでくる。
世話を焼くのが趣味なのか、彼女は運ぶのを手伝わせてくれない。
意外に推しが強く、どうにも逆らい辛い。
(俺は、この手のタイプに弱かったんだな)
シグのように敵愾心一杯な推しタイプとは又違い、やんわりと、それでいて頑として譲らない。
反抗しても、折れるまでジッと耐えるのだ。
我慢大会をしているような気分にさせられる。
その上向こうは、壊れるのを覚悟で挑んで来ているので性質が悪い。
(預かってるのに、躰を壊されたら堪ったもんじゃない)
結局、こうして負けが混んでいく。
「どうぞ、お召し上がりください」
嬉しそうに告げられ、彩られた食卓を見る。
食欲をそそる匂いも然ることながら、目をも楽しませるような、色とりどりの食材が皿を埋め尽くしていた。
正直、食欲が先走ってしまうくらいに料理の完成度が高い。
サッと彼女に目を配らせると、こちらを微笑を称えて見ていた。
渋々、口にする。
黙々と食していると、微笑は恨めしそうな視線へと早代わりしていた。
(…感想を述べないといけないのか)
そうしなければ、彼女は食事をしようとしない。
最早、脅迫に近い。
確かに、この言葉をお世辞なく贈れるほど、この料理たちは絶品だった。
それでも脅迫されて感想を述べる今、一つだけ厭味を含むことにした。
胸の奥で嘆息を付き厭きたので、盛大に肺の溜まっていた空気を吐き出した。
それから、
「…美味い」
と告げる。
彼女には先行して行った厭味が通じていないのだろうか。
満面の笑みというのは、こういうものを言うのだろう。
心底嬉しそうに、彼女は自分の料理を口に運び出すのだった。
食事を終え、互いに就寝まで暇を持て余していた。
普段は、この時間を使い趣味である作曲に勤しむのだが、態々客が来ている時にするものでもない。
読みかけていた本を持ち出し、夜が老けるまで読書することにした。
それを不思議そうに彼女が見ている。
声を掛けなければ、寝るまで観察されていそうなんのでしおりを挟み、本を閉じる。
「どうした?」
「…音楽、止めてしまったのですか?」
唐突に投げかけられた質問。
どうしてと口に付く前に、冷静な部分がその情報の経路を導き出す。
ギルバート。
彼とは音楽で出逢い、音楽を共に楽しんだ仲だった。
完成した何曲か、手紙と一緒に楽譜を送ったことさえある。
確か彼女も音楽に興味がある為、その楽譜を見せて良いかと尋ねられたことすらあった。
そのことを了承したので、彼女がギルバートに送った分の曲を見ていてもおかしくない。
「趣味のレベルでならな」
音楽家などと芸術家を気取るような、人様に聴かせるような創作物ではない。
奏でる音は我流で、基本すら整っていない不恰好な代物。
教育を受けるだけの環境でも無かったし、生きるだけで精一杯だった幼年期や青年期にそんな事に感けている余裕はなかった。
ぞんざいな答え方をし、再び読書へと戻ろうとする。
すると、彼女は自分の事のように嬉しそうにしていた。
「なんだ?」
「止めてなかったんですね。
良かった」
彼女は胸を押さえ、痞えていたものを吐き出すようにホッとため息を洩らす。
「ヨーミエは凄い才能を持っていますから、止めてしまうのは勿体無いです」
「勿体無いね。
我流で稚拙な、協調性のない音符の群れがか?」
風刺した物言いになっていた。
良い所のお嬢さん、それが高い所から見下ろし測られた気がした所為だ。
音楽は、唯一生きることとは無関係に行っているもの。
ある意味生き甲斐だ。
それに物差しを当てられた気がして癇に触った。
「そんな事ありません!
