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イージー・ラバー  作者: いちる
シガレット
18/23

身代わりの4本目 そのさん

アパートに着いて鍵を開ける。

室内には当たり前だけど誰もいなくて、それがひどく淋しく感じる。

疲れてたりとか、体調不良のときってなんでこう気弱になっちゃうのかしらね。


ジャケットだけ脱いでリビングのソファにダイブする。ブラウスがシワになるとか、今はどうでもいいや。

今はちょっと動きたくない。

ごろんと落ちないように寝返りを打つと、バッグが頭に当たった。取っ手の部分が痛い。


まずは一服して気分を落ち着かせようか。今日は苛立ったり落ち込んだり、感情の波が激しかったから。


起き上がりもせずにバッグの中に手を入れると、いちばんに触れたのはシガレットポーチだった。

取り出して、顔の前まで持ってきて手が止まる。高橋に掴まれた腕だ。

別にキズにもアザにもなっていないけれど、いまだに強さを覚えている。ついでに車内の高橋との会話を思い出して心臓がチクリと痛んだ。


ただの同僚だなんて、とっくの昔にわかっていたはずなのに。

高橋の特別になんかなれるわけがないのに。

求めるだけ無駄なのに、まだあきらめきれていない私がいた。

バカだと思う。

でも、好きだったんだ。

そして今も好きで、愛されたいと望んでる。



衝動的な欲求に身を任せて、起き上がってもう一度バッグの中を探って、イージー・ラバーを掴む。

吸い込みながら火を点けて、ゆっくりと煙を吐き出す。

手を取る感触に閉じていた目を開ければ、そこには優しい笑顔のタカハシがいた。


「お願いがあるの」


「なんなりと」


唇が私の指先に恭しく口付ける。

その笑顔も、穏やかな声も、愛されているんだと感じさせてくれる。

特別な存在なんだと思わせてくれる。

高橋によく似た、高橋とは別のヒト。


繋いだ手を引いて、私の前に膝をついたタカハシの唇にキスをする。


「甘えさせて」


高橋の代わりに、と小さく付け足す。


身勝手で最低な願いだとはわかってる。

なのにタカハシは、笑顔のままで頷いてくれた。


「お望みどおりに、愛しい人」


そう甘く囁いて、額、右の瞼、左の頬、唇にと、順番にキスが降ってくる。

最後に鼻先に音をたててキスしたあと、目が合ってタカハシが微笑んだ。

嬉しそうなその笑顔に、罪悪感で胸が痛む。


「夏目」


高橋の顔で、高橋の声で、頬を両手で包まれて愛おしそうに呼ばれる。胸がギュッと締めつけられて、鼻の奥がツンとした。


そうされたいと望んでいたはずなのに。

全然、嬉しくなんてなかった。


「…ごめん、やっぱりさっきのナシ。忘れて?」


俯きながらタカハシの肩を押して離れる。

タカハシに申し訳なくて、自分が惨めすぎて涙が出そう。


「ナツメさん、覚えていますか?」


泣きたくなくて歯を噛みしめていたら、壊れ物にでも触れるようにそうっとタカハシが肩から私の手を外した。


「僕は初めに、お好きにお呼び下さいと言いましたよね? sayangkuでも、ダーリンでも、何でも構いません、と」


私の膝の上で両手を繋いで、タカハシが私の顔を覗き込む。私は頷いた。

ちゃんと覚えてる。サヤンって何語なのか、まだわからないし。


「もちろん『高橋』でも、僕は構いません」


「なんで? 身代わりにされていいの?」


穏やかすぎるその声に、責めるような口調になった。責めていいのはタカハシであって、私じゃないのに。


「はい、もちろん。僕は貴女のお望みを叶えるためだけに存在するのですから。誰かの代わりになれと仰るなら、喜んでなりましょう」


そう言う顔には悲しみなんてない。

ただ穏やかに微笑んで、私の右手を持ち上げてそこにキスをする。


「僕はナツメさんのものです」


そのまま手を導くようにして、タカハシの左頬に触れさせる。


「この顔も」


次は唇。


「この声も」


首元をゆっくりと降りて。


「この体も」


胸の上で手が止まる。

左側、心臓の上。

手を通じて鼓動が聞こえた。


「この心も、すべて」


そうであることが至高の喜びだと言わんばかりの笑顔を浮かべられて、私の胸が締めつけられた。今度は、さっきとは違う痛み。



タカハシの見せる愛情は真っ直ぐで温かくて、切なくなるほどに優し過ぎる。

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