6ー4
キースが話すべき事を全て伝え終えても、誰も口を開かなかった。
淡々とした低い声は感情がまるでこめられず、事実だけを伝えていたが、私には却って想像するに余りある過去の重さを際立たせているように思えた。
地下牢の肌にこびり付く様な冷気は最早感じる事も出来なくなっていた。
「俺が勝手にあの時ディディエの補佐官に挑まなければ、フィオナが亡くなり、イライアス様が生死を彷徨う事も無かったかもしれない。そもそも本来俺は補佐官として、イライアス様をお一人にすべきではなかった。………あの場でガルシアに戻る事はどうしても出来なかった。」
結果的にキースはずるずると居着き、帰国するきっかけを失っていたのだろう。
キースは私をひたと見つめていた。結ばれた口は、もう何も話す事は無い、と言っている様だった。
これが、イライアスが私に隠したがった過去だった。知らされた事実をどう消化して良いのか分からない。裏切られた気分がするのは否定出来なかった。彼がフィオナにした仕打ちを考えれば、怒りもわいた。
しかしながら一番重く突きつけられたのは、所詮私は単なる同居人だった、という事である。やはり私はイライアスを殆ど理解せず、理解し合ってなどいなかったのだろうか?ドーンでひととき、心を通い合わせたと思っていたのに。………あの時の彼の言動全てが嘘だったとは、思いたくないのに。
鍋が売れなくても一緒にいる時はいつも笑顔で幸せそうだった、両親の姿を思い浮かべた。違う。…違う。無意識に私は首を横に振っていた。
ふいに肩を叩かれ、驚いて後ろを振り返る。いつの間にかシアが私のすぐ後ろ立っていたのだ。
「大丈夫?真っ青だ。」
あやふやに首を縦に振り、私はキースを見た。
彼はぐったりと壁に寄りかかり、けれど視線だけはしっかりと私を捉えていた。まるで私の反応を観察している様に思えた。
「シアさん、陛下はどこですか?早くお願いして、キースの拘束を解いてあげたいんです。」
「私がお伝えするよ。」
シアは私に優雅な仕草で手を差し出し、私が立ち上がるのを手伝ってくれた。長い事座り込んでいた為に、思いの外足がだるく、立つのに一苦労だったので有難かった。
今私たちがキースから聞いた話を、シアが一人でレスター王に報告するのは心配だった。彼が主観や勝手な解釈を交えず、ありのままを伝えてくれるかが怖い。私は牢を出ると、影みたいにシアにぴったりとくっつき、後を追った。
何か言いたそうなシアの視線を感じて、宣言する。
「陛下の所に行くなら私も同行させて下さい。」
僅かの沈黙の後、彼は優し気な笑みを見せた。
「君はお話し出来るのかい?今聞いた事を。知らなかったのでしょう?」
この人は、人の弱い所を典雅な空気を纏ったまま、なんて巧みに鋭利な刃で一突きするのだろう。あまりにその物腰が柔和なので、シアに対する反発心は芽生えないのに、致命的な部分を鷲掴みにされた気分になる。
確かめる様に彼は言い足した。
「そんな男に未練はないだろうね?」
答えられなかった。
泣くのは違う気がしたが、気持ちを強く持たなければ目に涙が溢れるのを止められそうに無かった。
レスター王は王立馬術学校にいるとの事だった。
シアの説明によれば、そこで学ぶのはガルシア王国軍の幹部候補生たちであり、戦勝報告と鼓舞を兼ね、レスター王が視察に行っているのだという。
丁度メリディアン王女が参加していたお茶会もその頃お開きになっており、シアは王女も私たちと一緒に馬術学校へ行くよう誘った。
別に王女は馬が好きな訳ではないが、断る理由も見当たらず、彼女は私たちと共に馬車に乗り、王宮を出た。
馬術学校は王宮のすぐそばにあり、少しもしないうちに私たちはその建物に着いた。
