5ー1
メリディアン王女は私が帰る時間になるまで遂に不機嫌なままだった。
その日の帰り道、異変は既に始まっていた。
イライアスは私より先に帰宅をしたのか、屋敷に戻る馬車には同乗しておらず、待っていてくれたジルと私は二人で帰宅した。屋敷に着くと、侍女たちが夜だと言うのに又しても忙しそうに動いており、邸内がどこか騒がしかった。まさか又ドーンに行くわけではあるまい。
王宮で着ているドレスを着替える間もなく、私はイライアスの書斎に呼ばれた。書斎に入るとイライアスは暗い木目の椅子に深く腰掛けたまま、私を見た。いつもは高価な貴石の如く澄み渡る緑の双眸は重たく翳り、その表情は酷く浮かなかった。私を書斎まで連れて来てくれた侍女が退出しその場からいなくなっても、彼は暫し沈痛な空気を纏ったまま言葉を発しなかった。
「貴方にとても辛いお願いをしなければなりません。」
何か只事ならぬ事態が起きているようだ。これから教師のお叱りを受ける生徒の様に、私はイライアスの正面に立って無意識に唾を嚥下した。
「今日の午前に私にも正式に出頭命令が出ました。五日後、私はイリリア王国軍と共に東の戦地へ向かいます。」
言われた意味が理解できるまで時間がかかった。理解に至ると私は動揺を抑えようと努めて平板な声色で聞き返した。
「………東の戦地へ?」
「そう。大量投入していた筈の国境警備隊が、昨日ガルシア軍の急襲によって壊滅状態に追い込まれたとか。ガルシア軍の本隊は一旦引いた様ですが、現在国境沿いの街はガルシア軍に押さえられています。」
イリリア軍が弱すぎるのか、ガルシア軍が強過ぎるのか、若しくはその両方なのだろうか。私は楽観的な思考の持ち主ではないと自負していたけれど、まさかイライアスが戦地に行かねばならなくなるなど、現実に起こるとは思っていなかった。かける言葉が思いつかない。
……お気をつけて。
いや、冷たく聞こえる気がするから駄目だ。
……お帰りお待ちしてます。
いや、妻気取りで良くない。引かれたら嫌だ。
なんて労うべきか悩んでいると、未だ眉根を寄せるイライアスの表情からもう一つの悪い報せを察知した。
「それで、私は…」
「貴方も途中まで一緒に来るのです。私は宮廷騎士団の選抜隊を率います。王国軍の総司令官はフィリップ殿下です。」
咄嗟に地面の感覚が無くなった。くらりと軽い眩暈に似たものが私を襲い、暗くなりかけた視野を確保しようと瞬きをしながら額を押さえると、いつの間にかイライアスが隣に立ち、ふらつく私を支えていた。
「貴方は侍女たちやメリディアン王女と共に、イリリア王国軍を途中まで送ってもらう形になります。」
王国軍が戦地に向かう際は、王族の女性がそれを見送るという古い慣習があった。それは戦地に赴く王に妃が手巾を手渡した伝説に端を発していた。フィリップ王子の妃ではなくメリディアン王女がその役を担うのは、私を同行させる口実を成立させたいからだろう。
「現在の前線からは少し離れたデメル地方にある屋敷まで王女たちは行き、そのままお帰り頂きます。貴方だけはそのままその屋敷に待機せよとの事です。そこはかつて要塞として築かれたものであり、現在のところ危険はありません。」
現在のところ………。素敵な言い回しだ。数時間後の安全は約束出来ないらしい。宮廷騎士団長がそう言うのだから何とも頼もしい。
「イリリア王国軍は、ガルシア王国軍に勝てますよね?ガルシア王国軍なんて…」
それ以上続ける事は出来なかった。イライアスは私の挙動を食い入る様に観察していた。
私は、今とんでもない事を言った気がした。ガルシア王国軍を打ち負かすというのは、アルを傷めつけるのと同義だ。私は、アルよりイライアスに無事でいて欲しいと願ってしまったみたいに思えて、罪悪感に苛まれた。
アルは私にとって大事な家族であり、かけがえのない存在だ。そんな彼が王として率いている軍隊の敗北を期待するなど、あってはならない。
質問を止めた私に、イライアスは逆に問いかけてきた。
「………レスター王の勝利は貴方の立場を危うくするのですよ。ご自分よりも彼が大切だと?」
「答えようもない事を聞かないで下さい。」
「答えられないのですか。」
私を支えていたイライアスの手がそっと離された。
「………もし、………私がレスター王と一騎討ちになったら、貴方は果たしてどちらを…」
途中で首を軽く振り、イライアスは言葉を止めた。一度下方に流された視線が再度私に向けられた時、それは随分投げやりなものだった。
「尋ねるまでもありませんね。忘れて下さい。」
書斎を出てからも私の頭の中は、イライアスに聞かれかけた事でいっぱいだった。長い金色の髪を靡かせて馬上から白銀の剣を振りかざすイライアス。それを剣で受け止めるレスター王。私が想像出来るのは、別れた時のままの十五歳のアルの姿だった。
もし一騎討ちになったら……?