子守り(ナニー)や幸運の分け前、物悲しいけど葛藤なんて凄く面白くて、綺麗な曲でした」
思考が停止した。
「…なんて言った」
聞き覚えのある題名を挙げられながら、俺はある矛盾点に気が付いた。
それを分かっていない彼女はキョトンとし、自分の言葉を思い出しながら口にする。
「子守り(ナニー)に幸運の分け前、葛藤ですか?」
又も、同じ単語を耳にした。
どうやら間違ってなかったらしい。
叫び出したい衝動を、甲殻に囲まれた自分が押さえ込む。
だが、沸々と怒りが臨界点へと向かっていた。
子守り(ナニー)や幸運の分け前などは何年も前に完成させ、音楽仲間であるギルバートに楽譜を送った事があった。
それを伝い聴いたことがあるなら、彼女が知っているのは話がわかる。
だが葛藤だけは、最近概要が決まり、作品としての形を成そうとしているものだった。
だから、ギルバートは名すら知らない。
その題名を彼女は当たり前のように口にしたのだ。
まさに矛盾だった。
つまり、楽譜の保管してあるデスクの棚を、彼女は勝手に物色したのだ。
内唇を噛み、怒りの言葉が染み出るのを防いだ。
(勝手に覗いたのか、この女っ!)
ズケズケと不可侵な領域に踏み込まれた気がし、無感情を装っていた仮面に亀裂が入る。
ギリギリの線でこれを堪える。
未完成の自分の心を覗かれたみたいで気分が悪い。
それをなんとか押し殺し、怒りが声音にならないように気をつけながら試すように聞く。
「どんな曲だ、葛藤って?」
最後の導火線に自ら火をつけていた。
冷静さを装っていても、やはり許せないものがあった。
未完の曲。
故に、その曲を最後まで口ずさむ事は出来ない。
状況のわかっていない顔で、彼女は葛藤を口ずさみ始めた。
それは自分の製作しているものに似通ったものだった。
そら見たことか、沸々と怒りが下腹からこみ上げてくる。
この曲が滞った時、俺は喚き散らし、手すらあげているかもしれない。
だが、それは直ぐに霧散してしまう。
そう、葛藤は完成されていないのだ。
何度も悩み、未だ完成を見ていない部分を彼女は事も無げに紡いでいく。
それは理想とも言える、心情にピッタリとくる完成形だった。
喉が渇き、そして掴んでいた本を握り潰していた。
「ど、どうしました!?」
驚き、彼女を凝視している私にラヴィアは曲を止めた。
「…なんだよ、それは」
ヨーミエの声は擦れ、確りとした発音にならない。
それでも静寂している部屋は、それを彼女の耳に届けた。
「え!?
これはヨーミエが教えてくれたんですよ」
確かに、これは自分の曲。
だが、完成もしてないものを教えたと言われても、そんなの不可能。
(なんなんだよ、この女…)
染み出てくる恐怖。
(ヨーミエって、誰の事を指しているんだ…)
すり抜けていく現実感。
(俺は何者なんだ…)
証明する者無き存在。
しがみ付こうと何かに手を伸ばす。
だが、その何かが自分には存在しない事を思い知る。
それは代償。
拒絶を纏い、自分に外壁を創ることで築いた見せ掛けの平穏。
だが、それは一つの送り者により、打ち崩されていく。
「…なにを言っているんだ」
やっと零した言葉は、こんなものだった。
「なにって、忘れたんですか、ヨーミエ?
ギルと私とヨーミエの三人で組んで、音楽をしてたじゃないですか?」
そして全く覚えのない思い出を語る彼女。
崩れていく。
然も当たり前に語る彼女が、自分という存在を希薄に、そして脆いものへと落していく。
彩を失っているだろう顔を上げ、俺は彼女を睨みつけた。
乱し、掻き立てる。
こうなると、預かり者というよりは、厄介者そのものに思えて来る。
「ヨーミエ?」
彼女は心配そうに窺ってくるが、それすら鬱陶しく、恐怖を鬱積させていく。
この数年感情を顕にした覚えなど無い。
だが、どうしても抑えるだけの抑止、理性が働かない。
「黙れ」
俺は多分、まともな思考など微塵も働かせていないだろう。
ただ、この女の口を塞がなければ自分が壊れてしまうという強迫観念に心を震わせているだけだった。
どんな形相で睨みつけたかは、彼女の脅え、そして悲しみに染まっていく表情で大方想像はつく。
「あ、あの、私なにか」
「黙れって言ったんだっ!」
部屋を覆いつくす憤怒。
そして空間に滲みこむように消えていく。
