1ー4
男はそう言うと、自分のポケットに手を入れて、財布を取り出すと私の手にお札を数枚、押し付けてきた。
久々に見る最高額紙幣。
まさかこんなに頂けるとは思っていなかった私は、受け取って良いのか狼狽えた。
「また戻っていらっしゃい。更に上乗せしてあげましょう。」
神だ。
目が眩むのは美貌のせいかと思っていたが、この男の慈悲深い慈善精神が内から溢れているせいなのかもしれない。
私は二つ返事でその場を後にすると、男がどうやら盗んできたに違いないウーリヒ爺さんのスコップを抱えて爆走した。爺さんの裏庭に忍び込むと、納屋の外壁にスコップを立て掛けて、急いで慈愛に満ちた輝く騎士の元へ駆けつけた。
男は私が飼い主に駆けつける愛犬ばりに、脇目も振らず戻るのをみとめるや、口角を上げて満足そうに頷いた。
「ここは人目についていけませんね。こちらへいらっしゃい。」
私は男の手に引かれて村の入り口の近くにある林の中に連れ込まれた。
男は私の手首を掴んだまま、尋ねてきた。
「名は何と言うのですか?」
「何の名ですか?」
すると男は途端に破顔一笑し、愉快そうな笑い声を上げた。私はそんなにおかしな事を聞いただろうか。お金持ちの笑いのツボは貧乏人とは異なるのだろう。
それにしても、私の右手がうっ血する前に、そろそろ手首を離して欲しい。
「これは不躾な聞き方を致しました。私は宮廷騎士団のイライアスといいます。貴方のお名を頂戴出来ませんか?」
馬鹿にされている気がするのは気のせいか。
「セーラといいます。宮廷騎士団って……宮廷に仕える騎士さんか何かですか?では王都からいらしたんですか?」
するとイライアスは口元を歪めた。
ヒヤリとする冷たい視線が私に投げかけられた。
「宮廷騎士団を知らない……?」
知りません、と首を振ると彼は興味深そうに私を見た。ジッと見つめられて居心地が悪くなった私は、目を逸らした。
それが合図になったかの様にようやくイライアスは私の手首を離すと、林の木々の間から見える村の家並みを指差した。
「ホルガー家は赤い屋根の一際小さな家だと聞いています。あの家であっていますか?」
小さくて悪かったな。
私は若干ムッとしつつ、無言で頷いた。
「あの……イライアスさん、なぜホルガーさんの事を聞くのですか?」
イライアスは目を私の家に向けたまま答えた。
「……絶世の美少女がホルガー家にいると聞いたのですよ。」
「そ、そんなのいませんよ。絶世の美少年ならいますけど。」
イライアスは目をつましい我が家から離し、ゆっくりと私に戻した。その瞳はひたと私に注がれているのに、全く表情が読めなかった。
見つめられるうちに私は怖くなった。
私は何かとんでもない過ちをおかしたのではないだろうか?
我が家の話をしてはまずかっただろうか?
見入ってしまうほど美しいその顔は見つめているうちに背筋がぞくりと冷えてくるほど、思考の断片を一切覗かせない。
イライアスは再びお金を私の手に押し付けてきた。
「とても助かりましたよ。なるべく直ぐに家に帰りなさい。間も無く大軍が来るからね。」
そう言い残してイライアスは馬に跨った。私は衝動的に彼の足を抑えた。
「大軍って何ですか?!」
イライアスは優し気にふわりと微笑した。
「貴方が心配する事は何も。ただ、危ない事が無い様に、家の扉と窓をしっかり閉めて、全て終わるまで待っていなさい。」
嫌な予感がした。
家屋にこもっていた方が良い様な、どんな事態が待ち受けていると言うのか。
にわかに焦り出す私の手を、そっと自分の足から離すとイライアスは私が止める声を無視して、駆け去って行った。
私はイライアスの姿が見えなくなってからも暫くの間、痺れた様にその場に立ち尽くしていた。
急に怖くなった私は急いで自宅に帰った。
家に帰るとアルが庭の柵を修理していた。日頃出稼ぎに出ていて留守がちな父さんの代わりに、力仕事は全部彼の担当になっていた。柵の前に座り込み、柵に打ち込まれた杭と格闘しているようだ。
アルは私の帰宅に気づくと、手にしていた工具を芝の上に置き、立ち上がってこちらにやって来た。
「随分時間がかかっていたね。……その様子だと、やっぱり何も捕まらなかった?」
私はそれには答えず、アルの目の前でそろそろと手の平を開いてイライアスから貰ったお金をみせた。アルがはっと息を呑む。
「こんなお金、一体どうしたんだよ?!」
私はアルの剣幕にビクリと身体を震わせて、今更ながら両手を背中に隠した。
「見た事ない騎士が森にいたの。」
「騎士?!」
アルが眉根を寄せて、眉間に深いシワを作った。怪訝そうな顔で私の説明を待っていた。私が記憶を辿り、宮廷騎士団だと名乗っていた事を告げると、アルはその淡い色の瞳を驚愕に見開いて叫んだ。
「宮廷騎士団だって!?」
「知っているの?宮廷騎士団って何?」
「王都に住んでいたくせになんで知らないんだよ。普段は王宮に仕えるこの国最強の軍隊じゃないか。」
最強の軍隊?
