あの、王宮ですのよ? ここ
「――よし、その意気だ」
ええ、確かにそんな声がした気は致しました。
致しました、が……空耳や思い込みの類だと思ったのですけれど。
「よ、ミレーゼ」
「あ、あら……? 何やら、現実に声がするような……」
「おいこら、こっち見ろ。現実逃避すんな」
……どうやら、気のせいの類ではなかったようです。
夜空を背景とし、大きく開かれた白い窓。
ここは王宮の、高い塔の上。
現実的に考えて、人が現れるような場所ではないのですけれど。
ですが、声には聞き覚えがありました。
嫌々ながら改めて窓の方に視線をやりますと、何かがいます。
そこには窓枠に足をかけて侵入中の不審人物が……
……そして、不審者の姿にはやはり見覚えがありました。
「ピート、貴方ですの?」
「お晩です……ってな。よう、息災にしてっか?」
にやりと口元を釣り上げた、人を食ったような笑み。
見覚えのある笑みは、確かに貧民街に君臨する浮浪児集団の長のもの。
危なげもなく、さらりと現れる姿が現実のものか、一瞬わかりかねました。
こちらが招き入れるよりも先に部屋へと踏み入ってくる不作法。
ですがそれも、窓からの出入りという礼を失した行いに比べてしまえば、さしたる問題でもないように思えてきます。
わたくしの目の前にやって来たのは、13歳の少年。
赤い傘を肩に担いだ、浮浪児童集団『青いランタン』。
わたくしが盟約を交わした、ピートがそこにいました。
「ご機嫌麗しゅう、お姫さん。ミモザ達が泡食って報告に来るもんだから、釣られちまってな。慌てて様子見に来たぜ。けど案外平然としてるんで安心したわ。調子はどうよ」
「見てわかりませんの? 体は安くとも、心は波乱万丈ですわ」
「そりゃ人生に張り合いがあって結構なこったな」
「あ、あからさまに他人事ですわね」
「そうでもねーよ。俺もヘマ踏んだし、お前とは一蓮托生。中々こっちもこれで心安くとはいかねーよ」
「それで此処まで? そこまでの義理が貴方にあったとは驚きですわね。でも、どうやって此処まで来たのです」
「まあ? ちょいと奥の手と伝手を使って?」
「……どうすれば、貧民街の孤児集団の頭目が、王宮まで来られるというのです? 非合法の手段を用いたせいで、わたくしや弟まで巻き添えに罰せられる……などという事態は遠慮させていただきたいのですけれど」
「機嫌悪ぃな、辛辣な眼差ししちまって……ま、こんなとこに留め置かれちゃ当然か」
肩を竦めて苦笑するピートは、常と変らぬ飄々とした態で。
とても、王宮への不法侵入などという滞在を犯しているようには見えません。
……いえ、それ以前に王宮の奥である此処まで誰にも咎められることなく辿り着いた時点で、驚異的な異常性を備えているとしか思えないのですけれど。
異常性を傍目に感じさせないピートの普段と変わらぬ姿が、どうしようもなく不気味で……わたくしは、背筋に冷たいモノが伝うのを感じました。
今更ですけれど……ピートに得体の知れなさを感じてしまいます。
「――危険な橋は渡らない、無謀な道は走らない。ピート、貴方は確実な勝算の見える道を選ぶ、見た目に反して堅実な方だと思っていたのですけれど」
「まあ、俺だって他の奴がやろうとしてんなら、王宮侵入なんて無謀は殴っても止めるさ。しかし仕方ねぇだろ。今回に限って言やぁ、俺が来んのが確実だったんだからよ」
「確実ですって?」
「……ま、それに関しちゃ追々な。こっちにも事情があんだよ」
「事情、ですか……どうやらピート、貴方とは一度腰を据えてじっくりとお話をさせていただく必要があるようですわね?」
「今は時間がないから、後にしろ。とりあえずこっちの過失もあるんで、その補填に来たってところだ」
「……ピートがわざわざ自ら来るほどの過失、ということかしら。ますます貴方のお話を伺いたいところなのですけれど」
「まあ今回のことに関して言やぁ……お前の現状報告上げてる間者の発見及び対応に遅れが生じたのが1番の失点だろ。そっちの方は俺よりもお前らの対応に不備があったとしか思えねーけどな」
「っ! わたくしの行動を監視していた者が特定できたのですか!?」
「まあ、な……」
わたくしは驚きのあまり、はしたなくも目を丸くしてしまいました。
もしかすると、口も開いていたかも知れません。
貴族の子女としてはしたないことです……感情の露骨な動きを相手に悟らせないことが、貴族令嬢の美徳とされていますのに。
……ですがそれが完璧にできる者など、限られたごく一部の者ですわよね?
