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イージー・ラバー  作者: いちる
シガレット
7/23

物は試しの二本目 そのさん

ネイルサロンを出ると、11時を過ぎていた。

朝食が少なかったから、もうお腹が空いてしまった。

ランチタイムは始まっているだろうから、昼食にしよう。幸い場所も近くだし。


駅前の背の高いビル群を抜け、大通りから細い道へと一本折れる。

車がギリギリすれ違えるような通りの両側には、営業しているのかいないのか判別がつかないような小さな工場や古い事務所が並んでいた。

距離にしたら1キロも離れていないのに、あの駅特有の忙しなさとは全く異なる、しんと静かに降り積もったような空気がこの通りにはあった。


私はそんな中を迷わず進む。

この辺りは外回り中に何度も通った。けれど最近はこの寂れた通りは歩かなかった。

無意識的に仕事の匂いがしないことを嗅ぎとっていたんだと思う。外回り中の営業なんて、狩りの途中みたいなものだもの。


お目当ての店は、コインパーキングのすぐ横にあった。

三階建ての真四角の建物はその全体を蔦に覆われていて、一見するとただの工場にしか見えない。けれどここがレストランであることを、私は知っている。

しかも、第一線を退いた有名なシェフがひっそりと始めたフレンチ・レストランだ。


3メートル程の高さの木が目隠しに植えられたパーキングとの間の小道を奥に進むと、店の入り口が現れる。木枠のスタンドグラスのドアはフランスのアンティーク。

煉瓦を敷き詰めた庭は花壇になっていて、たくさんのハーブが風に揺れている。ドアの前にはシェフ帽子をかぶった黒猫の看板が立っていて、ランチメニューが書かれていた。

今日の日替わりのメインは仔牛のグリエか若鶏のブレゼかぁ。お腹鳴っちゃいそう。


「店内禁煙…」


看板の最後に書かれた丁寧なお断りを読んで、そういえばまだ吸っていないなぁと思い出した。

気付くと吸いたくなっちゃうものだけど、今日はまだ平気だった。珍しい。

煉瓦で作られた3段の階段を登ってドアノブに手を伸ばす。

けれど手が触れる前に店内に向かってドアが開いた。え、扉タイプの自動ドアだっけ?


「いらっしゃいませ」


ドアを開けたのはギャルソンだった。看板をじっと見ていたの、見られたかしら。恥ずかしい。


「こんにちは、小野さん」


笑顔で挨拶すると、彼は驚いた顔をして、それからすぐに丁寧にお辞儀を返してくれた。彼、小野さんはこの店の給仕長さんだ。


「夏目さん、いらっしゃいませ。シェフに御用ですか?」


「いえ、今日はプライベートです。美味しいランチが食べたくて」


「ではシェフに今までで一番のものを出すように言っておきます」


大人な冗談と共に、こちらへ、と促されて進む。

ウチの会社、海外家具や生活用品なんかの輸入・販売が主な事業なんだけど、それ以外に新規店舗起業の総合サポートもしている。ここは、私がオーナーでもあるシェフと契約を結んで完成までお手伝いさせて頂いた店だ。

オープンしたのは半年前。

小野さんとは開店前の打ち合わせから何度も会っている。

自分なりにかなり力が入っていたせいか、この店は我が子のように思えてしまう。

訪れるのは開店以来かな。


店内は一階は厨房とレジとワイン庫、二階が客席と分かれている。

下から二階を見上げると、所々煉瓦が埋め込まれた白い壁と店内に太陽の光を注ぎ込む大きな窓が見えた。

大きな窓は工場時代からのものだけど、壁は改装のときに塗ったもの。元々の灰色一色だった面影は全くない。

階段だって、安アパートみたいな金属製だったものを全体的に高級感のあるゴールドに塗って、踏み板には上から板を被せるように嵌め込ませただけとは思えない。

シェフの希望である「隠れ家」のイメージに合うように、なるべく建物の古さを生かしてあるのだ。さすがにトイレや厨房は最新式を入れたけれど。

上の階には4人掛けのテーブルが狭苦しくない間隔で置かれ、真っ白なテーブルクロスとグラスに一輪挿しされた花が格調高い中にもカジュアル感を演出するようになっている。


けれど案内されたのは階段の上ではなくその下を抜けた店の奥…からさらにドアを開けた庭の中だった。

入り口からでは見えない位置に建つガラス張りの八角垂のパーゴラには観葉植物が大量に置かれていて、中には伸び過ぎて天井を這っている蔦まであった。


「すご…」


思わず素で声が漏れる。


「シェフの隠れ家です。それっぽくなったでしょう?」


小野さんがイタズラっぽく笑ってドアを開けて進むので、私も続いて中に入る。

この建物を設置したのは覚えていたけれど、植物の成長ってすごいのね。たった半年なはずなのに、ここだけ長い年月が経ったように見える。

温室のような外観だったけれど、中はまるで海外の蚤の市のようだった。

観葉植物の間には焼き物の猫が何体か見え隠れし、壁の至る所にアンティークだろう鏡やランプや真鍮の鍋なんかが飾ってある。

そのど真ん中を陣取るのが、これまたアンティークな彫刻が素晴らしいテーブルセット。これは見覚えがある。シェフが個人用にウチから買われたものだ。


「特別席です。お客様をご案内したことはないんですけど、夏目さんですから」


小野さんが言いながら椅子を引いたので、そこに座る。スマートに差し出されたメニュー表を受け取りつつ、それで口元をさりげなく隠す。特別扱いって、嬉しくて口がにやけちゃいそう。

例え営業トークでもドキドキする。いや、仕事相手なんだから、浮かれちゃダメよ。お仕事モードで返さなきゃ。


「本当に隠れ家みたいですね。勝手に入ってシェフに怒られません?」


「夏目さんにはシェフは甘いですから。あ、僕が入れたって言わないでくださいね?」


唇に人差し指を当てて笑う。モチロン本気じゃないのなんて分かっているのでこちらも笑う。



小野さんって、モテるだろうなぁ。

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