5ー3
「なぜこんな所にのこのこ戻ってきたんだ!このお転婆が!!」
応接間にフィリップ王子の怒声が響く。
王女の一行はまだ幼い御者とイリス、それにごく少数の警備の男性だけで、皆王女と身近な親しい人間だった。王女が自分のわがままをきく手勢だけを強引に連れて、勝手に黙って王宮を抜け出して来たのは明らかだ。
「セーラの熱が心配だったからよ!戻ってきたらピンシャンしているではないの!さっさと帰しなさいよ!」
「お前は何も分かっていない!少しは自重しろ!」
二人ともソファに腰掛けるのも忘れて叫び合っていた。
私はフィリップ王子がこんな風に怒るのを初めて見た。軽い驚きと同時に、やり場の無い怒りが湧きおこった。私はこの時何故か初めてはっきりと彼に強い怒りを覚えた。
メリディアン王女の怒りに燃える青い目が私を捉えると、一瞬それは見開かれ、更なる怒りを持った矛先が再び王子に向かった。
「セーラの髪がいつも以上におかしな事になっているじゃないの!?髪を切ったの?なぜ、誰の仕業よ!」
私は王女にいつも変な髪だと思われていたのか。微かに傷付いた。
「ランプの明かりに当たってしまって……。一部燃えてしまったので、切ったんです。」
思いついた言い訳をしてみたが、王女は疑わし気にしていた。
「兎に角こんな時間に出発する訳にはいかないだろう。分かったから、今夜は泊まって明日セーラを連れて王都に帰れ!」
フィリップ王子は王女が出発する前に私を連れて戦地に行くつもりだ。だが王女は渋々納得した様子で頷いた。
私はイライアスが与えられていた部屋に向かった。まだ彼が無事に戻って来てから、言葉を交わしていなかったし、こうなった以上私にも覚悟があるから心配しないで、と伝えたかった。
イライアスはいるだろうか。
素早くノックをしても、部屋の中からは誰も出て来ない。居ないのかと思ったが、扉の下からは中からの明かりが漏れていた。訝しく思いながら扉に手を掛けると、そっと開けて中を覗いた。
書斎の中は無人だったが、四方の壁と机の左右にあるランプは煌々と輝き、十分な明るさがあった。暗い色の木製の机の上には、真ん中に一枚の紙が置かれていて、目を引いた。吸い寄せられる様に机に近寄ると、紙の裏から薄く文字が透けていた。なんだろう、誰かからの手紙か何かだろうか?
まさか、キースから………?
だが目を凝らすと、その紙はいくらか古びた物だった。キースから最近来たものではあり得ない……。
だがいけないと思いつつも、私の手は紙に伸びていき、指先がそこに到達すると、思わずそれをひっくり返してしまった。
愛しい我が君 ジュリアス様
もちろん貴方の事は誰にも話していません。無二の親友にも、家族にも。特にお父様に知られてしまったら、何をされるか分からないわ!!私はレイモンドとなんて結婚したくありません。お父様の命令などより貴方との愛を貫くわ。
貴方に会いたくてたまらない。もっと頻繁に会えたら良いのに。初めて出会った歌劇場での貴方の姿が忘れられない。知っていて?婚約者からの執拗な追求を逃れて、恋人である吟遊詩人との真実の愛を貫くあの歌劇の、舞台で光を一身に浴びる美貌の吟遊詩人より貴方は輝いて見えたの!
次はいつ会えるかしら?貴方の事ばかり考えているの。貴方の腕の中でその緑色の瞳に見つめられてしまうと、何もかも忘れてしまいそうになるわ。
いつもの様に、お返事は侍女のエルに渡してね。
貴方のフィオナより
何だろう、この手紙?
