鮮烈な剣の一撃が、全てを斬り裂いて道を作り 4
兄1人が場に現れた。
それだけで空気は変わり、ミレーゼ様は翻弄される。
だけど一瞬緩んだ空気も、ずっとそのままではなかった。
秘儀の間。
そう呼ばれる空間に……邪悪な咆哮が轟き響いた。
うっかり存在を忘れられたかに見えた、邪龍。
しかしその存在は決して消えた訳でも埋没した訳でもない。
油断ならない相手と侮りを捨てた龍は、アロイヒの気が緩む一瞬を狙い、隙を窺っていた。
どうやら気安い関係にあるらしい幼女を相手にしている今であれば……攻撃の糸口もあろうかと。
そして、狙った瞬間は訪れる。
ぽかぽかと幼女が自らの手を青年の背に連続で叩きつける。
何事かを嘆く様子の幼女に対して、男の気が完全に逸れた瞬間。
「ここだ」その思いで、邪悪な龍は力強く尾を振るった。
薙ぎ払いの一撃が、幼女諸共危険な男を排除しようと風を切る。
だがしかし。
龍の渾身の一撃は、体全体の力を乗せたもの。
空気を裂いてしなる長い尾は、相手がミノタウロスやサイクロプスであろうと立てたマッチ箱のように容易く蹂躙するだけの力がある。
だというのに。
ミノタウロスと比べて、あまりにも細く小さく、いっそ比較対象に比べれば華奢といっても過言ではないというのに。
頼りない筈の体格。
そんなハンデなど、物ともせず。
圧倒的な大質量の攻撃が相手だというのに。
彼は、邪龍の方を見もしなかった。
見ることすらせず、ただ龍の尾が接触するタイミングで。
青年は片手に握った眩い剣を、龍の尾に幅広の面を向けて立てる。
ただそれだけで彼は、背後から襲ってきた大型魔獣をも吹き飛ばす邪龍の尾を、弾き返した。
剣と腕一本で、跳ね返された勢い。
全身を伝って、邪龍の身体が踏鞴を踏んで後退する。
秘儀の間の壁に邪龍の身がぶつかり、精緻な壁画には亀裂が走った。彩りの名残が破片となって剥がれ落ちていく。
非物質である筈の身体は、しかし邪龍の側からの接触であれば物質に影響を及ぼす。
邪龍の意を介さないこうした接触も、また。
身に降りかかる壁画の破片を忌まわしげに振り払い、威嚇するように邪龍の牙がガチガチと音を立てる。
黒い靄越しに、目の位置が赤黒い光を燃やす。
爛々と赤く輝き、光が強まっていく。
炎は、怒りを燃料に燃え盛った。
「お兄様、あれは……よろしいの? どう見ても怒っているようですけれど。一緒に突入してきたのです、お知り合いなのでしょう? ……好意的なお相手には、到底見えませんけれど」
「少し待っててくれるかな、ミケちゃん。せっかく会えたのに放っておくのは申し訳ないけど、ちょっと友誼を深める代わりに蒲焼にしてくるから」
「……蒲焼にする必要が有りますの? わたくしは口に致しませんが」
「大丈夫☆ どんな物も残さず食べる、顎の頑丈な小人系妖精さん達に伝手があるから!」
「妖精さん!? 人外とお知り合いですの、お兄様――!? いえ、それよりも、妖精に何を食べさせようとなさっていますの!」
全てを食らわんと獰猛にあぎとを打ち鳴らし、龍は男の死を求める。
それを実現させる為には、もう我が身の労など厭うまい。
怨嗟に満ちた声が、短く青年への呪いの言葉を吐き捨てる。
邪悪な龍と竜殺しが向き合うか。
そう思われた間際。
気が立っている邪龍。その眼前に、アロイヒ青年よりも先にまろび出てくる者達がいた。
転がるように、手足をばたつかせながら自身の存在を認識させようと皺枯れた声が上がる。
どこにそんな気力が、体力があったのか。
そんなに強い胆力を、一体どこに隠していたのか。
「――神よ! 我らが主よ!」
この期に及んで、まだ。
『教主国』の宗教老人達は盛大に勘違いしていた。
目の前の龍を、自分達の主である『神』だと疑いもせず……
否、不審な部分の全てに目を瞑り、都合よく自分達を救いに現れた神と信じた。
それは盲信でしかない。
「どうか、どうか我らをお救い下され!」
「あの害虫共に、天の鉄槌を!」
「おおぉ……どうぞ神の権威を、目に物を見せて下さりませっ」
身勝手に、口ぐちと己に都合の良い希望を込めて囃し立てる老人達。自らの生の殆どをかけて信仰してきた神だと思っているはずなのに、そこには独善的で自分勝手な願望ばかりが込められる。
