レナお姉様は、存外可愛い方ですのね
いつまでも旧交を温めるわけにはいきませんが…
職務中だというのに、わたくしはすっかりエラル様と話し込んでしまいました。
「ちょっと、そろそろ」
「あ、そうですわね…」
辛抱強く待ってくださっていたレナお姉様も、痺れを切らしたのでしょう。
わたくしに話を切り上げ、掃除に戻るよう促してきます。
それは当然のことでしたので、わたくしも素直に従うほかありません。
…でも、クレイはエラル様と離れがたいのでしょうね。
その足にしがみ付いて離れたがらないのですが……
「クレイ、エラル様と離れがたいのはわかりました。
しかしわたくし達には与えられた責務がありましょう」
「あ、あうー…」
やはり弟も、目まぐるしく変わる周囲に戸惑っていたのでしょう。
両親もなく、兄は…ものの数に入れるとして、兄もなく。
見知ったモノはわたくし1人で、屋敷からも狩りだされて。
きっと、頼る相手がわたくし1人では心細かったのでしょうね。
エラル様にも勤めがあられます。
離れるようにと促しても、クレイは未練があるのでしょう。
名残惜しげにエラル様の顔を何度も見上げ、手を離すにも躊躇うばかり。
「クレイ」
「あい…」
再度促して、ようやっと手を離したクレイ。
ですけれど、引き留めるように小さな手を掴んだのは、エラル様の方でした。
「エラル様?」
「ミレーゼちゃん、クレイ君……」
見上げると、そこには難しいお顔のエラル様。
どことなく、思いつめたようなお顔で。
「悪いことは言わない、うちの屋敷に来ないか?」
そうして思ってもみない申し出を口になさったのです。
いえ、良識有るエラル様なら、不思議ではないのですが……
「エラル様…?」
「不自由はさせないと、約束するから」
「まあ……っ」
まあ、なんということでしょう。
エラル様の目に、真っ直ぐ見詰められてしまいます。
覚悟のほどを決めたと、そう真剣なエラル様の目が言っています。
ああ、本当に、なんということ…
「まさか、エラル様が幼女趣味だったなんて………っ」
「ち、違う…っ!!」
あ、エラル様が涙目。
「そ、それでは…もしや、クレイの方が狙いなんですの!?」
「クレイ君でもないから! ミレーゼちゃん、なんでそんな捻くれた物の見方をするんだ…っ ここは常識的に考えて、年端もいかない知合いの子供を放っておけないだけだとは思わないのか?」
「まあ、これは笑止ですわね。わたくし、存じていますの。両親の葬儀ではっきりと悟りましたわ」
「な、なにを?」
「利権と損得で動くのが、貴族というもの。何の裏も含みも旨味もなく、ただの慈善で厄介事を抱え込もうとする貴族などいませんわ! 折角のお申し出ですが、断らせていただきます。代わりに何を要求されても、わたくし困ってしまいますもの」
「ミレーゼちゃん、君いくつだっけ?」
「齢8つになりましたが」
「その年で、そこまで悟っちゃったかー…」
「エラル様は違うと仰いますの?」
「そうだね…そりゃ、全く知らない、親しくない他人に差し伸べる手なんてないけどね? ミレーゼちゃんは妹とも思って可愛がってきたつもりなんだけど。そんなに助力しようとするのはおかしいかい?」
「裏のない人の善意など、最早信じられませぬ」
「ミレーゼちゃん、そんなきっぱり言い切るような何が…ああ、阿呆イヒか」
「肉親の情でさえ確かとは言えませぬのに、簡単に信じられると思います?」
「あー……じゃあ、こんな言い方はどうだろう?」
「?」
