4ー7
ジルは三十代半ばで、話上手だった。なんて事は無い日常の出来事や風景の描写も、彼の巧みな話し方によって面白おかしい話題に変貌した。
やがて私は王宮からの帰り道、馬車の中でジルとお喋りをするのを楽しみにするようになった。だいたいの場合において、ジルがその日にあった面白い出来事を話し、私が大笑いしていた。三人で帰る事ができる日は、イライアスまで声を立てて笑い、そんな束の間の平和が嬉しかった。
新しい補佐官が来て一ヶ月程たった頃、メリディアン王女が高熱を出した。最初に王女が体の不調を訴えた時、私たちはてっきりまたいつものサボリの為のお芝居かと思い、相手にしなかった。だがふと触れた手が異常に熱いのに気が付き、慌てて彼女を寝かせて医師を呼んだ。
医師のみたてでは、風邪の一つで安静にしていれば治る、との事だったので王女の一日全ての予定をキャンセルにして、私は寝ている王女に付き添った。こんな日に限り、イリスが家庭の事情とやらでお休みだったので、寝台でうつらうつらする王女の横に椅子を持って来て座り、一日中そばにいた。具合が悪いのに思う様に寝付けないのか、王女は私にあれこれ持ってくる様指示したり、退屈凌ぎに何か話せと言って来た。
食事が殆ど喉を通らないらしく、何であれば食べられそうか尋ねたところ、王女は喉の痛みから掠れて低くなった、怠そうな声で答えた。
「麦が入った、……サッパリしたスープが良いわ。」
王女は昼前に漸く眠ってくれたので、私は地下にある調理部に自分でメリディアン王女の要望を伝えに行く事にした。誰か他の人に伝える様頼んでも全く問題はないのだが、私は久々に父さんに会いたかった。折角王宮にお互いいるのだから、余りに会わないのはもったいない。
父さんは私の姿を目にすると大層嬉しそうにしてくれたが、ちょうど昼食前だったので父さんの同僚たちが周りにはたくさんいた。白いエプロンを着用した彼等は、皆無駄のない機敏な動作でてきぱきと動き回っていた。中年のふっくらとした女性は大量の野菜を水を張った大樽の中でじゃぶじゃぶと洗っていった。すぐ近くには大きな木の机があり、若い男性がメニューらしき紙の束をひっくり返して、何やら探しているみたいだった。台所はこの真上に位置していて、壁の中に取り付けられた、上下に動く荷物用の滑車を用いて、地下に保管されている食材が次々に上へと運ばれて行った。
私と父さんは王女の昼食についてひとしきり話し合うと、小声で互いの近況を話した。
「………セーラ、お前はその、宮廷騎士団長様とどうなっているんだい?」
「一緒に暮らしているだけだから、心配しないで。」
我ながら自分の発言内容に全く説得力が無いと直ぐに気づいたが、事実なので仕方が無い。だがいくら父さんの不安を払拭させる為とはいえ、「男女の関係にはなっていないから、大丈夫!!」なんて赤裸々な告白は父親には出来ない。
父さんは少し悲しそうな顔で言った。
「セーラ、こんな頼りない父さんが言えた義理じゃないけど、……自分を大切にするんだぞ。必ず、ガルシアとの争いはいつか終わるんだから。」
「父さんは頼りなくなんかないよ。それに私はちゃんと自分を大事にしているし。」
王女にはよく振り回されたが、よく懐かれているし、屋敷でも新しい補佐官が来てから居心地が良かった。
ふいにあの暗闇で見たキースのギラつく目と鮮血を思い出し、私は急いでその映像に蓋をした。あの出来事は体の芯からくる震えと罪悪感を呼び起こすのだ。
私たちは互いの健闘を祈ると、人目を気にして短い再会を後にせざるを得なかった。
メリディアン王女は食事をきちんと取れているので、明日には大分調子が上がるだろう、と医師は言ったが、念のため明日の視察は全て延期にしておいた。王女が夕方に早目に軽食を取り、ぐっすりと眠った頃を見計らって帰宅する事にしたのだが、帰り際グラバー夫人が私に言った。
