水も滴っていますが、お身体大丈夫でしょうか
びしりと固まった笑顔を、なんとか立て直しますこと3秒。
弟君は敵意の見える眼差しで、その場を見回していらっしゃいましたが…
この場にいるのがご自身よりも年少の者だけだと見て取ったのでしょう。
途端、困惑の表情を浮かべられました。
確かレナお姉様は弟君より年長ですが、レナお姉様は小柄で幼く見えますので、恐らく弟君も年長だとは思われないと思います。
「君達は…」
困惑の眼差しはクレイからレナお姉様、わたくしと順繰りに注がれていき…
やがてわたくしの顔に目を留められると、驚きの表情で目を見開かれました。
…???
わたくし、顔に何かついていますの?
「君は…?」
「お初にお目にかかりますわ、ブランシェイドの末君様。わたくし、昨夜からこちらのお屋敷でお世話になっております、ミレーゼ・エルレイクと申します。
どうぞお見知りおきくださいませ」
「エルレイク…? え、竜殺貴公子様のお身内の方!?」
「り、竜殺貴公子…?」
なんですの、その珍妙な単語は…。
………いえ、思い当たるものはありますが。
り、竜殺貴公子………。
世間様にはそう呼ばれていますの、お兄様…?
「あの、竜殺貴公子とは、一体…?」
「あ、済まない。そうだよな、お身内の方には、馴染みのない呼び方だよな」
いえ、謝罪よりその呼び名の広まった経緯をお聞かせいただきたいのですが…
「改めて聞くけど、君はアロイヒ・エルレイク様のお身内の方かな」
「そうお尋ねになられたら、頷く他ありませんわね。
わたくしはアロイヒ・エルレイクの妹です。8歳になりますの」
「そっか…アロイヒ様の妹御」
「はい。(不本意ですが)」
「あ、…と。済まない。名乗ってくれたのに、自己紹介が遅れた。
僕はアレン・ブランシェイド。10歳だ」
「はい。宜しくお願いいたします、アレン様」
「うん、宜しくお願いします」
そう言ってぺこりと頭を下げる姿は、やはり貴族の息子。
行儀のよさと、育ちのよさが表れています。
「この子はわたくしの弟で、クレイ・エルレイク。クレイ、ご挨拶なさい」
「くれぇ、3しゃいでしゅ」
「ああ、宜しく」
「あい!」
小さな指を、3本立てて。
ぺこりとお辞儀をする弟に、アレン様も律儀にお辞儀を返して下さいました。
小さな子を相手でも、ちゃんと接してくださいますのね。
………ますます、口惜しくてなりません。
今のところ、わたくしは好感を持てているのですが…
このような方が、何故に兄のファンなんて…。
いえ、やんちゃな年頃の男の子には、偉業とも言える武勇伝に憧れるのは珍しくないといいますし。それも身近に、近しい年代にそれを果たした者がいると聞けば、気にせずにはいられないのでしょうけれど…
「竜殺……え、アンタの兄さんって竜殺貴公子なの」
………何故、レナお姉様が驚いた顔で反応なさいますの?
「…レナお姉さま、ご存知なのですか?」
「いや、流石に知ってるけど……今までに4頭の竜を狩ったって化け物でしょ。
うん、名前は知らなかったけど、竜殺しの噂は下町でも有名だし」
「そう、ご存知なのですか…」
「でもアンタやエラル様から聞いてる話、全然イメージ違うんだけど…」
「現実など、そんなものでしょう。実際の兄を見知っているわたくしから言わせれば、世間様は騙されているとしか思えませんわ」
「アンタ、や…うん、なんというか。お疲れさん」
「……………君は? うちのメイドの服を着てるけど、見ない顔だ。
というか、うちの就業者の年齢規定は14歳からだったと思うんだけど…」
「あたしは特例ってヤツですよ、若君様。雇用主はこの家だけど、あたしはこのおじょーさまの専属ってヤツだから」
「???」
メイドの格好をしていても、レナお姉様の口ぶりは変わりません。
もしかすると、他の言葉遣いを知らないのかもしれません。
貴族の若君として育ったアレン様には、不遜としか言えない口調でしょう。
しっかりとした家柄のお屋敷に、このようなメイドはまずおりません。
それにご自分の家のメイドの格好をしている以上、相応しくない態度を見過ごせない立場にいらっしゃるでしょう。
ですがわたくし付きであることや特例という言葉、幼い姿。
それらの要因から、注意したものか判断が付かなくなったのでしょう。
アレン様も困惑を深められ、訝しげなお顔をされています。
「アレン様、レナお姉様はわたくしのお姉様のような方です。
言葉遣いは独特ですが、わたくしはこれで構わないと思っていますのよ」
「え、と…よくわからないけれど、ミレーゼ嬢は納得してるの?」
「ミレーゼ、で構いませんわ。これから一緒にお勉強していくのですもの」
「………え、勉強?」
「はい。ご一緒させて下さいませ」
満面の笑顔で、お勉強の言葉を強調してみます。
一緒に頑張りましょうと付け加えますと、アレン様は気まずそうなお顔で。
ええ、サボタージュ中ですものね?
