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5ー2

お兄様にご武運をーーー。

メリディアン王女のまだ幼さの残るやや高い声が、早朝の澄んだ空気に乗り、響く。

小さな川沿いに建つデメルの屋敷前にイリリア王国軍は勢揃いし、それを率いるフィリップ王子の前にメリディアン王女が進み出て、恭しく手巾を渡した。

フィリップ王子が王女の頬に軽くキスをし、背の高い栗毛の馬に跨がる。彼はそのまま馬をゆっくりと歩かせ、居並ぶ兵たちの間を縫う様に進みながら彼等を鼓舞した。


「我がイリリアの領土を脅かす宿敵、ガルシアを遂に掃討する時がきたのだ。国家の秩序を乱すガルシアの蛮族どもに今こそ思い知らせてやろうではないか。顕著な手柄をあげた者には、末代まで続く栄誉を与えよう!」


耳を劈く雄叫びが兵たちから上がり、私はその余りの音量に思わず耳を覆った。立ち位置を間違えていたら鼓膜を破られていたかもしれない。

兵たちが行進を始めると、私は仕事を終えた王女から離れて急いでイライアスを探した。数多の歩兵や騎兵が辺りを埋め尽くしてはいたが、イライアスが属する宮廷騎士団が構成する隊はフィリップ王子の脇を固めていた為、探すのに時間はかからなかった。

目が合うとイライアスは隊を離れて私の近くまで馬を進めて来てくれた。

彼が身に纏うのはいつもの豪華な装飾だらけの宮廷騎士団の軍服ではなく、もう少し無駄の無いデザインの青いイリリア王国軍の軍服であった。まだ鎧一つ着けていないため、何だか身軽に見える。防具等は今から装着すると行動が制限される上に重量が有り過ぎるので、前線近くまで行ってから身につけるのだという。私たちはお互い忙しく、イライアスと顔を合わせて話せるのは、デメルに向けて王都を出てから初めてかもしれなかった。イライアスは少し目元を緩めて馬上から私に言った。


「ガルシア軍を追い出して直ぐに戻ります。被害が少ないうちに彼等が降伏してくれる事を祈ります。」

「……ご無事のお戻りお待ちしています。」


私はポケットの中の手巾で頭がいっぱいだった。

今イライアスに手渡したい。

だが、いざ渡す場面を迎えると、酷く気恥ずかしく、自分を叱咤しなければ私は手巾を取り出す事が出来ない。だってこんな子供の手習いみたいな手巾をあげて、彼に嫌われたりしないだろうか?二本足の気色悪い木の模様だ、と気味悪がられたりしないだろうか?

拒絶されたら当分立ち直れそうにない。刺繍などもう二度とやらないだろう。私みたいな、なんちゃって貴族ではなく、れっきとした貴族の男性であるイライアスは周りの女性たちの上質な刺繍を日頃から見慣れている筈だ。隊列にイライアスが後れを取るのではないかと心配になりながら、私は言葉を選んだ。


「ここでご無事を祈って待っています。……ええと、あの、デメルに着いてからもなかなか二人になれる機会がなくて……。」


その時フィリップ王子がイライアスを呼ぶ声がした。どうやら隊列を離れた事を咎めている様だ。私は焦って漸くポケットに手をいれた。


「殿下に怒られてしまいました。妻に見送って貰えて私は幸せです。では行ってきます。」

「………待っ…!」


イライアスは滲む様な笑顔を見せながら馬の脇腹を蹴り、私に背を向けて隊列へと戻って行ってしまった。

手巾を渡しそびれてしまった。

隊列はたくさんの荷馬車や兵たちがどこまでも延々と連なり、兵たちによる道が遠くまで続いていた。やがて彼等が巻き上げる砂埃で周囲は視界が遮られ、見送りに出ていた女性たちはゴホゴホと咳き込み始めたのをきっかけに、屋敷の中に引き返した。

役割をここで果たしたメリディアン王女とそのお付きの為の侍女たちは直ぐに王都へ帰る準備を始めた。

私はいよいよ芝居を開始しなければならなかった。王女の侍女のうち、私だけがここに残らねばならないのだ。私は予め決めていた通り、高熱が出たという芝居をした。王女は私が一緒に帰らない事に不満を表明し、熱に関係無く馬車くらい乗れる筈だと強硬に私の残留に反対した。そこで急遽、私はお腹も下している、と主張する事にした。なりふり構わぬ芝居が功を奏し、王女も彼女の警備の為にいる宮廷騎士団の数名を私の為に屋敷に置いて行く事を条件に、最後は折れてくれた。

心配そうな王女たちがいなくなっても、屋敷にはまだ多くのイリリア王国軍の兵たちが残っていたし、その世話をする下働きの女性たちも泊まり込んでいた。

しかし数日後、周辺の村から食糧を調達してまわっていた補給部隊の兵たちが、まだ夜も明け切らぬ早朝に、フィリップ王子一行と合流する為に出て行ってしまうと、屋敷は急に物寂しくなった。