「貴族は確かに利権や損得で動く。だけどそれ以外にも動く要素があるだろう?」
「あら?」
「そう、名誉とか体面とか。むしろ損得より、そちらの方を優先するのはおかしいかな? 君達を此処で見捨てると、私が人非人になってしまうんだが…」
そう言われてしまうと、一言で切って捨てることができなくなってしまいます。
見上げるエラル様のお顔も、困っている顔です。
そしてそのお顔は、とても嘘を言っているようには見えませぬ。
どうしましょう。
どうすることが、良いことなのでしょう。
わたくし、決めましたのよ。
今後は他人の思惑に振り回されない。
流されるままの人生は送らない。
ただ扶養される側にいるのではなく、クレイを守ると。
唯一絶対の守るべき弟を全力で守り、扶養する側に回る…と。
誰憚ることなく、自分の力で生きていくことを。
「ミレーゼちゃん?」
「や、止めて下さいませ……そんな、甘やかそうとするのは。
わたくしのような縋るもののない小娘を転ばせて、どうするおつもりですの?」
「いや、特にどうこうするつもりはない…というか、あったら問題なんだけど」
「本当はやっぱり幼女趣味なんじゃありませんの!?」
「ミレーゼちゃんはどうしてそう、人に汚名を着せようとするんだ…っ」
わたくしは、まだ幼くて。
決意を固めようとも、そう簡単にはいきませぬと。
そう、わかってはおりましたが…
そうそう、決意を押し通せるような力もなく。
結局流される立場から変わってはいません。
それでも、己の決めた道を押し通そうとする信念こそ、無くしてはならないと。
それこそが、わたくしの今後を拓いていく鍵のように思えるのです。
意地を張っていると思うのなら、思えばよろしいのです。
ただ、わたくしはそう簡単に己の決意を翻しは…
「なんだか知んないけど、貴族って怖い生き物なのね。でも『しろがね屋』よりはマシじゃない? 世話になりゃ良いじゃない」
「あら…レナお姉様、エラル様に賛成ですの?」
他人の不幸は蜜の味、とは言いませぬが…
目の前で自分より遥かに恵まれてきたと一目でわかる小娘が、さしたる苦労もなく救い上げられる現実なんて…目にするだけでもレナお姉さまにとっては業腹ではありませんの?
「そりゃ、ちょっとは腹立つけど…でもアンタさ、何か空気が違うのよねー…こんなとこにいるような子じゃないって言うか、異物感が凄いって言うか。うん、似合わないのよ。こんなところにいるの」
「まあ、精一杯馴染もうとしていましたのに」
「それで!?」
「わたくし、頑張っていましたのよ?」
「やだもう、この子の本気とか知りたくない…」
あら、レナお姉様が項垂れてしまいましたわ。
でもわたくしを説得しようと思われているのでしょう。
その目は諦めることなく、強い気持ちでわたくしを睨みつけてきます。
「でも本当、今の仕事のしの字も知らないアンタじゃ足手まといにしかなんないのよ。あたしもアンタの面倒に時間取られるし」
「その時間を少しでも減らせるよう、日進月歩の勢いで仕事を覚えますわ」
「いや、あたしが聞きたいのはそういう決意じゃないから」
「そんなこと、仰らないで。わたくし、やる気は充分ですのよ?」
若干、空回っていることは否定できませぬが。
そんなやる気に満ち溢れたわたくしに、ちらりと目をやって。
レナお姉様はあからさまな溜息を……。
「もう良いから、アンタとっととお貴族様のとこに行っちゃいなよ。
妾でも愛人でもなりゃ良いじゃない。アンタ邪魔なのよ。とっとと消えて?」
「ちょ、人聞きの悪いことを言わないでくれ…っ!
