4ー4
言い終えたレイモンド王子の腕に力が込められるのが感じられた。
彼は再び私の耳元に口を近づけた。
「彼が、こちらを見ているよ。ふふふ。射殺さんばかりの目つきだよ。怖い怖い。」
レイモンド王子が言っている意味が分からなかった。怖い怖いと言いながらも何故そんなにも愉快そうに話すのだ。訝しく思いつつ、レイモンド王子の茶色い視線の先を辿るとーーー一瞬幻覚を見たのかと思った。
私たちの視線の先には、なんとイライアス本人がいたのだ。
濃い赤色の布地に金糸が太い模様を刻む彼の衣装は大変目立ち、高い身長と合間って人目を引いていた。数人のいかにも貴族然とした男女に囲まれ、何やら会話をしている様子だったが、その緑の目だけは一直線に私とレイモンド王子を捉えていた。
どうしてここに!?
私は手の平にみるみる汗をかいていった。私の手を握るレイモンド王子にはそれが分かったのか、私の手を握るその手に更に力が込められた。
どうしてイライアスも参加しているんだろう。彼が参加するなんて知らなかった。てっきり仕事だと思っていたのに。夜会に出ると分かっていたのなら、一言くらい私に言ってくれていても良かったじゃないか。黙って参加しているなんて。
私は何とか視線をイライアスから引き剥がすと、目の前のレイモンド王子を見上げた。いつまでもこの王子と踊っていてはまずい。早くこの曲が終わらないだろうか。俄かに焦り出した私は、身体のコントロールが効かなくなったのか、突然レイモンド王子の足の甲を間違えて踏み付けたり、その脛を蹴飛ばしたりし始めてしまった。レイモンド王子はその度に閉口していたが、私はそんな事を気にするどころではなくなっていた。流石にイライアスに逆鱗王子とのダンスを目撃されたくはなかった。私はこんなに心臓が痛い危ない経験をする為に、イライアスからステップを習ったのではない。
やがて喉から手が出るほど待った瞬間が来た。曲が終わったのだ。
渾身の力を込めてレイモンド王子を押し返し、その顔を見ない様に深々とお辞儀をした。
「ダンスにお誘いいただきまして、ありがとうございました。何度も粗相を致しましてすみませんでした。」
「待って…」
待ちませんとも。
私はくるりと後ろを向いてレイモンド王子に背を向け、人混みの中に飛び込んで行った。手近なテーブルの上に、水が入ったグラスを見つけると、それを掴みぐびぐびと飲み始めた。口にいれた瞬間、一瞬の甘さの後にピリっとした辛さが舌に伝わり、水じゃなく白い酒だった事に気づかされた。飲み終えると身体中が更に熱くなってしまった。何をしているんだろう、私は。自分に呆れて溜め息をつきながら、夜風に当たってこようと人垣をかきわけてテラスに出た。
庭園にもかがり火が焚かれ、若い男女の集団がベンチのそばで何やら楽しそうに盛り上がっていた。
私はそれを見ながらテラスの手すりにもたれていた。冷たい夜風が気持ち良い。
暫くそうやってぼんやりしていると、私の右側に人が立った。
真紅の衣装が視界に入り、顔を見なくてもイライアスだと分かった。
「イライアスさんもいらっしゃっていたなんて、気づきませんでした。どうして昨日のうちに教えてくれなかったんです。」
「参加する予定は無かったのですが。今日になって陛下に出るよう催促されてしまったのです。」
イライアスはそう言うとその派手な衣装を軽く撫でた。急遽借りたので、おかしな風情になってしまった、と苦笑しながら。私は視線を上げて隣に立つイライアスを改めて見た。赤と金の衣装は華美ではあったが、おかしくはない。土台が良ければ何を着たってキマるものだ。
イライアスは私の不躾な視線をよける様にテラスの手すりに寄り掛かった。
