4ー9
「何をしているんですか?」
「何を………って、イライアスさんを探していたんですよ!ちょっと目を離したら、いなくなっていて……。」
「潜水していたのです。」
潜水?
こんなに長く息が続くなんて、信じられない。どれだけ強靭な肺をしているのだ。それともエラ呼吸でもできるのか。視線を落とせば、確かにイライアスの胸は途絶えていた空気を求めて、今大きく上下していた。
「………貴方も泳ぎますか?」
「泳ぎません!!」
無意味に勝手に焦って海にまで入って、服をずぶ濡れにして恥ずかしい。自分が滑稽な真似をしたみたいで、自分自身に腹が立ってくる。
イライアスが急にいなくなったからってこんなに動揺してしまった自分が、情けない。
そう思うと胸の内にふつふつと熱い怒りがわいてきて、私はクルリと踵を返して海からサッサと上がった。砂浜は意外と砕けた貝殻や石が堆積していて、足の裏が痛かった。そんな事に今更気づいた。
イライアスが後ろから声を掛けてくる。
「怒ったのですか?今のは冗談ですよ。」
「自分に苛々しているだけです!」
靴を履こうと足を入れると、砂粒が濡れた足にたくさんこびりついているせいで、痛いし気持ち悪い。後で靴も洗わなくてはならない。
イライアスは私に追いつくと再び口を開いた。
「屋敷に戻りましょう。そんな格好では風邪をひきますよ。」
「………イライアスさんの方がずっと寒そうですよ。」
「………私を探しに、海の中に入ってくれたのですか?」
「慌てん坊ですみませんね!忽然と消えたみたいに見えたんです。」
私は怒っているのに、余裕の笑みを浮かべるイライアスが憎たらしい。なんなのだ、私にこんなに心配させて。そもそも身体を鍛えるのが仕事なのかもしれないけれど、今である必要があったのか。私はぷりぷりと子どもみたいに不機嫌な顔で屋敷へと続く階段を上った。
夜のドーンも魅力的だった。
心地良い潮風を受けながら、バルコニーから夜の闇に滲む海を眺める。それは限りなく静寂で淡々とした時間の過ごし方だった。何にも煩わされる事無く、何も考えなくて良いというのはいかに幸せかを改めて感じた。翌日仕事が無いーーーつまり決められた時間に早起きをする必要が無いというのも、素晴らしい。精神的なゆとりがまるで違う。最近自分がいかに疲れていたのか、と気づかされる。
私は侍女とおしゃべりをして時間を潰してから寝室に向かった。
寝室に入り、掛け布団の下に潜り込むと布団を顎まで引っ張り上げて目を閉じた。
とても静かだった。
時々の溜め息や寝返りによって寝台が軋む音、それに布団の擦れる音が非常に大きく感じられる。
ドーンは、静かな所だった。
翌日私はイライアスとジルの三人で、近くの農場を回ったり、海を散策した。私はとりわけ屋敷の裏にある浜辺をのんびりと歩くのが気に入った。何をするでもなく、果てなど無い海の前に佇む自分のちっぽけさを再認識しながら、ただ何もしない、という最高に贅沢な時間の過ごし方が久々に出来たのだ。
ドーンの屋敷での最後の夜、私たちは夕食後に海に面したバルコニーに出て、三人で酒を飲んだ。私はバルコニーにあるベンチに座り、イライアスとジルは手すりにもたれて立っていた。
ジルは酒が入ると更に饒舌になり、私たちを楽しませてくれた。私はそれまであまり彼の私生活については深く聞いた事がなかったのだが、この機会に彼についてもっと知る事が出来た。
ジルは既婚者なのだが、奥さんは彼の初恋の人らしかった。彼があの手この手で奥さんの心を射止めるまでの話が、大層おもしろかった。
「ジルさんが羨ましいです。私初恋って、全然覚えていなくて。明るくて村一番の人気者の男の子の事を、この人が好きかも、と漠然と思ったくらいで。」
「セ、セーラ様、その男の子は今…」
「引っ越して何処かに行ってしまったんです。」
「それは良かったです。その男性がイライアス様に消される心配が無くなりましたね。」
するとイライアスが声を立てて笑った。