補給部隊が出て行った夕刻、私は激しい喧騒に目を覚ました。驚いて寝間着のまま廊下に飛び出すと、私の為に残っていた宮廷騎士団の一人が丁度こちらへ走ってくるところだった。


「殿下と兵たちがこちらに戻って来ました。」


本来補給部隊が先に戻る筈なのに、本隊が先に帰ってくるとはどういう事か。

宮廷騎士は早口に説明した。

合流する予定だった補給部隊が先にガルシア軍に襲われ、武器や食糧を奪われた挙句彼等は全滅状態になったという。その補給部隊に成りすまして近づいたガルシア軍を、フィリップ王子率いるイリリア王国軍は敵襲だと気付くのが遅れ、多くの犠牲者を出してどうにか撤退したのだ。夜の闇に紛れてガルシア軍は予想以上に西に侵入していた事になり、イリリア王国軍は敵軍の移動速度に恐れをなしたらしい。ガルシア軍の正確な位置を把握できていなかった事にもなり、戻った兵たちは多重に困惑していた。

私は次々と屋敷の中に運び込まれる負傷兵の介抱を、他の下働きの女性たちと一緒に手伝った。広く長い回廊いっぱいに布が敷かれ、怪我人たちが所狭しと横たえられた。

はじめは血を流して苦悶の表情を浮かべる兵たちが埋め尽くす屋敷内の様子に生きた心地がしなかったが、必要に迫られて動き回るうちに次第に感覚が麻痺して行き、時間を忘れて手当てを手伝った。命からがらここまで辿り着いたのであろう重傷者の中には、息を引き取る者たちもいた。私が名も知らぬ彼等にも待つ人がたくさんいた筈だ。母親を呼びながら亡くなる若い兵もいた。彼が安らかに眠る乳飲み子であった時分に、彼を腕に抱いた母親は我が子のこんな無残な最期を想像すらしなかっただろう。そう思うとやりきれなかった。

兵たちはそれでもフィリップ王子を讃えていた。戦場で撤退を決断するのは大変勇気が必要な事であり、殿下のそれを決めたタイミングはあの場で最良のものであった、と。打ちのめされてもなお、彼等は血気盛んで、立て直したら直ぐにガルシア軍を討つ、と息巻いていた。デメル地方は西沿いに大きな河が流れており、ガルシア軍はそこを渡る事はせず、イリリア王国軍の出方を待っているらしい。

イライアスは無事だった。

私はその事実に心から安堵し、一方で亡くなった兵たちに申し訳なく思った。イライアスは私の姿を見つけるなり私を軽く一度抱きしめ、直ぐにフィリップ王子と他の参謀が入る部屋に戻って行った。

間も無く私はフィリップ王子に呼ばれた。


屋敷内に設けられたその一室にフィリップ王子ただ一人がいた。薄暗い明かりの横で彼は大きな地図が広げられた机に向かっていた。いつもは華やかなその容貌は数日にして翳っていた。

彼は音も無く立ち上がると私の正面にきて、腰から抜刀した。まさか腹いせに殺されるなんて事はないだろう。私は大事な人質なんだから。自分にそう言い聞かせ、私は一歩もその場を動かなかった。

そんな私を見てフィリップ王子は僅かに口角をあげた。次に発せられた声は大層掠れていた。


「勇気ある撤退?引くのは確かに難しい。だが我々が逃げ帰って来た事実は変わらない。」


フィリップ王子が抜いた剣が私の首筋に向かい、彼は私の髪を一房手に取った。軽く髪が引かれた一瞬の後、彼の手には切られた私の赤い髪が収められた。


「間も無く来るガルシアからの使者にこれと、君の絵を持たせる。人数でガルシア軍に勝る我々は次こそ勝つ。明日再出撃する際は、君も連れて行く。イライアスの馬に乗るんだ。」

「私なんて連れて行っても、何の役にも立ちませんよ。」

「やってみなければ分からない。少なくとも無差別な矢の攻撃は防げると思うよ。卑怯だと思うかい?だが、私は兵たちと領土に対して責任がある。君一人でそれが全う出来るのならば、どんな諫言も私に届きはしない。」

「アルはそんなに馬鹿じゃないと思います。」


彼だって私一人の為に兵を引いたりはしないだろう。引くなら私の弟じゃない。

部屋を出ると、再び外が騒がしかった。廊下からこの屋敷が要塞であった頃の名残りである小さな窓を覗くと、屋敷の玄関に見覚えある馬車が停車していた。

メリディアン王女を乗せた筈の馬車じゃないか。私がそう気づくのとほぼ同時にフィリップ王子の部屋の扉がバタン、と開き王子が中から飛び出して廊下を駆け出して行った。私も彼を追い、玄関に向かう。





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