7ー4
王宮の正面入口にはガルシアの女官や近衛兵たちがメリディアン王女を見送るために集まり、レイモンド王子たちが通る道を開けていた。
騎乗した男たちに護られた、イリリア王家の紋章が飾られた黒い艶やかで豪奢な馬車にレイモンド王子とメリディアン王女が乗り込むと、一行は静かに前進しだした。激しく降る雨の煩い音が、声を発する気持ちを奪いさってでもいるのか、皆無言で馬車を見つめていた。王宮の建物から馬車までの間の道の両脇に一列に並んでいた近衛兵たちも、雨を浴びながら無言で敬礼を続けていた。
私はゆっくりと遠ざかって行く彼等の姿を、断腸の思いで見送った。足が地面に張り付いたみたいに動けなかった。一行がとても小さくなり、雨の煙幕に完全にその全貌を隠されてしまうまで、私は王宮建物の全開になった入口に立ち尽くしていた。私だけではなく、多くのガルシア人がそうしており、キアまでがいつまでもそこに佇んでいた。地を打つ雨の細かな音と、王宮のひさしを伝い落ちる水の塊が作り出すリズミカルな音が、耳いっぱいに押し寄せる。
グッと左肩を力強く引きつけられ、その時になって私はやっとレスター王が私の肩を抱いていたのだと気づいた。
「中に入ろう。濡れそうだ。」
レスター王は私を動かす様にして肩を押し、ようやく諦めがついた私は彼と建物の中に向かって歩き始めた。白いマーブル模様の石の床に目を落としながら玄関ホールを歩き、廊下へ曲がろうとした時、何気なく後ろを振り返ると、何故か数人の女官と近衛兵しか私とレスター王についてきていなかった。
何も見えなくなった雨の前庭を、まだ皆眺めているのだろうか?
訝しく思って立ち止まると、外にいる者たちが何やらざわついていた。
ますます怪しくなり、私はどうしたのだろう、と入口へ引き返してみた。すると女官たちが興奮した様子で、雨の方角を指差していた。
つられて投げた視線の先に、雨の中を走る馬上の男性がいた。点の様だったその姿形は徐々に大きくなり、何故一人引き返して来るイリリア人がいるのか、と人々は戸惑っていた。
ーーーそんなはずない。でも、いや、やっぱりそうだ。あれは………!
馬を駆り、水溜りを蹴散らしながら猛然とこちらに向かって来るのは、イライアスだった。
距離が縮まると近衛兵たちが動き出し、俄かに警戒体制を一応とる。
真近までやって来ると、イライアスは馬の背から滑り降り、濡れた石畳の地に膝をついた。降りしきる雨で金色の波打つ髪はすっかり水を吸い、止めどなく水滴が腰ほどまである毛先から滴り落ちていた。彼は黒く固そうなつばが付いた帽子を被ってはいたが、その細い顎からもひっきりなしに雨粒が伝い落ちる。
「どうした、何用だ。」
私の横にいたレスター王が辺りに響き渡る声で、イライアスに問いかけた。
「私の個人的な用件で参りました。私の妻を、連れ戻しに………、いえ、妻の許しをこう為に。」
「………お前は妻を捨てたのではなかったのか?」
「私の過ちです。それを正す機会をいただきたく、戻って参りました。」
妻………。私を、まだ妻と呼んでくれるの………!?
立てられた片膝の上につくイライアスの片手から、何やら布切れが覗いていた。ーーーーーあの、手巾だ!
私は無意識のうちに自分の口元を押さえた。ついにあの手巾が、イライアスの手に渡ったのだ。手巾に刺繍されている絵の意味を、彼は分かってくれただろうか?