「俺をかき乱すなっ!」
全身で拒絶をし、そして俺は居た堪れなくなり、コートを掴むと冷え込んだ冬の闇に身を隠すように、部屋を飛び出していた。
引き裂くような彼女の叫びが背後から聞こえってきたが、俺には振り返るだけの余裕など無かった。
反吐が散漫し、廃れた匂いが立ち込めた街。
それが常識とされ、そこでの生活はアッサリと一線を越えると、そこら辺から発されている匂いの元へと早代わりする。
人はそうならない為に、疑心という鎧を纏い、良心という重荷を捨て去る。
そうしなければこの場では生きていけない。
それが俺が長年接してきた世界。
だからその常識の則り、生き延びてきた。
最小限の事象だけを手にし、そして糧を得る。
そんな生きる為だけの生活を。
それだけで十分だった。
それ以外望むものなんてなった。
平穏とは呼べないまでも、繰り返し(ダ・カーポ)のような生活を望んでいた。
誰かが言った。
波乱万丈な生き方がしたいと。
それは平穏で腐った感性が織り成す、傲慢だと。
波乱万丈という波に晒され、息もつかぬような生活を強いられれば、溺れ死ぬしかないと気づくことだろう。
だから、求めるのは長い人生を謳歌できるだけの平穏だけだった。
何処をどう走ったかは覚えていない。
なら、人は必然と染み付いた行動を取る。
それとも、しがみ付ける場所を求めて、それが成せる場所を自然と探していただけなのかもしれない。
そこまで辿り着いた俺は、力が抜けて座り込んでいた。
火照った体には心地良い、芯から冷え込む夜気が全身を包む。
ちらほらと天から零れてくる雫があった。
その情景に誘われるように、口ずさみ出す。
それは自分で作曲した、幸運の分け前という曲だった。
憧憬した日々。
それを象った曲は、寂しく大気流れ溶け込んでいく。
それは闇を吸い込んだ塊に見えた。
終焉を迎えた曲は静に溶けていく。
この空から零れてくる塊のように。
「…中々のものだな。
お前にこんな才能があるとは知らなかったぞ。
で、会社の前で何してんだ、ヨーミエ。
近所迷惑だぞ」
凭れかかっていた壁の横が開き、光が漏れてくる。
絵本の中の情景の一ページ。
だが、出てきたのは兇暴面の髭オヤジだった。
童子がこの絵本を見ていたら、間違いなく泣いて閉じる事だろう。
「…ノーブル」
この街で唯一の繋がり。
生きる為の最小限の伝手。
そんな割り切りが、自分という存在の希薄さを強調する。
普段そんな扱いをしている癖に、こんな時だけ頼る。
都合の良い話である。
それでも縋らねば、大の大人が現実に立つ事すら叶わない状況にいた。
「…何があったかは知らんが、中に入れ。
話はそれからだ。
それでいいな」
ノーブルはドアを開け放ち、顎でしゃくって中へ入るように促す。
壁伝いで身を立て、そしてそのままにドアを潜り、階段を降りていく。
そして事務所に入ると、そこには分厚い眼鏡をしたおさげの少女が背凭れから逆さに首を垂らし、こっちを見ていた。
「ん、アンタか。
師匠、どうしたんコイツ?」
「外から聞こえた歌な、こいつが歌ってたんだよ」
「へ~。
なんや、アンタ音楽を愛でる気持ちなんてあったんやな」
相変わらず厭味たっぷりといった感じで、シグは突っ掛かってくる。
「シグ、いらん口を叩くな」
「…なんやねん」
神妙な口調で咎めるノーブルに、シグは愚痴りながらも察して、黙る。
ノーブルは俺を座らせ、コーヒーメーカーからコーヒーを注ぎ、それを渡してくる。
「さて、これでも人生の先輩、先生だ。
相談に幾らか乗れるぞ。
それに吐露するだけでも、軽くなるものだ」
軽口を踏まえているが、表情は真剣みを帯びていた。
その独特で、圧するのではなく厳格な面持ちに、口が開いていく。
「…俺を証明するものってなんだ」
口に付いたのは、脈絡もないものだった。
上手く自分でも表せない。
だから、こんな妙な言葉となっていた。
「何それ、意味分かんないわ」
「シグ、黙っていろ」
睨みを利かし、ノーブルはシグに命令する。
その空気に推され、流石にシグは黙るのを余儀なくされる。
「自分を証明するもの、それで良いだな」
「あぁ」
抑揚の無い声で答えた。
「一般的な事で言わして貰えば、自分を証明するものは記憶。