馬術学校はクリーム色の長方形の大きな建物で、中央に土の敷き詰められた練習場があり、雨天でも馬術の練習が出来るようになっていた。高い天井を持つその周りは回廊になっており、レスター王は練習場にズラリと勢揃いする馬術学校の学生である、幹部候補生たちをそこから見ていた。学生たちは皆十代後半くらいの若者たちで、縦に長い黒色の帽子を被り、制服は白い縁取りのされた黒い上下だった。馬術学校の関係者らしき、ガルシア王国軍の軍服を着た中年の男性と何やら話をしていたレスター王は、私たちが姿を現すと直ぐに気がつき、私たちを迎えた。レスター王はそのまま練習場に向かって呼び掛けた。
「私を常に誇らしくさせてくれる騎士たちよ。諸君にガルシアが勝利したイリリアのメリディアン王女を紹介しよう。」
王女はレスター王によって学生たちの正面に押し出された。学生たちは一糸乱れぬ動作で敬礼をし、突然注目を浴びる羽目になった王女は、動揺したのかスカートの生地を軽くつまんで膝を微かに折り掛け、学生たちに礼を取ろうとしてやめた。代わりに上品な笑顔を浮かべてやり過ごしていた。
………ああ、そうか。シアはこの為に王女をわざわざここに連れて来たんだろう。
遣る瀬無い思いが込み上げた。王女はいわば戦利品みたいな物だ。ガルシア人は、イリリアの王女を見て、勝利の後味を味わっているのではないだろうか。
複雑な思いで学生たちの自信に満ちた顔を見ていると、彼等による馬術の披露が始まった。
純白の馬と漆黒の馬が左右に弧状に並び、寸分のズレも無く脚を上げ下げし、内側に向かって行進し、接触しそうな近さを保ったままその左右の並びを入れ替える。姿勢良く騎乗する精悍な学生たちの、目に見えるか見えないかの小さな合図で馬たちが均等に動く様子は、美しく圧巻であった。
レスター王は回廊の手すりに手を掛けながら王女に言った。
「イリリアには歴史の長い馬術学校がありましたね。見学に行った事があります。かなり参考にさせて貰っていますよ。まだまだ比べるべくもないでしょうが。」
「イリリアの馬術学校では馬は全部白馬を使っていますの。」
並べられた言葉は単なる事実を述べた物だったが、実際には王女のプライドが邪魔をしたのか、その口調はまるで、馬は白でなきゃダメでしょ!とでも言いた気だった。周囲の空気が軋む音が聞こえそうな気がした。シアは苦笑し、レスター王は何故か私を見た。
もしやこれは主の失言のフォローは私がしろ、と言いたいのだろうか。
私は笑顔を作って手を大仰に叩き、王女の発言に付け加えた。
「白と黒のコントラストが綺麗でしたね、王女様。」
更に空気が凍ったのは気のせいか。シアは顔を背けて肩を揺らしていた。言わなければ良かった………。
馬術学校の見学が終わると、シアは王女だけを先に帰そうと馬車に乗せた。
「少し回り道をしながら陛下と馬で帰るよ。君も来るかい?」
恐らくキースの話をするのだろうと思われたので、私は大きく頷いた。
先に一人帰る事になった王女は渋面ではあったが、キースの事で話があるのだと教えると彼女も察してくれた様だった。王女はキースが捕らえられている本当の理由を知らなかったが、彼が危険な状況にあるというのは理解していた。しかし実際一番王女を先に帰したいのは私かも知れなかった。私は王女には五年前の話を知られたくなかったのだ。
私はイライアスとフィオナの間に起きた事を、イリリアの王女に知られたく無かった。
一部の警備兵とシアを残し、王女を乗せた馬車がいなくなると、レスター王は一頭の栗毛馬の鞍を指しながら私に言った。
「乗って。」
一瞬の間の後で、私は一人では馬に乗れないのだ、と答えた。乗るだけでなく、操縦も出来無い。ヨーデル村では金持ちの地主くらいしか馬を所有していなかった。