利己的な雑音に塗れた懇願は、龍の耳を掠っても関心を引くには至らない。
だが、気を引くには達した。
それも、悪い方向に。
『……骨と皮と筋。それだけの、枯れ木同然の肉だが。………………こんなものでも、何もないよりはマシか』
言うや否や、という速さで。
邪龍の口が大きく開く。
それはまるで引き裂かれていくように。
開かれたあぎとは、龍に最も近づいた老爺を捉えていた。
こんな滋養の欠片もなさそうな老人を呑む気か。呑む気なのか、邪龍。
引き攣った悲鳴が秘儀の間を満たす。
「ああ、パウロ導師……! 方々、パウロ導師が!」
「な、何故ですじゃ、主よ! パウロ導師が何をしたと!」
「ひぃっお怒りをお鎮め下さりませー!」
「パウロどおぅーしぃぃぃいいいいいいっ!!」
壮絶な老人の声に、側近くにいた人々の身が竦む。
地から掬い、攫うように……白い法衣の重みで素早く動きようのない老人の身体は、龍の口に姿を消して。
「お兄様! 死なせてはなりません!」
誰もが駄目だと思った瞬間、幼い女の子の声が悲鳴に紛れて強く響いた。
幼い女の子など、この場には1人しかいない。
誰もがハッと息を呑み、邪龍に釘付けられていた視線を女の子へと慌てて移す。
自分では戦う事の出来ない、か弱く無力な身だというのに。
自らと、家を害そうとした者達を、慈悲を持って助k――?
「呑まれて終わりだなどと、認めませんわ。まだあの老人からは慰謝料すら頂いておりませんのよ!? 絞り取れるモノを絞り取らずして横から奪われるなど、エルレイク家の名折れですわ!」
「OK、ミケちゃん! お兄様に任せておいで!」
……助けようとか、慈悲とか。
どうやら周囲の気のせいだったようだ。
「見たところ、咀嚼した様子は無し! 丸呑みなら、消化液にちょっと溶かされたとしても命だけは拾える余地があるよ」
「でしたら早々に引きずり出して下さいまし!」
妹に急かされる形で、人型決戦兵器アロイヒが飛び出す。
片手に剣を握り、まるで羽根の様な軽やかさで。
真っ直ぐ龍へと向かっていく。
対して、正面。
向かって来られる側の邪龍は……駆け寄って来るアロイヒの姿を見止め、きゅぴーん★と仄暗く瞳を光らせた。
それを狙っていたとでも、言うかの様に。
そして事実、狙っていたのだろう。
アロイヒの姿を有効射程距離内に認めた、瞬間だった。
邪悪な龍は、1度大きく仰け反り……
全力で以て、何かを吐き出した。
それはまるで西瓜の種を飛ばすように……ただし、弾丸の勢いで。
「パウロ導師ぃ――――っ!?」
龍の口から飛び出したモノは、高速でどんな形をしているかも判然とはしなかったが……確かに包囲に由来する白い色が見て取れて。
大きさから推測しても、間違いなく。
西瓜の種よろしく吐き飛ばされたのは、先ほど呑まれた筈の老人。
周囲がパウロ導師と呼ぶ、その人で。
邪龍の狙い過たず、パウロ導師の身体は真っ直ぐ……アロイヒ直撃コースを狙って吹き飛んでいく。
最初からその為に呑んだのか、呑んだと見せかけて油断を誘ったのか。
いま、パウロ導師(意識不明)が周囲の状況を認識出来ていたとしたら、きっと驚いたことだろう。彼の体感速度は、既に隼の出せる最高速度を上回っている。
そのまま邪龍目指して走っているアロイヒと衝突しようものなら、まさしく人身事故の様相を呈したことであろう。
だが。
アロイヒ君(23)は、家の敵には容赦なかった。
今のアロイヒは全部毟り取ると宣言した妹の為に、最低限の命を残す以外は頓着しない方針だ。
彼は自分に向けて飛んでくる、丸々と越えた肉塊(導師)を見て取ると……徐に、剣を振りかぶって。
間違って斬らないよう、剣の腹の部分を向けて。
そのまま勢いよく、走りながら……
「かっ飛ばしたぁぁああああ――?!」
豪快なフルスイングだった。
振り抜いた剣の腹は見事、弾丸と化したパウロ導師にめり込み、勢いのまま真上へ向けて跳ね上げる。
軌道を直角に捻じ曲げられて、パウロ導師は天井目掛けて打ち上げられた。
そのまま秘儀の間の高い高い天井に激突。
先程めり込んだ剣の比ではなく、今度はパウロ導師自身が天井にめり込んだ。
そのまま落ちて……来ない。落ちてこない!
