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「ディディエは、立場が弱く目立つ人間を排除する事に快感を抱く傾向を持っていました。イリリアの同盟国から来た王子とその側近が、隠れてとある弱小国から来た王子に陰湿な嫌がらせをしているのを、ディディエは積極的に見て見ぬ振りをしていました。その王子に泣き付かれて私がそれを漸く知ったのが五年前でした。詳しく調べると、ディディエは長年に渡ってそうしてきたのです。ーーー貴人同士の争いを見下して優越感に浸っていたのでしょう。露見すれば外交問題にも発展しかねない問題ですし、何より人として許せなかった。だから私は当時彼と対立していたフィリップ王子と手を組んで、彼を追い落としたのです。」
その話を聞いて、私の脳裏にある光景が浮かんだ。
かつてヨーデル村に迎えに来たディディエと、アルの奇妙な空気。アルは確実にディディエを嫌悪していた。アルは王子としての礼儀作法や心構えなどが、ヨーデル村での暮らしで抜け落ちていただろうから、悪目立ちしたに違いない。それにあの容貌だった。確認するには残酷過ぎる事実だが、聞かねばならない。
「それはまさか、アルも被害者の一人でしたか………?」
イライアスから帰ってきたのは沈黙だった。
彼が私の頬から手を放したと思うと、今度はゆっくりと髪の毛を梳く様に撫でられた。
「教えられません。レスター王の名誉のために。」
絶望で胸が塞がれそうだった。
イライアスは私の質問を肯定したのも同じだ。
顔を覆って呻いた。アルが……アルを私はちっとも分かってあげていなかったし、助けてあげられなかった。
「アルを返してよ!あんたが、あんたがうちに迎えに来なければ良かったのよ!どうしてアルを守ってくれなかったの!?アルの専属警護をしていた騎士だったんじゃないの……!」
感情が爆発するのを抑えきれず、上にいるイライアスを只管こぶしで叩きまくった。彼はそれが顔にぶつかっても、何の抵抗も見せなかった。
イライアスは沈黙を保持したままただ私を見下ろしているので、次第に彼を叩くのに何らの生産性も見出せなくなった。宙に持ち上げていた両腕を力無くおろした。
「フィオナが命を絶つ事は想定をしていませんでした。私にはあれ以来、女性を幸せにする権利など無いのです。ですが、ディディエを討った事を後悔した日は一日もありません。」
女性を幸せに出来ないなら、不幸にしても良いのか。
歯を食いしばって見上げていると、イライアスの瞳に冷たさが増した。
「レスター王を本当は愛しているのでしょう?会えない彼の為に手巾を刺繍してしまうほどに。」
アルに刺繍?
イライアスは何を言っているのだろう。そう思い、ポケットの中の手巾に思い当たった。
イライアスはこれを、私がアルを思って縫ったと勘違いしているんだ!
「侍女が私に嬉しげに報告してくれたのです。私の為に、貴方が果物の木を縫っていると。ですが貴方はそれを私に渡す事はなかった。彼との幸せな村での生活を思い出して縫ったものだからでしょう………?」
「………そうよ。私は貴方なんて大嫌いなんだから。アルに縫ったの……!」
違う、そうじゃない、と心の奥底で叫ぶ自分を押し殺し、私はイライアスを睨み付けた。彼にどうにか一矢報いたかった。
突然野太い叫び声が上がった。
咄嗟に視線をそちらに向けると、書斎の入り口にジルが立っていた。何故かその大きな手で必死に両目を隠している。
「も、申し訳ありません!お取り込み中とは知らず!扉が開いていましたもので。し、失礼しまし…」
「何だ。要件を言え。」
慌てふためいて部屋から出て行こうとするジルに、やや苛立った声でイライアスが尋ねた。
「は、はい。フィリップ王子がお呼びです。」
「直ぐに行く。」
「それと、食事の支度ができたそうです。手の空いた者から食べる様に、との事です。」
「分かった。それで以上か?」