だが、人間の記憶というのは、意外に曖昧に出来ていてな、あらゆる時間、環境、状態に左右されて改変される。
自分の記憶程、揺るぎがあり、自信の持てないものはない。
だから自分を照明するものは、厳密には無いと言えるだろう」
死刑宣告に近い宣言がノーブルの口から述べられた。
「なら、人はどうやって自分を確立するんだ?」
「性格って奴は、経験や環境に応じて微妙に違いが出てくる。
だが、それは確立には至らない。
本当に自分と言うものが確立されるのは、実の処、他人の保障なんだ。
周りから、お前はこういう奴だ、こういう風に見えると証明され、やっと人は人足れる。
それにより、やっと自分という者が世間の鏡から見える角度を知り、その照らし合わせにより、確立を成す。
簡単に言えば、他人を見てこういう人間になりたく無いとかいう反面。
まぁ、この例では、他人の基本概念は無意味に想われるが、そういう考えに至るまでには、その他人の基本概念が必要と成ってきている。
周りからお前はこういう人間だと押し付けられ、反感を覚える。
それに至るまでも、又何かしら他人という視線に影響を受けているもんだ。
詰るところ、人間一人で何かを証明する事は不可。
もし、一人の証明からなるものは、神の領域だけだ。
ワシら人間には不相応って話だ」
「なら、もし俺を証明する奴がいなければ、俺はどうなる」
「有り得ないな、そんな事」
「…はぁ?」
絶望を次々に突きつけてきたノーブルから、意外なことを言われ、疑問符を投げかけていた。
「だって、お前は確立している。
詰まり、他人の保障を貰っているって事だ。
そうだな、ワシが断言出来るのは、ここ一年、お前が無愛想にこの会社に勤めていた事は保障しよう。
まぁ、ワシとシグだけの安っぽい保障だがな」
「…あ」
奥底を見透かされたような感じだった。
だが、不快ではない。
周りを拒絶する事で自分を保ってきたのに、それを根本から崩され右往左往しているのを安っぽい保障で繋ぎ止めてくれたのだ。
お前は、此処に居るぞと。
それだけだった。
言ってしまえば、過去の保障も何も無い。
要するに、何も状況は変わっていない。
それでも、今、此処に確立されたヨーミエなる自分を、ノーブルは保障してくれたのだ。
「は、はは…」
乾いた笑いが口についた。
それは自虐的なものではなく、安堵から零れるものだった。
「なぁ、シグ」
黙るように命令され、憮然と話を聞いていたシグは、ノーブルに突然同意を求められた。
「はんっ!
保障どうのこうのなんて、ウチの知ったことか。
ウチから言えることは、アンタみたいなムカつくヤツ、そうそうに記憶から消せるか」
少女は相変わらずの毒付きで、そっぽを向く。
照れでも何でもなく、本気でそう想っているらしく、その貌は已然として憮然としたものだった。
だが、シグの述べたものは、シグの記憶に腹立たしい男を銘記していると、ノーブルの問いにちゃんと答えたものだった。
それは他人の記憶に、ヨーミエなる人物が息づいている証だった。
「無愛想はどっちかねぇ。
もう少し愛想良くせんと、お前の方こそ愛想尽かされるぞ」
「なっ!
なんでウチが、こんな奴に気遣わにゃならんねん!
反対やろ、普通!
愛想尽きかけてんのは、ウチの方や!」
ノーブルの突っ込みに、意外にも反応を見せて反論してくるシグ。
それは「はい、はい」と子供をあしらうように、逆撫でる。
「そういう事にしておこうかな」
「なんや、その言い草。
まるでウチの方が、こいつの保障を欲しがってるみたいやんか」
「さてね。
お前は、分析能力のある人間だから、そこら辺は自分で結論付けてくれ」
と、ノーブルはこの話しを打ち切り、唸っているシグを片手で押さえ込みながらこっちに向き直る。
「で、少しは落ち着いたかな?」
「あ、あぁ。
…アンタは意外に弁論者だな。
達者だ」
「知らなかったのか?
一年も一緒に過ごしているんだから、少しは周りに眼を向けてみな。
意外でもなんでもないぞ、ワシの口が達者なのは。
それを見通せる視界を、お前は盲目していただけだ」
「…そのようだな」
ここにいる、話しをしている自分を保障するとされ、緊張が溶けていく。
そして余裕が生まれ、不意に彼女の事が頭を過ぎる。
彼女がどうして執拗に世話を焼いてきたのか?
