5ー5
厄介な事になった。
私は薄いマットの寝台の上でキリキリと痛む胃を押さえつつ、度々寝返りをうった。
洗面所でメリディアン王女は自分の立てた計画をイキイキと明かしてくれた。
彼女はフィリップ王子を出し抜いて、夜明け前に自分が乗ってきた馬車を出発させるのだと言う。私はこれを聞いても、どうしても、九死に一生を得た、と狂喜乱舞する事は出来なかった。
「御者のトミーには、ニンニクを生でかじらせて、居眠り運転なんてさせないから、安心して!」
奇妙な部分を強調する溌剌とした王女は、私が彼女の計画の落ち度を指摘しても実行を譲らなかった。トミーが馬車の支度を整わせ、三人で王都に逃げ帰るのだという。木は森に隠せというから、私一人など王都に紛れてしまえばそう簡単に見つからないだろう、と彼女は言ったが、私にはそう簡単にこの脱走劇がうまく行くとは思えなかった。王女の子飼いの御者はダブダブの外套を着た、まだ少年の様な体格をしていていかにも頼りな気に見えた。それに、馬車を疾走させても馬に乗った兵たちに追いかけられたら、追い付かれるのは時間の問題だ。私が無理だと言っても、頑固な王女は謎の自信に満ち溢れた様子で言ってのけた。
やってみる前から出来ないと決めつけてはいけない、と。それは教師であった頃に私が生徒に度々説いていた事であったが、そもそもやってみる前から出来ない事が明白なものも世の中には存在するのではないか。
それにしても教鞭をとっていたのが恐ろしく昔に感じる。私も巡り巡って遠い所まで来たものだ。
結局私は王女の説得に失敗し、彼女の計画に表面上は乗る事にした。王女とは一階の使用人用の階段で待ち合わせた。その時刻の直前になったら、寝間着を着替えて行かなければならない。
私はどうしたいのだろう?
心が弱りすぎていて、正常な判断が出来なくなっているのではないか。
馬車と馬が置かれているのは、屋敷から少し離れた大厩舎だ。そこも当然ながら兵たちが警備していたので、馬車に乗る前に私たちは捕まるだろう。トミー一人がどうこうできる人数ではないし、その兵たちは見張りも兼ねているので、彼等を眠らせたり傷付けるのは、ここにいるイリリア王国軍全体を危険に晒す事になるから、不可能だ。そこで計画は終わるだろう。
私だってこのままフィリップ王子の意のままになるのは癪だ。こんな状況を進んで受け入れる人間などいない。かといって、メリディアン王女の計画にも乗れない。失敗が確実なのに、王女やイリスたちに迷惑を掛ける訳にはいかないからだ。
私が行方をくらませば、父さんが犠牲になる。だから、私は明日の戦いだけを逃げられれば良い。屋敷を抜け出した後、馬車などを使わず、森の中をひたすら走って隠れていれば、うまくいけば半日くらいは逃げ通せるかもしれない。フィリップ王子も自分がやろうとしている事について考え直してくれるかもしれない。
だとすればもう、これしか無いーーーー彼女たちを巻き込まずに、一人で逃げるのだ。
そうしよう。
寝台に横たわり、小さな窓に視線を投げながら夜が深くなるのをジッと待った。そんな風にやる事がないと、イライアスの事ばかり考えてしまい、胸がちくちくと痛んだ。
ドーンでの告白は全部芝居だったんだろうか?フィオナにも貴方を妻と呼びたい、とか言ったのだろうか。そう言えばシューリと私は全然似ていない。私はあんなに美人ではない。本当は私になんて触れたいとも思っていなかったのかも知れない。
けれど何故私を逃がそうとしてくれたのだろう。彼の真意が、読め無い。イライアスは私を信用していないのだ。この圧倒的な心の距離が辛い。
どのくらいそうしていただろうか。ふいに私の部屋の扉が開けられた様な音がした。怖くて身体が固まった。
ノックもせず、勝手に人が入ってくるなど、通常あり得ない。
一瞬泥棒かと思った。それならば寝たふりをするのが身を守る最良の手段だ。そう、自宅ならば。
だがここは泥棒が平和に侵入可能な場所ではないし、今はそんな状況じゃない。
足音が複数あることに気付き、余りの恐怖に目をギュッと瞑り、息を詰めた。
足音は寝台の直ぐ横で止まった。
「後悔なさいませんか?」
「聞くな。決めた事だ。」
身体がビクリと震えそうになった。最初に聞こえた、低いくぐもった声は、キースのものだった。そしてそれに対して答えた、抑えていても尚玲瓏な声は、イライアスのもの。
何故彼等が私の部屋にいるのだ……!
