6ーキースの告白
後半部分に流血等の残酷描写があります。苦手な方はご注意下さい。
「エル!エルったら。速くして頂戴。ジュリアスを待たせてしまうわ。」
歌劇場に着くなり馬車を飛び出たフィオナは金色の髪を靡かせて侍女のエルを振り返った。エルは馬車の荷台から主人の荷物を降ろすのに四苦八苦していた。
今日は泊りがけの外出で荷物が多いのだ。それなのに歌劇場で必要な鞄を奥にいれてしまった。
青い硝子ビーズで飾られた鞄が、自分の給金などでは到底買う事が出来ない高価な物だと知っているエルは、乱暴に他の荷物の中から引っ張り出す事など出来ない。
エルが鞄を大事に両手で抱き締めて歌劇場の中に入ると、フィオナはもう貴賓席に繋がる真紅の絨毯が敷かれた階段を駆け上っていた。
その華奢な後姿を見ながらエルは束の間羨望の溜め息を吐いた。
ここからフィオナの表情を見る事は出来ないが、確認しなくても想像がつく。きっと彼女は今、垂れ気味な為にやや幼い印象を与えるあの青い瞳を期待に輝かせ、高鳴る胸に白い頬を上気させ、愛しい男性に会える溢れる喜びで満面の笑顔を咲かせている筈だ。
一人の女性としてエルはそれを純粋に羨ましい、と思った。エルの主は今、秘密の恋愛をしていた。
大きな歌劇場の二階部分に位置する貴賓席は個室になっており、フィオナは馬車を降りてから一度も立ち止まる事なく、いつもの個室に飛び込んだ。
「ジュリアス!」
舞台を見下ろす位置に置かれた黒い革張りの長いソファに既に座っていた男は、フィオナの声を聞くなり滲む様な笑みを浮かべて離席し、フィオナを抱きしめた。陽の光を紡いだ金の髪と、澄んだ緑の瞳が実に眩い。
エルは二人が熱い口付けを交わす様子を、貴賓席の扉の近くに座って眺めていた。
二人の様子を見ていると、いつも少なからず罪悪感に苛まれた。
フィオナは大貴族ジマーマン家の一人娘で、箱入り娘と言っても過言では無いほどに幼い頃から両親に蝶よ花よと、それは大事に育てられてきたのだった。フィオナは物心つく前から、父親によって婚約者を決められており、相手はこのイリリア王国の第二王子であるレイモンド王子だった。
だがフィオナはレイモンドにはまるで興味が無く、いつも本当の恋を探していた。それは実に小説や歌劇が好きな少女らしかった。
そんなフィオナがジュリアスと初めて出会ったのは、やはり歌劇場での事だった。外套の裾を踏んで階段で転びそうになったフィオナを、軽々と抱き上げて助けたのがジュリアスだったのだ。
ジュリアスは大層な美丈夫で、フィオナは一目で心を奪われてしまった。それは十九歳にして、初めて知った恋愛だった。
レイモンド王子と過ごす時間はとてもつまらなく、嫌気がさすほどのものだったが、ジュリアスと話すのはいつも楽しく、ただ二人で居るだけでくすぐったいくらいに胸が高鳴り気持ちが華やいだ。ジュリアスの端正な顔に見つめられ、自信と確信に満ちた動作で抱き締められ、甘い声で囁かれれば、それを疑うのは大方の女性には難しかった。自分は全身全霊で愛されている、と。
誰が見ても美男美女のお似合いの二人ではあったが、ジュリアスは下級貴族であり、周囲に知られれば決して許されない恋だった。だからフィオナの乳姉妹である侍女のエルは、自分だけは大切な主の味方になろう、と主が美貌の恋人と密会するのを全面的に手伝っていた。
当初は初めての恋愛に熱された主も、じきに飽きて自然に二人の関係は終わるのではないか、とエルは楽観視していた。だが実際は
その逆で、フィオナはジュリアスに会う度に彼に惹かれ、次第に夢中になり、今や完全に溺れ切っていた。
いつか、この二人の関係がばれて、旦那様と奥様ーーーフィオナの両親にこっぴどく怒られるのではないか。エルには常にその不安がつきまとった。