それは繋がりを求めたのではないのかと。
知らない場所に送られ、知らない者と過ごす不安感。
それを紛らわす為に、彼女はあのような振る舞いを行っていたのではないのかと。
(っ、その辛さを一番知っているのは、俺なのに!)
故郷を追われる形で出、それから点々と土地を彷徨った。
世界は醜く、裏切りだけが付きまとったのを覚えている。
この土地にいる誰一人として、自分を知る者はいないのだと。
畏縮する心。
孤独は牙を剥き、そんな心をズラズタにしていく。
孤独は、何にも勝る闇なのだと。
この土地で唯一の繋がりである自分が、彼女を拒絶した。
その絶望感は、並のものではないだろう。
「…戻らないと」
「どうした?」
衝動に駆られ、落ちていた腰を上げていた。
「俺、帰らないと、彼女が」
もし拒絶された事に対し、彼女がアパートを後にしていたらと、最悪な事態が浮かぶ。
夜という衣を着た街は無法地帯。
闇の住人の闊歩する時間と成る。
彼女がそんな街へと降り立てば、狼の群に餌を吊るしているのとかわりはしない。
「理由は分からんが、急ぐのだろ。
構わんから、行け」
威嚇しているシグを押さえ込みながら、ノーブルは行くように手首を返して合図する。
コートを翻し、無法の街へと駆け出していくのだった。
繋がり。
世界を覆う、縁の枝房。
目の前の痛みに恐れなし、縁の房を尽く伐採してきた。
だが、それは最悪の痛みへと転化する。
この世界において、自分を保障してくれる者の存在。
過去、自分という道筋を証明。
多くの証人、それがあってこそ、人は自分を確立する。
もし、誰も自分というものを保障してくれなければ、世界という孤独に、闇に飲み込まれるだろう。
自分の知らない過去を知る人物が現われた時、貴方はそれを否定できますか?
もし自分の知っている過去を、誰も保障してくれなかったら、貴方は自分の記憶が信じられますか?
そう、ヨーミエなる臆病者は、一時の痛みを恐れる余りに、その大切な縁を手放していた。
曖昧なる記憶。
そこに保障を得る事は叶わず、自分への疑心が募る。
貴方は、自分を証明出来ますか?
息も絶え絶えに、闇夜を駆け抜けた。
アパートの光を捉えられる場所まで来て、やっとその速度を落とす事が出来た。
遠目から、飛び出したままで扉は開かれており、部屋の明かりがそこから月明かりの世界に長い線を引いていた。
罪悪感と焦る気持ちが、限界に達しかけていた呼吸に鞭を打つ。
急ぎ階段を上り、部屋に飛び込む。
そこには彼女はいた。
だが虚ろな瞳のまま、部屋の真ん中で膝を抱えて身動ぎすらせず。
暖炉の火は消えており、冷え切った部屋で、膝に幾つもの滲みを創りながら、滂沱していた。
「…」
胸に鋭い痛みがした。
鋭利なナイフで刺されたような、鋭さを持った痛みはジワジワと浸透していき、荒れ狂う心音に増幅されて戻ってくる。
「…ラヴィア」
失っていた言葉を何とか絞りだし、紡いだ。
良く考えれば、まともに彼女の名を呼んだのは、これが初めてかもしれない。
それに反応し、ガバッと伏せていた顔が上がる。
目の下が腫れ、眼が赤く充血していた。
「…ヨーミエ」
か細い声が、幻影に語りかけるように零れる。
「ごめんね、ヨーミエ。
わたし、じぶんのきもちばかりおしつけて。
ごめんね」
見当違いの謝罪。
その謝罪はつらつらと続けるラヴィア。
「あいそつかすよね、こんなわたしじゃ。
きらわれたってしかたないよね。
わがままで、ごめんね」
これらの言葉に意味はない。
彼女の中で色々と思惟があり、葛藤があったのだろう。
ここで言葉を遮っても、彼女の中にある鬱積した想いはしこりとなる。
だから、関係ない、それでいて悲しい言葉に耳を傾けた。
それはどれ程続いただろうか。
暫くしたら、言葉は涙声に消え、そして只の嗚咽へと変わり果てていた。
扉を閉め、暖炉に火を入れ直す。
そして隣部屋のベッドから毛布を引き抜き、リビングで蹲っている彼女に被せる。
冷たいコンクリートの床に座らせおくわけにはいかないので、了承も得ずに彼女を抱きかかえると、そのまま暖炉前へと連れて行く。
