5ー13
外はもう真っ暗だった。
篝火の明かりで歩くには困難を感じなかったが、同じ天幕がたちならび、自分の天幕が分かりにくい状況になっていた。それに乗じて私は自分の天幕に戻る道すがら、道を間違えたフリをしてあちこちの天幕を覗いた。キースを探したかったのだ。当然中では兵たちが交代で雑魚寝をしているので、軽く痴女になった気分だった。幾つ目かの天幕を覗いた時、遂に見張り番らしき金魚の糞の兵が、何をなさっているのですか、と私に苦言を呈してきた。
覗きに決まっているじゃない、と口から飛び出そうになるのを堪え、精一杯可愛らしく微笑んで口元を覆った。
「私、方向音痴で。」
私の天幕はどこだったかしら、と言いつつ、怪しそうな天幕を目で探す。出入口に兵が張り付いている天幕があり、最後のチャンスとばかりにそこを一直線に目指す。いい加減私の行動を怪しいと思っているだろう見張り番の兵は、険しい表情を浮かべながら、私にぴったりとついてくる。そこではありません、と焦った声で私を制止する見張り番を無視し、更には出入口にいた兵が突進する私に困惑しつつも止めようと試みるのを強行突破すると、勢い良く布扉を開けた。
大当たりだった。
ーーーーその光景を目の当たりにした瞬間、私は精神が身体を突き抜けて何処かへ飛んで行ってしまう様な感覚に襲われた。
視界に入るのは、天幕の支柱に括り付けられた状態でこちらに背を向ける、キースの赤く腫れ上がる傷だらけのその背中と、鞭を握り締めて彼の背後に立つ黒い軍服のシアの姿だった。
「う、う、うちの補佐官に何してくれてるんですか!!」
気がつくと前後不覚な事を叫んでいた。
眼前に繰り広げられている、拷問の見本の様な光景が恐ろしかった。だが輪をかけて恐ろしいのは、鞭を手に少し困った様な表情を浮かべて私を見ている、シアの場違いに柔和な笑みだ。彼は柔らかそうな茶色い巻き毛をかき上げて口を開いた。
「流石は闇の左手。頑迷に口を閉ざしているのです。褒めてやりたいくらいに。」
もう泣きそうだ。
この人、怖過ぎる。
私はキースを庇う格好で彼の背にかじり付いた。キースの脇腹には治療を施されたらしき包帯が巻かれてはいたが、やはり既にそこからは血が滲んでいた。
「こんな事しないで下さい!彼は私を助けてくれただけなんです。だいたい怪我人に何するんですか!」
「この男は陛下の命に背き、敵方に寝返っただけだよ。君を助けたのも新しい主の指示に従っただけだ。そんな男を信用できるかい?」
「色々事情があったはずです。きっとキースはもう裏切りません!」
ね、そうでしょ?と同意を求めてキースの顔を覗き込むと、彼はかったるそうに私をやぶ睨みしているだけだった。余計な事をするな、と口よりも雄弁にその焦げ茶色の鋭い目は語っていた。
許しを乞うつもりは毛頭無いのだろうか。もしかしてキースは死を覚悟しているのかも知れない、と思うと怖くなった。それはメリディアン王女がデメルの屋敷の洗面所で、私を見て感じたものと似ていただろうか。
死を覚悟している人間に、拷問は無意味なのではないだろうか。夜会の夜に人を殺した時、死んだのはきっとキースだけでなく、彼自身だったのかもしれない。
キースが大嫌いだった。彼は終始一貫して私に嫌な態度を取り続けたからだ。けれど、それとこれは別問題だ。今、身を投げ出してでも彼を生かしたい気持ちで一杯だった。
「どきなさい。これは私たちの問題だからね。君は部外者だよ。彼にはイリリアでの所業を報告する義務がある。」
「それなら私が報告します。キースは真面目に補佐官をやっていただけです。」