しかしながら、一方でもしや、との勝手な期待も抱いていた。
一度だけエルはジュリアスに似た男が乗った馬車と王都の街中ですれ違った事があったのだ。それは大層立派な馬車で、到底下級貴族が乗る馬車には見えなかった。
それにかなり世間知らずなフィオナは分かっていない様子だったが、エルからみれば、ジュリアスにはなぜか都会の上級貴族独特の、洗練された身のこなしが自然に身についている様に見えた。そういう物は一朝一夕には身につかないものだ。もしかして、ジマーマン家を恐れて真実を言わないだけで、ジュリアスはもっと良い家の貴族なのかもしれない………、そして、今よりさらに身を立てて、将来的にフィオナの両親から交際の許しを貰えるかもしれない。エルはそんな事に一縷の望みをかけていた。
「ねえジュリアス。これ貴方に使って欲しいの。」
眼下の舞台を真近から一望出来、尚且つ歌手たちの声を最も良い状態で聴く事が出来る絶好の貴賓席にいるにもかかわらず、フィオナは歌劇に目もくれず隣に座る愛しい恋人に語りかけた。
その白い手には、青いリボンがかけられた箱があった。
「これを私に?」
問う様に尋ねるジュリアスに対して、フィオナははにかんだ笑顔で答えた。ジュリアスが箱を開けると、中には銀色の輝きを放つ懐中時計が入っていた。蓋にも細かな模様が彫られている。
それはフィオナが母から貰った貯金をくずして内緒で購入したものだった。しかもかなり前から予約をしないと入手不可能な、人気の時計師の手による物である。しかしフィオナの期待に反し、ジュリアスはごくあっさりとした感謝の意を伝えただけに留まった。
ーーーまた駄目だったわ!私の贈り物のセンスが悪いのかしら。ああ、ジュリアスはどんな物なら喜んでくれるの?彼をもっと喜ばせたい。……もっと知りたい。次こそ、もっと喜んで貰いたい。
ジュリアスは舞台で奏でられる人気歌手による三重奏を聴き、視線を舞台に落としていたが、フィオナは演目の間中、只管ジュリアスを見つめていた。
時折思い出したかの様にジュリアスがフィオナの髪に触れ、その長い指を金の髪に絡ませる。その度顔を上げるフィオナの表情は、この上無くいじらしい物だった。
歌劇に幕がおりると、フィオナとジュリアスは帽子を深く被り、粗方の客たちが客席を立ってから貴賓席を出た。彼等はこの後郊外にある、エルの母親が所有する小さな別荘に泊まりに行くのだ。エルは自分の主から感謝して貰える為なら、いかなる協力も惜しまないつもりで、フィオナのアリバイ作りにも余念が無く、ジマーマン家の人間にフィオナの外泊がこれまでバレた事は幸いなかった。
王都の歌劇場からその別荘までは、フィオナとジュリアス、それにエルが馬車に乗って向かうのだが、もう一人若い男が騎乗して馬車を護衛した。
ジュリアスの従者であった。
エルは事情を分かり合えているだろう彼と、もう少し親しくなって話をしてみたかったのだが、その従者はいつどこで会っても帽子を目深に被り、エルやフィオナとの関わりを頑なに避けていた為、交流は全く進展していなかった。
別荘は青い森を臨む美しく静かな場所にあった。赤い屋根を持つ二階建ての建物。一行がその別荘に着いたのは日没後であった為、フィオナとジュリアスは間も無く寝室に入った。
フィオナはいつも寝る前に花茶を飲んでいた。エルは習慣にならい、花茶を二人分淹れると、二人のいる寝室に向かい、扉の前に立った。今しもノックをしようと右手を握り、扉に甲を向けた時。寝室の中から二人の声がした。
エルは決して盗み聞きをする意図は無かったが、二人がフィオナの父親の話をしている事に気づいて、思わず聞き耳を立ててしまった。どうやらジュリアスが、フィオナの父を自宅に頻繁に訪ねて来る軍人は誰か、といった事をフィオナに聞いている様だった。