暖炉前に設置してあるマットの上に置くと、
「ごめん」
と伝えておく。
それが届いたのか、次第に彼女の嗚咽が収まり、涙が退いていく。
落ち着くのを待ち、そして考えていたことを口にしていく。
「脅えずに聞いて欲しい。
俺には君が何者で、君にとって俺が何に当たるのか分からない。
そして俺には、君は俺の友人であるギルバートの恋人、それしか知らないんだ」
有りの儘を伝える。
それを聞いて、彼女はビクッと濡れた瞳を揺らした。
「君が言う、三人で音楽をしていた記憶なんてないし、それどころか、俺は君と出会った事さえ無かった。
三日前、ギルバートから君が送られてくるまで」
これが俺の記憶している真実。
だが、彼女の驚愕した瞳を見れば、それが彼女にとって真実でない事は明白だった。
「だから、話し合おう。
教えるから、教えてくれ。
俺が歩んできた道と、君が見てきた俺の道を。
そして、互いに譲歩出来る場所を見つけよう。
そうでなければ」
一呼吸おいて、吐露する。
「辛過ぎるから、この世界は。
寂し過ぎるから」
先程まで浸っていた孤独の海。
心を凍て付かせ、膝を抱え泣き崩れるしか方法を持てない苦しみ。
人一人では泳げぬ、もがけぬ、冥い昏い暗い海に囚われた感触。
(一人なら、孤独さえ装っていれば苦しまないと、俺は勘違いをしていた)
人は支えが無ければ生きていけない程に脆い。
それを気がついていないだけで、多くの者に支えられているのだと。
拒絶をくり返し、縁を絶ってきた自分だからこそ、その大きさを思い知らされた。
だから今は、分かちたいと願った。
それは懺悔であり、救いを求めた形。
「話そう。
今の俺達に必要なのは、お互いを知る事だから」
彼女にとって、自分の語る記憶は無慚なものかもしれない。
恐らく彼女の語る記憶は、俺にとって揺るがせるものだろう。
結局、互いにに傷つけて、終わってしまうかもしれない。
でも、前へは進める。
これは真摯な願いだった。
その真摯な願いに、彼女は脅えた眼差しを称えながらも、頷いてくれた。
ヨーミエ。
苗字となる名は、故郷を出る際に捨てた。
物心付いた記憶は、生きる為に必至にもがいていたものだった。
母親は生まれて間も無く亡くなり、父親は仕事せず日がな一日酒に溺れている人間だった。
飲んだ暮れている父親は酒代を要求し、そのお金と自分の食い扶持を稼いでいるような毎日だった。
それが故郷での主な思い出。
持ち物は、母親が残したという凹んだハーモニカが一つだった。
暇を見ては、それを吹くことが唯一の生き甲斐だった。
そんな寂れた毎日を過ごしていた時だった。
自作した曲を広場の隅を吹いていたのを耳に留めた人物が居た。
良いところの子供だと一目で分かる、質の良さそうな衣服。
そんな子供が、呆然とハーモニカのメロディーに耳を傾けていた。
演奏が終わると、彼は惜しみない拍手を送ってきた。
それがギルバートとの出会いだった。
生まれも、育ちも全く違う二人。
でも、共感するものが確かにあった。
有名な魔術師家系に生まれたギルバート。
それは望んだものではなく、互いに小さな音楽を愛でるだけの、同じ子供だった。
そんな二人が仲良くなるまで、大して時間を有さなかった。
そんな小さな幸せな時間は長くは続かなかった。
ある日、いつも集う待ち合わせの広場にギルバートは来なかった。
名家の人間であるギルバートも何かと忙しい身だということを知っていた為、それ程気にも留めず、今日は来れなかったのだろうと、いつも通り働き、帰路に着いた。
家に戻ると、見覚えのある子供が、縛られて転がっていたのだ。
目を疑った。
どうして待ち合わせの場に来なかったギルバートが、こんな寂れた家で縛られているのかと。
そんな驚愕しているヨーミエに父親は、とんでもない言葉を吐いてきた。
「いつからカネヅルとつるんでやがったんだ」
と。
この男は、名家の嫡子であるギルバートを人質に、身代金を取ろうとしていたのだ。
酒で脳を遣られているとしか思えない短絡な考えに、幼いながら馬鹿な男だと想ったものだ。