困惑のあまり、呼吸が荒くなるのをどうにかこらえる。
「よく眠っていますね。」
「強力な睡眠薬なのだから。」
睡眠薬?なんだ、なんの話だ。物騒な……。
「イライアス様のお立場が悪くなりませんか?」
「もとより五年前に捨てた命だ。構うな。それよりお前がどうなるのかが心配だ。」
「俺は自業自得ですから。……じゃ、連れて行きますよ?」
「待て。」
ギシリ、とマットが軋み片側に沈んだ。誰かが寝台に体重をかけているーーー?
心臓が激しく鳴り、直ぐそばにいる二人に聞こえてしまうのではないかと気が気じゃない。
頬に暖かな手が触れたかと思うと、それは私の顎に滑っていった。もう、呼吸過多になってしまいそうだ。いつ目を開ければ良いのか分からない。
私の顎にかかる指先に力が入り、あっさりと私は首の向きを変えられ、戸口の方を向かされた。次の瞬間私は何か柔らかく湿った物で口を塞がれた。
それは間違いなく唇だった。悲鳴をあげそうになる衝動をどうにか抑える。
キースな訳がない。イライアスが私にキスをしている。僅かに顎を引くと、上下の歯の隙間を抜けて体温を持つ濡れた物が口の中に入ってきた。滑りを帯びたその感覚に一気に心臓が跳ねる。ああ嘘、これは舌だ。割り込んできたイライアスの舌は私のそれに纏わり付き、ゆっくりと角度を変えて絡む様に動いた。
………なんて気持ちの良いキスだろう。こんなに上手なキスがあるなんて、いっそ悔しい程だ。
場違いにも頭の芯がぼうっとしてきたではないか。
「………イライアス様。別れの挨拶はそのくらいになさって下さい。流石に起きてしまいますよ。」
すると侵入していた暖かな舌がさっと抜かれ、続いて耳元で乾いた笑い声がした。
「とうに起きている。そうでしょう?セーラ。」
バレていたーーー!!
もう目を開けるしかなかった。
固く閉じていた目を今更の様に開くと、枕元にイライアスがいた。暗くて良く見えないが、その表情はいつもと何ら変わりなく冷静に見えた。
「夕食を取らなかったのですか?」
夕食?
それならどうにか食べたけれど。第一、私を担いで食堂に連れて行こうとしたのは、あんたじゃないか。
………そうか。私の食事に睡眠薬をいれてあったのか。
「食べました。でも残念ながら吐いたのです。」
イライアスの手が私の頭を撫でた。それを避ける様に私は寝台から半身を起こし、彼を睨みつけた。
「何のつもりですか?」
「貴方は大事な機会を悉く潰してしまう。」
イライアスは戸口を振り返った。つられてそちらを見るとさっきまでそこに居たであろう、キースの姿はもう無かった。煙の様に彼は消えていた。キースは私を連れ出そうとしている様な趣旨の事を話していた。だがこの二人こそ、もう信用ならない。私は彼等の繰り人形じゃない。どうしていつもいつも、私の気持ちなど知ろうともしないで、勝手に決めて強要しようとするのだ。私を馬鹿にしている。私は憤りを込めた鋭い視線を再びイライアスに戻した。
「仕方ありませんね。退散しましょう。」
お休みなさい、と言いながら立ち上がり、扉へ向かうイライアスに手を伸ばし、その腕を掴んだ。
「ちょっと待って下さい!一体何をしに来たんですか!?」
「貴方にキスをしに。」
咄嗟に黙り込んでしまった私を見て少し笑うと、イライアスは部屋を素早く出て行った。私は閉まった扉に飛びつき、無い鍵を探してしまった。