7ー3
お菓子の街まで戻る道すがら、レスター王は馬をゆっくり歩かせながら私に色々な話をしてくれた。
彼がガルシアに戻った時に、どんな事に驚いたのか。戸惑ったのか。初日の宴会での私とメリディアン王女の困惑に満ちた反応が、いかに以前の自分に似ていて愉快で懐かしかったかを。
街の中心部に入り、資料館が近づいて来ると、私たちは言葉少なになっていった。色とりどりの可愛らしい家並みが連なり、どの景色を切り取っても絵になった。私は漸く思い出したかの様に景色を見始めた。細い石畳の道を吹き抜ける心地よい緩やかな風が頬に当たり、髪を揺らす。
「セーラ……。無理強いはしたくないからね。メリディアン王女が帰国したら、イリリアまでセーラを送る手はずは整えておくよ。けれどもしイリリアが、君にとって住みにくければ、直ぐにガルシアに帰っておいで。」
「賭けは良いの?」
レスター王は暫らく沈黙していた。
馬の蹄がたてる軽やかな音だけが響いていた。再び口を開いたレスター王の口調は穏やかだった。
「セーラの気持ちを失うのが一番嫌だ。男として一番に愛されないのなら、せめて世界で一番の弟でありたい。」
私への彼の気持ちが直向きに伝わってきて、胸に込み上げるものがあった。堪らず私は馬上で身体を反転させ、両腕を伸ばしてレスター王に抱きついた。アルがレスターになって、初めて自分から彼にしがみ付いた気がした。
レスター王はため息混じりに笑った。
「ほらね。弟も考え様によっては役得だ。」
資料館に着くとシアが入り口に仁王立ちになって、私たちの帰りを待っていた。まるで門限を見張る保護者みたいだ。
腕を組んで立っていた彼は、私たちの馬が近付くと素早く駆け寄り、私を馬上からおろしてくれた。次いで馬の手綱を受け取り、レスター王がおりた。
シアは私を探る様に見ていたが、何も聞いて来ず、無言で私に紙袋を寄越した。
さっき買った焼き菓子に違いない。
王女は資料館の一室で、丁度来館者の記録帳に一筆入れているところだった。彼女はなかなかの達筆ぶりで記している自分の名前の字を途中で止め、パッと顔を上げた。
「どこに行っていたの?突然いなくなるから驚いたわ。」
「すみません。実はお菓子を買いに行ってました。お菓子の街ですから。」
そう言いながら、手に持つ紙袋をガサガサと振って見せると、王女は呆れた顔をした。
「馬鹿ねえ。そんな物より、伝統衣装を作って貰えたかもしれないのに。」
字の続きを書き出した王女の横に立ち、私は紙袋を開けた。丸くて白い、雪のボールみたいな焼き菓子が八つ、入っていた。シアが買った分が全部あるという事は、どうやらキアのお土産ではなかったらしい。でもこんなにあったら食べきれない。仕方が無い。後でキアにあげよう。シアが買ったと教えれば、私からの土産でも受け取ってくれるだろう。
こんな道端で売る様な菓子を女官にあげても良いのか分からないが、そこはシアに責任をなすりつければ良い。そもそも私はこれを王女に食べさせようとしているわけだし。
私と王女は王宮への帰りの馬車の中で、顔と手を飛び散った粉砂糖でベタベタにしながらその菓子を堪能した。
こどもじみていて行儀が悪い、いけない事をしている様なおかしさから、互いの鼻や口周りの白い粉を、腹を抱えて笑った。
お菓子の街から王宮へ戻ってからの数日間は非常に穏やかに過ぎた。私たちは女官とお喋りやゲームをしたり、広い王宮内を散歩したり、レスター王の妹が主催してくれたお茶会に参加して過ごしたりした。
イリリア王国からいよいよ迎えが到着する日の前夜、私とメリディアン王女は、王女の寝室で過ごした。王女の寝台に二人で寝そべり、ガルシア王国での長くて短い様な、けれど刺激的だった毎日について語り合った。明日、イリリア王国から迎えが来たら、王女は天空宮に戻るのだ。そうしたら、果たしてその後私が彼女と会える機会は今後あるのだろうか……?