宛名も差出人も知らない名前が書かれている。にもかかわらず、イライアスのもとになぜあるのだろう。どう見ても、女が男に宛てたかなり熱烈な恋文である。読んでいるこちらが恥ずかしさのあまり、赤面して顔を覆ってしゃがみ込んでしまいたいくらいの。
よく見ると手紙の右下に小さく日付が書かれていて、それは五年前を示していた。
五年前。
最近良く出るキーワードだ。イライアスが不機嫌になり、キースを激怒させる要注意用語の一つとして、私は頭の中に刻み込んでいる。
ディディエ前宮廷騎士団長が討たれた年だ。
「人の手紙を盗み読むのは感心しませんね。」
直ぐ後ろから声がして、驚いて振り返るとイライアスが立っていた。突然の登場に驚愕したせいで、手紙を握り締めてしまい、紙面にシワがよる。イライアスの表情は冷たいまでに整ったままで、全く読めなかった。
「人の手紙ーーーでもこれはイライアスさんへの手紙でも無いです。」
反論を挟んでみると、イライアスは薄く笑った。その瞳に嘲りが走った様に見えるのは気のせいだろうか。
彼は手を伸ばして私の手の中から手紙を奪い去った。文面を一瞥した後、机上に無造作にそれを戻した。
「この手紙は間違いなく私に宛てられたものでしたよ。」
「でも、ジュリアスって……。」
「偽名です。この気の毒な女性は私をジュリアスだと信じて疑わなかった。」
「そこに出てくるレイモンドって、まさかあのレイモンド王子の事ですか?」
私の声は震えていた。声ばかりか足まで震えそうだ。
何かが、崩れようとしている。正確に言えば、これまで目を瞑り、見まいとしてきた曖昧模糊とした灰色の大きな一部分に、誤魔化しようが無い明かりが当てられようとしている。
目の前に立つ男は私の夫と呼ばれ、数ヶ月も一緒に暮らした筈なのに、初めて見る知らない男にすら見えた。
「そう………。あのレイモンド王子です。自身には罪は無くとも母親の生家が罪深過ぎたのです。フィオナはレイモンド王子の婚約者でした。私とフィオナの関係は誰にも知られていない筈だったのですがね。ですから、貴方がレイモンド王子から言われた事を聞いた時は驚きましたよ。エルは田舎にかえしたのですが、そこから話を聞いたのでしょうね。」
心の中で悲鳴を上げた。聞きたく無い。耳を塞ぎたい衝動に駆られる。
イライアスは何を言っているのだろう。
彼は唐突に私の両腕を掴んだ。突然の行動が理解出来ず、恐くて声も出なかった。
「私はフィオナに名を偽り正体を隠して近づきました。彼女はいとも簡単に私に夢中になってくれましたよ。けれども偽りが露呈した時、彼女は命を断ちました。私を道連れにしようとして。………貴方も私を信用してくれていたのでしょう?」
あんまりだ。
告白全てが受け入れ難い。
心を突かれて引き裂かれるみたいな痛みを感じる。
イライアスを信用してはならないと肝に銘じていた筈なのに、いつの間にか私は信じていたのだ、と今気づかされる。
信じたかったのだ。イライアスを。
出会った頃、彼は自分で言っていたではないか。振った女性に殺されそうになった、と。それはまさにこの件を指していたに違いない。あの時聞き流さなければ良かった。
「フィオナはディディエの一人娘でした。ジマーマン家と広大な屋敷内部の情報を入手する為に私はフィオナを利用したのです。」
ああだから、レイモンド王子のいつかの言葉は全て真実だったのだ。
心底キースが腹立たしくなった。心の痛手になっているから、この話をイライアスにするなと頭を下げたのは、彼だ。だが、イライアス本人が諸悪の根源だったのではないか。
「殿下から聞きましたか?貴方は明日イリリア王国軍と共に東の戦地へ向かいます。」
「………聞きました。」
「ではこれは?貴方は唯一人、何の防具をつける事も許されず、最前列に陣取らされるのです。」