何故そんな騎士団の大軍がこの村に向かって来るのだ。唖然とする私と芝の上の工具を放置し、アルは家の中にかけて行った。すぐにその後を追うと、彼は自分の部屋に入っていった。
そのままクロゼットを開けて、鞄を引っ張り出すと、アルは自分の服を次々に中に詰め込み始めた。急に何をし出すのだ。
彼は口を真一文字に結び、心なしか顔色が悪い様に見えた。
「……街に出かけてくるよ。何日か向こうに泊まるから。」
「泊まるって何?どうして。」
アルが外泊した事など今まで一度も無かった。鞄を肩にかけたアルは私の問いには答えず、私の右手を取ると、私が握り締めていたお札を一枚奪った。
「……ねえアル、今から外に出たらダメだよ。騎士が言ってたんだから。大軍が来るから危ないから家にこもっていろって。」
「大軍!?」
短く叫ぶとアルは私の両腕に掴みかかった。物凄い力で私は腕を掴まれ、何時の間にか手の中のお札はハラハラと床に落ちていた。
見上げるほど高い位置にある、淡い青の瞳は驚愕に見開かれた後、徐々に力と光を失い、それに合わせて私の腕を掴む力も弱くなっていった。力無くアルの両手が私から離れると、彼は掠れた声で呟いた。
「……僕が姿を消したら、セーラ達が危ない……。宮廷騎士団が動いたら最後、誰も逃げる事など叶わない。」
「危ないってどうして?それに何故急に出て行こうなんてするの。」
「……あいつら、きっと僕を探しに来たんだ。でなければヨーデル村になんてあの宮廷騎士団が来るはずがない。」
まるでアルが宮廷騎士団を良く知っている様な口ぶりに聞こえた。私達のこれまでの生活で、そんな話が出た事など一度もなかった。
アルが、私にはさっぱり分からない話をしていた。
「ねえアル、もしかして昔の事何か思い出したの?」
アルと私の視線がぶつかった。
私に対する親近感を欠片も感じさせないアルの無感情な表情はつい、とそっぽを向くと、彼はどこか自嘲気味に笑ったーーーいや、泣いている様にさえ見える。
私はアルの両足が小刻みに震えている事に気が付いた。その落としていた視線を、ゆっくりとアルの淡い瞳に戻す。
やがて彼は絞り出す様に言った。
「セーラは馬鹿だ。僕をそのはした金で売ったんだ。」
私は浴びせられた言葉に、激しく殴打されるに等しい衝撃を受けた。
「……売るって何の事。私は、ほんのちょっと、うちの話をしただけだよ。」
アルは私を睨みつけてきた。
突き放す様な、冷たい、憎しみさえこもる強い視線だった。
「一生恨んでやる。家族だと言ったのに。」
浴びせられる憎悪の視線と言葉に、ショックのあまり、私は硬直した。
「……僕だって、セーラが姉さんだなんて思った事は一度も無いからね。」
心が抉られる様に痛んだ。
喉が石になったみたいに動かなくなり、言い返す言葉は一つも出てこず、口の中がカラカラに渇いた。
やがて地震の様な揺れと、地鳴りが一帯を襲った。私達はその間も物言わず見つめあって棒立ちになっていた。たくさんの馬のいななきと、怒号。騒然としだす窓の外に恐る恐る目を向けると、赤と白の軍服を身につけて騎乗した大量の騎士たちが、村の道を埋め尽くしていた。周囲には凄まじい砂埃が舞い上がっていて、その軍勢がどこまで続いているのか、分からない。
「あれは何!?」
母さんと姉さんが叫びながら私達のいる部屋に入って来た。騎士団はあっという間に近づいて来て、それは真っ直ぐにこちらを目指して来ると、私達の小さな家を取り囲んだ。その大軍が私達の家を標的にしているのは火を見るより明らかだった。
私と姉さん、アルは気がつくと母さんに抱き寄せられていた。その母さんの手も、震えていた。
父さんは私の誕生日には帰宅する筈だったのだが、まだ戻っていなかった。母さんは一人で子ども達を守らなければいけなかった。