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馬車を降りて、正面玄関までの道のりを振り返らずに歩いた。緊張のあまり右手と右足が同時に出ていたかもしれない。屋敷の玄関に至る数段の階段に足を掛けた時。私はどうしても振り返らないといけない気がして、キースの言いつけを破りついに後ろを振り返った。
馬車の扉はまだ開いたままで、私のいる位置からは中が良く見えなかった。つられる様にして馬車まで駆け戻り、車内を覗いた。
中にはもう誰もいなかった。屋敷の周りは夜の静けさに包まれており、キースの気配は露と消えていた。
「キースさん………。キース!」
試しに辺りに呼びかけてみるものの、案の定何の返事も無く、冷んやりとした夜の空気だけが周りを支配していた。
本当に姿を消してしまったのだろうか?思わず手の中の封書を握り締め、私は屋敷から侍女が呼びに出てくるまで玄関付近をウロウロとしていた。
その夜、イライアスは夜勤で帰宅しなかった。夜勤の翌日は私が家を出る直前に彼は帰ってくるので、私は身支度を済ませてから玄関ホールで彼を待った。
イライアスを乗せた馬車が屋敷の前に着くと、私は主人に飛び付く愛犬よろしく、玄関を飛び出して彼を迎えた。何事かと目を細めるイライアスに私はまくし立てた。
「大変なんです、聞いて下さい。キースさんが何処かに行ってしまったんです!」
イライアスは私の後を慌ててつけてきた侍女を、怪訝な目つきでみた。すると彼女は困り顔で言った。
「昨日からキース様のお姿を見ていません。」
イライアスは視線を私に戻し、私の肩に手を置いた。そのまま屋敷の方向に私を押した。
「中で詳しく聞かせて下さい。………それは?」
イライアスは私が両手で握り締める封書に気づいて問い正してきた。私は即答した。
「遺書です!」
「遺書!?」
私は自分の返事に逆に驚愕し、急いで封書を確認した。
「あ、じゃなくて、辞職願い、と書かれています。」
何故遺書などと言ってしまったのか自分で自分が分からない。ーーー別れ際のキースの暗い瞳が、どこか生気を感じさせなかったからだろうか。それは奈落の底を眺めている様な、暗い色だった。
私はとりあえず、玄関ホールにイライアスを連れていくと、人払いをしてから自分が見た事を話した。
イライアスは微かに眉間に皺を寄せる以外は、非常に冷静に私の話を聞いた。話している私が興奮し過ぎて、息が上がったり話が前後しているのが滑稽なくらいだ。まるで全然たいしたことない事柄に私が動揺しているみたいに思えてきてしまうではないか。
話を全て聞き終えるとイライアスはキースの封書を開けて無言で読み始めた。なんて書いてあるんです、と尋ねるとイライアスは数枚からなる文面を私の方に向けた。
「私に対する感謝と謝罪。それと、捜さないでくれ、と。辞職の理由は貴方との確執、となっています。」
「私との!?」
そんな馬鹿な。ここで私の話が出てくるとは。私を辞職の理由にするなんて。人聞きの悪い。
「表向きの理由でしょうから、お気になさらず。」
「どうするおつもりですか?」
「どう、とは?」
「キースさんの事ですよ!」
するとイライアスはキースの手紙をたたんで胸ポケットにしまった。その様子は驚くほど淡々としていた。
「捜すなと本人が言うのですから、そうしましょう。」
その回答は予想していたものかもしれなかった。キースが予言していた通りのものだったから。けれど、仮にも六年も補佐官として寝食を共にしてきたはずなのに、イライアスはキースが突然自分の元からいなくなって気にならないのだろうか?聞き分けが良いタイミングが間違っちゃいないか。
己の野心のために相手を利用できる美しい仮面を被った悪魔。レイモンド王子の言葉が、急に私の中で妙な説得力を帯びた様に思えた。
イライアスは天井を見上げ、彼が耳の下で結いている金色の髪が胸元にサラサラと流れた。