シアは思案する様に私を見つめた後、鞭を持つ右手を緩やかに下へと下ろした。彼は溜め息を軽くつくと、気分が乗らなくなった、と呟いた。気分って何だ。
「最終的に判断するのは陛下だよ。」
「じゃあ、お慈悲を頂けるよう、レスター王にお願いします。」
「やってみるといい。」
私は先ほどまでレスター王と一緒にいた天幕へ急いで戻った。だが中は無人になっており、既に彼は何処かへ行ってしまっていた。そうだ。彼は国王なのだから、私一人の相手などをする為に割ける時間は限られているのだ。頃合いを見計らって、出来ればレスター王の機嫌が良さそうなタイミングを狙った方が得策だろう。
暫くそこで待ち、その後野営地をうろついてみたが、レスター王はどこか別の天幕にいる様で、見つける事が出来なかった。会わせて欲しい、などと誰かに申し出る立場にも無い。
仕方なく意気消沈してトボトボと自分の天幕へ戻る。中に一歩踏み入れるなり、私は絶句した。
私が一人で寝ていた筈の天幕の中に、所狭しと負傷兵が横たわり、寝ていたのだ。最初は天幕を間違えたのかと本気で思ったが、見張り番の兵に確認しても、彼もここで合っている、と胸を張った。だが胸を張られても困る。
ここでは占有を主張し続けなければ、権利を奪われるのだろうか。戦地の天幕とはそういう物なんだろうか。
さてどうしたものか。
雑魚寝に勇ましく混ざるか。これはあり得ない。
メリディアン王女の天幕で床に毛布でも敷いてごろ寝するか。正直、固い床に直接寝るのは背中の傷に結構な負担になりそうだ。こんな所でこれ以上体調を崩すわけにはいかない。
私は悩んだ挙句、結局レスター王に使用を許可された天幕を使わせて貰う事にした。
立派な天幕の片隅には、簡易な寝台が設置されており、シーツは絹製で果てしなく滑らかだった。身を横たえると場所を忘れるほど夢心地の寝心地であり、私は心からレスター王に感謝した。
翌日、イリリア王国から全権大使として遣わされたのは、イリリア国王の王弟であった。
緊迫した物々しい雰囲気の中、大きな天幕でイリリアとガルシアの一団が席に向かい合い会議は始まり、ガルシア国王のレスターはまず、デメル地方全域の返還を要求した。デメル地方までもを要求されると予想していなかったイリリア側は条件が過大だ、と憤慨した。王弟は、代わりに莫大な賠償金を提示したが、それでもレスター王は首を縦には振らなかった。話し合いは無論その日のうちには終わらず、翌日へと持ち越された。以後双方の全権大使が一月に渡り会議を続ける事になるのだが、そんな事は天幕の中から出ないで隠れているよう命じられた私はこの頃はまだ知る由もなかった。
勝利したとはいえ、ガルシア軍は長期に渡る戦いで疲弊していたし、一方でイリリア軍は大敗をし、直ぐに兵たちを再度集めて立て直すにはかなりの時間が必要だった。双方に最早戦争を再開する余力は無く、物別れに終わる訳にはいかなかった。結局、新たな国境線はデメル地方東岸を流れる河となり、ガルシアの領土は百年前には遠く及ばないものの、現在より大きく西に塗り替えられる事となった。加えて多額の賠償金を勝ち取ったのだが、それ以上に後々大きな意味を持っていたのは、関税の大幅な引き下げであった。
もともと小国と見下されていたガルシアは、大国であるイリリアに貨物を輸出する際、他国に比べて倍から三倍という、異常に高い関税をかけられていた。基本的に関税は従価税であったが、品目によってはガルシア産の物にだけは従量税が適用される場合があり、多くの場合それは税額面で不利に働いていた。この制度は他国もならっていた。
今回遂にその関税障壁が取り払われた事は、ガルシア王国が三流国ではなくなった事を制度の上でも広く知らしめる結果となった。