「貴方にこの衣装を見られるのが一番恥ずかしい。」
「変なんかじゃないですよ。ただ……なんて言うか、村一番の美人が髪型を変えたから、それを真似してみたら全然仕上がりが違ったのを思い出しまして。」
美人はどんな髪型でも似合うのだ。
イライアスさんは顔が良いから、どんな格好をしてもキマりますよ、そう婉曲的に伝えたかったのだが、遠回し過ぎて失敗したようだ。
イライアスは不思議そうな顔で私を見下ろしていた。
「貴方はレイモンド王子に目を付けられてしまった様ですね。」
「ええ。でも私、しつこい王子を振り払ってまいてきましたよ!」
私はさも自分の手柄を報告するみたいに胸を張って答えていた。
「それは頼もしい。ーーー振り返らないで下さいね。だからなのでしょうか?さっきからレイモンド王子がこちらをずっと気にされていますよ。」
えっ、と息を飲んだ。
レイモンド王子がまだ私を見ているのだろうか。急に私は大広間に向けている背中に人の目が注がれているような、一種の緊張を感じた。
私が身を硬くさせていると、イライアスは長い腕を鷹揚に動かし、それは私の縮こまっている肩に回された。問う様にイライアスを見上げると、彼は言った。
「何かまた私に言いたい事があるのでしょう?」
「はい。でも………私、レイモンド王子が言う事を気にするつもりはありません。いちいち思い悩んでいたらこの状況に耐えられなさそうです。」
「彼になんと?」
「………言いにくいんですけど。」
「結構ですよ。どうぞ。」
「イライアスさんは女性を野心の為に利用する、冷酷無慈悲な人だと。それを伝えろと言われました。」
私は言い切ると息を詰めてイライアスの反応をうかがった。
イライアスは答えず、代わりに私の頬にフワリと口付けた。柔らかく温かな唇が、寒空に冷たくなっいていた頬を霞める。心臓がどきんとはねた。注意しなくてはならない。イライアスにとっては、私は単なる人質でしかないのだ。間違っても勘違いをしてはならない。そんな事になったら、傷つくのは私なんだから。決してレイモンド王子が言ったことに影響されているわけではない。私はただ、身の程をわきまえたかった。
「私がそういう人間だと思いますか?」
「思いたく無いし、そうで無い事を願うばかりです。」
イライアスはレイモンド王子に随分な事を言われていた。多分、私が知らない確執が二人の間にはあるのだろう。でも毎日見ている、今私の目の前にいる人を信じてはいけないなんて、………切なすぎる。
二人で見つめあっていると、イライアスの腕が私の身体に回され、そのまま彼に抱きしめられた。
一気に私の体感気温があがる。
イライアスの腕のなかで、私の心臓は小鳥の様に激しく動き、バクバクと悲鳴を上げていた。
「イライアスさん、恥ずかしいです。ひ、人が、見ていますから…」
「見せているのですよ。」
「えっ!?」
「私たちに愛が無いなど、もう言わせない為に。」
だって、愛、無いじゃない。
喉元まででかかった言葉を飲みこんでいると、イライアスは自嘲気味に笑った。
「いや、これは嫉妬かな。レイモンド王子と貴方が余りに身体を寄せ合っていたから。」
イライアスはもう一度私の額に唇を押し付けると何も無かったかの様に、音も無く私から離れた。
「陛下からダンスに参加する様命じられているのです。一時間ほど大広間にはいますが、その後は仕事に戻ります。今夜は私は夜勤ですから、疲れたらキースと先に帰って下さい。」
そうなんですか、と気の利かない間抜けな返答をする私をバルコニーに残し、イライアスは大広間の人の波へと飲まれて行った。
遠ざかる彼の背中を見ながら考えた。
私はもっとイライアスを問い詰めるべきだったのだろうか?
