5ー6
寝間着から、なるべく動き易い服に着替えた。下働きの女性となるべく間違えて貰えそうな服を選んだつもりだ。
廊下から顔を慎重に出して大厩舎の方角を覗くと、やはり数人の兵たちが見張りについている。松明がユラユラと揺れ、少なくとも五人はいると分かる。あれを突破するのは透明人間にでもならない限り、無理だ。
屋敷の正面入口のすぐ近くには護衛の間があり、常に兵たちが詰めていた。そこもまた、誰にも止められずに玄関から出られるとは思えない。
屋敷の片側には川が流れている。見張りが物理的にいる事が出来ないのはそこしかない。
私は川がある面にある一階の洗面室まで走ると、窓を開け、よじ登り始めた。捻りの無いアイディアであるが、現実的には確実に外に出られる。私は一応泳ぎは苦手ではない。問題はそこから先なのだが、いける所までいってみるしか無い。
「早く出なさいよ。後ろがつかえているわよ。」
びっくりして叫んでしまうところだった。縮み上がる思いで振り返ると、なんとメリディアン王女が腰に手を付いて私を見上げていた。
「どうしてこんなに早く!?」
「どのツラ下げてそんな台詞を言うの。わたくしとの約束の時間はまだまだじゃないの。」
「そんな汚い言葉、どこで覚えたんですか。」
「お前とイリスの会話よ。ほら、誰かくるわ。」
私は王女の裏をかいたつもりだったが、彼女は更に上手だったらしい。私はもう引き返す訳にはいかない。
「私一人で行きますから……。王女様、今まで大変お世話になりました。ご恩は忘れません。」
廊下からバタバタと複数の足音がした。
「早く降りなさい。部屋を出る時に口煩い兄様の兵たちを誤魔化して来たのだけれど、探しているみたいだわ。ほら、急いで頂戴。」
廊下の足音は近づいて来ていた。もう、待てない。視線を窓の下の暗い川に投げる。
その時、見下ろす川の闇を破り、唐突に松明が灯った。兵たちに見つかった!?目を凝らすと一隻の小舟が滑る様に川を進み、私のいる窓の下に来た。信じ難い事に、松明を掲げて小舟に立つのはキースだった。
「飛び降りろ!早く!」
「キースさん、火を消して!見張りにばれます!」
私が慌てて叫ぶとキースは松明を川に投げ落とした。
渡りに舟とはこの事ではないか。なぜキースがここで川下りをしているんだ、とか、そもそもこの男は私の敵なのか味方なのか、などこの際目を瞑ろう。
深さも生態系も不明な夜の川に飛び込むよりは賢い選択なはずだ。
後ろで私を見上げている王女を振り返った。
「さようなら、王女様。」
カッコ良く挨拶をキメてから、足元の桟を蹴り、川に浮かぶ小舟目指して夜の闇に身をおどらせた。着地と共に小舟は木の葉の如く揺れ、キースが体重を小舟の端にかけて、揺れを分散させる。すると頭上から声が降ってきた。
「セーラ、受け止めなさい!」
ああ、嘘………でもでもやっぱり……!!
愕然と見上げると、王女が窓に足をかけて今しも飛び降りようとしていた。
無体な注文に焦りつつ、一縷の望みをかけて小舟に同乗するキースを見てみたが、彼は王女の方を見上げもしていなかった。指一本王女の為に動かすつもりはないらしい。それどころか櫂を両手に握り、ちゃぷんと涼しげな音を立てて水面をかき、小舟を動かし始めている。両者の行動に目を疑わざるを得ない。
窓から降ってきた王女をどうにか受け止めようと、両腕を広げて構えた直後、衝撃が私を襲って押し倒し、次の瞬間私は王女と小舟に挟まれて、肋骨が折れたのではないかと危惧しながら激しい痛みに悶えた。
私を押し潰した王女は涼しい顔で起き上がりながら、乱れた服を整えて座り直した。
屋敷から少し離れると、川は急に流れが速くなり、私たちは物凄い勢いで遠ざかっていた。王女が今しがた飛び降りた窓から松明が出て、兵が慌てた様子で外を見ているのが遠目にも分かった。間も無く色んな意味で大騒ぎになるに違いない。
夜の闇に紛れて屋敷から小舟が遠ざかるまで、私たちは静かにしていた。
やがて私は王女に囁いた。
「王女様。私と一緒に来てどうなさるおつもりですか。」
「乗りかかった船というのよ。」
「違うと思います。」
王女は首を傾けてキースに尋ねた。
「お前、確かイライアスの前の補佐官じゃないの。何故ここに?」
「夜釣りにでも見えます?」
「まあ。飼い主に似るって本当ね。」
「キースさん、どこかに早く舟をつけて、王女様をおろして差し上げて下さい。」
「余計なのがくっついて来たな。誤算だが……まあ、良いだろう。良い土産ができた。」
己の思考回路に浮かんだ断片的な単語を並べるのはやめて欲しい。意思の疎通を困難にしている。
キースは櫂を止め、手を離すとゆらりと立ち上がった。舟が不気味に揺れる。何故立つ。
「あの…?き、キース、さん?」
私を無言で見下ろすキースの怪しく光る目が怖い。物でも眺めるみたいな、底冷えするとても無機質な目。キースは一定の期間、一つ屋根の下で暮らしていても、まるで知り合いではないみたいな気分にさせる事がある。
「ちなみに、私もこの辺で下ろして下さったりすると、多いに助かったりするのですが…」
キースは眉一つ動かさなかった。
ああ、ダメなんですか……。
おろす気はさらさら無いんですね。
渡りに舟だなんて思った私がバカでした。
「ねえ、セーラ、この男との脱走計画があったならちゃんとそう言って。今頃トミーが無駄に厩で暴れているわよ。」
「残念ですが、私とキースさんは別に仲間ではありません。」
何ですって、と王女が聞き返して来たが、返事どころではなくなった。キースが革の手袋をはめ始めたのだ。オマケに私たちを見ながら舌舐めずりをし、手首をばきばきと鳴らし始めた。
腕が鳴るぜ、ってやつに見える。私はジワジワと身の危険を感じて、背中に王女を隠したまま小舟の中で尻をついて後ずさりした。
「キースさん、座りましょ?ふ、舟が転覆しそうです。」
「あんたを助けてやる。」
またそれですか?