「明日から三日間、貴方をお休みさせると宮廷騎士団長から連絡を受けていますよ。」
驚いて聞き返すと、グラバー夫人は私を宥める様な口調になった。
「王女様と共倒れしてしまいますよ。いくら若いとは言え。ずっと休んでいなかったのですから、たまには休みなさい。」
いやいや、もうそんなに若くは無い、と一瞬言いそうになったが、私より遥かに年上のグラバー夫人に失礼であろうと思われたので、やめておいた。仕事に慣れて来て少しは自信がついてきていたが、やはり私一人くらいがいなくても王女のお世話は問題無く回るものだ、と改めて気付かされ、少し気が抜けた。
急に私に無断で休みを入れられた理由を尋ねようとしていたのに、その日の帰りの馬車にイライアスはいなかった。彼は最近にしては珍しく私より先に帰宅をし、王宮で待っていたジルと私は二人で帰宅したのだった。屋敷に着くといつもは静かな邸内が人の動きで落ち着かなかった。侍女たちが夜だと言うのに忙しそうに動き、廊下の隅では年長の侍女が若い侍女に何やら早口でお小言混じりの指示を飛ばしていた。屋敷全体が騒がしい。
何かあったのだろうか。
部屋に戻って王宮仕様の堅苦しいドレスを脱ぎ捨て、着心地の良い服に着替えていると、イライアスが訪ねて来た。着替えたら探しに行こうと思っていたので、手間が省けた。彼は開口一番に私の休暇を勝手に入れた件について詫びた。
「貴方を王都から連れ出す事についてフィリップ王子のお許しを頂けたので、殿下の気が変わらないうちにさっさと実行に移してしまおうと思いまして。」
「王都から出る……?」
「明日朝出発します。ショアフィールド家の領地であるドーン地方に行きましょう。」
ドーン地方と言えば、確か北にある海沿いの地域だ。
話には聞いた事はあるが、行った事はない。
随分急な話だ。………それに、もしも王都から出て良いのなら、ヨーデル村に一度帰りたかった。家に一人残してきた母さんが心配だ。というよりも母さんたちが私を心配しているだろう。
「あの、王都から出て良いのなら…」
「ヨーデル村には連れていけません。」
どうやら聞こうとしていた事を読まれたらしい。
やはりそうか。
別に私は逃げ帰るつもりなんて無いんだけどな。
「ドーンは長閑で美しい場所ですよ。貴方にとってきっと良い息抜きになりますよ。」
ドーンは馬車で半日程の距離にあった。
道中はジルがいたのでとても賑やかに過ごせた。ジルはそこにいるだけで楽しい雰囲気を作ってくれる人だった。
目的地が近づくと、光を反射してキラキラと輝く海が車窓から見え始め、日常とは違う所に来たのだ、と気分が高揚した。
馬車は海沿いを走り、その反対側には瑞々しい緑色の絨毯がなだらかな丘上に広がる牧草地となり、点々と牛やひつじの姿を見る事が出来た。境目の分からない広大な牧草地がどこまでも続き、羊たちは遠目には最早点々と散らばる毛玉にしか見えない。そんな羊達を、飼い主はどうやってまとめているのだろう。たまにポツンと現れる小屋だけが、かろうじて人の存在を意識させた。
忙しく首を振って左右の窓の景色に見入っていると、イライアスに声をかけられた。
「ドーン地方の乳製品は有名なのですよ。王室への献上品にも度々選ばれています。ここの家畜の乳は少し塩味がするのです。」
「海が近いからですか?まさか!」
イライアスは本当ですよ、と笑った。そんな事ってあるんだろうか。
「彼等が食む牧草に塩気があり、それが血肉となります。牛乳は牛の血液から出来ているのですよ。」
本気か冗談なのか分からなかったが、その補足説明は出来たら省いて欲しかった。牛乳を飲む気が失せそうだ。