ーーーー後で振り返れば、この時の自分は間違い無く分岐点に立っていたのだ。
王女を探してウロウロと歩きはじめると、何やら堅い物体を靴で踏み付けた。足をどけて拾い上げてみると、鈍い光沢を持つ、指先ほどの大きさの白い球体だった。真珠だろうか?真ん中に糸を通す為の穴が開けられている。連ねてあったものが、切れて床に散らばったのかもしれない。
辺りを見渡せば皆、誰も床など見ていない。ダンスやお喋りに夢中で気づかないのだろう。床に目を走らせると、白い球体を更にもう一つ発見した。
着飾った人々でごった返す大広間の中を、視線を床に釘付けにしながら進むと、金色の指輪も見つける事ができた。どうやって落としたのだろう。流石イリリアの夜会である。ここにはこれほどまでに高価な落し物があるのか。いっそ這いつくばってでも探したい。
「何をしているの?とっても不審なのだけれど。」
横から突然声を掛けられて、私は驚いた。そこにはやや呆れた様子で私を見ている王女がいた。
「こんな素敵な落し物があるんです。」
「私の侍女を辞めたくないのなら今すぐ拾い食いはやめて頂戴。」
拾い食いはしていないし、侍女はぜひ辞めさせて欲しいと思っている。でも流石にそんな事は言えない。
だが目は口ほどに物を言うとは良く言ったもので、王女は疑い深く私を見て来た。
「まさかお前、辞めたいとか思っているんじゃないでしょうね。」
「思っていません。毎日新鮮でとても楽しんでいます。」
酷い棒読みになってしまった。いま大根役者となじられても文句は言えない。
「……ねえ、最初はお兄様の侍女になるはずだったのでしょう?わたくしで本当はガッカリした?」
唇を尖らせて腕を組み、仏頂面をする王女だったが、その青い瞳はとこか不安そうだった。この王女はもしかして私が辞めてしまう可能性を本気で危惧しているのだろうか。ふとそう思った。
「メリディアン様は王室の方々の中で一番魅力的な方ですよ。」
それは本心だった。王女はプイと目を逸らし、あらやだ、と呟くとそっぽを向いてしまった。耳の後ろが赤くなっているのが見える。彼女は組んだ腕をもじもじと所在無さげに動かしていた。
大広間の奥は一際盛り上がりを見せている様だった。急にそこに人が集まり、夜会は俄かに活気を帯びていた。人口密度が局地的に上がり、人々の熱気と興奮が肌で感じられる。
王女の周囲に気を配りながらそちらへ近づくと、大きな円形を作って男女が組みになりダンスをしていた。短い曲が終わる度、円が少し回り、男女の組み合わせが変わる。相手を曲毎に定期的に変えて踊る様だ。私はその中にイライアスがいる事に直ぐに気付いた。その少し後ろに、フィリップ王子もいた。
「王宮の至宝が踊っているじゃないの。見てよ、女たちが腑抜けみたいな顔で二人を見ているわよ。」
「メリディアン様も踊ってきますか?」
「嫌よ。順番が回ってきたら兄妹で踊らなきゃならないじゃない。恥ずかしいわ。」
イライアスとフィリップ王子は非常に人目を引いた。周りの男性たちと同じ動きをしているのに、こうなると、逆にその違いが顕著に分かった。容貌だけでなく、動きの一つ一つが洗練されていて、自信に溢れ綺麗だった。
イライアスと踊る女性は時折彼を見上げては、はにかむ様に微笑んでいた。イライアスが何事か彼女に話し、それを受けて彼女は花が咲く様な笑顔を見せた。
ダンスに興じる人々と、それを見物する人々の喧騒、それらを取り巻く音楽。一切の音が私の中で止み、私はただ一点を見ていた。イライアスと女性。
ーーー昨日の夜は私が一緒に踊っていたのに。
そうだ。私は夜会という特別な場がなくても、イライアスと一緒にいるんだ。だから。だから別に、…………。
別に?
私はどうしてこんな言い訳じみた事を考えているのだろう。そんな必要は何も無いのに。
「ねえ。疲れちゃったわ。」
王女が欠伸をしたので私は急いで空いているソファを見つけ、そこに座らせた。続いて甘い飲み物を手渡すと彼女は一気にそれを飲み干した。
「いつもこうなのよ。始まりの頃は皆盛んに挨拶にくるし、わたくしをダンスに誘うの。でもね、時間が過ぎるとぱったりやむの。わたくしの周りにはお愛想と義理しかないんだから。王家に女として生まれるのって、本当につまらないわ。」