私たちは口にこそしなかったが、帰国した後の互いを待ち受ける未来について、漠とした不安を抱き、夜更けまで他愛ない会話をしつづけた。
翌日は朝がいつ来たのかが分からないほどに天候が悪かった。雲は分厚く空を覆い、太陽をその光までも完全に隠さんとしていた。その雲を押し流す勢いで強い風が吹き、暗い空から大粒の雨を落とす。寝室の窓を叩く雨粒は風に煽られて叩きつける様にぶつかっていた。
この状況の中で迎えは無事今日つくのだろうか。そんな心配を私たちがしながら、朝食をとる最中に、女官が飛び込んで来た。
「お迎えがいらっしゃいました。」
ゴクリと王女が喉を鳴らしたのが聞こえた。王女は手にしていた胚芽入りのパンを皿の上にそっと戻した。そのまま立ち上がりかけたところを女官が制止した。
「まずはイリリアの第二王子殿下が陛下とお話をされます。ですので、まだお時間にゆとりがありますので、どうか召し上がって下さいませ。その後でお召しかえ頂きます。」
私は緊張しながらも食べ終わると、席をたち、まだ食後の茶を味わっている王女の座る椅子の真横に屈んで膝をついた。どうしたの、と目を瞬かせながらカップを置く王女に、私は小声で語りかけた。
「王女様。お願いしたい事が一つあるんです。」
「なあに?立ちなさいよ。ドレスが汚れるわよ。どうしたのあらたまって。」
私は姿勢を変えずに続けた。
「イリリアにご帰国されて、もしイライアスと会う機会があったら、彼にこれを渡して頂けませんか?」
ポケットの中から一枚の手巾を取り出した。
王女はそれを受け取ると、施された刺繍の模様を確認しようと思ったのか、広げかけてけれども途中でやめ、何か考えている仕草を見せた後、自分の服のポケットにしまいこんだ。
「必ず、渡すわ。」
王女は手巾について何も聞いて来なかった。私が言いたければ自分から言うはずだから、言いたくないに違いない、と判断してくれたのだろう。
あげようと思っていた人物に渡す機会を失っていたその手巾が、例え人づてでも構わない。私は本人に見てもらいたかったのだ。
長く白い廊下を歩く間、私は数歩先を歩くメリディアン王女をただ見つめていた。揺れる金色の愛らしい縦巻の髪と、細い肩を。
十人ほどの女官が私たちを囲む様について来てくれていたが、誰一人言葉を発しなかった。整然とした足音と柔らかな衣擦れの音だけが、長い道のりの間耳に響いた。
案内してくれた大広間には、数人のガルシア人とレスター王、それにレイモンド王子がいた。白い両開きの扉が開き、私たちが現れると、レイモンド王子は弾かれた様にこちらを振り向いた。その瞳は最初安堵の色が浮かび、だが直ぐに強張った物へと戻った。
王女は床に沈んで膝を折り、小さな頭を垂れた。
「お兄様。ご迷惑をおかけして本当にごめんなさい。」
「メリディアン……。変わりなくて安心したよ。顔を上げなさい。」
お兄様、と呟く王女の声は微かに震えていて、顔を上げた青い瞳には涙が溜まっていた。
まるで何かに背中を押された様にレイモンド王子は足を進めて王女の方へやって来て、彼女をぎこちなく抱き寄せた。
そうして王女の両頬を両手で包む。
「お前………っ。帰ったら、散々叱られるぞ。この問題児が。お父様に何発か殴られるぞ。分かっているな?」
王女は涙を静かに流しながら、こくこくと頷いた。
レイモンド王子はやがて王女を離して、私に向き直った。
「君を悪く言う王族は多いが、私は君には寧ろ同情するし、王家の一員として申し訳なく思う。君を憎むのは筋違いだからね。」
毛皮の縁取りがされたマントを振り払うようにして、レスター王が片手を上げ、それに応えて扉が開かれた。私は王女との別れを惜しむ女官たちと共に、膝を折って二人に別れの挨拶をした。私たちが入って来たのとは逆方向のその扉の先は廊下になっていて、両端に一列に並んで二十人ほどの男性が立っているのが見えた。冴え冴えとした赤地に金と黒の刺繍がされた鮮やかな色使いの煌びやかな衣装から、彼等はレイモンド王子の同行者であるイリリア人だと分かった。久々に目にするイリリアの色彩は、瞳に眩しい。
レイモンド王子は王女と共にレスター王に対して別れの言葉を交わすと、扉に向かって歩き出した。
その少し後を、レスター王が追う。
廊下に出て少し歩くと、ふいにレスター王が立ち止まり、こちらをくるりと振り返った。
ーーーどうして私を見ているのだろう?
不思議に思って少し扉の方へ行ってみると、廊下の視界が開けてレスター王の横にいる人物の姿が目に飛び込んで来た。腕を後ろに組み、踵を揃えて前を見据え、直立不動で立つのはーーーそれは他のイリリア人たちと一緒に廊下の壁を背に一列に並ぶイライアスだった。
久しぶりに目にした彼の姿に、心臓が跳ねた。
まさか、本当にレイモンド王子とガルシアへまた来てくれるなんて……!
だがしかし、胸の中で暴れて抑えきれない動揺と興奮の渦中にいる私を他所に、イライアスの横顔は石膏の彫像の様に白く、一切の表情も浮かんでいなかった。
「かつて私付きの宮廷騎士を長くつとめていた為に二度もガルシア行をイリリア国王に命じられたのか?余程来たがる者がいないと見える。ガルシアに派遣されるイリリア人の中には、遺書をしたためてから出国する者たちもいるそうではないか。………過去の任務がとんだとばっちりになったな。」
皮肉混じりに問いかけるレスター王に、イライアスは目礼した。長い睫毛に大半が隠れてもなお輝く澄んだ緑色の瞳を、改めて私は美しい、と感じた。
「名誉な事だと思っております。」
レスター王は首を軽く左右に振り、口の端を歪めて少し笑った。
イライアスはその場で微動だにしない。勿論、彼が目を上げて私の方を見ることもない。
ちらりとだけでも構わない。私を見て欲しい………。もう一度あの宝石の緑色と視線を通わせる事ができたなら、どれほど嬉しいだろう。
「イライアス。一つお前に質問がある。この世で自分が最も愛する者と、最も自分を愛してくれる者の、どちらと結ばれるのが幸せだろうか?」
イライアスは表情を全く動かさなかったが、私には私たちを取り巻くその場の空気が俄かに緊張感を孕んだ気がした。
目線を床に落としたままイライアスは答えた。
「愛し合う者たちが結ばれるべきかと存じます。ですが敢えてその二者択一をするのであれば、この世で最も自分が愛する人と結ばれる方かと。他人の気持ちに序列を作る事はそもそも困難なのではないでしょうか。」
「………お前らしい答えだな。参考にさせて貰おう。」