「は、はい。廊下でお待ちしております!」
ジルは目を律儀に隠したまま一礼すると、消えて行った。扉が閉まるとイライアスは私の身体の下に手をいれて、私を起こした。
「まだ食べていないのでしょう。食べて、今夜は少しでも眠りなさい。」
「私に命令しないで。私の好きにしますから!」
「担いででも食堂に連れて行きますよ。」
食事は殆ど喉を通らなかった。
無理に少しだけ頑張って食べる事は出来たのだが、部屋に戻ると胃が痛みだし、徐々に気持ち悪くなっていった。さっき見た兵たちの怪我が今更の様に脳裏にちらつき、また明日の事を思うと我慢が出来ず、屋敷の暗く冷たい灰色の洗面所で、幾度か私は嘔吐した。
フィリップ王子が屋敷に戻って以来、遠巻きに宮廷騎士団の騎士たちが私に常にくっついて来ており、どうやら見張られている様だった。流石に洗面所の近く迄は寄って来なかったが、長居すれば見にくるつもりかも知れない。早く寝室に戻らねば。
口に残る酸っぱい胃液を涙と共に洗い流していると、背後に人が立つ気配がした。振り返るとメリディアン王女がいた。
まだ寝間着に着替えていないらしい。加えて彼女は小さな青い目を茫然と見開き、青白い顔で私を見ていた。
「セーラ、お前まさか………妊娠しているの?」
「はい?」
「嫌だ、どうしましょう!?そんな身体だったなんて!なんて事なの。そんな、だって、イライアスはこの事知っているの!?」
聞き返したつもりが、肯定の返事に聞こえたらしい。この王女は吐いている女を見たら妊娠を疑うのか。
それにしてもなんて狼狽ぶりなのだろう。
とりあえず笑顔を急ごしらえして、王女を宥めてみる。
「違います。単に具合が悪いだけですから。悪阻じゃありませんよ。」
キスで妊娠してしまったら堪らない。
「本当に!?……ああ、良かった。だって夜明け前にここから出て行くのに。」
「夜明け前?」
私が目を白黒させていると、王女は声を落とした。急に神妙な顔付きになり、ひそひそ声で私に耳打ちする。
「何故お兄様のお妃でなくわたくしがデメル行きを命じられたのか、おかしいと思ったのよ。それでわたくし天空宮に帰ってからお父様を問い詰めたの。」
嫌な予感がした。
王女は私の両腕をぎゅっと掴んだ。
「お前はレスター王の家族なのでしょう?お父様は仰ったの。勝利の為なら何でもーーーセーラの生命など差し出しても良い、と。だから、無理矢理馬車を出させて又来たのよ。」
私はそれをもう知っていたが、王女の手は震えていた。ショックだったのだろう。それはそうだ。
私の身を案じてくれる存在に、妙に感心してしまった。この王女が私を心配してわざわざデメルへ戻って来るほど、私を慕ってくれる日がくるなんて、最初は思いもしなかった。
「ちょっと、わたくしの話を聞いていて?何故そんなに冷静なのよ。」
「………今日だけでたくさんの生命がなくなっています。私も彼等と同じ様に戦いに行くだけですから。私だけが、この戦いから逃れられるなんて思っていません。彼等を攻めたレスター王と一緒に成長したのは私ですから。」
「そんなのっておかしいわ。お前、イライアスに洗脳でもされたの?」
思わず笑ってしまった。
或いは、そうかも知れない。
彼の事を好きになってしまう前に、ーーーーそう、遅くともあの夜会の日にでも、レイモンド王子が言った事についてイライアスを追及していれば。そうすればこれほど心が弱ったりはせず、少しは抵抗していたかも知れない。
イライアスの心に私は居なかったのだ………。
私は彼の仮面の上に都合の良い夢を見たのだ。そう思うと胸が痛み、再び視界がぼやけそうになる。
目を乾かす様に一度大きく開けて、私は言った。
「イリリア王国軍は勝ちますから、大丈夫ですよ。フィリップ王子と一緒に無事戻りますから。」
すると王女の声は急に明るさを帯びた。
「あら、わたくしそんな心配はしていないわ。だってお前は戦に行かないもの。ねえ、ここからトンズラしましょ。」