するとはっと思い出したかの様にレスター王は淡い目を瞬いた。彼の周囲に乗馬の心得が無い者はもう長い事いなかったのだろう。言われてからやっと私の育った環境を思い出して、その事に気づいたらしい。
「それならセーラはシアと乗って。………シアは乗馬が得意だからね。馬術学校の伝説の卒業生なんだ。」
なるほど、と私はシアをまじまじと眺めた。確かに馬が好きそうだ。涼しい顔でこれでもかとビシバシ拍車をかけて駆るのだろう。
指示通りにどうにかシアの馬に乗ると、続けてシアが私の後ろに座る。
ーーー誰かと馬に乗るのは本当に慣れない………。後ろの人の内腿が密着するし、前方に伸ばされる両腕に、何だか包み込まれる様な錯覚を起こされるからだ。
少し緊張しながら手元の鞍を掴む。
一旦自分の馬に跨ったレスター王は急に馬の歩を止めた。
「待て。セーラ、馬を降りて。」
私とシアは翻った命令の意図が理解出来ず、横に並ぶレスター王を問う様な目つきで見つめた。
「あの、今なんて?」
「降りるんだ。」
きっぱりと断言され、仕方なく私は乗ったばかりの馬から降りた。乗れと言ったり降りろと言ったり、何なのだ……。
地面に足がつくなり頭上からレスター王の腕が降ってきて、私は上腕を掴まれ、レスター王が乗る馬に引きずり上げられ始めた。すかさず絶妙のタイミングで警備兵が駆け寄り、私の足を抱き上げて鞍に乗せる手助けをする。あっという間に私はレスター王の前に座らされていた。
「行こう。」
レスター王に声を掛けられたシアは、首の後ろを右手で押さえながら少し困った様な笑みを浮かべていた。
王宮とは別の方向へ駆け、白壁の家並みがひしめく緩やかな坂を登っていくと、公園の様な所に出た。整備されたその広い区間には、真ん中に馬に乗る男性の銅像があり、奥の方は半円形になって柵で囲まれていた。そこは高台になっており、突き出た柵の向こうを見下ろすと、白い建物が建ち並び、時折妙に高い塔が聳え、その隙間に緑が生きるガルシアの王都の一部が眼下に見下ろせた。柵を越えて下から強い風が引っ切り無しに吹き、私のスカートの裾とレスター王やシアのマントをバサバサと揺らしていた。頬がピリピリと冷えを感じる。
二十人余りの警備兵たちを引き連れたレスター王が現れると、広場にいた日向ぼっこ中の老人や遊びに夢中だったこどもたちは、不思議そうな顔で遠巻きにこちらを見ていた。
「ここから街並みを眺めるのが好きなんだ。」
柵のごく手前まで馬を寄せ、レスター王が囁いた。
「ガルシアは何だか全体的に白いね。」
「白いし、低いだろう?イリリアを見慣れていると小さく感じるでしょう。……でも、イリリアの様な大きな貧民街は無い。この国はイリリアの様に豊かでは無いけれど、皆が相応につましく暮らしている。あの国は高く華やかに輝いているけれど、同様に足元の闇も深く救い難い。」
イリリアへの辛辣な思いを語るレスター王を、振り返った。彼の顔は触れるほど近くにあり、私は慌てて景色を堪能すべく、首の向きを戻す。
警備兵たちはある程度の距離をとっていたし、高台は風が強かった。ここならキースの話をしても大丈夫だろう、と考えた。
「陛下……実はさっき、キースから陛下が知りたかった話を聞き出せたんです。今話しても良いですか?」
「そうらしいね。けれどそれはシアから聞くよ。」
「ぜひ私に話させて下さい。あのね、キースは補佐官養成所を首席で出た後、イライアス…」
「セーラからあの男の名を聞きたく無い。」
遮る声の冷たさに、反射的に言葉が出なくなってしまった。
あの男ーーーとは、イライアスを指しているのだろう。
「陛下………。」
レスター王はシアに視線を投げた。それを受けてシアは馬を更に寄せ、私と地下牢で聞いたキースの話をレスター王に伝え始めた。