レスター王はつかつかと前方へ進み、建物から伸びるひさしが届くギリギリの所まで行くと、不意に抜刀した。
周囲の空気がこれ以上はないというほどに張り詰める。
レスター王は近くにいた若い近衛兵の一人に、イライアスを見つめたまま命じた。
「あのイリリア人に剣を渡せ。」
「えっ……あの、ですが…」
「二度言わせるな。剣を渡してやれ。」
顔を強張らせて近衛兵が雨の庭に降り、イライアスの正面に剥き身の剣を置いた。
「イライアス。妻を返して欲しければ、剣をとれ。どちらが真に相応しいのか、天に聞こうではないか。」
陛下、お戯れはおやめ下さい、と後ろから低い声がした。聞き覚えあるその声に振り返ると、そこにはキースがいた。その隣にはシアまでいた。
「戯れなどではない。私は本気だ。………それともお前はだからこそ私を止めると言うのか?イライアスの腕を誰より熟知した者として。お前は予言するのか?私が負ける、と。」
「陛下……。」
キースは困った様に眉根を寄せて表情を曇らせた。
ここで私がだんまりを決め込んで成り行きを傍観しているのも、変な話だ。私は当事者の筈なのだから。何も言わないのは、無責任に思えた。
私は勇気を出して一歩を踏み出し、向かい合うレスター王とイライアスの側まで行った。
「二人とも、頭を冷やして下さい。」
月並な台詞しか出てこない、自分の発想力に失望する。初冬の雨にうたれるイライアスに、これ以上どう頭を冷やせと言うのか。
争うのはやめて欲しいのに。私には剣などで争う価値は無いのだから。
「二人とも、剣なんて振り回したら大怪我しますよ!?どうせなら殴り合いにして下さい。」
ガラン、と金属音を立ててレスター王が手にしていた剣を地面に投げた。
「セーラがそう言うならそうしよう。」
えっ、まさか本当に?!
困惑する私の目の前で、レスター王は雨の中に進みでて、イライアスの正面に立った。そのまま左手で、膝を地面についているイライアスの胸ぐらを掴み、自分の方へ引くと、勢い良く右手の拳を振り下ろした。拳はイライアスの頬にしたたかに当たり、彼の身体がぐらついた。今度は手を持ち替えて、レスター王の左拳がイライアスの右頬に振り下ろされた。それは幾度か繰り返され、イライアスの高く細い鼻からは血が噴き出していた。レスター王はそれでもイライアスを殴るのをやめない。打ち付けるレスター王の拳の、そのかなりの衝撃音に、一部の女官は目を覆う。レスター王は一切手心など加えていなかった。
「少しは反撃したらどうだ?妻を取り返したいのだろう?」
一国の王に手をあげる事など出来ないのは分かっているはずなのに、レスター王は嘲りを含んだ声でそう言う。
「こんな事はやめて!!」
ああ、提案したのは私じゃないか。何言っちゃってるんだろう。だけどこんな時どう二人を止めたら良いのだろう。
イライアスは鼻から流れて止まらない血液を拭こうとしたのか、片手を持ち上げかけ、けれどその手の中にある手巾に気づいたのか、慌てた様子で手を下ろし、反対の手で下衣のポケットを弄り、白い布で鼻を抑えた。
レスター王は、イライアスの傍に今だ転がったままにされていた、近衛兵の渡した剣を屈んで取ると、その鋭い側部をイライアスの首筋に当てがった。
全身の肌が粟立つ。
レスター王が反動をつける様に剣を上方に振り上げたのを見た瞬間、私は雨の中に飛び出していた。
私は水溜りを踏みつけて走り、一直線にイライアスに向かった。身をイライアスとレスター王の間に割り込ませ、イライアスの首筋に縋り付いた。
私の腕の中でイライアスが身体を強張らせるのを感じながら、目を開けるのが恐ろしくて目をギュっと閉じていた。
「陛下………。」
イライアスは囁いているだけな筈なのにその声は良く響いた。恐る恐る目を開けると、イライアスの背後に回ったレスター王が、イライアスの長い黄金の髪を左手で掴んでいた。
あっという間にそこへレスター王の剣が落とされ、衝撃の後に、切断された黄金の髪の束が石畳の上に落ちた。
「立て。中に入れ。セーラの身体をこれ以上濡らしたくない。」
レスター王に命じられて、イライアスは私の腕を優しく振りほどきながら、直ぐ様立ち上がった。長かった彼の髪は、肩先より少し長い程度まで切られてしまっていた。
レスター王の指示で王宮の玄関ホールまでイライアスは入ると、再びそこに跪いた。
「イライアス。タダで妻を返して貰えると思うなよ。代わりに別のものを寄越すのだ。ホルガー男爵夫妻を半年以内に私の元へ連れて来るのだ。」
父さんと母さんを………?