会議は引き続きデメルに移動して開かれる運びとなり、レスター王をはじめとする殆どの兵たちはガルシア側の全権大使を残してガルシアへ帰国する事になっていた。その当日、私とメリディアン王女は、王弟たっての希望で彼との面会が許された。
私たちが姿を現すと、白髪頭の王弟は顔を真っ赤にしてメリディアン王女を叱責した。
「自分が何をしたのか、分かっているのか!?お前を捜索する為にどれほどの時間と兵力を無駄に使ったか!その上人質まで無駄にしおって……。お前のせいでフィリップは重傷をおったのだぞ?」
口を噤む王女の代わりに、その様子を見ていたレスター王が口を開いた。
「我が軍を愚弄なさるおつもりか。ガルシア軍の実力で我々は戦に勝利したのですよ。」
すると王弟は屈辱に顔を歪ませながら歯軋りをした。
「天空宮で賓客としてもてなし、長年に渡り我が国で学ばせた王子が、長じて侵略者となるとは、夢にも思いませんでしたよ。恩を仇で返すとは、正にこの事でしょうな。」
「天空宮で過ごした年月は、私の中で大いに糧となりましたよ。私の国の置かれた立場を嫌という程分からせてくれました。」
レスター王の表情は変わらず落ち着いていたが、その声はぞくりとする程冷ややかな物だった。
全ての天幕が解体され出発の準備が整いつつあった。
せわしなく動く兵たちの中、西の森を眺めたままジッと立つ二人の姿に私は気が付いた。レスター王とシアだった。
二人はイリリア軍のいたであろう方角を見つめ、ただ黙っていた。二人の胸に一体どんな思いが去来していたのかは、分からない。だがその時私は漸く実感した。戦いは終わったのだ。
私は最早人質では無いし、父さんはもう王宮に縛り付けられなくて良いのだ。アルが連れて行かれてから始まった、我が家の置かれていた特異な状況が、静かに終わった事を、私も一人立ち尽くして噛み締めた。
「これは、ちょっとした只の旅行よ。」
だから大丈夫、と王女はガルシア王国への移動の最中、始終自分に言い聞かせる様に呟いていた。私たちはガルシアが用意した馬車に乗せられて、ガルシア軍と共にイリリアを後にしていた。あれほど緊張していた瞬間は、いざ迎えると実に呆気なく、森を走る間に私たちはガルシア王国領内に入ったのだった。
これよりガルシアでございます、と馬車に並走する兵が知らせてくれ、私たちはただ静かにしていた。道中、たまに気まぐれの様に馬車にレスター王も乗り込んできて、私たちの目的地であるガルシアの王都についてあれこれと話してくれた。
「ガルシアの王都はここより寒いのです。王城は雪の様に白い建物で、晴れた日は眩しくて目が眩む程なのですよ。」
「まあ、陛下が雪みたいに色が白いのは、そのお陰なのかしら?羨ましい限りですわ。」
褒めたのか嫌味なのか分からない相槌を王女が打つ。レスター王は苦笑すら浮かべず、そのまま私を見た。一転してその淡い目にあたたかみが増した。
「セーラ。天空宮と比較してしまえば、小さくて地味な王城だけれど、きっと気にいるよ。それはそれは帰りたくなんてなくなるくらいに。」
「ホホホ!わたくしも居着いてしまうかも知れないわね!」
「おそれ多い。条件が整い次第、速やかにお帰しする所存ですよ。それが一日も早い事をお互い祈念しましょう。」
愛想笑いの手本の様な表面的な、けれど極上に美しい笑みを披露しながらレスター王が答えた。二人が互いに挑発し合う車内の雰囲気がいたたまれず、私は存在感を無くす為に只管身体を小さくしていた。
ガルシア王国の王都に到着したのは、切なくなるほどに空が赤い色をした夕方だった。