時には躾も必要ですわよね
退出の許可も何もなく、走り去るなどという不作法。
我に返ってみると、子供の身であっても分別の付く年頃であれば許されざる行為です。
わたくしはまだ幼い身なれど…この身を育んで下さった亡き両親の顔に泥を塗ったようなもの。草葉の陰からわたくし達を心配して下さっているに違いない両親が、これを知ればどれほど胸を痛めることでしょう。
育ちを疑われることは、即ち両親を無能であったと声高に叫ぶようなもの。
――兄に関しては、もう既に両親も諦めていましたが。
ですがだからこそ、わたくしやクレイの振舞いで両親を失望などさせたくありませんのに…。わたくしまで不躾な娘に育ってしまえば、両親も浮かばれません。
「お父様、お母様…ミレーゼは悪い娘です」
「うーっ! ちあうのー! ねえしゃまは、いい子なの! わるい子にゃい!」
園遊会の会場の、片隅で。
クレイを抱きしめながら落ち込みの言葉を漏らせば全力で否定されました。
わたくしのことを怒ったような、心配の様な、戸惑いの眼差しでクレイが見上げています。ぺちぺちとわたくしの頬を叩いているのは、弟なりの精一杯の抗議のつもりなのでしょうか。
気持は察しますけれど…
姉とは言え、淑女の頬を叩くなど褒められた行為ではありませんわよ?
痛みは感じませんが、女性の顔に手をかけるなど言語道断です。
それが卒倒した方の意識確認等の緊急措置でもない場合は…緊急時以外に女性の顔を攻撃するような弟にはおしおきが必要です。
ここは、躾の為にも咎める場面ですわよね?
女性に暴力を振るうような紳士とは到底呼べない殿方にでも成長されては両親に申し訳なく。その場合はわたくしが体を張ってでも諌めなくてはなりませんもの。
そのような事態にならぬよう、今から予防措置は取っておいた方が得策です。
「お姉様の頬を叩く悪い子は誰ですか?」
「やあーっ」
わたくしは、クレイの頬に指をかけ…左右にぐいっと引っ張りました。
まあ、よく伸びますこと。
「女子の頬を叩く悪い子は誰ですか?」
「やあ、だっ ねえしゃま、ごめんしゃい! ごめんなしゃい…!」
「謝れば許してもらえると思っていて? 謝る時には理解・謝罪・反省の姿勢を見せなくては駄目よ。それが誠意というものです」
「もうおんにゃのこのほっぺ、たたきましぇん…!」
「よろしい。許してあげましょう」
「あ、あうーっ ねえしゃまぁ、ごめんなしゃいぃ…」
「よしよし」
引っ張るついでに捻りを加えていた頬をぱっと離すと、涙目になっていたクレイは己の頬を擦りながらわたくしに頭を寄せてきました。
泣き虫な子ですが、今回は泣かずに耐えたことに誇らしくなります。
わたくしの薄い胸に擦り寄ってきたクレイの頭を、小さな手で優しく撫でます。
「ごめんなさいね、クレイ。お顔が痛かったでしょう?」
「ぼく、もうしにゃい…」
「ええ、ええ。わかっていてよ。クレイは良い子だもの。賢い子だもの。1度注意されたことはもうしないものね?」
「あい! ねえしゃま、ゆりゅしてくりぇる?」
「ええ、勿論よ」
「あい…!」
ぎゅ、と。
小さなクレイの手がわたくしの背へと回り、強い力でしがみ付いてきます。
わたくしの弟はとても可愛い。
こんな不出来な姉でも、こうして全力で慕ってくれるのですもの。
「………ミレーゼ、あんた弟相手でも容赦なしね」
「あら、レナお姉様……まあ、手拭を冷やしてきて下さったのですね!」
「いや、そんくらいの雑働きは良いんだけどさ…」
丁度、クレイの頬を冷やしに行こうと思っていたところです。
とても素敵なタイミングで水で絞った手拭を差し出して下さいました。
レナお姉様の、こういったタイミングを読む力は大人顔負けだと思います。
レナお姉様は空気を読めなきゃ死ぬ育ちのせいだと仰いますが、どんな育ちであれ大事な能力であることに変わりはありません。
どのような仕事に就いたとしても、将来的に助かることはあれ困ることのない能力です。わたくしもレナお姉様のこういった面を見習いたいものですわ…。
「レナお姉様、ありがとうございます!」
「いや、うん、良いんだけど…アンタの弟、頬っぺた痛そうよ?」
「さ、クレイ…頬を冷やしましょうね。お姉様もやり過ぎでしたわね。本当にごめんなさい」
「んん? いいの! ねえしゃま、きもちいぃ…」
赤くなってしまった頬に冷えた布を当てると、弟は気持ちよさそうに目を細めます。その仕草はまるで昼の日向で微睡む猫のよう。
「ねえしゃま、ありあと!」
「お礼ならレナお姉様にね、クレイ。貴方の為に布を冷やして来て下さったのよ」
「ありあとー、レナねえしゃん!」