イライアスの手に一層の力がこめられ、私は彼に引き寄せられた。
「乱戦になれば鍛えてもいない貴方の肌はあっという間に傷を負い、開戦からそう時を置かずに息絶えるでしょう。貴方は死にに行くのですよ。少し有用な盾として利用されて。」
腕を掴むイライアスの手から逃れようと、身をよじりながら首を激しく横に振った。
聞くに耐えない予言をしないで欲しい。分かっていようとも、改めて聞かされたくは無いものだ。本当はイリリア王国軍に同行なんてしたくないし、もう放して欲しかった。だがイライアスの手には更に力が込められ、私の腕に彼の指が深く食い込む。至近距離で私を見下ろす緑の瞳は壮絶な美しさがあり、かつ背筋をヒヤリとさせた。
「私を憎みなさい。その方が簡単でしょう?」
「嘘つき、守ってくれるって言ったのに………!」
あの手紙は何!?私は何だったの?声にならない質問が喉元にせり上がり、代わりに涙を押し上げる。嫌だ、泣きたく無い。惨め過ぎる。堪らず歯を食いしばる。
「私に好きなだけ失望なさい。貴方や私の思いでは戦況を動かす事は出来ません。或いはレイモンド王子ならば、貴方を匿ってくれたかもしれませんね。憎いフィリップ王子に一矢報いる為に。ですが、貴方を隠せる場所や手立てなどこの国にはもうありませんよ。ここまで来てしまっては。」
イライアスは口元を私の耳に寄せた。
「先の休暇はフィリップ王子から貴方に与えられた、最後の自由だったのですよ。貴重な機会をみすみす逃しましたね。」
なんて素敵な心遣いだろう。
私は脱力した。
あれは、違う。
私はイライアスの側にもう少しいる事を選んだのだ。だがそんな事、絶対に言うものか。
「行けば良いんでしょ。行けば。好きなだけ盾にしなさいよ!あんた達の思い通りになって、アルの足手まといになるくらいなら、舌を噛み切って死んでやるから。」
「そんな馬鹿な事はさせませんよ。決して。」
「じゃあ、私の顎をずっと押さえるの?やれるものなら…」
イライアスの双眸に一瞬凶暴な何かが、見えた次の瞬間、私は彼の両手で両頬を力強く掴まれ、自分の愚かな挑発を激しく後悔した。
そのまま勢い良く彼に引き寄せられ、一転して今度は後ろに強く押されて、背後にあった机に腰がぶつかる。
私を押すイライアスの力は緩まず、遂に身体が倒れると背中から机上に乗り上げた。硬い木の板を背中と後頭部に感じ、そこで漸くイライアスは私を押すのをやめたが、今度は机に身を乗り出す様にして私の上半身にのしかかってきた。私の足は机に乗っておらず、私はバタバタと地面と空気を蹴って暴れた。
「貴方が提案したんですよ。」
そう囁くなりイライアスは私に顔を更に近づけ、私は反射的に目を閉じた後で、唇に柔らかな物を押し付けられた。それは人を傷付ける為だけのキスだった。彼は両手で流れ落ちる私の涙を拭いながら
、幾度か唇の角度を変えた。それは耐えきれないほど長く続き、私は根をあげた。
首を激しく振り、イライアスの唇を追い払う。
「………私も、フィオナです。」
「貴方は彼女とは違う。命を絶たせたりはしません。」
「なぜ……。イライアスさんは、じ、自分が宮廷騎士団長になりたくて、ジマーマン家を討ったんですか?」
するとイライアスは身体を揺すって笑った。
「残念ですが違います。ディディエは最低の上司だったのです。フィリップ王子を暗殺し王統を乱そうとした事。宮廷騎士団を私物化し、その地位を利用し私腹を肥やす為に手段を厭わなかった事。上に取りいる術に長け、己に盲従する者たちだけを周りに固め、宮廷騎士団を崩壊寸前に陥れていた事。ーーーそして他国からの留学生である王族たちの間で起きた嫌がらせや争いを率先して傍観し時に煽っていた事。これらが理由の全てです。」
私は目を見開いてイライアスを見上げた。
王族を守る立場にいるはずの宮廷騎士団長が………?そんな事があって良いのか。