「困りましたね。今は人事異動の時期ではありませんから、新しい補佐官を捜すのはなかなか大変なのです。養成所を優秀な成績で出た卒業生は皆粗方既に採用されてしまっているので。」
キースが消えた話を聞いた直後に、もう新しい補佐官を捜している。困惑しないではいられない。
「でも……キースさんは大丈夫なんでしょうか?」
イライアスは僅かに口角を上げて首を傾けながら私を見下ろした。
「キースが心配ですか?貴方はキースを嫌っているのかと。」
「別にキースさんに好感を抱いていたわけではないですけど、その被害者の事も…」
言いながら私はどもってしまった。あの血の持ち主の事を考えるとゾッとする。
きっと家族は心配でたまらないだろう。
では、私が見聞きした事を密告でもするのか?いや、そんなのはできない。無意識に自分の首筋を触れた。先ほどのキースの剣の冷たさが、我が身が可愛いのなら黙っている様、説き伏せてくる。
イライアスはそんな私のジレンマを見透かしたかの様に、苦笑した。
「キースはあれでも腕が立ちます。うまくやってくれているはずですよ。辛いものを見せました。彼を雇っていた私の責任です。申し訳ありません。」
その日は一日、うわの空で過ごしてしまった。
メリディアン王女の話し相手もろくにつとまらず、時間を間違えたり、失敗の連続で夕方にはグラバー夫人に呼ばれて初めてまともに叱られ、一層落ち込んだ。
私は、ここで何をしているんだろう。
王宮からの帰りの馬車の中、暗い車窓に映る自分の冴えない顔を見ながら考えた。
自分が、途方もなく虚しい。
屋敷に帰り着くと、私は重たい気持ちのままぼんやりと玄関に入った。
「セーラ様、お帰りなさいませ。書斎でイライアス様がお待ちです。」
年配の侍女に直ぐに声を掛けられ、私は書斎に向かった。
書斎に入るなり足が止まった。扉を開けるなり筋骨隆々とした男性が、朗らかな笑顔で私を待ち構えていたのだ。
見慣れない顔である。というより、おそらく初対面だ。しかし男が着る群青色の詰襟の上下と白いマントは、どう見ても補佐官の制服だった。
誰にでも懐く仔犬を彷彿とさせるその笑顔につられて、私もとりあえず笑っていた。
イライアスは部屋の真ん中に置かれたデスクに半ば腰掛ける格好で寄りかかって、私と男を見ていた。
「こんばんは。あの、どちら様でしょうか?」
「本日付けで宮廷騎士団長付補佐官に着任致しました!ジザギルラ=バウアーと申します!」
「まさかイライアスの補佐官ですか?」
目の前の男は爆発的に嬉々とした笑顔で誰の目にも分かるくらい、大きく頷いた。まるで頷く事を初めて覚えてそれを披露したがる幼児の様に。
これではスピード人事も良いとこだ。
「前任者の突然の辞任との事。私なぞで大いに力不足ではありますが、誠心誠意尽くさせて頂きます。」
唖然としながらも即席の笑顔で当たり障りのない挨拶をする他無い私を尻目に、イライアスは腰を上げてこちらへやって来た。その出来過ぎた微笑が怖い。
「そういう事ですので、宜しくお願いしますね。」
どういう事で、何を宜しくされているのか。この頭から爪先まで筋肉で出来ていそうな体格の、善良を絵に描いたような新補佐官と仲良くしろ、ついでにキースは忘却しろという脅しに違いない。
「ジ、ジザ……」
「ジザギルラです。個性的な名前でしょう?」
間髪いれずにイライアスは訂正してくれた。確かに個性的であるが、それより覚えにくい上に言いにくい。他人の子と可愛い我が子の名前が被るのだけは断じて許せない親だったのだろう。
ジザギルラ補佐官は両手の平を合わせながら、そのいかつい体格には似つかわしくないくらい、キラキラとしたつぶらな茶色い目で言った。
「呼びにくい名をしております。どうかジルとお呼び下さい。」
随分思い切って削ったらしい。加えて極めて平凡な名に成り下がっている。だが私が、ジルさん、と試しに呼びかけてみると、至極嬉しそうに返事をしてくれた。