これまでに鬱積してきた想いが、ここで限界に達した。
不思議と冷静だったのを覚えている。
従うフリをして、この男が酒に溺れている隙に、その後頭部に鈍器を振り下ろした。
殺しはしなかった。
正確には子供の腕力では難しかったのだが、気は失った。
その間に、ギルバートの縄を解き、そして一言「ゴメン」とだけ伝えて、逃がことに成功した。
何もかもがどうでも良かった。
唯一の血の繋がりすらこんなにどうしようもないものなら、生きている意味が見出せないと。
小さな時分には、親とは神。
それをアッサリと捨てられる自分の感性は異常なのだと。
だから、このままこの男が目を覚まして、行うであろう暴力に身を委ねてしまおうと。
だが、程なくして数人の大人がこの家に詰めかけ、父親を気取っていた男を連れて行ってしまった。
それがその男を見た最後だった。
数人の大人達がダーノス家の者だろうと言うことは、おぼろげに考えていた。
ならば、自分も何かしら制裁があるのだろうとも。
だが、父親だった男が連れて行かれただけで何の御咎めもなく、一人部屋の中に取り残された。
暫くして、ギルバートが現われた。
どんな罵倒や責苦を飛ばされても文句の言えない立場。
寧ろ、そうしてくれなければ罪悪感を拭うことなど出来なかった。
そんなヨーミエに、ギルバートは只詰め寄り、抱きしめた。
何も語らず、全てを知った上で優しく抱きしめてくれた。
そして二人は親友という関係になった。
この街を統括しているダーノス家に牙を剥いたことは、子供の身であれ、免れることは出来なかった。
ヨーミエは故郷に居られなくなった。
ギルバートは何度も匿おうとしたが、それをヨーミエは良しとしなかった。
この街に未練がある訳ではなかった。
後ろ髪を引かれることもない。
逆に、埋めてしまいたい過去ばかりが存在した。
だから、故郷を棄てれた。
ギルバートの願いで報告をすることを、手紙を書く事を約束し、故郷を去った。
ギルバートは分かっていたのだ。
故郷と言う場所に未練は無くとも、ヨーミエが繋がりに飢えていることに。
故郷を棄ててしまったヨーミエには、自分という人間を確認出来る存在が無くなってしまった事を、ギルバートは子供ながら薄々感じていたのだ。
それは自分を希薄にさせ、意義を失わす。
それは自分の命の価値を蔑ろにし、意欲を放棄させてしまう。
必要とされていないという、恐ろしい結論に簡単に達してしまう。
今、ヨーミエという存在があるのは、ヨーミエという人間を肯定し、繋がりを持ち続けたギルバートという友人のお蔭に他ならなかった。
唯一、ヨーミエという人間を証明し、必要としてくれた者。
故郷を出た後、点々と国を渡り、この年になるまで一所に落ち着くことは無かった。
運の悪さというのか、因果応報と言うべきか、行く先々でトラブルが発生し、生きた心地がしない場面の遭遇率は、相当なものだった。
そんな最中、陽気な暗殺者に教えられた銃器の扱いは、何かと世知辛い世の中を渡るには重宝した。
血生臭い仕事等をこなし、この街に流れ着いてきた。
そんな時、捨て犬でも拾うようにノーブルに拾われ、現在に至る。
放浪の中ヨーミエが学んだものは、人が信用に値しないものだということ。
利用し、される事がこの世の常だということ。
そんな殺伐として、救われないものだけが積みかねたものだった。
長い夜だった。
互いを知るというのは、どれ程言葉を尽くさねばならぬのだろう。
それは、自分と同じく相手も生き、そして考えているということ。
そんな当たり前のことを、切実に思い知る。
そして自分が裏切りに脅え、人との間に壁を作ってしまったように、相手も何かに脅えているということに。
言葉を費やすということは、それだけ伝えたい、分かって欲しい現われでもある。
そして人と分かつということは、それだけ話すという事が必要なことだったのだと痛感する。
そして知る。
彼女、ラヴィアの脅えの理由を。
成程と想った。
ラヴィアの態度は、会った直後から変というか、違和感があった。