私の脳裏にはどうやったって、剣なんてろくに持った事すらないアルがどう戦うのかさえ浮かばない。
その後の数日間、イライアスは多忙になり同じ邸内にいながらも私と顔を合わせる事が少なくなった。私は普段通り王宮に通い、往復はジルが付き添ってくれた。余程忙しいのか、毎日共に食事を取るというイライアスの拘りもここへ来て捨てられたらしく、一人食卓に向かう事が多かった。
私は屋敷の裁縫室に足繁く通い詰めては、刺繍をした。王都を発つまでの間に二枚の手巾を作った。一枚目はヨーデル村の村花である黄色く愛らしい花の模様を縫った。これは出発前に父さんに渡したかった。二枚目にはスコップを立て掛けたオレンジの木の図柄を入れた。腕が悪い為に、正体不明な実を結んだ木から謎の足が一本生えている様にも見えなくはなかった。戦地に向かう男性に縫う刺繍は本来もっと別の物であるべきなのかもしれない。だが私にはこの構図が相応しく思えたのだ。これは私とイライアスの出会いを物語る二つだったから。
手巾はメリディアン王女も兄王子に手渡す為に作っていた。というより、作らされていた。イリスに説得されて単なる義務感から作られたそれは、王女の腕前からすれば大分稚拙な仕上がりではあったが、それでも私が逆立ちしても真似出来ない美しい物となっていた。
空は青い隙間が僅かも見えないほど何処までも白く、地上には朝から霧が深く垂れ込める鬱々とした天候だった。デメル地方へ向けて王都を発つ日、私は早朝に王宮に入り、王女と共に王族専用の白地に金色の彫刻が施された華麗な馬車に乗り込んだ。私たちの馬車の周囲は彼女の世話をする他の侍女や警備の為の宮廷騎士団が固め、その先にはフィリップ王子が率いる王国軍の兵たちが隊列を組み、私のいる位置からは兵たちの先頭はおろか、イライアスの姿さえ見る事は出来なかった。大量の馬や荷馬車が用いられていたが、下位に属する兵たちの移動手段の殆どは徒歩であり、当然ながら私たちの移動速度は余り速くなかった。隊列の中ほどに位置する、王女の一行は見送りが主要な目的であった為に、王女の携行品は手抜かり無く上質な物が準備され、表面的にはいつも通りが演出されていた。しかしながら同行する侍女たちの表情は大変硬く、一様に緊張と不安を抱いていた。
メリディアン王女本人だけは、私たちの前でそんな様子は見せず、変わりなく過ごしていた。一部の侍女たちはそんな王女を、状況を認識していない、とか無頓着過ぎるなどと批判したが、私は王女が王族の責務として努めて毅然と振舞おうとしている様に思えた。主の動揺は全体に伝染するからだ。まだ若いメリディアン王女が、この事態を怖いと思わない筈がない。
隊列は王都の真ん中を太く貫く道を行き、それを見物するたくさんの住民たちが沿道に集まった。彼等は手を降ったり、旗を掲げたりしながら口々にこちらに向けて歓声をあげているのだが、馬の蹄の音や彼等自身の声で、何を叫んでいるのかほぼ聞き取れなかった。
王都を抜け只管東へ進み、森を通り幾つかの街や村を後にした。小さな村であっても、私たちに声援をかける為に住民たちが沿道に出てくれていた。
デメルに到着したのはその日の夜だった。