ふと矛盾に思いやる……意識があまりの衝撃に違う方向へ逃避しそうになってしまいましたわ。
それよりも今は、ピートの言葉の方が重要です。
前から有能な方々だとは思っていましたけれど……『青いランタン』は本当に油断ならず、抜け目のない方々です。
まさかこんなに早く監視者の特定を終えるとは思いもよりませんでした。
仕事が早過ぎる気も致しますが、対応がずるずると遅くなるよりはずっと良いことです。
「……今後のことを話し合うよりも先に、伺いたいのですけれど」
「間者のことか? 後に回してもよくねぇか」
「いえ、今、伺わせて下さい。今後、わたくしの隙を無くす為にも、是非」
「んじゃ言うけど…………ブルグドーラつったか? あのおばさん」
「ブルグドーラ女史……っ!?」
な、何と言うことでしょう、あの方が?
正直を申しますと……この上なく、意外な方の名前を聞いた気が致します。
他の活動に忙しく、わたくしの意識からすっかり薄くなっていた、あの方。
勉強の機会に恵まれない方々に手を差し伸べることに充実を覚えたのか、近頃では『青いランタン』に自ら足を運んで浮浪児童の方々に教養を伝授されていたそうですけれど。
彼女の本職は、ブランシェイド伯爵家の家庭教師。
わたくしにとっては己が陣営の一員であるレナお姉様やアンリを除き、最もわたくしに近いポジションを占有している大人とも言えます。
何しろ他の方々は別の仕事を抱えていらっしゃいますが……彼女の仕事は、わたくしやアレン様の傍に付き、必要な知識や教養を身につけさせること。
お勉強の時間に限らず、日中はいつ何時であろうとわたくし達の側近くにいて違和感のない位置にいる方です。
そしてあの方には、わたくし達の方から『青いランタン』の拠点に足を運ばせ……彼らの拠点に出入りしても不自然にはならない口実を与えてしまっています。
これは……確かにわたくしの手抜かりでしょう。
「抜かりましたわ……そのようなことが出来るほど器用な方には見えませんでしたけれど、そう思ってしまったこと自体がわたくしの手落ちでしたのね」
「一流の奴なら表面上に見える人間性くらい、簡単に化かすからな。けどあのオバサンに限って言やぁ、見破れねぇのも仕方ない」
「単純にわたくしの経験不足と仰いたいのかしら? ブルグドーラ女史が、それほどの手練だと……?」
「逆だ、逆」
「逆とは……?」
「あのオバサン、ずぶの素人なんだよ。逆になんも偽ってねぇんだから、そもそも裏の探りようもねえだろ。そんなもん、存在してねぇんだから」
「ピート……貴方、矛盾していますわよ。たった今、ブルグドーラ女史がわたくしの監視者だと仰ったばかりではありませんか。それに素人の方に、『青いランタン』が後れを取ったと申しますの?」
これはわたくしの勝手な印象なのですけれど。
相手が玄人であったから後れを取ったと言うのでしたら、ともかく。
『青いランタン』は素人の方に好きな振舞いをみすみす許してしまうような詰めの甘い方々には思えません。
素情は浮浪児の集団とはいえ、彼らの意識はそれより数段の高みにあります。いかに勉強を教えると言う口実があったからとはいえ、わたくしとの繋がりがどういうものなのか……悟らせるとは思えませんのに。
「それに関しちゃ、家庭教師の背後関係……っつうか、家庭教師の派遣組合の背後関係を洗い損ねた俺らの失態だ。ミレーゼ、お前さ、確か実家が没落する前は家が個人的に雇った学者に習ってたっつってたよな」
「ええ、それは確かにそうですけれど……貴族は家庭教師か家お抱えの学者に学問の基礎を学ぶのが常識。むしろ学者に伝手がなく、家庭教師の派遣を依頼する家の方が多数派を占めます。家庭教師を派遣する組合に、何がしかの問題点がありましたのね?」
わたくしの言葉に返って来たのは、肯定。
事実関係を確認し、事実として情報の流れを突き止めて来たのでしょう。
「実際、上手い手だと思うぜ? 貴族は皆、ガキにゃ教育を与える。そんでガキってのは親のことをよく見てるもんだ。その言動の端々が親の行いを映す鏡……ってな」
ピートは、家庭教師の派遣組合は王妃様の影響の及ぶ場所であることを調べて来たのだと言います。
王家の援助で成り立っており、各家庭教師から業務規定として週に一度組合に提出される詳細な業務日誌は、最終的に王妃様の元へ届けられるのだと。