そして何故か、自分に親愛を向けてくることに、不思議に想っていた。
それもその筈だった。
彼女の中では、俺が恋人なのだから。
ギルバートではなく、この俺。
勿論、自分の中にそれに該当する記憶はない。
そして、彼女が嘘をついているという様子は微塵も見受けられなかった。
感情の起伏とうねり。
語る彼女が見せるそれらが赤裸々で、そこに嘘が挟まれているとは到底思えなかった。
何より、彼女の語る話は作り話にしては奇妙なのだ。
先ず、ギルバートに対してだ。
俺が認識しているギルバートは、優秀な魔術師を輩出してきた家系、ダーノス家の嫡男というものだった。
そしてラヴィアは、そのダーノス家と規模を同じくする魔術師の名家、ローズマリー家の娘だった。
だが、彼女の語るギルバートは優秀な音楽家を輩出してきたダーノス家の嫡男。
自分も同じく、ローズマリー家という音楽家の家系に生まれたのだと。
奇妙な話だ。
明らかに嘘だと言える、そんな話。
だが、話しが進むにつれて、自分の記憶の方が奇妙なのではと疑心が生まれる。
その最たる部分は、俺とギルバートの出会い。
音楽という共感を持ち、友となった。
ならば、彼女の言う通り、ギルバートが音楽に精通した家系の人間、その方が正しいのではと。
そして彼女の語る路は、作り話にするには細かで、そして筋が通っていた。
だからこそ、彼女の真実を疑うことはできなかった。
これは間違いなく、彼女が記憶する記録なのだと。
そして互いの記憶を語り終わる頃、空が白み、世界が目覚める時刻を回っていた。
お互いに落ち着くのを待ち、そして想ったことを口にしていく。
「俺は君の気持ちには応えられない」
「っ!!」
彼女の脅えた瞳の彩が濃くなる。
「勘違いしないでくれ。
俺は君のことを嫌っている訳じゃない。
そこまでの感情に至っていない、君を知っていないのが現状だ。
俺の過ごしてきた時間と、君の語る現実とギャップがある。
そして、どっちが正しいかを証明する方法がない。
もし、君が語る事が真実なら、俺が記憶しているものがまやかしになる。
そうすれば、俺を形作っているものは全て紛い物ということになる」
そこで言葉を切る。
これまでのことをラヴィアに理解させる為に、時間を置く。
そして彼女は、俺が抱き、悚然としている意味をわかってきた様子だった。
「仮に、俺の記憶が正しいなら、君がこれまでの人生が否定されることになる。
これがどういう意味かわかるね」
出来る限りショックを与えないように、やんわりとした口調にする。
普段がぶっきらぼうに振舞っているので、滑稽だったことだろう。
「だから、この話はしないようにしよう。
どっちに転んでも、俺達は苦しむことになる」
「…でも」
彼女の態度を見ていればわかる。
彼女の中では、俺が恋人なのだ。
だからこそ、俺の一挙一動に反応し、左右されている。
そして俺が他人としか思っていない現状を快く想っていない事に。
「君の言いたい事はわかる。
いつかはハッキリさせないといけないだろう。
でも、今はその時じゃない。
ギルバートが君を迎えに来るまで。
俺と君の事を知っているアイツが来るまでは」
「ギルが来るまで」
「こんなチグハグでズレたままでは、互いに辛いだろ。
俺だって、君と仲良くしていたい。
それは本心だ」
「…一つだけ聞かせて下さい。
貴方にとって、今の私の立場はなんですか?」
「友人、ギルバートの恋人。
これが俺が記憶している、君の立場だ」
「そ、そうですか。
では、私も一つだけ言わせて下さい」
これからラヴィアが言う言葉は分かっている。
これは確りと聞かなければならない。
先手を打ったのは俺の方だ。
俺の記憶にある彼女の認識を聞いてもらったのだ。
ならば、逆も聞かなければ対等になれない。
「私は貴方が好きです。
私の中で、五年前に出会った時から」
「…ありがとう」
自然と、好意に対し感謝の言葉を述べていた。
こうして奇妙な彼女との共同生活が、新たな関係と共に開始される。
それがどんなに穏やかで、楽しく、そして心苦しいものかも知らずに。