酒の力が有ったのだろう。私はあまり深く考えずに口を開き、イライアスに聞いた。
「イライアスさんの初恋はいつでしたか?」
ジルが興味深そうにそのつぶらな瞳をイライアスに向けた。イライアスは左肘を手すりに乗せ、後ろのベンチにいる私を右側から振り返った。
「実はよく分かりません。初恋を経験する前に交際を始めていたので。」
「…はいっ?!」
私とジルはほぼ同時に素っ頓狂な声を上げた。だがその後の反応にはかなりの差があった。ジルは半ば尊敬の眼差しで、流石我が宮廷騎士団長だ、と意味不明な感心を披露し、一方で私は驚いてものが言えなかった。普通は恋をしたから交際をするんじゃないのか。男女交際はそんな綺麗ごとばかりでは無いのは私も知っている。だけど、とりあえず付き合ってみよう、などという付き合い方を初恋を経験する様な若い子がするなんて。やっぱり都会の子は恋愛感が違う。
イライアスは酒をあおると海の方へ視線を投げた。
「ですが、昔この少女が欲しいと強く思った事はあります。」
「どんな人でした?」
私はふとシューリの姿を思い浮かべた。だが、一夜限りが主義のイライアスにしてみれば、誰かを欲しいと思ったという過去は意外な気がした。
「良く表情の動く可愛い少女でしたよ。」
「イライアス様、それは一目惚れってやつですね。」
ジルは上官の若い時分の恋愛話に勝手に合点がいったのか、人畜無害な微笑をたたえて何度も頷いていた。
「それに似たものかもしれない。」
「その少女は、今どうしているんですか?」
私は先ほど自分がジルに聞かれた事を今度はイライアスに尋ねた。
そんな事を聞いてどうするんだろう、と自分で自分に突っ込みながら。
「その少女は今、私の妻になっています。」
「あっ、そういうお話でしたか。いやこれは参りました。」
何故か顔を乙女の様に紅潮させて首を振るジルとは対照的に、私は言葉を失った。今私は何を言われたのだろう?
まるでイライアスが以前から私の事を…………欲しい、と思っていたみたいに聞こえた。私がレスター王の姉だから王都に連れて来たはずではないのか。それともやはり、ジルに対して取り繕う為のリップサービスだろうか。イライアスは人を翻弄させるのが上手いから。
酒をとって来ます、と言い残すとジルはそっとバルコニーを離れた。私たちに気をつかったつもりなのだろう。二人きりにされた私とイライアスは無言で見つめ合った。
見下ろせば私の手の中のグラスも既に空だ。私もおかわりを取りにこの場を離れてしまおうか………?いや、だめだ。
ここはイライアスと向き合って、彼の気持ちをもっと良く知りたいし、知るべきなのだ。
探る様な視線をイライアスに投げると、彼は少し笑った。
「そんなに疑り深い顔をしないで下さい。………全部本当の事ですよ。あの日、彼女が脇目も振らずに真っ直ぐに私目指して駆けて来た時、まるで私を一途に想っていてくれている様な、……自分がひたむきに愛されているような、心地良い錯覚が一瞬起きて私の中から消えなくなったのです。」
15の時、確かに私は騎士目指して爆走した。ウーリヒ爺さんのスコップを返した後。自分の誕生日を祝う為のお駄賃が欲しかったからだ。
「レスター王子を連れ帰ってからも、貴方の事を思い出さない日は無かった……。勿論あなた方一家に対する罪悪感もありました。」
イライアスはバルコニーの手すりから身を離し、私が座るベンチの元へゆっくりと歩いて来た。
距離が縮まるにつれ、私は期待だか緊張だか混乱した感覚で身体中がいっぱいになり、暑くなっていくのを感じた。
「けれど警護を担当しているレスター王子から、細々と貴方の話を聞く度に、私はまるで彼の目を通して貴方を見ている様な思いがしました。ーーーーいつしか、彼が羨ましくて堪らなくなった………。」
胸が、熱くて苦しい。矛盾しているけれど、それでも先を聞きたくて仕方が無い。私は心の中で何かを仄かに期待していた。ーーーイライアスは何を語っているのだろう?