「何をしている。」
突然気配も無く背後から声をかけられ、エルは手にしていた花茶の乗るお盆を取り落としそうになった。いつの間にか後ろにジュリアスの従者が立っていたのだ。
焦げ茶の眼光鋭い瞳は、恋人同志の夜の会話を盗み聞きするエルの品の無い行動を咎めている様に思えた。
百を超える騎乗した宮廷騎士団が王都の晴天の大通りを駆け抜ける。
整然と馬を駆る武装した騎士たちが雪崩の如く押し寄せたのは、王都の邸宅街の中でも一際目立つ大きな屋敷の正面玄関であった。
高い煉瓦の塀が聳え、黒い格子状の門が固く閉まるそこへ、先頭にいた宮廷騎士が馬上から困惑顔の門番に命じる。
「開門せよ!以下、王命により通知する。宮廷騎士団長ディディエ=ジマーマン。本日正午までに王宮へ出頭し、王の御前にて過日の第三王子フィリップ殿下暗殺未遂事件について詳らかに説明せよ。」
有無を言わさぬ圧倒的な威圧感に、中年の門番が門扉の施錠を震える手で外そうとした寸前、屋敷の前庭から武装したジマーマン家の私兵が走ってきた。ジマーマン家はその広大な屋敷と自家の権威を守る為に、大量の私兵を常時屋敷に置いていたのだ。
「それは濡れ衣だ!部下の命令などでジマーマン家の当主は動いたりはしない!帰れ!」
時を同じくして屋敷からも私兵が次々と飛び出してきて、屋敷の周りを固めた。
「突かれた蜂の巣みたいですね。イライアス様。」
先頭にいたイライアスにその背後に控えていた補佐官であるキースが耳打ちした。それには答えず、イライアスは他の騎士たちに半数は裏門へ回る様命じる。
ジマーマン家の私兵と宮廷騎士団の睨み合いは一時間以上続いた。宮廷騎士たちは一度も隊列を乱す事無く、只管屋敷の門が開くのを待った。門を守る私兵たちは時間の経過と共に精神的にも疲弊して行き、次第に焦燥感に駆られたが、宮廷騎士たちは一貫して冷静で、馬の集中力すら切らすことがなかった。
ディディエが屋敷に籠もる事は予め予測できたからだ。第三王子暗殺未遂に関して、最早どう足掻いても彼が言い逃れできぬ証拠と、最大の味方であった筈の古参の軍人による証言が不足無く集められたからこそ、こうして宮廷騎士団が動いたのだ。しかもその長を捕らえる為に。
屋敷を出て捕らえられれば最後、待ち受けているのは処刑しかない。
正午を少し回った頃、王宮より早馬がやって来てイライアスに国王からの伝言を述べた。
ーーー突入を許可する。
門の前に張り付いていた騎士たちが後方へ下がり、代わって太い丸太を積んだ荷車が門扉の前へ押し出され、合図と共にそれは門に打ち付けられ、数回目の轟音で鉄の門は用をなさなくなった。
「突入!ディディエ=ジマーマンを捕らえよ。」
宮廷騎士たちが敷地内に決壊したダムの様に押し寄せ、それに果敢に私兵たちが応戦する。
瞬く間に障害を薙ぎ倒し、屋敷内部へ惑う事無く駆け上るのはイライアスであった。彼が剣を振るう姿はまるで剣舞でも舞っているかの様に美しく、かつ一分の隙も無く、対峙する人間の目を奪う一瞬の内に相手の守備範囲にもう踏み込んでいた。武人ならば誰もが目を引きつけられ、一度見れば忘れ得ぬものだった。
迷い無い足取りでイライアスは広い屋敷内を突き進む。彼は補佐官と数名の同僚騎士を引き連れ、ディディエの自室へ飛び込んだ。
ディディエは大小様々な剣が飾られた広い部屋の真ん中に立ち、そのうちの一本を抜刀すると、己の身辺を警護する私兵と補佐官の背後に身を引いた。完全に部屋着を纏っていた事から、その襲撃が予期せぬものだった事が分かる。そしてこの籠城の間に着替えていなかったという事は、出頭する気もさらさら無いと推し量れた。
「………イライアス。お前、第三王子についたのか。」
誰もそれには答えなかった。必要が無いからだ。