まだ8歳のミレーゼちゃんを誰が愛人にするって言うんだ!」
「お貴族様、もしくはアンタのお父さんとか?」
「本気で人聞き悪いな、この娘!」
「なによぉ。助太刀してあげてんだから、お兄さんも素直に頷いておきゃいいのよ。とにかくこの子は、何か裏なり利点なりありゃ納得するんだから」
「くっ……妹のように思う子の生活保障が、ロリコンの汚名と引換なんて!」
「はっ 世の中には変態貴族も多いし、誰も気にしやしないんじゃなーい?」
「この娘、個人的な嫌がらせ混ぜてないか!?」
い、意外ですわ…。
見るからに貴族嫌いを拗らせていそうなレナお姉様。
そんな彼女が、まさかエラル様の援護射撃をなさるなんて。
援護しつつも、嫌がらせを混ぜているのは流石ですけれど。
「レナお姉様…そんなにわたくしが目障りですの?」
「そうよ。だから――」
「でもわたくし、他人からどう思われていても今更なので、特に気に致しませんので大丈夫ですわよ?」
「この子精神強ぉっ!? いや、そういうことじゃないでしょ!」
「うふふ…最早全て失った身ですもの。この上他に、何を失うと言いますの? 他人の信用など、進退極まった時点で陽炎のように消え失せましたわ。そう、お金と一緒に全て儚く消えましたの」
「くっ…微妙にツッコミ辛いネタを!」
「でもご安心なさって? わたくしは例え嫌われていても、レナお姉様のことは良い方だと思っていますの」
「なっ…あたしだって別に嫌ってなん………はっ!」
「あら、それは有難うございます?」
「しまった…っ 語るに落ちた!」
そう言って、レナお姉様は頭を抱えますけれど…
うふふ、レナお姉様は可愛らしい方ですわね。
言葉の端々、刺があってもわたくしを気遣っているのが隠せていませんもの。
嫌味と当て擦りの貴族社会を自由に泳ぎ回る大人を見て育ったわたくしに、素直で純朴な下町育ちのレナお姉様が太刀打ちできると思っていらっしゃるのかしら。
「………下町育ちっていっても、こっちも海千山千の『裏』に関わるお店にいるだけあって、中々のつもりなんだけど」
「レナお姉様は、感情が全部顔に出ておしまいです。もう少し、ポーカーフェイスを磨いてはいかがですか? もしくは常に笑顔でいるなど、工夫を凝らせば随分と変わりますわよ」
「うーん…アンタに言われると空恐ろしいわ」
「あら」
敵わないと思われたのでしょうね。
レナお姉様は苦々しげに、悔しそうな顔を隠されませんが…
それでもわたくしに憎まれる方向で追い出されるのは諦めた様子です。
「でも本当、アンタは此処にいちゃ駄目だと思うのよねー」
「それは、何故ですの?」
「だってアンタ、自己紹介の時に言ったじゃない」
「?」
「没落貴族の娘ですが、お気遣いなく。貴族も平民も貧民も、家の都合で振り回され、困窮すれば売り飛ばされることに違いはありません。どうぞ同類だと思って仲良くしてください…って」
「ああ、確かに言いましたわね」
しかし、わたくし自身の言ったことながら…
聞きようによっては酷い言葉ですわね?
よく周囲から反感を買わなかったものです。
「それ聞いて、あたし思ったのよね」
「何をですの? 間違ったことを言ったつもりはありませんが…」
「いやいや、責めてんじゃないのよ。ただ落ちぶれた貴族とかなんとかって、プライドだ何だに取り縋ったり、気取った奴が多いからさー…」
「まあ、そういう方もいらっしゃるでしょうね」
むしろ、そういう過去から脱却できない方のほうが大多数でしょうね。
いきなり環境が変化したとしても、染み付いた矜持は消せませんもの。
「貴族のプライド云々なしに、初っ端から目を逸らしたいだろう事実を自分から突く奴なんて早々見ないわよ。誰だって、最初は現実逃避から始まんのよ? 悲惨な未来に涙してさ」
「まあ、そういった方は多いでしょうね。ただわたくしの場合は、これが自らの選んだ道と選び定めた時点で覚悟は出来ておりますし…」
「いやいやミレーゼちゃん!? その潔すぎる覚悟は、ちょっと早すぎないか!」
「貴族の兄さんは黙ってて。今はあたしが話してるんだから!」
「わたくし、ちゃんとレナお姉様のお話聞きますわよ? ですので落ち着いて」
「ああ、もう…何を言いたかったのか忘れちゃった!」
「あらあら」
ぷいっとレナお姉様は顔を背けてしまいました。
でも、その耳が赤くなっていることは隠せておりませぬ。
わたくしはころころと笑いたくなる気持ちを、ただ静かに収めました。
本当に、レナお姉様は可愛らしいお方。
本当は、忘れてなどいらっしゃらないのでしょう?
照れてしまわれたのか、恥ずかしくなられたのか。
忘れたということにして、レナお姉様は口を噤んでしまわれました。
何と仰るつもりだったのか……聞くことが出来なくて、少し残念です。
だけど小声で、本当に小さな声で。
レナお姉様が呟かれた言葉を、クレイが拾っておりました。
後で、そのことを教えてくれたのですが…
――甘ったれた育ちの割には根性のある子だと思ったわ。
嫌いじゃないと、そう言って下さったのですわよね?
わたくしのこと、心配してくださっている気持ちが伝わります。
そう思うと、嬉しくなってしまって。
わたくしはレナお姉様に対して、どんどん好感を深めていったのです。
まだ今日、出会ったばかりですのにね。