だったら、今すぐ座って舟漕いで。それに王女様はぶっちゃけ邪魔だし………。
「ぎ、義理堅いんですね。ならぜひ櫂を…」
「そうでもないぜ。主をコロコロ変えたからな。元の飼い主には次会えば消されるかもな。ははは。」
「は、ははは…」
元の主?全然面白く無いけど、笑わずにはいられない。キースの片手が私の肩を掴んだ。少しその手が、震えている……。
「歯をくいしばれ。」
ハッと顔をあげると私は王女に向かって叫んだ。
「メリディアン様、逃げ…」
腹を襲ったキースの拳は即座に頭にまで達し、私は意識を手放した。
遠くで名前を呼ばれている。
痛い。
何かをはたく小気味良い音が聞こえる。
痛い。
「起きてくれ。」
パシン、という音と共に首が横に振られ、頬に痛みが走り、視界が蘇った。
目をいっぱいに開けると、私を覗き込むキースの顔と、森の木立が見えた。私は暗い森の中を走る細い道の上に倒れていた。呻きながら起き上がると、あたりを見渡した。
すぐ横には小さな荷馬車があり、荷台には麻布を掛けられた王女が横たわっていた。
まさか、と思って荷台に登り、硬く目を閉じて夜空に白い顔を向けている王女の頬に触れた。
暖かい……。良かった。
「気を失っているだけだ。川を下った後、その荷馬車でここまで来たんだ。さて、話がある。」
荷台に乗る私を見上げて無表情なままキースが私に語りかける。
「キースさん、屋敷が見えませんけど、ここはどこですか?」
「森の中だからな。俺たちは大分東に来たんだ。」
東?
それではガルシア軍に近づいているではないか。眉間にシワが寄っていくのを止められない。
「どうして私が逃げるのを手伝ってくれるんですか?キースさんはこれからどうするんです?」
「あんたは俺の束の間の平和を乱しに来たんだ。だから、あんたが憎らしかった。俺の抱える事情のせいで、辛く当たって悪かったな。」
キースは答えにならない返事をした。
要領を得ないが、何だか今まで手負いの野生動物みたいにピリピリしていた、尖った雰囲気を撒き散らしていたキースが、妙に柔らかに見える。身に纏う空気がいつもと少し違うのだ。
「あんたが絶世の美女ならまだしも、納得が出来ていたのかな………。」
どう聞いても失礼な事を言われたが、脈絡が無いので怒る気が湧かない。
「キースさん、馬鹿でも分かるように説明して下さい。」
キースは静かに笑った。
私が今まで見ていた中で、一番品のある笑顔だった。こんな笑い方も出来るのか。
「俺の名は本当はキースじゃない。その名を持っていた男は子爵である父に見放された後、諸国漫遊の最中に病死した。」
「えっ!?どういう事……?」
キースじゃない……?
キースじゃない?!
無意識に私は王女の身体に縋り付いていた。何をしているんだ。
違うでしょ。こんな状況なんだ。今は私が彼女を守らなくてはいけない。
「俺は八年前、前宮廷騎士団長に近付く為にキースという男の身分を借りて、王立補佐官養成所に潜入したんだ。前宮廷騎士団長を失脚させる事が俺の使命だった。」
前宮廷騎士団長の話がここで登場するとは思いもしなかった。何回登場したら気が済むんだ。
いや、それよりもーーーキースじゃない?
呪文の様に私の頭の中をその事実が巡り、不意に疑惑が浮上した。あの夜会に起きた殺人事件だ。
「もしや、夜会の日に殺した父親の友人というのは……」
「俺がキースの名を騙る偽者だとバレたんだ。それで消えて貰った。俺の正体が明るみに出れば、イライアス様の責任が問われるからな。俺には本来使命が二つあった。だが俺はイライアス様のお側にいたいが為に、第二の使命をずっと放棄してきた。」
「………第二の使命?」
「セーラ=ホルガーと家族の様子を、帰国して我が主レスター王にお伝えする事。」
全身の肌が粟立つ。
あり得ない。そんなはずない、タチの悪い冗談だと必死に思い込もうとするが、目の前の男の余りに真剣な有様に、そうと言い切れない自分がいて、暫しせめぎ合う。
「主がレスター王………?」
喘きながら再度森を見渡す。
恐怖からメリディアン王女を見る事が出来ない。
「キースさん、ここは……。」
キースの人差し指が私の唇を指し、言葉を制止した。
「俺はもう、キースじゃない。俺の本当の姿は、レスター王の闇の左手。」
闇の左手!!……………って、何、それ!?
「俺たちは対峙する両軍を大きく迂回した。直ぐそこはガルシア王国軍の野営地だ。あんたを今からレスター王の御元に連れて行く。」