予想だにしなかった事を言われ、私は息を飲んだ。
「ホルガー男爵にガルシア国内の爵位とそれに付随する領地を授ける用意がある。」
イライアスは無言のままレスター王を見上げていた。驚きに満ちていたその表情は緩々と和らぐと、彼は深い溜め息をついてから、更に頭を下へ下げた。暫らくしてから、彼は口を開いた。
「陛下。必ず、お二人を連れて参ります事をお約束します。」
「彼等はイリリアでも我が国でも、気に入った方に居住すれば良いのだ。…………善意は善意で報われるべきだ。そうは思わないか?」
善意ーーーレスター王が私を帰してくれる事だろうか?いや、違う。かつて私たち家族が、父と母が、アルを拾い、我が子同然に育てた事を指すのだろう。今まで報われる事が一度として無かった、その善行を。
イライアスは息を吸うと目を閉じ、絞り出す様に言った。
「私は、貴方という国王を持つガルシアが羨ましい…」
「何を言う。私はお前こそがこの世で最も妬ましい。」
「陛下………私は陛下に謝罪しなければいけない事があります。陛下の宮廷騎士として、その役割を果たせなかった事を私は…」
「言うな。セーラを大事にしてくれれば、それ以上の事はない。必ず幸せにしてくれ。」
イライアスは緑の双眸を動かし、私を見た。
「セーラ。私は汚れた人間です。けれどもやはり私は貴方が欲しいのです。貴方をショアフィールドの家に、連れて帰り、再び妻とよびたい。身勝手だとなじられるのは覚悟の上です。貴方の気持ちが私に向いていたのなら、そしてそれがほんの僅かでも今も残っているのなら、どうかもう一度、やり直させて下さい。」
本当に?これは現実だろうか?
それともこれは、あのドーンの夜の夢の続き……?いや、違う。私を見つめるイライアスの瞳は、どこか曖昧で感情が読み取れなかった緑色ではなく、今遮るものなく真っ直ぐ真摯に、私に向けられていた。
「私は一度、イライアスさんを信じました。」
淡々とした口調で言ったが、咎める様な空気になった。
イライアスの表情が強張り、柔らかな髪が濡れて貼りつく白い顔はその白さを増した。
「私は戦況によっては、貴方をあわよくば手に入れようと考えていました。守ると言う一方で、貴方を手に入れる願望を捨てきれなかったのです。………貴方を抱き締める権利など私には存在しなかったのに。貴方の心を軽んじ、深く傷付けた事を心から後悔しています。」
イライアスが手巾を持つ握りこぶしに力を込めたのが見えた。
知っている。
同じだったのだから。
私も、もしかしたら本当に愛されているのかも知れない、という一縷の望みを捨てきれなかったのだ。
「今、また私はそれを信じて良いのですか?」
これは自分に向かって言っている様なものだ。
「互いに思いやり合える良き夫になると誓います。もう一度私を、夫と呼んで欲しいのです。………薄汚い男だと罵られても。」
私は答える代わりに、膝をついてイライアスに抱きついた。濡れた髪が頬に当たり、その冷たさすら心地良く感じた。
「私は、イライアスさんを許します。誰が貴方を憎もうとも、私だけは貴方を許します。」
「セーラ………。」
「私を守ろうとしてくれて、ありがとう。イライアスさんがいなければ、私はデメルの戦いで助かっていなかったのですから。それから私のせいでたくさんのものを失わせてごめんなさい。」
「この世で最も大切な貴方を得るのに勝るものはありません。それに何ひとつ、貴方のせいなどではないのですから。」