「私は領地の視察などという言い訳にかこつけて、貴方を見にヨーデル村まで毎年足を伸ばしていました。そうして私は密かにレスター王子に対して優越感すら抱いていました。彼が見る事が叶わなくなった、貴方が一番美しい時期を私はこの目で見ているのだ、という。」
イライアスは音もなくベンチに座った。こんなにも胸が高鳴って仕方が無いのは、膝が触れ合う程のその近さからか、それとも彼の告白のせいか。私はやっとの思いで尋ねた。
「アルに、私の話を……?」
「して差し上げませんでしたよ、一切。私は汚い男でしょう?」
緑の瞳に自嘲の色が走り、イライアスは長い息を吐いた。その手が緩慢に上げられ、私の方へ近づく。私はイライアスの手で髪に触れられると、痺れる様な快感を抱いてしまった。それはほんの少しの後ろめたさと、困惑を含んでいた。
「私は卑怯な男です。貴方のアルの気持ちと貴方と彼の時間を盗み、ーーー今こうして、貴方を手にいれている。私は貴方を側に置き、自分の妻と呼びたかった。」
「…………それは違います。イライアスさんは、私をフィリップ王子や危険から守ってくれているのでしょう?それに、私は誰のものでもありません。」
震える声で言った私の問いかけは、無言で返された。
イライアスの手は、とても大切な物に触れるみたいに慎重に私の髪を上下に撫で続けていた。そうして、彼は呟く様に言った。
「私は、貴方を…………。」
いくら待っても続きは出てこなかった。
イライアスの手が私の髪からするりと逃げ、ずっと逸らす事なく絡み合っていた視線が、ついと離された。
その目はバルコニーの向こうの、月明かりにぼんやりと照らされた闇の中の海に向かった。
「やはり私には、貴方をこの手で抱き締める資格がありません。」
何故そんな事を言うのだろう。それに、それを聞かされてがっかりしている自分にも愕然とした。
イライアスはバルコニーを離れ、建物の中に戻った。酒を取りに行ったのだろう。若しくは、気を使う必要は無い、とジルに伝えに行ったのかもしれない。
イライアスが言った事は本当なのだろうか?十年前のあのたった一日の、それも落とし穴を一緒に埋めたなどという出来事で私を気にいるなんてあり得るんだろうか。だが、私の胸の奥にジワジワと溢れてくすぶる満足感とーーー喜びとしか思えない感覚が、私を苦しめた。つまりいつの間にか私は彼に愛情を期待してしまっていたのだ。私は単なる人質で、彼は私に妻としての役割は求めない、と断言していたのに。
あの日から、ヨーデル村まで訪ねて私を見ていた。そこまでして、そしてそれを私に明かしておきながら、私にそれ以上手を触れようとしないイライアスに、さっきはもどかしさすら感じてしまった。自分の気持ちを一方的に伝えて来ながら、私の気持ちは知ろうとはしないのも、もどかしく、切ない。
悶々と悩んでいたが、まだイライアスはバルコニーに戻って来なかった。気がつけば私は今、夜のバルコニーに一人だった。
ふと気になり背後を振り返るが、誰もいない。侍女の目も警備の兵も、私を見ているものは何も無い。イライアスもジルも。これはヨーデル村を出て以来、初めての状況だ。気づけば極めて特異な状況に私はいた。
急に背中に翼が生えたような自由を感じる。こんな感覚は久しぶりだった。誰の目もないのだ。
それに背中を押されたのだろう。何かにつられる様にベンチから立ち上がった。
不思議な浮遊感が私を包んでいた。
そのまま極力足音を立てないようにしてバルコニーを横切り、そこから下る階段を見下ろす。
辺りは非常に静かだった。
もしや今なら、ここから逃げられる………?
私は浜辺へと繋がる石の階段を下り始めた。波の音だけが支配する静寂の中、私の心臓はにわかに緊張で高まった。靴が階段の硬い石から、砂浜の歩きにくい感触を捉える。慌てて屋敷を見上げるが、やはりバルコニーには誰もいない。
屋敷からの明かりで、狭い範囲の浜辺と波打ち際は深い水色と白い泡飛沫をうっすらと視界に捉える事ができる。だがその先は海は夜の闇と一体化し、浜辺も奥が見えなかった。そこに身を滑り込ませてしまえば、最早誰にも見つからないだろう。
これは絶好のチャンスだ。暗闇が、私を呼んでいる。
何かに引っ張られる様に私はそのまま浜辺の奥へと走り出した。
相当な距離を走った気がした。
だが所詮ヒールのある華奢な靴で進めた距離はタカがしれていた。膝に両手の平をついて呼吸を整え、自分が後にした屋敷を思い切って振り返ると、屋敷はいまだ直ぐそばに大きくそびえていた。
本当にこのまま逃げられるだろうか?
怖くなって視線を戻すと、その先ーーーー無気味に枝を広げる防風林の間に、何か異様な物を見た。目が一点に釘付けになる。一人の男が立ち、こちらの様子を窺っているではないか。一瞬にして全身の鳥肌が立った。
悲鳴をあげるべきか、否か。
だが、私の恐怖は次第に疑問へと変わっていった。揺れる木立の下に佇み、微動だにしないその男の、細いが均整のとれたシルエットに見覚えがあったのだ。
ーーーーーキース?
まさかあそこに立っているのは、彼だろうか?暗くて顔の判別が出来ないが、姿形はキースそのものに思えた。
私の足は一歩動きかけ、止まった。
彼の元に駆け寄り、私は何をしたいと言うのか。
人影はゆらりと動き、足をこちらに進めた。