「騎士団長。どうか私兵を下がらせて、剣を置いて下さい。」
ディディエは太い眉をはね上げた。
「無抵抗で死ね、と?そんな不名誉な末路よりも、私が鍛え上げたお前の腕を試して騎士らしく逝こう。」
ーーー貴方はこんな時だけ騎士らしくあろうとするのか。
イライアスは怒りと共に腹の底から湧いた澱んだ感情を何とか押し殺し、説得を続けた。
「ご家族もご在宅でしょう。これ以上下にいる騎士たちを暴れさせたくはありません。」
その時キースが自身の前に立ちはだかるディディエの補佐官に剣をぶつけた。それが契機となり、相対する二つの勢力は互いに剣をぶつけ合った。
早々と私兵を片付けた宮廷騎士の一人が、ディディエに剣を振り下ろす。だが踏み込んだ筈のその身体は数太刀後、上官の剣を浴びて床に崩れ落ちていた。
室内は修羅場と化した。
更に駆け付けた私兵と宮廷騎士たちが参戦し、やがて足の踏み場に苦慮するほどの私兵と騎士の遺体と負傷者が転がり、それらに蹴躓きそうになりながらも残る宮廷騎士と私兵が乱闘していた。
多くの盾を失ったディディエに猛然と立ち向かい、間断無く剣を振るったのはイライアスであった。
彼は何度か軽い傷を体に負った後、ディディエに私兵の遺体を投げつけられて辛くもそれを避けた直後、己の首に向かって来たディディエの剣先を押しとどめる為に、剣を上官の上半身に勢い良く突き刺した。
ウッ、という低い唸り声の後、ディディエの大きな身体は膝から崩れる様に床に倒れた。数回痙攣し、やがてその身体は動かなくなった。
「…………運び出せ。」
イライアスが顔に浴びた血を手の甲で拭いながら簡潔に命じると、宮廷騎士と補佐官たちはディディエの遺体と負傷者たちを担いで屋敷の外へと運び出していった。
部屋にはただ一人、イライアスが残された。彼は転がる遺体と床を汚した血を見つめて激しく己を叱責した。
ーーー何故もっと穏便に事態を収束できなかったのか?土足で踏み込み、屋敷中を引っ掻き回した挙句、たくさんの死負傷者を出すなど、宮廷騎士団の名に後ろ足で泥をかけるに等しい………。
自分の力不足を悔いていると、ふと人の気配を感じて顔を上げた。
部屋の奥には更に奥へと続く白く塗られた木の扉があり、それが五センチほど開いているではないか。
果たして自分達がここへ踏み込んだ時から開いていただろうか?、とイライアスは眉を顰めた。
一度下ろした剣を、再びゆっくりと構えながらその扉に近付き、足で扉を軽く蹴って開いた。
扉の前には、今にも倒れそうなほど白い顔をした女が、真っ青な目を見開いて立ち尽くしていた。
「フィオナ………!何故……?今日は出かけていた筈では…」
「お祖母様が………体調を崩されたの………。」
本棚に囲まれたその狭い部屋を、フィオナは後ずさる。
「ジュリアス……、貴方が、どうして……お父様を……うちを……。」
彼女の大きな瞳はイライアスの軍服を激しく動揺しながら見つめていた。金糸の刺繍が煌びやかな赤い上衣に白の下衣、それに膝まである黒いブーツ。長いマントは血を吸っていたが、その華美な軍服は紛れも無く宮廷騎士団の物だった。
フィオナはジュリアスが宮廷騎士の軍服を着ている事自体が飲み込めなかった。
「ジュリアス………。」
「私はジュリアスではありません。私の名はイライアス=ショアフィールドです。」
ショアフィールド!?
驚愕にフィオナは目を更に見開く。
ショアフィールドといえば、名門貴族の一つである。いや、まして、イライアス、という名をフィオナは確か以前父が、将来有望な騎士の一人として口にしていたのを聞いた記憶があった。
そういえば、王宮の女性たちから絶大な人気がある容姿の極めて優れた騎士がいる、という噂も聞いた事があった。
それが、ジュリアス………?