家庭教師の主な業務は勤務先の子供達と関わることである為、業務日誌には派遣先の過程について事細かに記されているのでしょう。
家庭教師はそのことを知らないそうですけれど……本人達も、まさか自分の預かり知らぬところで密偵の役割を担わされているとは思いもよらないことでしょう。
彼女達は各貴族家の者達の動向把握の為、子供の言動から親の動向を探る為、知らぬ内に動かされていたということですわよね。それも、王妃様が動かれるくらいですから国家暗黙の了解として。
……子供から家全体を、という目の付けどころは、『母親』であればこそでしょう。
いつの王妃様が始められたことかは存じませんが、どうやらピートの掴んできた情報によれば代々の『王妃』が率先して家庭教師組合の統括を行っていたようです。
我が家に限らず、権勢を誇る家が子供の教育に拘り、家庭教師ではなく『学者』を子供の教育に専念させる為に抱えていたこと……もしかすると、少しは家庭教師への懸念を覚えている方もいらっしゃったのかもしれません。
――我が家は当然、家庭教師の裏を知ってのことでしょうけれど。
例え痛くない腹だとしても、無用に探られるのは不快ですもの。
学問の道の玄人を年端もいかぬ幼児の教育に充てるなど無駄の多いことだと思っていましたけれど……どうやらわたくしが浅はかだったようです。
家庭教師、ブルグドーラ女史。
……今まで全く警戒を抱いていない相手であっただけに、わたくしの胸を襲った衝撃は計りしれません。
信用していた訳ではありませんけれど、それでもです。
捨て置くのではなく、わたくしがもっと注意を払い、取り繕っていれば……後悔は尽きません。
「ですがブルグドーラ女史にああもわたくしの素行を掴まれていたとは、どうしても思い辛いのですけれど……」
「王妃は頭が良いし、王家専任の知恵者なり相談役なりもいるだろ。断片的な情報を拾い集めて、全体像を察するくらいは訳もねぇ。今回は丁度あいつ等が嗅ぎ回ってる複数の情報と勝ち合っちまったみてぇだしな」
「…………王家の方々が手を伸ばしているとなれば、猶予は僅かもないと思った方がよろしいですわね」
ああ、やはり此処で悠長に構えている段ではありません。
このままでは、わたくしは……考えても、思考はまとまらずに乱れるだけ。
焦って空転する頭で考えても、効率は悪いだけ。
良い考えなど浮かばないとわかっていますのに、わたくしは焦りから意味もなく歩き回りたい衝動にかられました。
そうしていても、意味はありませんのに。
わたくしの焦る様を、クレイが心配しているのはわかっていました。
ですがわたくし自身にもいかんともしがたく……
もう途方に暮れてしまいそうでした。
己の成すべきことはわかっていますのに、手段を見失って。
焦っているわたくしを、放っておけなかったのでしょうか。
己の未熟さを痛感し、最後には俯いてしまったわたくし。
顔をまっすぐに上げて生きて行きたいと思っていますのに。
足下を見るしかないわたくしの頭に、乗せられたもの。
気付けば、わたくしのすぐ側に佇むピート。
わたくしは、何故かピートに頭を撫でられておりました。
まるで落ち着け、と。
ゆっくりと宥める様に。
「…………」
このように気軽に頭に触れられたのは、思えば両親を亡くして以来です。
わたくしはクレイの頭を頻繁に撫でていましたけれど。
そのわたくしの頭を撫でるような年上の方は、おらず。
わたくし自身も撫でられたいなどと思うこともなく。
そうして、今日までやって来たのですけれど……
見上げた視線の先、ピートが肩を竦めて苦笑を溢されました。
「今回の件は俺にも責任があるしな。明日の晩……今と同じ時間に待ってな。俺がどうにかしてやるよ」
「どうにか、とはどうするつもりなのですか……」
「ま、悪いようにはしねーよ」
そういう姿は、まるで頼りがいを目に見える形に凝縮したかのよう。
ひとつの集団を率いる者としての包容力溢れる笑み。
先程からピートの疑わしさに惑っている部分のあったわたくしですけれど……『年下』に対するピートの側面は、慕われるのも成程と納得できるようなもので。
これが『青いランタン』の首領か、と。
今までよりも深く頼ってしまいそうになったのですけれど……
「ただし、これを使ってもらうことが前提になるんだけどな」
そういって彼が差しだしたのは、何故か耳栓と呼ばれる物質で。
話の流れからして不自然なアイテムの登場に、わたくしははっと我に返ったのでした。