わたくしは殊更笑顔に力を入れて、アレン様ににっこりと微笑みかけます。
「実はわたくし、此方に滞在する間、アレン様とご一緒にお勉強をさせていただくことになっておりますの。同じ家庭教師にご教授いただく予定なのですが…」
「え、と…それなら、もう授業が始まっているんじゃないかな」
「ええ、始まっているはずですわね。ですが家庭教師の先生は、「自分は若君の為に雇われた家庭教師だから」と、仰いましたの。若君がいらっしゃらないのに、授業を始める訳にはいかない、と」
「……………」
「目が泳いでいますわ、アレン様」
「………勉強は、嫌いで」
「まあ」
もう気まずさを隠すこともなく、アレン様は項垂れました。
申し訳なさそうにしながらも、はっきりとした口調で勉強は嫌いだ、だなんて…
「アレン様、今のうちからお勉強しておかなければ、お勉強が本当に苦手になってしまいますわよ?」
「わかっては、いるんだけど…」
「いいえ、わかっていらっしゃいません!」
「!?」
ぴしゃり、と。
弟が悪いことをした時、叱る要領で言い切ります。
それまで穏やかな口調で話していたからでしょうか。
アレン様は驚いた顔で、ちょっと目を見張っていらっしゃいます。
「アレン様、お勉強は本当に大事なことですわ。物を知らないと将来嘲笑われるのは、他ならぬアレン様。そしてブランシェイド家の皆様ですわ。己の属する家名を落さぬため、貴族に生まれたわたくし達は自己研鑽を怠ってはならないのです」
「きみ、本当に8歳…? なんだか、僕の知ってる8歳児と違うんだけど」
「お話を逸らさないで下さいませ」
「あ、うん…」
「わたくしも、我が家の名を落とさぬ為にお勉強をしなければなりません。アレン様、どうかわたくしと一緒にお勉強していただけないでしょうか…」
「え、えぇと…でも僕と君じゃ、勉強の範囲も違うんじゃない? 一緒に勉強する意味あるのかな?」
あら、上手く言い逃れしたおつもりでしょうか?
最初からこちらのペースで進めているお陰で、今のアレン様はたじたじです。
このまま論破も可能かもしれませんが…
ですが初日からやり過ぎて、失敗しては大変です。
アレン様にわたくしへの苦手意識を植え付けてしまっては大変ですもの。
さて、どう致しましょう。
1.戦う
2.叱る
3.買収 ←
4.脅す
ここは………そうですわね、ご褒美で釣ってみましょう。
「アレン様、ではこう致しましょう」
「何か、提案でもあるの?」
「ええ。これからわたくしとお勉強してくださいませ」
「…ん?」
「お勉強1時間ごとに、わたくしの知る兄のお話をさせていただきますわ」
「え、本当!?」
「ええ、嘘は申しません。アレン様がお望みなら武勇伝でも何でもお話しさせていただきます。そうですわね、1時間で1つ、お勉強中に10回先生のご質問にお答え出来たら、もう1つ。ですので今日は、一緒にお勉強していただけませんか…?」
わたくしは控えめに頬笑み、おずおずという様子を見せながら提案致しました。
その提案に対するお答えは…
アレン様のキラキラした瞳を見れば、聞かずとも明らかといえるものでした。
「さあ、それではアレン様! 一緒にお勉強致しましょう?」
「まあ、今日はちゃんと勉強、しようかな…うん」
「そうそ。ちゃんとやんなさいよ、若君様。勉強できるだけ有難いと思いなさいよねー。大体、年下の女の子困らせてどうすんの。将来碌な大人になんないわよ」
「このメイド、凄く不遜だ…」
レナお姉様の遠慮のない物言いは、一朝一夕で慣れるものではないのでしょう。
アレン様はますます驚きに目を丸くされ、レナお姉様を見ておられます。
わたくしも、流石に貴族の子を相手に物凄い口を聞かれるので心配になります。
「レナお姉様、わたくしはともかく、余所でそのような態度を取られると無礼討ちにされるかもしれませんわよ…?」
「大丈夫、相手は見てるから」
すっぱり言いきられてしまいました。
どうやら、若君は出会って数分ですっかりレナお姉様に侮ってよしと判断されてしまわれたようで…
ですがそれも、仕方ないのかもしれません。
「ところでアレン様」
「…ん?」
「そろそろ、噴水から出られませんか…?」
「あ」
未だびしょびしょの、ずぶ濡れ状態で。
噴水の中に座りっぱなし状態でしたが…
水滴を全身に纏わせたアレン様は、それから思い出したようにくしゃみを1つなさるのでした。
この日はアレン様のご入浴やお着替えに時間を取ってしまい、ちゃんとした授業を一緒に受けるのは、結局明日からということになってしまいました。
エラル・ブランシェイド(18)
ブランシェイドの長男。有能な役人として王宮に出仕している。
学生時代、寮の窮屈な部屋(低学年は大部屋に学級一まとめ)を早々に脱するために飛び級したら、学校一の大物(色んな意味で)に懐かれた青年。
アレン・ブランシェイド(10)
やんちゃなことに胸躍る年頃。動物好きのピンクな瞳の男の子。
勉強は嫌いだが、不得意ではない。