「ジュリアス、貴方まさか、私を奪う為に?」
イライアスは思ってもいなかった事を言われて瞠目した。彼が、フィオナを手に入れたい、と心底思った事はただの一度も無かったのだ。
「宮廷騎士団長は第三王子様を亡き者にしようとされたのです。私は最初からこの為に貴方に近付きました。」
「嘘よ!!そんな………まさか、出会いから、全てが偽りだったというの!?」
「一切が…」
フィオナは甲高い悲鳴を上げながら泣き崩れた。お父様、と連呼しながら顔を両手で覆う。
「私は貴方に相応しい男ではありません。目的の為に手段を選ばない、汚い人間です。どうか母方のお祖母様のもとに身を寄せて下さい。ここは暫くの間騒ぎに飲まれるでしょうから。」
イライアスの口から謝罪の言葉は一つも出なかった。許されるつもりは毛頭無かったのだ。どんな謝罪も、ジマーマン家を潰しに来たこの惨状には軽過ぎる様に思われた。彼はフィオナに背を向けて歩き出した。その背後でフィオナが亡霊の様な白い顔で立ち上がり、彼を音も無く追う。彼女は先ほどの乱闘で床に落ちたままになっていた短剣をその白く細い手で拾い上げると、今しも部屋を出ようとしていたイライアスに短剣ごと身体をぶつけた。イライアスは丁度その瞬間、気配を感じて彼女を振り返っていた。避けるべきか否かーーーーあろう事か、彼はその瞬間僅かに逡巡し、足を止めた。
「フィオナ……。」
イライアスは両手を上げてフィオナの細い肩に優しく触れた。フィオナは背伸びをしながらイライアスの唇に自分の唇を押し当てた。
「駄目よ、行かないで。愛しているの、ジュリアス。」
唇をイライアスの頬や顎に幾度もついばむ様に滑らせ、フィオナは嗚咽した。次第にその青い目に涙がせり上がり、頬を濡らしていく。その白い両手は短剣の柄を握り締めたままであり、温かな液体に濡れていく。
イライアスの高い鼻梁がフィオナの唇を掠める様に滑り、彼の身体は遂に崩れ落ちた。横向きに倒れたイライアスは自分の血が溢れる腹部を押さえた。血は止めど無く流れ、辺りに赤い染みが広がっていく。
「貴方を誰にも取られたくない……。私だけのジュリアスでいて!」
フィオナはそう告げ、震える手で今度は短剣を自分の首筋に当てがった。
イライアスは息を飲み、血をドッと流しながらも起き上がり、フィオナを止めようとした。
「フィオナ……!!よせ!!」
短剣を喉に突き刺すと、フィオナは一、二歩後ろへたたらを踏み、傾いだ後、人形の様に力無く倒れた。
ーーーー喉から、剣を抜いてやらねば………。
床を這う様にしてイライアスはフィオナの喉元に手を伸ばした。だが剣を掴む事は出来ず、意識が急速に遠のいて行くのを感じた。
腹部から流れる血が自分の金色の髪の毛先を赤く染めているのが視界のはしに映る。震える指先でその髪に触れた。まるで、彼女の赤い髪の様だ、と彼は思った。あの髪に、触れているーーーそんな錯覚を愚かだと思いつつも、イライアスの口元には微かに笑みが広がった。
暗い淵に沈んで行く意識の片隅で、自分の補佐官の声を聞いた気がした。
「ああっ、もうっ………!クソッ。イライアス様、あんた後始末に困る事しないでくれよ!」
妙な台詞だ、とイライアスは目を朧に開けてキースを見る。だが視線がぶつかるとイライアスは不敵に笑った。
「行け。行って、手柄にすると良い。きっと喜ぶ…」
イライアスの脳裏には黒髪の異国の王子の姿が浮かんでいた。だが後半は掠れ、キースには聞き取れなかった。
「死ぬなよ、イライアス様。」
舌打ちをしながらキースはイライアスの身体を持ち上げた。
補佐官として側に仕えて、分かった事がある。イライアスは律儀なのだ。女の剣を避けるなどイライアスには造作も無い筈だ。自分も痛みを受けるべきだと、彼女にはその資格があるとでも血迷ったのではないだろうか………?
キースは苛立ちながら、その場で主の手当てを始めた。補佐官ならば、誰もが心得ている作業だった。闇の左手である彼ならば尚更。
それは真の主に背く事を意味していた。