7ー5
イライアスは鼻からの出血が止まったのを確認すると、改めて頭を垂れた。結びを解かれたイライアスの髪がその両頬に無造作に流れる。
「切り落としても尚見応えある髪だな。剃り上げるべきだったか?」
どこまでが本気なのか分からない投げやりな口調でレスター王が呟いた。イライアスは眉一つ動かさず、レスター王の発言を無視していた。
「陛下。ホルガー男爵夫妻を、近い内にお連れするとお約束致します。どうかセーラを連れ帰るお許しを下さい。」
「お前の妻だ。好きにするが良いーーーと言いたいところだが、まさか馬に乗せて今から連れ帰るつもりではないだろうな?」
そのつもりにございます、とイライアスはあっさりと肯定した。レスター王は呆れた口調でイライアスを諭した。
「セーラは乗馬が驚くほど下手だぞ。それに、この雨の中を?」
「この雨はじきにやみましょう。」
私とレスター王は思わず窓に目を向けた。
すると先程までの豪雨とはうってかわり、窓を打つ雨粒は小さく柔らかな物へと変わっているではないか。
厚く垂れ込めていた雲は何時の間にかその勢力を弱め、弱々しくはあるが陽の光が遠くの空から透け始めていた。
確かに、雨があがりそうだった。
同じく空を窓越しに見ていたレスター王は、苦笑した。
「やはり天はお前に味方するらしいな。だがここは、一度仕切り直してから迎えにきたらどうだ?そもそも今回はレイモンド王子殿下の付き添いではないのか?」
「ガルシア国王陛下は大変に魅力的な方であらせられますので、私は不甲斐なくもこれ以上妻を置いて行きたくはないのです。」
レスター王は、ふん、と鼻を鳴らした。
それを受けて、付け加える様にイライアスは説明した。
自分はレイモンド王子に嫌われているから、寧ろ遅れを取ろうが喜ばれるだろう、と。
レスター王は静かな口調で頷いた。
「では少しの間、私とセーラを二人にさせよ。別れの挨拶をしたい。」
私は身一つでこちらへ来たので、自分の荷物は何も無かった。さっきメリディアン王女が帰る時は、ガルシアからの贈り物を山と馬車に積んでいたのに、何という違いだ。女官が私に雨よけの外套を準備してくれる間、私はレスター王と王宮の正面玄関からほど近い所にある、小さな応接室で待った。
レスター王は部屋に入るなり私を抱き締め、頬を私の頭に擦り寄せた。私も彼の身体に両腕を回し、強く抱き寄せる。
もう、お別れなのだ………。
次に会える機会が有るのかも分からない。レスター王と身を寄せ合っていると、かつてヨーデル村で彼と引き離された時の胸の痛みがよみがえり、私は又しても自分の半身と引き剥がされる様な思いがした。
こんなに辛い事を決心したのは、私なのに。
「セーラ、ずっと愛しているよ。私もそう遠くない内に、結婚をするかもしれない。お互いに家庭が出来るかもしれない。でも、そうだとしても、君は私にとって唯一無二の存在だよ。」
私は何度も頷きながら、レスター王の涙で濡れる頬に唇を滑らせた。
レスター王の顔が動き、私の唇に彼の唇が押し当てられる。ーーーーきっと、これは私とレスター王の最後の口づけになるだろう。
レスター王は私の唇を互いの涙ごと、ついばみながら口を開いた。
「君を正妃に出来なかった自分の立場が恨めしいよ。自分が王という立場でさえなければ、と心から思う。」
レスター王は私の両頬を手で包み込み、真近から私の視線を捉えた。
「ねえ、もし生まれ変わりがあるのだとしたら、その時は絶対に君を離さないよ。その時は、私の妻になると約束をして。」
「うん。きっとそうするよ。」
「きっとじゃだめだ。」
「絶対、そうする。アルを選ぶよ。」
「本当に?私と結婚してくれる?」
「うん。約束する。」
私たちはそういう運命にあったのだろう。そんな気がした。
レスター王は私の両目に唇を落としてから、身体を離した。左手首を私の前に出すと、そこに巻きついている金色の腕輪を外した。
「これを持っていて。いつでも私を思い出せるように。」
「ありがとう。」
腕輪を受け取り、自分の左手首にはめようとすると、レスター王の指がそれを制止し、代わりに留め金を留めてくれた。
私たちは長い事そうして抱き合ったままでいた。
雨は上がっていた。
雲の切れ間から幾筋もの光がさし、まだ濡れて光る石畳の地面を照らす。
私はレスター王と王宮の建物の入口をゆっくりと歩いて出た。前庭ではイライアスが馬の手綱を手にして私を待っていた。
「気をつけろよ。落馬するなよ。」