「いや、良いけど…アンタら2人そろってあたしのこと「姉」呼ばわりすんのいい加減にやめない? あたしの立場、使用人なんだからさぁ…居心地悪いんだけど」
「まあ、申しわ…済みません、レナお姉様。ですがもう癖になってしまいました」
「うゆー? レナねえしゃんは、レナねえしゃ?」
「……………いや、もう良いわよ」
そう仰られて、レナお姉様は何故だか肩を落としてしまわれました。
失望させてしまったのでしたら申し訳ありませんが…
こればかりは、もう身に染みついてしまったようです。
気が付いてみましたら。
この一連の出来事によってわたくしはいつの間にか、先程までの悩み事を忘れ果てておりました。
どうやら、弟を諌めるという使命感が他の考えを押しのけてしまったようです。
後で思い出した時、わたくしの頭はなんと単純に出来ているのかと、思い悩んでしまったのはわたくしだけの秘密です。
「それにしましても………折角、あちらの方から手掛かりへの重要な足がかりがいらして下さったのに…台無しにしてしまいましたわね」
「憂鬱そうに溜息ついてるけど、あんた言ってることが大概よ? 自覚ある?」
「ですがレナお姉様…あそこでわたくしが判断を間違えねば、今頃は重要な第一歩を得られていたかもしれませんのに…」
「お嬢様…落ち込まれないで下さい。少なくとも1つだけ、あのチェス馬………バスローマ伯爵は私の見た男とは違うことがわかりましたよ。黒幕の該当者から、少なくとも1人は外して良い筈です」
「まあ…本当ですか、アンリ」
「ええ」
「………それでも残り67人いるかもしれないじゃない。こんな地道な確認作業、ずっとは続かないわよ。長い道のりだわ」
「そうですわね…せめて正確な人数だけでも掴めれば………本当に、わたくしはどうして判断を誤ってしまったのでしょう…」
「仕方ありませんよ。お嬢様は今まで碌に社交に交わらず、概ねお屋敷にお留守番だったんでしょう? 人慣れしていない小さいお子さんが衆人環視の注目を受けたら、混乱するのが当然です」
「そうかしら、アンリ…」
「ええ、そうです。お嬢様は少なくとも気丈に振舞っておいででした。御立派です」
「まあ、ありがとう…」
「…………………人慣れしてない、小さい、お子さん…ねえ?」
「あら、レナお姉様? 微妙な顔をされてどう致しましたの?」
「いや、何でもないわよ」
「? 不思議なレナお姉様」
「……………あたしがおかしいのかしら」
何か不思議なこと、気になることでもあるのでしょうか?
首を傾げるレナお姉様でしたが、何に思い悩んでいらっしゃるのかは頑として教えて下さいませんでした…。
1度はわたくしの失態で断たれたものと思っていました。
ですが細くも確実な手掛かりへの道筋が危ういところで僅かに残ったことをわたくしが知ったのは、ミモザやルッコラの言葉によることでした。
「お嬢様、あのチェス馬…バスローマ伯爵さんに繋ぎつけといたよ」
「あの様子なら、早晩に渡をつけてくると思う」
「まあ! 本当ですの、ミモザ! ルッコラ!」
「本当だよ。ちゃんと餌もちらつかせておいたから、きっと釣れる」
「それにあの伯爵の背後関係を洗う準備もちゃんと整っているから」
「素敵ですわ…! ありがとう、2人とも」
素晴らしい快挙ですわ!
わたくしが交渉不可能に陥ったとみるや、即座に自分達を交渉窓口にバスローマ伯爵へと何かをしかけて下さったようです。
仔細は窺いませんけれど、わたくしの意図をよく汲んで下さる彼らには一定の信頼を寄せられるとわたくしも判断しております。
彼らが確実に釣れると言うのでしたら、それは事実そうなのでしょう。
この的確な自己判断…流石は貧民街の一大浮浪児集団『青いランタン』の幹部と言ったところでしょうか。
わたくしとは場数が違うのですし、比較するのは意味のないことですが…彼らの咄嗟の冷静な判断力と対応能力は是非とも見習わせていただきたいところです。
冷静な判断、常の平常心。何物にも揺るがぬ姿勢。
わたくしにはそれが足りません。
もっと、もっと精進しなくては。
わたくし自身の欠点が露呈してしまった1日となりましたけれど…それを今後改善していくという意味では、改善点を見いだせたことは喜ばしいことです。
自分以外の全てを教師と思う姿勢で、今後は良き所の吸収に努めましょう。
次にアウグスト様と相まみえるまでに、わたくしはもう一段成長して見せねばなりません…!
少なくとも、今日のような失態は以ての外。
アウグスト様の意識に刷り込まれたであろう印象を覆す為にも、わたくし自身の名誉の為にも…わたくし、完璧な淑女となってみせますわ!
ミレーゼ様はもう少し客観的に己を振り返る必要がありそうです。