パウロ導師の上半身は、完全に天井に埋まってしまっている!
あれでは息が出来ているのかどうか……早急に引き下ろす必要がありそうだ。
ぷらんと揺れるパウロ導師の足が痙攣しているのでまだ死んではいなさそうだが、時間の問題という言葉が『教主国』の老人達の頭に浮かんだ。
アロイヒは、パウロ導師を顧みなかった。
自分が天高く打ち上げておいて、一瞥もしない。
妹に頼まれたのはパウロ導師の救命(命だけ)だが、それだけだ。
それよりも何をするかわからない邪龍を早々に片付けておいた方が良さそうだと、一連の様子を見て考えていた。
だから、彼の足は止まらない。
逆に焦りを募らせた邪龍が、その鉤爪に飾られた腕を伸ばす。
パウロ導師のことがあって宗教老人達は邪龍から距離を取っていた。
だがそれでも、人ならぬ龍の攻撃範囲内から離れられてはいない。
邪龍は無造作に老人の1人を素早く掴み上げ、今度は口になど含まずに、掴み上げたそのままアロイヒ目掛けて投げつける。
老人の悲鳴が、尾を引いた。
対するアロイヒの対処は、先ほどと変わらない。
剣の腹を向けて、素早く振り抜く。
今度は真上に向かって打ち上げられることなく、真っ直ぐ、何の小細工もなしに打ち返した。
ホームランだった。
今度は天井ではなく、壁に2人目の犠牲者が突き刺さる。
ぷらりと垂れた足は、やはり痙攣していた。
『何故……何故だ!?』
邪悪な龍の、狼狽した声が響く。
狼狽え、仰け反り、恐れ戦いた。
震える声には、怯えを滲ませ……現実が信じられないと、邪龍が呻く。
『何故だ……人間とは、同族が相手であれば手の緩む生き物ではなかったのか? 特に老人、女、子供に、無体な真似の出来ない生き物ではなかったのか……っ』
頭を振り乱して当惑する龍に、ミレーゼ様がぼそりと呟いた。
「人それぞれですわよ」
邪龍は先程から見ていたアロイヒの様子から、その表面的に見える性格から老人に手を上げることのできない甘い人種だと見誤っていた。
実際は老人か否か以前に、既に家の敵と見做しているので気遣う筈もないのだが。
ただただ、人懐っこさや素直さ、無茶苦茶具合を抜きにした人柄を見て、老人が混乱の中にあれば手を差し伸べずにはいられない性格だろうと……
実際にはホームランだった訳だが。
アロイヒはすぐ近くにまで迫ろうとしている。
誰に言われずとも、このままでは拙いと理解していた。
足止め、時間稼ぎ。
咄嗟に考えを巡らせた邪龍は、3人目の弾丸を床から攫う。
掴み上げられた老人の悲鳴が、秘儀の間に反響した。
声が途切れるより早く、邪龍の腕が振るわれる。
今度もまた、老人を投擲する為に。
向かう先は何処?
アロイヒか?
……否、違う。
3人目に投げられた老人の描く軌道は、真っ直ぐに。
ミレーゼ様までの軌跡を描いていた。
「え……」
思いがけない攻撃に、少女の身が竦む。
ミレーゼ様は、少なくとも身体能力的にはただの8歳児だ。
当然ながら、その運動性能はさほど高くない。
アロイヒとは比べるべくもなく、むしろ同年代の少年少女よりも少し運動能力は低めで。
しかも竦んでいるとなれば……そんな彼女に避ける暇などある訳がない。
それでなくとも老人は、人間の反応速度を凌駕した速度で向かってくるのだから。
まだミレーゼ様は身体の出来上がっていない幼女だ。
そんな彼女が枯れ木のような老人とは言え……成人男性に激しく勢いよく激突されて、無事で済むはずはなかった。




