4ー10
私はその人物が自分の方へ向かって歩いてくるのを顔をしかめて凝視していた。距離が縮まるにつれ、暗闇の中でも顔の輪郭がハッキリとしだし、その強く鋭い眼光と細面の顔立ちは紛れもなく、キースだった。唐突に別れた夜会の夜から寸分変わらない、前補佐官の姿がそこにあった。一瞬ここがドーンだという事実を忘れそうになる。なんて奇妙な夜だろう。彼は私との距離をお互いの声が届く近さまで縮めると、口を開いた。
「約束しただろう。あんたを守りに戻って来ると。」
確かに、言った。だが私は丁重に断固お断りした筈だけれど。
「キースさん、今まで一体どこにいたんですか?」
彼はそれには答えず、いつもの低い声で淡々と続けた。
「あんたを、王都から離れた小さな田舎町に連れて行って匿う事ができる。あんたは名前を変えて生きていく事になると思うが。ほとぼりがさめたらヨーデル村に帰れば良い。」
「そんな。私の逃亡の、手助けをしてくれるというの………?」
キースは無言で頷いた。
彼の言っていた、助ける、という言葉が私を逃がす事を意味していたなんて全然考えていなかった。ガルシア軍との前線で矢でも飛んで来たら、盾になってくれるのかと想像していたけれど。
「事態が切迫してからはもうこの手段は選択出来ない。時は今しかない。」
彼はそのまま右手を私に向けて差し出した。その手を取るのは簡単だ。だが、それはいろんなものを捨てる事になる。
私はここまで自分で歩いて来ておきながら、不思議とまるでその手を取る気にはならなかった。
「私は、どこにも逃げない。何も悪い事はしていないんだから。」
私は弾かれた様に屋敷を振り返ると、階段へ向けてもつれそうになりながら走った。自分の気持ちが揺らいでしまうのが怖くて、一度も後ろを見なかった。
バルコニーまで息を切らして登り着くと、そこにはイライアスがいた。彼は先ほどと同じく、手すりに寄り掛かっていて、階段から現れた私を見ようとはしなかった。まるで私がいなくなっていたことが、想定の範囲内だったみたいに。急いでバルコニーまで上がってきた為に、はあはあと上がる私の息だけが妙に目立って辺りに響き渡る。
棒立ちになる私の方へゆっくりとイライアスは視線を移した。
「良かったのですか?」
「何が、ですか?」
「夜の散歩はもうおしまいですか?きっともうこんな機会は二度と無いでしょう。今一度酒を取りに戻りましょう。貴方がそう望むなら。」
間違いない、イライアスは知っているのだ!私がここから逃げようとした事を!
イライアスは私をただ見つめていた。
私が散歩をもう一度する、と言うのを待っているのだろうか。タイミングができ過ぎている。キースはイライアスから、私の逃亡の手助けでもするよう頼まれていたのかもしれない。私は意識的に声を落として言った。
「………キースさんが下にいました。」
イライアスの表情は僅かも動かなかった。彼はただ、認識できるか出来ないかの小ささで一度だけ、頷いた。それ以上何も反応がないという事は、やはりキースの登場は周知の事実だったらしい。
「………イライアスさん、あの、私がいなくなったら貴方は困りませんか?処罰を受けませんか?」
「この旅の許可を下さったのはフィリップ殿下ご自身ですから。それにもし貴方が身を儚んで夜の海に引きずりこまれたとしたら、フィリップ殿下は怒りより悲しみを覚えるでしょう。」
それは、私が入水自殺をするという設定だろうか。イライアスは私が死んだと偽り、私を逃がしてくれるつもりだったのだろうか。この突然のドーンへの旅の目的はそこにあったのか。
けれど、そんな逃亡の仕方に未来はあるのか疑わしい。それに私がいなくなれば王宮にいる父さんが今の私の身代わりになるはずだ。父さんを犠牲にするなんて、出来ない。
ここから逃げ出せばもう、イライアスと二度と会う事も出来なくなるーーーそう思うと、身を切る様な辛さが全身を駆け巡った。なんてこと。ヨーデル村の家族と会えないかもしれない事よりも先に、イライアスと会えなくなる事を嫌だと考えてしまうなんて。こんな自分を認めてはいけない。イライアスは私のアルや、家族を苦しめている存在だったはずなのだ。自分勝手で、頭がおかしい宮廷騎士団長なんだから。それに私もシューリみたいにいつかあっさり捨てられるに決まっているのだ。冴え冴えとする程に美しいその緑の瞳は、私一人にずっと向けられ続ける物では無いだろう。
私は言葉として表現する事を許されない、心の奥底の感情に、断腸の思いできつく蓋を被せた。
「これは最後の警告ですよ。この様な機会は二度と与えません。」
「………私は自分の存在を消させたりしません。堂々とここにいます。何も逃げなければいけない様な事はしていないのですから。」
イライアスは目尻を下げて少し笑った。
「そう言うと思っていました。」
彼が私の方に歩き、その手を私の肩に回してきた。そっと私は彼に引き寄せられ、額に唇が優しく落とされるのを感じる。私は微動だに出来なかった。どうしてどうして。こんな事をするの。
私を逃がそうと思っていたなら、なぜさっき、その直前なんかに私に愛の告白じみた事をしたのだ。それを聞いて私が逃げると………?
彼が考えている事がまるで分からない。
混乱で胸中は千々に乱れ、抑えている筈の感情が溢れ出しそうになる。柔らかな唇は直ぐに離され、彼は身を引いた。
なんてあっけない瞬間に思えるんだろう。そうしてそんな風にーーーーイライアスの私に対する行動にそれ以上を望んでしまう自分の浅はかさが嫌だ。こんな気持ちに溺れてしまいそうになるなんて、私はなんて愚かで醜いのだろう。
「冷えてきました。中に戻りましょう。」
イライアスの手は私の腰にそっと当てがわれ、建物の方へ私を軽く押した。
三日の滞在の後、私たちはドーン地方から王都に帰った。所々で私たちは馬車を降りて寄り道をし、イライアスと私は手を取り合って風光明媚な地方の街を簡単に探索して歩いた。それは実に旅行休暇らしく、見知らぬ街の中を単純に歩き回るだけでとても楽しかった。
復路の馬車の中、私とイライアスはしばしば物言わず互いに見つめあった。ただひたすらじっとお互いの目を合わせた。その向けられる瞳が、本当に私を見ているのか。ドーンでの、そして今まで私に向けられた言葉に嘘偽りは無いのか。私は無言で彼の緑の瞳にそう尋ねていた。
ゆったりとした時間の流れに身を任せていた休暇の余韻に浸る間もなく、翌日から直ぐに王宮に出勤すると、メリディアン王女は超絶不機嫌だった。
「わたくしに黙って勝手に休むなんて、サボりと同じだわ。」
ここ最近、授業をサボるのをやめていた王女にとって、私の唐突な休暇は我慢ならなかったらしい。
イライアスが私に無断で入れた休みなのだ、と事情を説明しても王女は機嫌を直してくれなかった。
「わたくしが熱に苦しんでいる時に、どこかに勝手に旅に出るなんて。侍女として失格よ!」
「熱はすぐに下がったではありませんか。メリディアン様、いい加減にして下さい。」
イリスが呆れ顔でとりなしてくれたが、王女は更に唇を尖らせるだけなのだった。
「いいこと!?この次わたくしの許し無く旅行なんかの為に休んだりしたら、侍女を辞め……許さないんだから。」