聞き慣れた低音に振り返ると、キースがシアと二人、建物のひさしから下りる柱に寄り掛かってこちらを見ていた。急いでキースに駆け寄る。
「キースさん、貴方はイリリアに帰らないの?」
キースは薄い笑みを見せながら、首を左右に振った。
「あんたがイライアス様を選んだのなら、俺はレスター陛下を選ぶ。ここで、本来の自分を取り戻していくよ。」
私は無言で頷いた。
キースの瞳は今、私が見た事がないほど澄み切っている気がした。私たちは暫らく無言で見つめ合い、別れの時を迎えた。
「キースさん、お世話になりました。」
「ああ。あんたの事、忘れないよ。ーーーイライアス様を幸せにしてあげてくれ。」
シアにも頭を下げ、再びレスター王の元に戻り、私は彼に握手を求めた。淡い青の類い稀な瞳を、そうして脳裏に焼き付ける。
レスター王は手を私の左手首に滑らせ、控え目な笑顔を見せてくれた。
「セーラ。君の幸せをいつも祈っているよ。」
「ありがとう。私もだよ。………さようなら。」
王宮の建物から前庭へと続く数段の白い階段に足を掛けた。馬に乗るのを手伝うよ、と言いながらキースが後を付けて来た。
イライアスの手を借りて馬の背に乗ると、キースに手綱を預けてイライアスが私の後ろに乗った。
キースはイライアスとほんの少しだけ物言いたげな視線を交わした後、手綱を彼に返した。
「キースさん、さよなら。元気でね。」
馬上から声を出すとキースは滲む様に笑んだ。
「ヴォイツェクだ。」
「えっ?」
「俺の本当の名は、ヴォイツェクという。」
私が驚いて目を見張っていると、イライアスは馬の方向を変え、首を出口に向けた。私は更に自分の首を後ろへ向けて、白い王宮の前に立つガルシア王国の人々を見た。
「みなさん、有難うございました!」
大きな声を張り上げて手をブンブンと振ると、レスター王も、キースもシアも手を振り返してくれた。
その姿はやがて遠ざかっていった。
は、速い!!
速い!!!
イ、イライアスさん、私馬から落ちそうですーーー口から出た言葉は正面からぶつかって来る爆風に奪われ、後ろの人物にはちっとも伝わらない。
イライアスは全速力で馬を走らせていた。
「陛下と二人きりで何を話していたのです?」
耳元で美声が響く。
答えたくても、そのゆとりが無い。
「まあ良いでしょう。………後でたっぷり時間をかけて聞きますから。」
やがて前方に馬車が連なる一団が見え、速度の遅かったそれはあっという間に近づき、私たちはその後ろについた。
一行は私たちに気づいたのか、速度を更に落とし、遂には止まった。黒い馬車の扉が勢い良くあくと、中からはメリディアン王女が飛び出して来た。金の髪をキラキラと揺らしながら弾ける笑顔で私たちの所まで走って来る。余程夢中で駆けているのか、途中で華奢な銀色の靴が片方脱げても気にも留めずに王女は興奮気味の上ずった声を上げた。
「イライアス!やったのね!!」
私たちが本当の夫婦になれるチャンスを作ってくれた彼女に、礼を言おうと自然と綻ぶ口元を開けた次の瞬間、突然視界が塞がった。背後から手が回されて顔が降って来たかと思うと、私はイライアスに唇を奪われていたのだ。
「………それのどこがメリディアンの忘れ物なのだ。お前の忘れ物ではないか。」
飛んで来た怒気の乗った声に、イライアスが私から唇を離した。後ろを向かされていた首を元に戻すと、王女に続いてレイモンド王子が馬車から降りてくるところだった。どうやら、イライアスは王女の忘れ物を取りに戻る、と体裁を繕っていたらしい。
するとイライアスはするりと鞍から滑りおり、レイモンド王子の前まで歩み、膝を折った。
「図らずも王女様と同じ忘れ物をしておりました。」
「………は、図った結果ではないか…!」
レイモンド王子は不意に目を一度大きく見開き、激しく瞬いた。
「お前、髪が短くなっていないか……?」
「殿下から私めの髪などのご心配を賜るとは、この身に余る幸せにございます。」
「心配などしてはいない!驚いただけだ。」
イライアスは失礼します、と宣言すると立ち上がり、レイモンド王子のすぐ後ろに転げたままだった王女の靴を拾い上げた。レイモンド王子とイライアスを注視していた王女の方へそのまま進むと、彼女の正面に屈んだ。
「メリディアン様、靴をお忘れですよ。」
イライアスの両手で恭しく足の前に差し出された靴の中に足を入れながら、王女は首を小さく左右に振り、控え目に息を吐いた。
「人って、変わるものねえ。本当に。」